マルタンの光と陰32 マグラの巫女十三 調書⑥ -不連続殺人 戊-
この話も理不尽な殺人が行われます。殺人ないし殺人の表現に不快感を持たれる方はご注意下さい。
四件目のディトハルトによる殺人は”マグラの巫女”呪術とは関係がない。
ディトハルトが冷え切った仲の妻のロレンネを”マグラの巫女”で彼の情婦ベニターネに知らせずに巫術を使って殺めたのだ。
ディトハルトは最初の殺人が終わってから、居酒屋を辞めて”マグラの巫女”を専門に行うようになったベニターネとは毎日のように情交をかわすようになっていた。
また十家族ほどになった信者集団からの布施と、定期的に呪術による殺人を請け負うことでマグラの神官として稼げるようになったので、ディトハルトはそれまでの鋳掛屋と街の巫術師の仕事についてはお得意さん回り程度に仕事を減らした。
ディトハルトは明らかに生活のリズムが異なってきた。そうなると仲が冷えた妻のロレンネでも異変に気がつく。
ロレンネはディトハルトの後をつけてベニターネと森の中のマグラの儀式を行う小屋で情交を持っているのを目撃した。
ディトハルトが居酒屋で商売女と遊ぶくらいは目をつぶるが特定の女性と恋仲になっているのはロレンネには我慢できなかった。
ロレンネ は今すぐにベニターネと別れなければ、結婚の世話をしてくれたディトハルトの従兄弟フンデルに言いつけるとともに、怪しげな儀式をしていると奉行所に訴えるとディトハルトに詰め寄った。
奉行所にロレンネが訴え出てもディトハルトは今までの犯行がばれない自信があった。
しかしマルタンに逃げるようしてやって来た時に保証人になってもらい仕事の面倒まで見て貰ったフンデルには義理があったので、自分の不行状を知られるのはディトハルトとしても避けたかった。
ディトハルトはベニターネとはきっぱりと別れるとその場は言った。
もちろんそれはその場を逃れる嘘に過ぎなかった。ディトハルトはエスビヨルの妻と同様にロレンネも自殺に見せかけて殺そうかと思った。
しかし夫婦仲が悪くても妻が自殺となれば結婚の世話をしてくれた従兄弟に言い訳ができないので事故死に見せかけられないかと思いを巡らした。
ディトハルトが妻ロレンネを本気で殺害しようと決断したのは冬至が近い季節だった。
ディトハルトは怪しまれることのない事故死に見せかける方法を必死で考えた。そしてそれを思いつくと妻がディトハルトの従兄弟フンデルの家に行くのを待った。
ロレンネはディトハルトの従兄弟が世話をしてくれた嫁である。そしてロレンネはディトハルトの家で女中をしていたが、実は従妹の妻の姪で女中稼業というよりは花嫁修業をしていたといっていい。
そして今でもロレンネは従兄弟フンデルの妻とは仲が良く時々訪ねていた。
ロレンネがフンデルの家に出かけた日に、ディトハルトは妻が帰ってくるといった時刻の前にフンデルの家の近くに潜んだ。
やがて戸口が開いてロレンネと従兄弟の妻が出てきた。極夜の時期の上に雪雲で全天が覆われて闇夜に近いような状態だったがロレンネと従兄弟の妻の姿は戸口から漏れる明かりではっきりとわかった。
「大丈夫?さっき亭主が言ったように今日は泊まっていけば」
フンデルの妻がロレンネに言った。
「大丈夫、酔いを醒ましながら帰るから」
ロレンネが多少ろれつの回らない声で返した。それを聞いてディトハルトは計画通りだとほくそ笑んだ。
実はディトハルトはロレンネが出かけるときに「いい林檎酒が手に入ったから従兄弟奥さんに飲ませてやってくれ」と言って酒壺をロレンネに持たせていた。
ロレンネと従兄弟の妻はかなりいける口で二人の時は飲酒をするのが常だと言うことをディトハルトは知っていた。
