北西軍の僥倖23 一条の光明
モンデラーネ公軍が恐れていた解囲軍の追撃は思ったよりは低調なもので、襲撃は散発的で自分達が損害を出さないと判断しなければ攻撃を仕掛けてはこないようだった。
それでも襲撃を受ければ行軍は停止して数名の被害が出る。負傷者が歩けないほどの傷を負えば担架が増えて四名の担架担当の兵士を決めなければならない。
追撃隊は行軍間隔が伸びて部分的にでも少数になってしまった部分を襲撃してくるので、全体としては一番足の遅い者に行軍速度を合わせる必要があった。
元々道のない急斜面が次々に現れる山岳地帯の移動なので、襲撃がなくとも半刻(一時間)で二三十ペス(約三百六十メートル~四百八十メートル)などといういうそれこそ牛歩以下の速度になった。
モンデラーネ公軍を襲撃している解囲軍の小部隊の主力である王都貴族軍は捕虜情報からモンデラーネ公軍はほとんど手持ちの食糧を持っていないことを知っていたので、無理な攻撃をかけるのでは無く出来るだけモンデラーネ公軍の行き足を遅くさせて自壊させようという魂胆だった。
これはすぐにモンデラーネ公軍別働隊指揮官のドラヴィ準男爵も理解したが、対抗する有効な策はなかった。
ホフ湖北岸から一応のゴールであるホフ湖南岸までは陸路で直線距離五十リーグ(約九十キロ)である。
ホフ湖を水上移動した場合はこの距離を進めばいいが、陸路は真っ直ぐには進むことが出来ないのでその二割から三割は余計に歩かなければならない。
それから計算すると一日に十二時間歩いても走破するのに四日から五日はかかる。
しかしモンデラーネ公軍が携行している食糧は一日分である。ドラヴィ準男爵はこれを三日に引き延ばしてなんとか四日でホフ湖南岸まで走破するつもりだった。
ドラヴィ準男爵の脳内では現在行っている機動は撤退ではなくモンデラーネ公軍本隊へ合流して最後の一撃を北西軍に加えるための転進である。
撤退なら明確な期日より撤退する軍勢の保安をはかることに重点を置けばいいが、転進となると時間制限がある。
リファニア北部で合戦が出来るのは九月一杯というのが常識である。十月になればすでに冬が忍びよってきて日中でも気温は一桁で夜間には零下になる。
そして気温低下以上にやっかいなのが北東からの身を凍らす強風である。この強風のためにリファニア北部の樹木のほとんどがやや南西方向へ傾いているほどだ。
この強風は北極から直接吹き込んでくる季節風ともいう風で十月初旬から中旬にかけて吹き始める。この風には時に雪や霰が混じり地面は半分凍り半分が泥濘になる。中世段階の軍勢の軍装では心置きなく合戦するには手に余る天候である。
天候のことから逆算するとドラヴィ準男爵は九月二十日頃までにモンデラーネ公軍本隊に合流する必要があった。
それが現在の行軍速度であれば早くとも十月初旬になってしまう。
それ以上に問題だったのは、ホフ湖南岸から届くはずの食糧が届かないことである。元々モンデラーネ公軍別働隊がホフ湖北岸に到着した時点で幾ばくかの陸路で運ばれた食糧が届いているはずだった。
それが多少遅延していてもホフ湖南岸に向かう道筋で食糧を運んでくる輜重隊に出会えるはずだった。しかし二日ホフ湖西岸を南下しても輜重隊とは出会うことはなかった。
その理由は二日目の終わりに命からがら逃げてきたという輜重隊にいたモンデラーネ公軍兵士の報告で判明した。
解囲軍の追撃隊は身軽なことを利用して、先回りをして輜重隊を襲撃していたのだ。ホフ湖北岸からイルマ峠までの輸送は襲撃される可能性があるのでモンデラーネ公軍輜重が担っていた。
しかしホフ湖南岸から北岸までの陸路は徴発された農民を主体とする軍夫が担っていた。
これはホフ湖北岸からイルマ峠までの道程が荷を背負って歩くには困難を極めるルートであることと、頻繁に解囲軍の小部隊からの襲撃を受けるために軍夫を使用することができなかったからだ。
