”小さき花園”の女3 いわゆる女神
「もう僕の疑問にもう少し答えてくれてもいい頃でしょう」
雪が根雪になり、冬の間に使う薪の準備が終わった日に祐司はスヴェアに言った。
「冬の間、時間はたっぷりある」
スヴェアは夕食用のジャガイモの皮をむきながらどちらとも取れる返事をした。
「僕は日本という国から来ました。知っていますか。それからアメリカとかロシア、中国……」
祐司は知っている国名を次々あげた。
「一つも聞き覚えがない」
スヴェアは祐司の方を見ることもなくそっけなく答える。
「そうですか。では、これを見て下さい。」
祐司が母屋の唯一のテーブルの上に白樺の皮に描いた地図をのせた。祐司は最初は自分で大雑把に記憶だけで世界地図を描いた。
しかし、考え直して、どうせなら正確な方がいいだろうと、スマートフォンに内蔵された百科事典にあった地図を参考にして描いた世界地図である。ちなみに祐司はスヴェアの居住している家屋を母屋と呼んでいる。
「これがユウジの世界か」
ようやくジャガイモの皮をむく手を止めてスヴェアはしばらくその地図を眺めた後に祐司に向かって言った。
「はい。でもこれがよく世界地図だとわかりましたね」
祐司は少し驚いた。地図を読めない人間は、それが地図であることさえわからないことがあるのを祐司は知っていたからだ。
「わたしはカンがいいのだ」
祐司の表情を察したのかスヴェアは間を開けて言った。
「うろ覚えで描きましたから正確じゃありませんよ。でも、大陸の位置と大体の大きさはあっていると思います。それから主な半島や島も」
「これは途方もなく価値のあるものだ」
スヴェアはテーブルの上の地図を指先でたたきながら言った。
「僕の世界の地図ですよ。ここで何の役に立つんですか」
祐司は力を抜いて言った。
「祐司の世界と、ここの地形は同じはずだ」
スヴェアは事も無げに返した。
「なぜそんなことがわかるんですか」
祐司はこの情報に少し安堵した。異なった世界でも祐司の地球と同じ要素があれば帰れる確率が高そうに思えたからだ。
「その理由は後回しにしよう。多分ここだろう」
スヴェアは地図の中の一点を指し示した。
「そこが?」
「リファニアの位置だ」
祐司はリファニアとは漠然と北半球の高緯度のどこか。もし地球に相似した世界なら北欧、多分スカンジナビア辺りではないかと思っていた。スヴェアが指し示した予想外の地点に祐司はそうきましたかと心の中で呟いた。
「僕の世界ではグリーンランドっていいます。緑の島って意味です」
「リファニアの古名にグレイェーンラという言い方がある。緑の国という意味だ」
「僕の世界のグリーンランドは氷に覆われた世界です。南の沿岸に少しだけ人が住んでるはずですが、ここのように緑に覆われた地どころか人が普通に住むなんてできない島です」
「太古の伝承ではリファニアも氷に覆われていた。大いなる力によってその氷は溶けて人が住めるようになったという」
「リファニアにも最近まで氷河があったことは確かでしょう。尖塔山、あなたの言う”岩の花園”はかつて氷河があった時に山体が削られて塔のような形になったんだと思います。
畑仕事をして気がついたんですが辺りの土壌は薄く、何より土が細かいです。僕がいた世界でも氷河に覆われていた所ではそんな特徴があるらしいです。」
祐司は暫く考えてから言った。
「お前はひょっとして学者かそれに類した者だったのか」
スヴェアは目を丸くした。
「違いますよ。趣味で山歩きが好きだっただけですし、知識も学校で習ったものです」
「趣味で山を歩くという発想は理解できない。余所では言うなよ」
「言いませんよ。余所ってここから出してくれるんですか」
「いずれな。それは確約するし、出ていってもらわねば困る。では、この世界とユウジの世界の関係を説明しよう。
二つの世界は異なるが、この世界とユウジの居た世界は隣接している。ただし隣り合っている世界は数限りなく存在する」