リファニアは寒冷ということもあり、女性の集まりでも飲酒することは多い。
ディトハルトの渡した林檎酒は口当たりが甘くついつい飲み過ぎるだろうというのもディトハルトの目論見だった。
*話末注あり
「ロレンネ、忘れ物だ。これがないと帰れないぞ」
ディトハルトの従兄弟フンデルが戸口から出てきて灯の入ったランタンをロレンネに渡した。
ロレンネはその礼を言うと従兄弟の家を離れて歩き出した。ディトハルトは自宅に向かうことがわかっているロレンネの前を遮光ランタンを持ちながら前にいる者が後ろから来る者をつけるといった要領で歩いた。
遮光ランタンは足元だけを照らすランタンで、十歩も離れると横からはランタンの灯火が見えない。
(第十章 王都の玉雪 氷雪と暗闇の日々8 巫術師イルムヒルト 三 -雪中の追跡 上- 参照)
多少ふらつきながらロレンネはゲレ川を渡る橋の近くまで来た。
ディトハルトの家はマルタンの南東に近い場所にあり、従兄弟のフンデルの家はマルタンの北端にあるゲレ川の北にあった。
この二点を移動する場合に図のように森の中の小径を通れば近道になる場所があった。
ただ森の小径は人が踏みしめた程度の道で降雪時にはどこにあるかがわかりにくくなってしまう。
多少遠回りでも歩きやすさや道に迷う恐れがあることを考えれば通常の道を通る方がいい。
ディトハルトは道端にある木に急いで登った。これは下見の時からあたりをつけていた木で高所恐怖症のディトハルトが巫術発動のきっかけになる恐怖心を持つための工夫である。
ディトハルトがやがてやってきたロレンネを見ていると普通の道と森へ続く小径の分岐点の手前でロレインは中年の男性とすれ違った。もし分岐点でこの男性と出会えばこの日はロレンネは命を長らえただろう。
分岐点にきた時にロレンネは通常の道の方へ向かおうとした。
ディトハルトはここで術を発動させた。そしてロレンネを森へ入る小径の方へ導いた。ディトハルトの人を操る術は術のかかり具合が人によりかなり個人差がある。
深くかかってしまうと相手の五感と体の動きを完全に奪って、まるでディトハルトの魂が相手に乗り移ったようになるがディトハルト自身はまったく動けなくなる。
術のかかり具合が浅い相手では手足を動かせるだけで五感もほとんど奪えない。ディトハルトは気がつかれないように何度か短時間だけロレンネに術を掛けたがロレンネの場合は後者だった。
「あれ足が勝手に。まあいいか」
ロレンネはそう言いながら森の方へと入って行った。
ディトハルトは小径に入らずに雪で覆われている耕作地から森に入った。二人分の足跡を残さないためである。
「足が勝手に動く。楽ちん楽ちん」
酒でいい気分になっているロレンネは脳天気なことを言いながらどんどん森の奥に進んだ。
ディトハルトは小径を外れてどんどんロレンネを森の奥の方へと進ませた。ただしディトハルトはデタラメにロレンネを操って森の中を歩ませたのではない。
前日に森の入り口から自分が迷子にならないために、ところどころの木に目印としてヒモを巻き付けていた。
リファニアの森に迷い込む恐ろしさは本文で複数回出てきたが、特に冬季の森は恐ろしい存在である。
中世世界リファニアには市街地に接している森に夏季はともかく極夜の冬季に下手に踏み入れると迷子になって運がなければ凍死してしまう森がある。
ただ通常のリファニアの都市であれば外周部は城壁で区切られるので、都市内で凍死することはないがマルタンには城壁がない。
ディトハルトは真っ直ぐロレンネを歩ませたのではなく時に大きくカーブさせたり、または円を描くように動かした。
これは足跡を辿られた時に如何にもロレンネが道を見失ってさも彷徨したかのように見せかける為だった。
