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千年巫女の代理人  作者: 夕暮パセリ
第十六章 北西軍の蹉跌と僥倖 下
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閑話34 北西戦役とインパール作戦

 モンデラーネ公軍による北西戦役、またの名をアヴァンナタ州戦役は作戦の主旨や戦役の展開などが1944年に行われた日本軍のインパール作戦に類似しています。


 インパール作戦はビルマ北東部の密林で覆われた山岳地帯を世界でも有数の多雨地帯の雨季が到来する前に突破してインドのインパールに進出しようという意図で行われました。


 作戦の目的はビルマ防衛のために戦線を前進させるというものです。


 しかしビルマを勢力圏に置いたのは南方資源地帯を守る為ですが、1944年になるとアメリカ海軍の潜水艦の活動が活発化して海上輸送が大打撃を受け始めていますので本来ならその対策に力を注ぐべき時期でした。


 また英領インド内の都市インパールを占領するという宣伝効果はありますが、インパールは辺境の小都市に過ぎません。

 インパールの北方にある中国への物資補給の拠点であるディマプールまでいけば多少は戦略的な意味がありますがインパールを占領してもその維持に多大の努力をつぎ込まなければならないことは明白で作戦目的には疑問のある作戦です。


 インパール作戦における最大の作戦的な目的は勝てそうな相手に勝って、内外に勝利を喧伝するということです。


 1944年(昭和19年)になると日本は全ての戦線で押され出して、アリューシャン列島のアッツ島玉砕、ギルバート諸島、マーシャル諸島の失墜、ニューギニアでは一方的に後退を続けてアメリカ軍の大きな目標であるフィリピンに連合国軍の接近を許していました。


 そしてB29によって本土に王手がかけられるマリアナ諸島侵攻が決まり、アメリカはその巨大な工業力で日本海軍の数倍の空母戦力を整えつつありました。

 マリアナ諸島の重要性は日本も理解していましたが、潜水艦による攻撃で増援は計画通りにはいかず万全の防備態勢とはなっていませんでした。


 さらにアメリカ軍の侵攻時期も日本軍の防備が整うであろう1944年の後半といった自己都合からの誤った判断がなされていました。

*実際のアメリカ軍のマリアナ諸島侵攻は6月



挿絵(By みてみん)




 しかしビルマ戦線だけは日本軍視点ではありますが、連合国軍相手に五分の戦いを行っていました。

 相手は南太平洋で次々に日本軍を敗退に追い込んでいるアメリカ軍ではなくイギリス連邦軍で主力はインド軍でした。


 前年の1943年にビルマ北西沿岸のアキャブ(現シットウェ)ではインド軍を撃退していました。

 これは第14インド師団を主力としたインド軍を山間部を迂回した部隊で挟撃したことによる勝利でした。


 ちなみに現在ミャンマーで迫害されているロヒャンギーはこの地域に多く住んでおりイギリス軍に協力的でした。


 ロヒャンギーからすればイギリス勢力圏内にあって優勢なイギリス軍に協力することを選択するのはいたしかたない行動ですが、日本ではあまり触れられませんがミャンマーの主要民族であり日本軍の指導でビルマ国軍を組織までしたビルマ族から見ると面白くない行動といえます。


 大きな敗北の前には成功体験があり、その分析が勝利によって曇らされていることがおうおうにしてあります。

 植民地兵であるインド軍は包囲すれば脆く、自軍は包囲のための迂回攻撃が得意だという認識が日本軍に植えつけられました。


 しかしインド兵から構成されるイギリス軍部隊は相応に戦意があり、日中戦争前半の中国軍のように軍としての能力が低いわけでもなく前年のアキャッブ方面での戦闘では日本軍とがっぷり四つの戦闘をしています。

 また北アフリカではインド兵師団はドイツのロンメル率いるアフリカ軍団と熾烈な戦闘を行っていますので侮れない敵であることは明らかでした。


 彼らは包囲されれば弱いという認識は別の面からみれば、インド兵師団は決定的に不利な状況にならにように撤退するという合理的な選択をしていたに過ぎません。


 またインパール攻略は補給に無理があるのは日本陸軍指導部の目にも明らかで、東南アジア太平洋戦域を統括する南方軍やビルマ方面軍も大規模な作戦には懐疑的でした。

 ところが直接の侵攻軍となる牟田口第15軍司令官が強引に計画を推進したのと、政略的に勝利が欲しい大本営もしくは東条英樹首相の思惑が一致してしまいます。


 イギリス軍も日本軍の攻勢を予想してインパールの防備を固めるとともに、前年に敗北したアキャブで日本軍を撃退します。

 そしてウィンゲート少将による大規模な空挺作戦によりインパール作戦を行う部隊の後方が脅かされました。


 この空挺作戦はまったくの奇襲では無くインドに潜入している間諜からグライダーが多数整備されつつあるという情報が入っていました。しかしその対応はまったくなされないままでした。