輜重隊の負担を軽減するために、その代役としてホフ湖南岸から北岸へのルートに軍夫が投入された。
(北西軍の僥倖17 秋霖の退避行 上 -補給線の戦い- 参照)
最初は相応の数の護衛の兵士が配備されていたが、イルマ峠から出撃してくる解囲軍の攻撃は一度小規模なものがあった限りだった。
ホフ湖西岸はイルマ峠からは五十リーグ以上離れるので解囲軍の根拠地からは遠方過ぎて活動することはないとモンデラーネ公軍では漠然と判断されていた。
そしてイルマ峠の最前線に一兵でも多く送るために、護衛の兵士は護衛というより軍夫が脱走しないように見張る程度にまで減らされていた。
ただ解囲軍は遠隔の地であり小部隊といえども相当の荷を担って進出しなければ意味のある活動ができないので襲撃こそ控えていたが、このルートを一ヶ月以上虎視眈々と狙っていた。
解囲軍から発した追撃隊は今までに無い補給部隊の支援があり、より身軽な状態でホフ湖西岸の地域にモンデラーネ公軍別働隊に先んじて進出していた。
そこにリファニアの慣用句で言えば、”バターを背負った小牛が、自ら肉屋の店先に現れたようなもの”のようにほとんど無警戒の数百の荷を背負った軍夫が現れた。
(第九章 ミウス神に抱かれし王都タチ 北風と灰色雲4 サンドリネル師匠の代理人 二 -フロランタン- 参照)
この襲撃部隊である五家の王都貴族家軍が連合した軍勢は百人を超えていたが、その五家とは王妃を出せる準王族といえる四大公爵家と現オラヴィ王の庶兄バッティルドルドのグルトヘリク男爵家である。
四大公爵家は五十八代リファニア王ワェルスサスの弟を祖とするスコプス公爵家、五十九代リファニア王トアイデアの弟を祖とするヴァスラオン公爵家、六十代リファニア王バスザラスの弟がアスパルト公爵、それに謀反人扱いになったトランテオン僭称王の系統だが、五十五代ダレン王の庶子の娘の血を引くマブラレン公爵家である。
これらの家は所領は少なくとも王都貴族では一等図抜けた家柄である。しかも準王家としては他の王都貴族に劣った働きは出来ないという意識もある。
この戦意は高いが扱いが面倒な家を統率するために選ばれたのが、当主がリファニア副王と称されることもある王領キレナイト(北アメリカ)総督というグルトヘリク男爵家である。
庶兄とはいえオラヴィ王が王位にある限り、グルトヘリク男爵家は王の兄の家であるから最も尊重されるべき家である。
またグルトヘリク男爵家が出来たときには、王立軍や王家官僚からかなり有能な人材が家臣として送り込まれていた。
そのグルトヘリク男爵家の経験豊富で有能な指揮官の下で完全な統一行動ができた襲撃部隊は、十数人ほどの護衛兵を瞬く間に始末してしまうと軍夫に荷を棄てろと武器で威嚇しながら言って森の奥へ奥へと追い払ってしまった。
抵抗させないために無武装で戦意の欠片もない軍夫達はそれこそ命からがらといった様子で深い森の奥に逃げ去った。
王都貴族家軍兵は進んで気の毒な立場に置かれた軍夫を害するつもりはなかったが、土地勘のないリファニアの森林地帯に闇雲に入っていけば森が人を始末してしまう。
王都貴族家軍がモンデラーネ公軍小荷駄隊を襲撃したのは片側がホフ湖に面した断崖の上といった場所だった。
この断崖の上に散乱した荷から自分達の食い扶持だけ抜き取ると、全ての荷はホフ湖に投げ込まれてホフ湖の魚の餌にされた。
そして数名捕らえた軍夫から後続に二隊が来る予定だと聞いたので、さらにこれを待ち伏せて始末してしまった。
これがモンデラーネ公軍別働隊指揮官ドラヴィ準男爵が期待した小荷駄隊が何時までたっても現れなかった理由だ。
ドラヴィ準男爵が聞いた報告は最初の小荷駄隊が潰滅したことだけだが、後続の小荷駄隊も襲撃されることは容易に想像できた。
すでに大半の兵士は携行した食糧を食べ尽くしていたがホフ湖南岸まではまだ四分の一も来てはいなかった。