「多次元宇宙ですか」
祐司は多次元宇宙という単語を”言葉”に翻訳するのに苦労した。
「そんな難しいことを言わなくていい。わたしは千の世界と言っている」
「どうしてそれがわかるんですか」
「わかるからとしか言いようがないな。ユウジの世界では色々な事象を頭で考えて物事の本質をとらえようとするようだな。しかし、ここでは直感や個人の感覚で物事の本質を理解する。ただ、その力はごく一握りの人間しか持っていないがな」
そう言うスヴェアの口調の裏を祐司は感じた。
「あなたもその一人ですね」
「そうだ。それもとびきりの一人だ」
スヴェアの目の辺りの表情がなごんだ。
「あなたは神であらせられるのか、それに類似されるものですか」
いつか聞こうと思っていたことを祐司は習い憶えた最大限の敬語表現で言った。
「巫術師だ。何故に神だという」
スヴェアは意外そうに聞いた。
「貴女の背後から光が出ています」
祐司の言葉にスヴェアは押し黙った。
「光が見えるのか」
「光とは違います。辺りを照らすことはしませんから。でも光のようなものです。普通は見えないのですか」
「表に出ろ」
スヴェアは机の上に置いてあった山羊の毛で作った手袋をはめた。しかし、同じく毛深い山羊の毛でつくられた防寒コートは羽織らずにドアを開けて出ていった。祐司もあわてて外に飛び出た。
「後ろを見てゆっくり百を数えよ。わたしは森の木の後ろに隠れて巫術で気配を消す。どこの木の後ろにいるか言え」
スヴェアは言うが早いか手袋をした手で祐司を母屋の方向へ向けた。スヴェアは祐司を触るときは必ず手袋を着用していた。
かくれんぼは七回試したが全て祐司はスヴェアがどこにいるのかを言い当てた。スヴェアは六回目は百メートル以上離れたヤブの中、七回目は家畜小屋の入り口辺りに隠れるといういささか卑怯なこともした。しかし、ゆっくり周囲を見回した祐司に難なく居所を言い当てられた。
「太古の書では優れた巫術師は輝きを見せるという記述があるが伝説だろうと思っていた。ユウジが光が見えると言うまで、わたしが本当にそのようなものを発しているとは自分でもわからなかった」
母屋に戻りながらスヴェアが言った。
「私から出る光は何色だ?変化するのか?」
「透明です。色でいえば白です。スヴェアさんが巫術を使う前は強くなります」
「他に何か光って見えるのもあるか?」
「今思えば山であった龍やグリフォン、大蛇、それにちゃんとした姿を見た訳ではありませんが大虫なんかがそんな光を発していたような気がします。スヴェアさんのようにはっきりしたものではありません」
スヴェアは黙って奥の部屋に入っていき、五十センチほどの剣を持ってきた。剣はほんの薄い光に包まれていた。
祐司は剣の種類などには詳しくはないが、映画などで見るローマ兵士が持つような剣と同種類のものだろうと思った。
「薪を私めがけて投げつけろ。ただしゆっくりとだ」
スヴェアは剣を頭上に振りかざした。
祐司は暖炉の横に積んである薪を一本掴むと山なりの軌道でスヴェアの方へ投げつけた。スヴェアが剣を振ると薪は真っ二つになった。五十センチ以上の長さのある腕ほどの太さの薪が縦方向にである。
「もの凄い名剣ですか。それともスヴェアさんの腕前か巫術ですか」
「そう言いたいが、わたしは剣の刃を薪の方向へ向けただけだ。ほとんど剣の切れ味だけで薪は真っ二つになった。ところでこの剣はどう見える」
スヴェアは剣を祐司の方へかざした。
「きれいな剣です。見事に磨いてあります。よく見ると光を発しているようです。ごく僅かですが紫色に見えます」
「祐司、剣を持て」
スヴェアは剣を机の上に置いた。
祐司は右手で柄を握って持ち上げた。
「思っていたより重たいです。え、これ!」
剣は先ほどの鏡のごとき透明な刀身ではなかった。金属分の多い土塊を無理に固まらせたようなものが柄の先に伸びている。