 このようなビルマ防衛に支障をきたすような火の手が上がる中でインパール作戦は強行されます。


 モンデラーネ公による北西戦役がインパール作戦と類似があるといったのは、モンデラーネ公が政略的に勝利を欲しがって起こした戦役が戦略的にはあまり意味のない場所に勝てそうな相手だからということで大規模な攻勢をかけたことです。


 北西戦役の起こったオラヴィ王九年のモンデラーネ公支配地では一旦制圧した南辺のリヴォン・ノセ州がドノバ候によって切り取られつつありました。

 これに対してモンデラーネ公はリヴォン・ノセ州の北にあるデレット州へ兵力を集めてデレット州とリヴォン・ノセ州の西にあるマレトラ州の防備を固めるだけで、二万以上と思われる機動兵力を持ったドノバ勢に対して攻勢の意図は持っていませんでした。


 西辺のロクシュナル・サルナ州ではノヴェレサルナ連合侯爵家女侯爵デデゼル・リューチル・ミラングラスによる動員令がかかり、隙あらばロクシュナル・サルナ州東端にあるモンデラーネ公に寝返ったバルツァーレク男爵を掣肘せんと虎視眈々と狙っていました。


 デゼル・リューチル・ミラングラスからすればバルツァーレク男爵は自分の夫ノヴェレサルナ連合侯爵ヴェニアミノをだまし討ちにて殺害し世子ラファエルドルに瀕死の重傷を負わせた相手ですから、バルツァーレク男爵領内のモンデラーネ公軍が手薄になれば必ず攻め入るのは間違いありませんでした。

(第十三章 喉赤き燕の鳴く季節 イティレック大峡谷を越えて2 アゲルデル城の吊り天井と刺客兄弟 参照)


 さらにその北のロクシュナル州西端地域ではモンデラーネ公に追われたロクシュナル子爵軍がナデルフェト公爵ビリデル・イキニパラガクの支援を受けて、これもモンデラーネ公に擁立された自称ロクシュナル子爵軍に対して故地奪回を狙い活発に動いて中間地帯に侵攻を繰り返していました。


 モンデラーネ公からすれば自分の調略で寝返ったバルツァーレク男爵と自称ロクシュナル子爵を見殺しには出来ないためそれなりの兵力を派遣する必要があったので他の支配地域から兵力を引き抜いてなんとか手当てをしました。


 さらに北のナデルフェト州ではモンデラーネ公の宿敵ナデルフェト公爵が北隣のフィシュ州南東部を突こうかという態勢で万を超える正規軍を配備していました。

 フィシュ州南東部のホルメルド子爵もモンデラーネ公に降った領主であるので、さらに境界線を接する北西誓約者同盟とナデルフェト公爵家からホルメルド子爵の安全と裏切りを阻止するためにここにも兵力の派遣が必要でした。


 この兵力は北西誓約者同盟地域への侵攻するために予備兵力を振り向けました。


 実はオラヴィ王九年という年はモンデラーネ公勢力圏に接した三分の一以上の地域でモンデラーネ公がなんらかの対策すべき状況になっていました。

 北西誓約者同盟へ侵攻したモンデラーネ公軍兵士は鎧袖一触(がいしゅういっしょく)で打ち破れると考えていましたが、現在のところ直接的な脅威ではない北西誓約者同盟への侵攻などしている時期ではなかったのです。


 後知恵ですがオラヴィ王九年という年はモンデラーネ公は生き残りをかけて、周囲の敵をその機動兵力を用いて外征ではなく内線戦略を持って各個を撃破あるいは痛打を与えて支配圏に対する脅威を減じておく年だったのです。


ここで再びインパール作戦の説明に戻ります。


 インパール作戦の参加師団は第15、31、33の三個師団でそれぞれが2万弱の兵力を持っていました。それに第15軍の直轄兵力が加わり総数は9万になります。


 ただしビルマ北西部を流れるチンドウイン川を渡河してインド領内にまで侵攻したのは6万程度と思われます。


 牟田口第15軍司令官は3月初旬に作戦を発動させます。作戦期間は三週間という手筈でしたが、これは兵士に携行させた食糧が三週間分であったので軍事的な見地からというよりも三週間で作戦が完了しないと貧弱な補給から自ら苦境に陥っていくことが内心わかっていたことからの判断です。