しかしこのような用意周到なディトハルトの計画にも一つ弱点があった。
シデアリアやバンジャのようにディトハルトが五感を奪いまるでディトハルトが乗っ取ったように操れる場合はディトハルト自身はほとんど体力を使うことはない。
しかしロレンネのように五感を奪えず身体の一部をリモートコントロールのように動かす場合は相手の動かす部位に相当する体力が必要になる。
ディトハルトがロレンネの足を操って自分も歩いているとなると、ディトハルトとしてはロレンネを背負って歩いているような負荷がかかっている。
ディトハルトは肩で息をしながらなんとかロレンネを動かしているような状態で、頭の中では「やっぱりお前とは相性が悪い」と罵っていた。
「おかしいよ。どうなってるの。誰か助けて」
半リーグ(約九百メートル)ほども進むとロレンネが大声を出した。
ディトハルトは大声を出して助かるなら森に入った時だっただろうなと心の中でロレンネに言った。
雪が積もった森の中では声は雪に吸い取られてそうは遠くに届かない。さらにディトハルトにとって都合がいいことに雪が舞い始めて風も出てきた。
さらに半リーグほどディトハルトはロレンネを歩き回した。しかしついにディトハルトは疲労困憊というていになってロレンネを立ち止まらせた。
「お前も疲れただろう休ませてやる」
ディトハルトは今度は荒い息をしながら声を出した。
ディトハルトはロレンネの手を操って服を脱がし出した。
ロレンネも必死で抵抗するのでかなり苦労したが、十分ほどでロレンネはリファニア特有の下着である越中褌に類似した下着だけをつけた状態になった。
下着を脱ぐ間、そしてほぼ裸になって立っているロレンネはずっと「助けて」と叫んでいた。
四半刻(三十分)もすると吹き付ける雪でロレンネは真っ白になった。そして次第に「助けて」という声が小さく間遠くなった。
半刻(一時間)ばかりするとロレンネは何も言わなくなった。
ディトハルトも雪で真っ白になり、これ以上は自分にも危険が及ぶかもしれないと思いゆっくりロレンネにかけた術を解いた。
術が解けるとロレンネはまっすぐ立った状態で前の方へ倒れ込んだ。
ディトハルトはロレンネの足跡を伝ってロレンネに近づいた。そして俯せに倒れているロレンネの右手首の脈を診てみた。
脈は感じられなかった。
ディトハルトはあまり雪を乱さないように苦労してロレンネに脱がせた服を彼女に着させた。
外套まで着させてロレンネを仰向けにしようすると、ロレンネが「迎えに来てくれたの。ありがとう」とか細い声で言った。
ディトハルトは内心震え上がった。
ディトハルトは心を必死で落ち着かせた。
「大丈夫だ。連れて帰る。お前は寝てろ」
ディトハルトは出来るだけ優しく言った。
ディトハルトの言葉にロレンネは小さく頷いた。ディトハルトはロレンネが目を開けずに動かないことをしばらく確認してからゆっくりロレンネから離れた。
ディトハルトは自分の足跡とロレンネの足跡が合流している部分からかなりの距離を自分の足跡を埋めながら元の場所に戻ったが、降り続く雪で埋めていく足跡もほとんど何処にあるかわからないような状態だった。
ディトハルトは目印を回収しながら一リーグ(約一.八キロ)ほどの距離を半刻(一時間)ほどもかけて戻って森の外に出た。
ディトハルトは市街地に戻ると人に見られないように自宅に戻った。
ディトハルトは一寝入りしてから昨夜ロレンネがディトハルトの夕食のために作っていったシチューの残りを温めて食べると従兄弟のフンデルの家に向かった。
ディトハルトは戸口をノックすると「朝早くからすみません。仕事で近くまで来たのでロレンネを迎えに来ました」と出てきたフンデルの妻に何気ない様子で言った。
それから大騒ぎになった。
