逆巻く渦に抗して1 パーヴォットの機転 上
前話から半日ほど時間が遡る。
パーヴォットは薬草採取に出かける祐司を見送った後、シスネロスで最後になるだろう洗濯をした。祐司が買ってくる石鹸でいつものように洗濯物を洗い、宿の裏にある空き地で洗濯物を干し終わると、最近、行うようになった女の子らしい身支度をした。
パーヴォットがする女の子らしい身支度とはヌーイに貰った手鏡に顔を写しながら、洗濯で使い残した石鹸で顔を洗い小刀で眉を整え、顔の産毛を剃ることだった。それが、終わると小さな貝殻に入った白粉を少しばかり指につけた。
豊満な女性が美人とされるリファニアでは、スレンダーなパーヴォットは容姿に自信が無かった。そんなパーヴォットのことを一言も悪く言わない祐司に少しでも気に入ってもらおうとささやかな化粧をパーヴォットはした。
勇気を振り絞ってユウジに買ってもらった白粉を薄く頬に塗った。パーヴォットの白い頬には僅かだがソバカスがあった。パーヴォットはこれをひどく気にしていたのだ。
この日はヌーイに貰った手鏡に顔がくっきりと写し出されるのを見ながら行ったささやかな化粧は、パーヴォット自身も満足のいく出来映えだった。
身支度が終わると宿屋のカウンターで弁当を受け取ると神殿に出かけた。
神殿前の広場には大勢の人間が集まっていた。あちらこちらで、口から泡を飛ばしながら人々に何かを訴えている男達がいた。
「ヘミンキ神官様、おはようございます。パーヴォットでございます」
パーヴォットはちょうど神殿前の広場で、人々の様子を見ていた顔馴染みの書庫担当のヘミンキ神官補に声をかけた。
「おや、昨日で筆写は終わりではなかったのかな」
「わたしが写し間違いをした可能性がありますので、昨日の”ネギャエルーガ書”をもう一度見せていただけないでしょうか」
「かまわない。付いて来なさい」
「今日は何事でございましょう。早い時間から人が広場に溢れております。祭とも聞いておりません」
いつもの朝とは様子の違った様子に気が付いていたパーヴォットは、ヘミンキ神官のにたずねた。
「中央盆地の北部で威を張っておるモンデラーネ公からシスネロスに送られてきた書簡について市参事会で討議されておってな。自分達の生活に直結することだから皆心配しておるのだ」
ヘミンキ神官は少し声を落として答えてくれた。
「どのような書簡なのですか?」
「色々とシスネロスに難儀なことを要求しているらしい。すでにモンデラーネ公が軍勢を引いてシスネロスに向かっておるのは知っておるだろう。
ここは自治が誇りの街で自分達で自由に商売をしてなり立っておるから、自分達の権利が制限されたりせんかと恐れておるのだよ」
「どのような偉い方かは存じませんが、武力を背景に要求を飲ますなどチンピラと一緒では御座いませんか」
「まあ、政治とはそういうものだ。丁寧に言うか、口汚く罵るかの違いはあるがな。一戦をすると息巻く連中もいるがどうかな。
確かにシスネロスの領主だったドノバ侯爵を打ち負かしたことはあるが、ワシには、今度は相手が悪いように思える。勝ったとしても死人が出る。まあ、勇ましことを言う連中は自分が死ぬとは思っておらんようだ」
ヘミンキ神官補は神殿に入ると、パーヴォットの刀を預かってから書庫に付属した閲覧室にパーヴォットを案内してくれた。パーヴォットはヘミンキ神官補が持って来てくれた”ネギャエルーガ書”を点検した。
写本はやはり欠落部分があった。パーヴォットは自分のミスではないことに安心する。ところが、パーヴォットはしばらくすると祐司が求めているものが無くなっていることに落ち込んだ。
「神官様、この書物はやはり一ページ分抜けております」
パーヴォットは情けなさそうな声で閲覧室に入ってきたヘミンキ神官補に言った。神官補は写本を手に取ると点検を始めた。
「ふむ、補修した後がある。多分その時に失われてしまったのだろう。ただ、この書物は時代が下がるが別の写本があるから持ってこよう」
ヘミンキ神官補が持って来た別の写本は元の写本と比べて少し厚みがあった。パーヴォットが調べてみると古い写本はページが抜けているだけでなく最後の章がまるまる抜けていたのだ。
パーヴォットとは時間を気にしながら写筆を始めた。写筆が終わったのは昼を大分過ぎた時間だった。パーヴォットは閲覧室の隣にある書庫控え室にいるヘミンキ神官補に作業が終わったことを告げに行った。
「まずいことが起きたようだ」
ヘミンキ神官補は難しい顔でパーヴォットに言った。
「どういたしました」
「モンデラーネ公の使者が泊まっている宿舎が襲われたらしい。詳しいことはわからん。しかし、どうであれ市参事会が接待しておる使者の宿舎が襲われるとはシスネロスは悪い方向へ向かっておるようだ。
先程、神官長様も情報を求めて市参事会へ向かわれた。神官長様がみずから市参事会へ出向くほどの大事だとしか我々にはわからん」