ドラヴィ準男爵はこのままホフ湖南岸まで食糧の補給を受けられずとも行軍を続けるか、量は少なくとも川船による食糧の補給が期待できるホフ湖北岸まで一旦戻るかという選択を強いられた。
そしてドラヴィ準男爵の選んだのは行軍の続行だった。
ドラヴィ準男爵は手の平を返したかのように担架で運ばれる兵士、赤痢を発症して歩けなくなった兵士をその場において歩ける兵士だけで行軍を続けた。
歩ける兵士も次々と突然立ち止まると座り込んで動けなくなった。登山用語でいう”シャリ切れ”である。低血糖となって燃料切れの状態で筋肉が動かなくなり精神力では如何ともしがたい。
結果から述べると三日後にドラヴィ準男爵は約千弱の槍を杖代わりにしてよろめいて歩く兵士とともにホフ湖南岸に到達した。
イルマ峠に展開した約九千のモンデラーネ公軍兵士のうちホフ湖南岸まで下がれた兵士の半分がこの時にドラヴィ準男爵とともに下がった兵士だった。
そして残りの半分は先発隊として先に下がった二千のうちの約半数をやや越えた兵士だった。
どのような状態であれホフ湖南岸まで下がってきたのは二千強ほどである。
ホフ湖西岸に残された兵士を回収するためにホフ湖南岸から捜索隊と、ホフ湖北岸に食糧を再び届けるための小荷駄隊が編成された。
ただ軍夫の大部分は行方不明の状態で、よろめくように数名単位でホフ湖南に軍夫が帰ってきたが当面荷を担ぐなどということは出来そうにもなかった。
このためアヴァンナタ街道からホフ湖南岸までの補給を止めて、そこで荷を運んでいた軍夫で小荷駄隊を編成した。
明らかに軍夫はこの仕事を嫌がっていたので、なけなしの兵を百数十人ほど集めて護衛隊を組織した。
ドラヴィ準男爵が率いる軍勢のホフ湖南岸到着までも時折雨が降る天候ではあったが、リファニア北部は二日冷たい雨が降れば一日が曇天で時折霧雨が降るという状態になった。
また風も強まり出してホフ湖は常に波浪がたつ状態になった。こうなると平底の川船の航行は命懸けになる。
ホフ湖沿岸のウクレク・エラ村の漁船が海洋でも航行できそうな竜骨を持った構造になっているのは、春先と秋の荒れた湖面でも操業できるようにするためである。
篠突く雨の中をモンデラーネ公軍の捜索隊が進むと時折弩の射撃を受けた。そのために安全が確認できるまで前進は出来ずに、そのうちかなり遅れて出発した小荷駄隊が追いついてきた。
解囲軍の追撃隊はかなり集結しているようだったが、森林の中に隠れて射撃戦しかしかけてこなかったので正確な兵力は不明だった。モンデラーネ公軍の指揮官には襲撃してくる軍勢は数百という単位のように思われた。
これは当たらずとも遠からずで、ホフ湖西岸を再度北上するモンデラーネ公軍を足留めするために七百ほどの王都貴族家軍とそれをシェルパとして物資運搬で支援しながら後退時には援護部隊となる五百ほどの北西軍が展開していた。
これらの軍勢は皮肉なことにモンデラーネ公軍小荷駄隊から奪った食糧物資で当面は居座ることが出来た。
この王都貴族家軍は損害を出してまでモンデラーネ公軍と戦闘をしようとはせずに、ゆっくりと後退した。
ただし警戒を解くと神出鬼没の敵勢がしばしば接近するために、モンデラーネ公軍は一日に三四リーグ程しか進めなかった。モンデラーネ公軍が進むにつれてモンデラーネ公軍兵士と時に軍夫の死体が発見された。
戦闘で命を落とした者は少なく、ほとんどが動けなくなった所に冷たい雨に打たれて死んだようだった。
虫の息の兵士が二人いて食べ物を与えればなんとか歩けるような者は敵勢が連れ去ったということを告げて死んだ。
五日ほど遅々とした前進を続けたモンデラーネ公軍の捜索隊と小荷駄隊は突然攻撃を受けなくなった。
そしてモンデラーネ公軍捜索隊と小荷駄隊は後方から総撤退という命令を受け取った。
すでに十月は目の前であり、いつ冬が到来するかわからない時期である。
後髪をひかれる思いでモンデラーネ公軍が後退を始めるとホフ湖北岸の方向から二人の兵士がやってきた。