 この日本軍の侵攻を予想したイギリス軍のイギリス第14軍司令官スリム中将は日本軍を兵站基地でもあるインパール付近まで誘い込み、補給の限界に達したところで一撃を浴びせる作戦をたてます。


 図でわかるようにインパールの北にあるコヒマはインパールへの重要な中継地でここを占領されるとインパールは孤立してしまいます。



挿絵(By みてみん)





 日本軍は迂回攻撃で後方へ回り込むことを多用していました。これは火力が貧弱なこともあり正面攻撃以外の方法を探る必要があったことも要因です。


 イギリス軍も日本軍が多用する戦術を理解していますので、インパールの後方の要地コヒマには日本軍の攻撃を予想して二個歩兵旅団というかなりの守備兵力を配置していました。


 ただしコヒマに到達するにはそれこそ人跡未踏に近い山間部の密林を越えて侵攻しなければなりませんので、スリム中将はコヒマに日本軍が現れても大隊規模か多くても連隊規模の兵力だと判断していました。


 なお旅団は連隊以上で師団以下の編成数となりますが、イギリス陸軍の旅団は実質は連隊です。


 ところが実際にコヒマに現れたのは第31師団の一個師団(実兵力は二個連隊、通常は三個連隊)です。

 このスリム中将の敵兵力誤断もあってコヒマは陥落しますが、重装備を欠いた日本軍の攻撃を凌いでコヒマ周辺にイギリス軍は踏みとどまります。


 特にコヒマ南西高地をめぐるテニスコートの戦い(日本側呼称:コヒマ三叉路高地の戦い)はイギリス陸軍が行った戦闘の中でも屈指の激戦として日本よりイギリスで著名な戦闘です。

 このテニスコートの戦いで日本側5,764名の死傷者、イギリス側4,604の死傷者が出ます。日本側が一個師団、イギリス側が二個旅団ですから双方とも恐るべき損耗率です。


 ただ日本側が期待していたようなイギリス軍は弱兵ではなくこの損害に耐えきって後退することはありませんでした。


 このテニスコートの戦いはイギリス軍に軍配があがります。日本軍の首脳は漠然とイギリス軍は弱兵という根拠薄弱で楽観的な印象をもっていたように感じられますが、この数百年の歴史を見るとイギリス陸軍は敗北を喫するときでも英雄的な抵抗をしばしばみせています。


 イギリス軍が弱兵であれば一番近い大きな戦いである第一次世界大戦で見られたように、しばしば機関銃が待ち構える敵塹壕に無謀とも思える突撃を行えるわけがありません。

*イギリス軍は1984年のフォークランド紛争、1991年の湾岸戦争、そして21世紀である2003年のイラク戦争において銃弾に身を晒す銃剣突撃を行っている軍です。


 さてこのコヒマの占領は日本陸軍屈指の名将である宮崎繁三郎少将の卓越した指揮によるものでしたが、宮崎少将の元には一個連隊基幹の兵力しかなくコヒマ周辺の占領が出来なかったのです。



挿絵(By みてみん)




 このためインパールへの輸送を完全に遮断することはできずに、第31師団は補給の困難さから次第に敵中に孤立していくような状態になります。


 最近第31師団師団長佐藤中将が補給の途絶を理由に独断でコヒマから撤退したことが戦後牟田口第15軍司令官によって批難されているのは正しいという意見が戦後七十年を経て見られます。


 この意見によれば当時イギリス軍の兵站基地であったコヒマ北西のディマプールまでの道中はほとんど無防備の状態であり、また短い期間でしたがディマプールの防衛もかなり手薄になっていました。

 このことを利用して佐藤師団長がもう数日コヒマの攻撃を早めて第31師団を果敢にディマプールに進出されば補給問題は一気に解決して敵中に孤立したインパールは陥落して日本軍が勝利したというものです。


 これは完全な後知恵で当時の日本軍はディマプールはある時期無防備に近い事になっていたなど知りもしりませんでした。

 こうした状況がわかってくるのはインパール作戦に参加したイギリス軍の関係者の戦後の回顧によります。


 そして欧米の軍関係者は自分が打ち破った敵をかなり持ち上げて記述する傾向があること知らなければなりません。またことさら自分が苦境に陥っていたかも強調するようです。


 そうであれば苦境を克服して強敵を撃破した自分の自慢になるからです。


 例えディマプールはほとんど無防備であることを知っていたとしても牟田口第15軍司令官が佐藤師団長に命じていたのはコヒマの占領であり、ディマプールは攻勢限界点を越えた位置にあると軍司令部も判断していました。