「どうなるのですか」
「わからん。ただ、使者に怪我でもされていればタダではすまんな。おまえさんたちは明日、出立だったな。
今度の騒ぎはお前さんたちには関わりのないことだ。騒ぎに巻き込まれんうちにここを離れることだ。今日の夜の祈祷の時は、お前さんたちの旅の無事を祈っておこう。これが役に立つなどということが無いようにな」
そう言いながらヘミンキ神官補はパーヴォットに刀を返した。パーヴォットはヘミンキ神官補に丁寧に礼を言った。
神殿の前の広場は来た時よりも人が増えており、人を避けながら進むような状態になっていた。熱気もますます盛り上がっていた。
酒でも飲んでいるか、シスネロスで良く歌われるような俗謡を肩を組んで胴間声で歌っている顔を真っ赤にした男達もいた。
「羊皮紙職人組合に動員がかかった」「樽職人組合も動員だ」「市参事会へオレたちの声を届けるんだ。市参事会前で市民集会だ」
人の丈ほどの大きな旗を持って男達がパーヴォトの横を叫びながら走って行った。旗はそれぞれの職人組合の旗らしかった。
いつもの倍以上の時間をかけて神殿前の広場やそれに続く通りをパーヴォットは気を張って通り抜けた。
パーヴォットがファネーダ樹皮紙店のある通りに入ると同じ街かと思えるくらいに静かだった。ほとんどの店は閉まっていた。店主や使用人が集会などに出かけてしまったのだろう。
幸いにファネーダ樹皮紙店は開いていた。
「注文の紙は少し乾燥が足りないからあまりやりたくないが火で乾燥させる。その後で原紙の裁断をする。少し時間をくれないか」
写筆用の紙を頼んだパーヴォットにナレントは申し訳なさそうに言った。
「ここでお弁当を食べてもいいですか」
「かまわんよ。でも、折角だから奥にきなさい。ウチの台所で食べるといい」
パーヴォットが通された台所には頭が半ば白くなった女性がいた。二度ほどファネーダ樹皮紙店に来たが会ったことのない女性だった。
ナレントはその女性に話しかけてパーヴォットが台所で食事をすると言った。女性は以前、ヌーイの家で聞いたナレントと駆け落ちした平民の娘、ナレントの細君だろうと思った。
「奥様、食事でここを使わせていただきます」
「まあ、可愛い従者さんね。おいくつ?」
ナレントの細君は、駆け落ちしたというだけあって若い頃はかなりの美人であったようだった。なりよりかなりの年であろうに声が若々しくきれいだった。
「今年の春分で十五になりました」
リファニアは数え年である。そして、一年の区切りは春分となっている。満年齢ではパーヴォトはまだ十四才半ばである。
「そう、もう大人ね。でも、そんなに優しい顔してたら女の子に間違えられない」
細君は、パーヴォトに笑い顔で言った。
「そんなことありません」
パーヴォットは半ば嬉しい気持ちで否定した。この後、ナレントの細君はハーブ茶をパーヴォットに入れてくれ世間話をした。
ナレントが樹皮紙を持って台所に来たのは一刻ばかりしてからだった。
「ずいぶん待たせたな」
「ナレントさんは集会とか行かなくていいんですか」
「樹皮紙職人の組合はドノバ侯爵家の保護下にあるんだよ。もともと、樹皮紙の生産は今のドノバ侯爵家のある地域で盛んだったからね。組合長はオレたちで決めるがドノバ侯爵家から顧問って人が来てて軽々に動くことはないんだ」
「ひょっとしてその顧問って、知ってる人でしょうか?」
「察しがいいね。そうだよ。オレの兄貴のヌーイだ」
ナレントは大きな目をより一層大きくして言った。
「組合長はまさか」
「オレだよ」
ナレントは声は得意げだった。
パーヴォットは樹皮紙を受け取ると、急いで宿に向かった。祐司があまり遅くならずに帰るつもりだと言っていたからだ。すでに、夕食時になっていた。
主人の帰りを出迎えもせずに、主人が帰ったあとで従者が帰ってくるなどという事態をパーヴォットは恐れたのだ。
「ユウジ様、本当にそんなことになったらパーヴォットを折檻してくださいね。そうでないとパーヴォットは段々怠け者になるような気がします」
そう小声でパーヴォットは呟きながら宿の近くまできた。
パーヴォットはぎくりとして近くの路地に飛び込んだ。パーヴォットは見間違いではないかと願いながらそって顔を出した。
バルタサルとルードビニに間違いなかった。
ヘルトナから自分を拉致して一生奉公という名の奴隷にしようとした男達である。辱めを受けたパーヴォットを薄笑いで眺めていた男達である。そして、バルタサルは父キンガの仇である。
恐怖、怒り、怯え、色々な感情がパーヴォットの中に一度に湧き上がった。
パーヴォットは何度も壁に背中をつけたまま深呼吸した。少し落ち着いてきたところでパーヴォットはバルタサルとルードビニが何をしているのかもう一度覗き見た。
パーヴォットたちが宿泊している宿屋から数軒こちら側にある宿屋にルードビニが入って行く所だった。バルタサルは用心深気に表で見張っている様子だった。