「いくぞ」
スヴェアが薪を放り投げてきた。祐司は思わず剣で防ごうとした。薪は剣に当たり、剣は柄から数センチ先から文字道理に木っ端みじんになった。
「巫術によって鍛えに鍛えた剣だ。それほど手間をかけた剣はめったにみられるものではない。並の甲冑など一撃で切り裂く、何度敵を貫いても切れ味は衰えず刃こぼれもしない。敵と一撃でも剣で打ち合う技量さえあれば敵の剣を真っ二つにできる」
「でも、その剣がどうしてこんなことに。スヴェアさんが薪の方に巫術をかけたのですか」
「祐司の作用だ。祐司が触れたものが巫術で鍛えたものであれば巫術の力が抜けてしまい本来の姿に返る。それも一瞬でだ。
よき武具の類はほとんど巫術が施されているから、名のあるよい得物をもった戦士ほどユウジを害することは難しいだろうな」
祐司はスヴェアがいろいろ話す気になっているらしいことを利用して疑問をただしてみた。
「薬草も光を発する物があります。それから森の木の中にも。それも巫術の力があるからでしょうか」
「ユウジは草木の巫術の力も光として見えるのだな。巫術の力を蓄える草木がまれにある。巫術の力を貯めやすい種類の植物はあるが、力を貯めておるかどうかは、言うなれば気まぐれにすぎない」
スヴェアはそう言うと口を一文字に結んで小さく頭を左右に振った。
「スヴェアさんは決まって光を発する薬草を捨ててしまいますがどうしてですか」
「見て巫術の力のある植物がわかるとは、ある種の人間にとっては、怒りたくなるほどの言葉だな」
スヴェアは何がおもしろいのか少し笑みをたたえて言葉を続けた。
「巫術の力を溜め込んでいる植物は大概が有害なのだ。我でも誤って大量の巫術の力をもった植物を食べた場合は右の腹の上の方に鈍痛を感じる。酷いときはしばらく身体がしびれて動けなくなる。そのような時は絶食して身をいたわる必要があるな。
常人であれば、吐き気が抜けることなく絶え間なく咳を出す。身体の中に入った虫に内蔵を食われているような耐え難い苦痛に苛まれる。
そして、息をする力を奪い人を殺す。ろくでもない幾つもの作用を人にもたらすのだ。巫術師と貴族は多少耐性があるようだが平気とはいかない。それゆえ、我はそのような薬草を自分の舌で感じて捨てておるのだ」
「つまり毒ってことですよね。薬草だと思っていたらとんでもないことになるわけだ。でも、ある種の人間にとってはって、どういう意味ですか」
「毒を求める巫術師だ。この地は巫術の力が他の場所より多く貯えられておるから、その力を持つ植物も多い。
しかし、普通は何千、何万に一つといった具合だ。それを、舌で感じて探すことの出来るのは、その能力を持つ巫術師だけだ。広く世には知られていないが巫術師の中には人を苦しめたり、害すことを身過ぎ世過ぎの糧にしておる輩が一握りだがおるようだ」
「スヴェアさんは全ての薬草を確かめてるんですか」
祐司はスヴェアが育てている薬草の量を知っているので驚いて聞いた。
「いいや、薬草畑のように巫術の力がないとわかっておる場所の薬草は無害だ。野生で珍しい薬草を見つけたときに試すぐらいだ」
祐司は気になっていた最大の疑念をたずねた。
「僕が山でであった龍やグリフォンも巫術ですか」
「そうだ、あれらは異界の扉を守るためにイェルケルとわれが心を一つにした巫術を施したものだ。
われだけでは負けぬとも、打ち負かして通るのも難儀するできだ。今更、相手をしようとも思わぬがな」
「イェルケルって?」
「ユウジが埋葬してくれた巫術師の名だ。フォーラッティ・イェルケゼンナティ・ハル・ヴァルダン・ディ・イロラ、通称イェルケルは我が夫だ」
スヴェアの声は深々と降る雪の中にも響いた。
冬には真昼でも薄明程度にしか明るくなることはなかった。冬の森は静寂だった。細かい雪が、さらに森の音を奪うように時折降った。