二人とも全ての装備を棄てて丸腰という状態で、人間がここまで痩せさらばえて動けるのかという様子だった。
彼等の話ではドラヴィ準男爵達が出発して数日はそのうち届く食糧を当てにして秩序も保たれて、警戒はしていたが追撃隊の攻撃もなかった。
しかし待てど暮らせど食糧は輸送されてこずに、とうとう全ての食糧を食い尽くしてしまった。
そこでドラヴィ準男爵達を追ってホフ湖南岸を目指そうという者と、体力の消耗を避けて動かずにここで食糧を待とうという者達に指揮官を含めて分かれた。
比較的元気な者が中心になりモンデラーネ公軍別働隊の副官が率いる千ほどが順次ホフ湖南岸を目指しだした。捜索隊に救助された二人も最初はこのグループだった。
ところが体力差が顕著にあるのと、すでに百人隊や半隊としての統制が崩れて直接の上官のみに従うような態勢になっていたために隊列は細かく分裂した。
そこに羊の群れがバラバラになるのを待っていたかのように追撃隊が攻撃を加えてきた。
組織的な抵抗は出来ずに多くの兵士は命からがら森の中に追われるか、或いは苦し紛れに断崖からホフ湖に飛び込んだ。そして残余が這々の体でホフ湖北岸へ逃げ帰った。
救出された二人は森の中に逃げ込んで追撃隊をやり過ごした。方向を見失いそうになりながらもこの二人が元のルート近くに戻ってこられたのは、小荷駄隊の護衛として三回ホフ湖西岸を歩いていたことがアドヴァンテージになったからだ。
二人は八日間に渡って夜明けにホフ湖に接近して方向を見定めてから、できるだけホフ湖から離れた森の中を夜明けと夕刻の薄明時だけ行動した。
この二人が八日間も行動できたのは彼等の装備していたレザーアーマーのおかげだった。
彼等は短刀で皮革を鰹節のように削り出すと、それを水に半日ほどつけて多少とでも柔らかくしては食べた。
もちろん合成皮革は食べることはできないが、天然素材であっても現代の皮革製品はクロムといった重金属で鞣してあることが多いので食用にするには有毒で問題がある。それに対して中世世界リファニアの皮革製品はすべて天然の素材で鞣されるので、味さえ我慢できれば口にすることは可能である。
*話末注あり
モンデラーネ公軍の兵士の甲冑はラメラアーマーかチェインメイルが主体であり、皮革は接合部分の一部にしか使用されていないが、救出されたのは主に伝令を行う兵士で軽いレザーアーマーを装備していたことが命を繋ぐことになった。
この三日後に解囲軍の追撃隊を振り切る任務を遂行したマセバルス男爵の軍勢がホフ湖南岸に引き上げてきた。
マセバルス男爵の軍勢は負傷者や戦病者を一人も残さずに帰還してきた。これは災厄続きのモンデラーネ公軍にとっては一条の光明のように思えた。
この後九月二十七日にモンデラーネ公軍がホフ湖南岸から完全に撤退する日までに、三人のモンデラーネ公軍の兵士と十一人の軍夫がなんとかホフ湖南岸にまで辿り着いて救出された。
ホフ湖北岸に残ったモンデラーネ公軍の二千数百人の兵士のうち翌年の雪解けを待ってホフ湖北岸で北西軍が見つけた死体は二百ほどで、ほとんどが餓死か衰弱死だと思われた。
残りの兵士の死体はほとんど発見出来ず、深い森林に飲み込まれたとしか言いようがなかった。
すなわち輜重隊を含めた最大兵力一万三百(輜重隊は千)のモンデラーネ公軍別働隊でホフ湖南岸まで下がってこられたのは九月まで残存していた六千九百(このうち輜重隊は九百)のうち先発隊二千のうち千二百、本隊は四千九百でドラヴィ準男に従って先に下がった輜重隊七百を含めた二千七百のうち二千二百(このうち輜重隊は六百)、そしてマセバルス男爵七百のうち六百の合計二千八百だった。
すなわち輜重隊を除く損耗率は六十七パーセント強になる。近代軍でいえば師団規模の軍勢であるから全滅寸前の壊滅と判定されただろう。
捕縛された兵士は合戦のすべてを通じて六百三十人で、このうち四分の三はモンデラーネ公軍の撤退行動中に捕縛された者である。