(あいつらはユウジ様とわたしを探しているんだ)
一瞬でそう見極めたパーヴォットは路地の奥に駆け込んだ。そこから、家並みの裏にあるドブに飛び降りた。幸いほとんど水は流れていなかった。ドブを駈けて宿泊している宿の裏手によじ登った。
パーヴォットは宿の裏口から中に入った。そして急いでホール側に駆け込んだ。カウンターでびっくりしている宿屋の主人に早口でしゃべった。
「わたし達を探しているバルタサルという悪党がもうすぐ来ます。わたしは市門を出たところに隠れております。ユウジ様にそうお伝え下さい」
パーヴォットは声を駈けながら二階への階段を上がった。
パーヴォットは、二階から何事かと見上げている宿の主人をもう一度見た。そして、思いついたことを急いで言った。
「市門の外にいれないような時は、”子のいない母”の所に行こうと思います」
宿の主人は、大きく頭を振った。今の言葉でユウジはパーヴォットが何処に行こうとしたのか分かるはずだった。
「これで失礼します」
パーヴォットは、そう宿の主人に声をかえると、ホールの上の回廊に出た。この回廊にそって部屋が並んでいるのだ。
パーヴォットはそのまま祐司の部屋に入った。パーヴォットは祐司が大切にしている貴重品の入ったバッグ、ヘルメットと鎧を入れた革袋、写本の写しが入ったリュックを抱え込むと自分の部屋に入った。そして、変装用になると思ったドレスも含めて持てるだけの荷物を背負ってホールに出た。
そっと下を見ると、宿の主人がカウンター越しに紙を持った女性と話していた。どうも女性がその紙を届けにきたような様子だった。
声をかけようかと一瞬迷ったが、裏口に通じる奥にある階段をそっと下りて馬とラバを繋いである家畜置き場に走り込んだ。
パーヴォットは焦る気を落ち着けながらラバに荷物を載せると、ラバと馬の手綱を曳いて表通りに出る宿の横の狭い路地まで進んだ。
馬とラバを路地の奥に止めてそっと表通りの寸前まで進む。ちょうど先程の女が宿から出て来て通りを歩いているところだった。その顔色の悪い女は服装から堅気の女ではないとパーヴォットでもわかった。
女が通り過ぎた次の瞬間に、バルタサルとルードビニが路地の前を通り過ぎた。幸運なことに、二人とも通り過ぎた女に目がいっていたために路地の壁にへばりついているパーヴォットには気がつかないようだった。
(もうわたしたちがここに宿泊していたことがばれるのは時間の問題だ)
パーヴォットは先程、自分が市門の外で待つと、宿の主人に言ったことの良し悪しに迷っていた。あの二人なら宿屋の主人を脅かして自分の行き先を聞き出すかもしれないからだ。
(あのご主人なら信じられる)
パーヴォットはそう自分に言い聞かせた。そして、路地の奥に戻って馬とラバの手綱を曳いてまた路地の入り口までもどってきた。
そっと、通りに顔を出して見る。二人の姿はなかった。躊躇はできないと判断したパーヴォットは思い切って通りに出た。馬とラバの手綱を曳いてほとんど走るように最初の角に向かった。
パーヴォットは角を曲がると少しほっとしたが、直ぐにでもバルタサルとルードビニが追いかけてくるような気がして走るような速度を落とすことが出来なかった。
一度、ヌーイに助けを求めようかとも思ったが、バルタサルとルードビニに人通りの少ないお屋敷町で出会った時のことを考えると、ヌーイに助けを求める勇気をパーヴォットは持てなかった。
バルタサルとルードビニから受けた、心的外傷は今でもパーヴォットを苛んでいたのだ。
パーヴォットが駈けていく道の先に多くの馬やラバが群がっている一角が見えてきた。隊商が出発するような様子だった。
若い従者が一人で馬とラバを曳きながら走っているのはいくなんでも目立ちすぎる。追いかける方も、すぐに目撃者からどの方向へ行ったか聞き出すだろう。
パーヴォットは走るのをやめてゆっくり歩いて馬やラバが群れている場所に近づいた。
パーヴォットはその群れの端、しかも道からは見えにくい位置に馬とラバを導いた。道を行き交う人から見れば隊商に属する馬やラバように見え、隊商のメンバーからは近くに置かれた別人の馬とラバと見えるような位置である。
太陽は地平線近くになり、雲も出て来たので少し暗くなってきた。
シスネロスの大きな通りの裏手にあるドブ パーヴォットはこのようなドブを通ってバルタサルらから隠れて宿にたどり着いた。リファニアではシスネロスのような都市の排泄物はくみ取り式の便所で処分されゴミはドブに捨てることが禁止されている。
ドブは生活用水が流れるが、化学洗剤のような物は当然混入しない。また、ドブは定期的に近隣住民によりドブさらいされるので思ったよりはきれいな水が流れている。糞尿が通りに溢れていたというヨーロッパの中世都市よりは、江戸時代の江戸の街に近い。