ディトハルトとフンデルの町内会が人を出してロレンネの捜索を行った。冬季にマルタン周辺で迷って凍死するという事故は子供を主にして時々起こる。
いくら市街地に接しているとはいえ高緯度の寒冷で冬季は明かりがなくなる中世世界リファニアでは一歩周辺の原野や森に入り込むとそこは深い山中と同じである。
中世世界リファニアでは都市で生活する子供でも親から「道でないところは出入りするな」と徹底的に教え込まれる。
これは道でない場所が歩きにくく怪我をしやすいこともあるが、道から外れて移動していると方向を見失って都市に近い場所でも遭難する恐れがあるからだ。
また冬季は橋で足を滑らせて落下するという事故も起こる。厳寒でゲレ川は凍結しているが橋の上から落ちた時は氷を突き破って川に沈むということもある。
マルタン奉行所の同心の聞き込みによりロレンネが帰り道で一人だけすれ違った男性が見つかった。
その男性は森へ続く小径の手前ですれ違ったと証言したので、捜索はゲレ川とゲレ川の北の森を中心に行われた。
もちろんディトハルトもその捜索に参加したが、ディトハルトはゲレ川沿いの捜索に参加した。流石にロレンネの死体があるとわかっている森の中を捜索するのは気がひけたからだ。
ロレンネの死体は捜索二日目に見つかった。
見つけたのは捜索隊ではなく、森に仕掛けたウサギ用の罠を見に行った近在の農夫だった。
ただし見つかった場所はディトハルトがロレンネを置いてきた場所ではなかった。どうもロレンネは一度蘇生したのか這って五十間(約九十メートル)ほど離れた森の精霊を祭る祠の前で発見された。
そこまで移動していたので、精霊の祠にウサギ狩りの許しを得に来た農夫が見つけたのである。
この話を聞いてディトハルトは、ロレンネが最後に祠に何を祈ったのかと思うと背筋が縮み上がった。
精霊は人間に直接に害を与えることのない神々ではないので、ロレンネがディトハルトの企みに最後に気がついてディトハルトに懲罰を与えてくれるように願ったかもしれないからだ。
自宅に帰還したロレンネの遺骸にディトハルトは顔を押し当てた。そして自分でもよく泣けるなと思えるほど泣いた。
そんなディトハルトに従兄弟のフンデルとその妻はあの夜にロレンネを縄で巻いて無理に泊めさせればよかったと悔い、そして何度もディトハルトに謝った。
この事件には”マグラの巫女”ベニターネは直接は絡んでいないが、公開された記録ではベニターネがディトハルトとの仲を続けていくために邪魔になったロレンネに呪術をかけたことになっている。
注:林檎酒
リファニアの林檎酒は二種類あります。一つはこちらの世界でシードルと呼ばれる純粋な林檎の醸造酒です。
これはアルコール度数がリファニアでは四から五パーセント程度の軽い酒になります。この種の酒は女性ないし子供向けの酒という扱いです。
もう一つの林檎酒はシードルを蒸留してアルコール度数をあげたもので、リファニアではアルコール度数が二十五から三十パーセントほどの酒です。
この二種類の林檎酒は夏季には醸造酒の林檎酒を水代わりに飲み、冬季は蒸留酒の林檎酒で体を温めるという目的で飲み分けられています。
もちろんディトハルトが妻のロレンネに持たせたのは後者のアルコール度数の高い林檎酒です。
ディトハルトによる妻のロレンネ殺害はオラヴィ王八年十二月二十四日の夜から翌二十五日の未明に行われました。
この時期は祐司とパーヴォットは王都でバーリフェルト男爵から頼まれて、バーリフェルト男爵家の次女デジナン・サネルマとの婚約を果たそうとするグラウスが婚約の条件である冬至までに王都のヘルゴラルド神殿に到着することを阻止する算段をしていた時期に相当します。