 もし佐藤師団長がディマプール方面に進出すれば軍司令部の命令を逸脱した独断専行ということになります。

 佐藤師団長が自分の命令を守らずに独断専行しなかったことを非難するのは軍という究極の縦割り組織を否定するような意見となります。


 もともと独断専行をしたくともコヒマ周辺を完全に占領できないでイギリス軍と戦闘を行っている状態ではディマプールなどに進出することは出来ません。


 インパール作戦の主攻撃を担当したのは戦車部隊を含んだ第33師団で、インパール南方の自動車道を錐のようにしゃにむに突っ込んでいくことになっていました。


 そして第15師団は山間部を突破してインパールの北方に進出してインパールを包囲する手筈になっていました。

 しかし第33師団は遅滞戦術をとるイギリス軍を捕捉できずにインパールへの後退を許すと供に期待していたイギリス軍の物資もほとんど手に入れることは出来ませんでした。


 ただ5月初旬に第33師団はインパールの南方15kmにまで到達して、4月中旬に第15師団はインパール北方を占領することに成功します。

 日本軍のそれまでの常識からすれば包囲は完成してさらに不完全とはいえ補給路も遮断していますからイギリス軍が降伏してもおかしくない状況です。



挿絵(By みてみん)




 しかしイギリス軍は空路でインパールへの物資補給を行って日本軍の攻撃をしのぎます。戦線は膠着からしだいに日本軍は平地から付近の山地へと追いやれていきます。

 一気に敵の懐に飛び込んで潰滅させようという作戦が頓挫した以上は作戦を中止すべきですが、牟田口第15軍司令官は攻勢の主力を第33師団から15師団、そして31師団に変更してインパールへの攻撃を続行させます。


 しかし攻勢を行う体力も物資もすでに日本軍にはなく、はるか後方の司令部からの牟田口司令官の命令は実行不可能な状態でした。


 ただイギリス軍もインパールへの補給は非効率な上に数に不足する輸送機による航空輸送に頼るこの時期は苦しかったのです。

 後知恵にはなりますがインパール作戦を行った第十五軍は上位組織のビルマ方面軍に要請してビルマに展開する第5航空師団に石にかじりついてでも敵輸送機の撃破とインパールの飛行場攻撃を行わせることは出来ました。


 しかし牟田口第15軍司令官はインド・ビルマ国境のチンドウイン川の渡河援護のみを要請していただけです。このためにイギリス軍はインパールへの空輸路確保に成功します。


 こうした中で恐れていた雨季が到来します。


 ここに至って第31師団の佐藤幸徳師団長は部下を無駄に死なせるわけにはいかないと、日本陸軍としては前代未聞の師団単位による無断撤退を開始します。

 不完全ながら遮断されていたコヒマは完全に解放されて、夥しい物資がインパールに雪崩れ込みます。


 こうなるとインパールを包囲していた第15、33師団もイギリス軍の攻勢によって下がらざるを得ません。

 そして適切な判断から二ヶ月遅れて七月についに撤退命令が出ますが、撤退路は白骨街道と呼ばれるような惨状を呈します。


 こうした中で第31師団の宮崎繁三郎少将が率いる宮崎支隊(第五十八連隊基幹)はイギリス軍二個師団の攻勢を防ぎつつ全ての負傷者を連れて下がりました。

 この宮崎少将に牟田口第15軍司令官はコヒマから南下して北からインパールを攻略せよと第31師団を飛び越して命令を下していました。


 戦車部隊を含んだ完全編成の一個師団で出来なかったことを牟田口第15軍司令官は兵力が半減していた一個連隊に命じたのです。

 現代に置き換えればブラック企業の部長が課長を飛び越して、部下が過労死寸前で続々と倒れる状態になった係長にどう工夫しても達成できない仕事量を人員の増員なしに押しつけたようなものです。


 組織を運営するために上意下達の方針を取ることは悪いことではありませんが、中間結節点を無視して上位者が下位者に命じる事は自らの組織に傷をつけることになります。 


 本文でマセバルス男爵が負傷者を連れての撤退を成功させて”一条の光明”と表現したのはこの宮崎支隊の話が元ネタになっています。


 インパール作戦の日本側の戦死者は実はよくわかっていません。

*イギリス軍は戦死15000、戦傷25000


 公刊戦誌である『戦史叢書』では三個師団で二万三百(軍直轄部隊は含まない)、イギリスの公式戦史では五万、さらに残存兵力との差から七万という数字もよく用いられており二十世紀半ばに行われた正規軍の戦闘としては差が大きすぎます。


 同じ敗戦国でもドイツでは几帳面に戦死者の確認が行われていますが、幾ら敗走の混乱があったとはいえ軍隊の根幹の数字である兵員数の把握も出来ていない日本陸軍には近代戦を戦う能力が事務的な面からも欠けていたとしか思えません。


 さて日本軍の万単位の兵士がなんとかビルマ領内に辿り着けたのは、追撃してきたイギリス軍に四万というマラリアを主にした戦病者が出たことによります。

 元々インパール付近は大軍を展開するような作戦には適さないような地域だったともいえます。



 さて作戦面での北西戦役とインパール作戦の類似点を見てみます。


 まずコヒマを占領した第31師団に相当するのがイルマ峠を封鎖したモンデラーネ公軍別働隊ということになります。

 北西軍でもモンデラーネ公軍がイルマ峠付近に出没することは予想していましたが、多くても千を下回る程度でそれも実際にモンデラーネ公軍別働隊が現れた日時より半月は遅い時期を予想していました。


 そこへ八千というモンデラーネ公軍別働隊が出現して北西軍最大の危機を迎えます。ところがイルマ峠城塞攻略に失敗したモンデラーネ公軍別働隊はイルマ峠を封鎖しますが、すぐに迂回路を造られてしまいます。


 そして自身は次第に補給の困難さから弱体化していきます。


 第33師団に相当するのがモンデラーネ公軍本隊です。モンデラーネ公軍本隊はしゃにむにバセナス街道を突き進んで、インパール作戦のインパールに相当するシャヤ渓谷を目指しました。


 モンデラーネ公軍本隊が北西軍の巧みな遅滞戦術でシャヤ渓谷への到達が困難になると、モンデラーネ公はイルマ峠の別働隊に背後から北西軍を攻撃しろと無理筋な命令を出しています。


 そして最後は退いてくるモンデラーネ公軍別働隊の壊滅的損害という事態になってようやく九月半ばに戦役を終了させました。

 早期のイルマ峠の封鎖とイルマ峠城塞の奪取という前提条件で開始した北西戦役ですから、それが難しくなった七月下旬から遅くとも八月上旬に戦役を打ちきり北西軍を後退させ荒野ですがアヴァンナタ州南東部を占領したと喧伝して戦役を打ち切る決断をモンデラーネ公はするべきでした。


 なおインパール北方に攻勢を行いインパールを包囲しようとした第15師団に相当する軍勢はモンデラーネ公軍にはありませんでした。


 もし諜報活動が十分であれば北西軍にモンデラーネ公軍がホフ湖に現れたと知らせたウクレク・エラ村村の使者が通過したホフ湖付近からバセナス街道に至る間道の存在を察知して北西軍の背後に一隊を展開することは可能で、インパール作戦の第15師団に相当する分遣隊で北西軍本隊の背後に進出することは可能でした。(第十六章 北西軍の蹉跌と僥倖 下 北西軍の僥倖2 ホフ湖の湖賊 二 エルジネータ 参照)


 北西軍も間道の警戒はしていましたので北西軍を奇襲で挟撃という展開にはなりませんでしたが、いきなりまだ防備を構築中のコダデル峠の前に進出することは可能でしたからモンデラーネ公軍には実際よりシャヤ渓谷侵攻のために一ヶ月弱の時間的余裕が出来たことになります。


 またコダデル峠に進出すれば補給には苦しんだことは間違いありませんが、二倍ほども遠方のイルマ峠に物資を送るよりはずっと容易にモンデラーネ公軍は対応できたでしょう。



 最後にモンデラーネ公軍による北西戦役とインパール作戦の相違点を上げます。


 最大の相違は雨の中に軍が溶けてしまうような雨季まで作戦を強行したために撤退時に壊滅的な損害を受けて以降のビルマ防衛戦に大きな支障をきたした日本軍とは異なることです。


 モンデラーネ公軍別働隊は大きな損害を受けて、本隊の被害はモンデラーネ公の予想の数倍にのぼりました。

 しかし冬季になるかなり前に組織的に撤退したために酷く戦力としてはやせ細ったもののかろうじて次期作戦を行える戦力を残しました。



挿絵(By みてみん)

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