すると差し引き命を落とした者は輜重隊を除く第一線兵力の兵士ではおよそ六千三百となる。
そしておそらくこのうちの五分の三程度は分類上は戦病死である。モンデラーネ公は他の地域からの兵力転用をせずに機動的に常時使用可能な一万二千から一万三千の兵力のうち、実に半分をイルマ峠を巡る戦いで失ったことになる。
さらにモンデラーネ公軍は兵士以外にホフ湖西岸の輸送に投入された軍夫二千四百人のうち約千七百人、ホフ湖の湖上輸送に動員された船頭役百八十人のうち百四十人という被害を出している。
これらの軍夫や船頭は支配下の領主から出させたもので、その分領主の経済力の基盤を奪ってしまったということである。
さてドラヴィ準男爵とともにホフ湖南岸に達した千六百のうち当面養生の必要な三百を除く千三百と体力の回復を待って留まっていた先発隊の五百の合計千八百はホフ湖南岸で一日ほど休息すると、さらに八十リーグ(約百四十キロ)先のモンデラーネ公軍本隊に合流するために再び行軍を開始した。
もちろん並の速度では行軍できず一日に十リーグ(約十八キロ)ほどを這うように前進した。
ところが五日目にアヴァンナタ街道とバセナス街道の合流点までくると、モンデラーネ公軍本隊から現在位置で停止せよとの命令が来た。
そこで三日留まっていると、モンデラーネ公軍本隊がバセナス街道を通って後退してきた。
モンデラーネ公はドラヴィ準男爵を本陣に呼び出すと「貴公に預けた余の軍勢の残余はいつ到着する」とドラヴィ準男爵に聞いた。
ドラヴィ準男爵は両膝を折って「今回の不首尾は全てわたしの責任です」と言って短剣を抜くと自分の首に突き立てようとした。
これは護衛の兵士によって止められた。この一連の動きをじっと見ていたモンデラーネ公は「責任を取るというのならこれから貴公が引き連れてきた軍勢を率いて本隊が撤退を完了するまでここで殿を務めよ。そしてカルヤニーネ(ローゼン州にあるモンデラーネ公の本拠地)に帰還したのなら詳しい顛末書を提出せよ」と言い残して本陣を去っていった。
モンデラーネ公自身はイルマ峠城塞の奪取に失敗した上に想定を遙かに超えた数の援軍がイルマ峠に現れた時点で、モンデラーネ公軍の主力を結集した別動隊が拘束されてしまい今回の戦役が失敗したことを悟っていた。
本当ならここで戦役を打ち切って、土地自体には価値がない荒れ地だがアヴァンナタ州南端を占拠して勝利を喧伝するべきだった。
それでも自分が率いる本隊の働きで逆転できるかもしれないと思い、見込みの薄い戦いを延々と続けてしまったことが最終的にモンデラーネ公軍別働隊が壊滅的な損害を受けた理由であることもモンデラーネ公は理解していた。
しかし絶対君主として己の非を認めることが出来ないモンデラーネ公は自身の苛立ちもあってドラヴィ準男爵に理不尽な言葉を投げかけてしまった。
モンデラーネ公による実質上の本拠地への帰還命令が発せられたことで、名実ともにオラヴィ王九年の北西戦役は終焉した。
注:リファニアの鞣し
当初リファニアでは動物の脳漿を皮の鞣しに利用するか燻製によって鞣しを行っていました。
それがヘロタイニアから伝わったヨーロッパクリから得られたタンニンで鞣すようになります。
ただ何故かヨーロッパクリはリファニアの南西部の極一部と南東部にしか根付きませんでした。
このためにリファニア南東部がヘロタイニア人の勢力圏に落ちると、古い時代にイス人がキレナイト(北アメリカ)から移入したアメリカクリが用いられるようになりましたがヨーロッパクリと比べるとやや鞣しに手間がかかります。
アメリカクリはリファニアの気候風土に合ったのか、北部以外の地域では現在では広く見られて南部では自生しています。
また百年ほど前からはバルナイト(南アメリカ)から南アメリカの優れたタンニン供給の樹木であるケブラッチョから得られたタンニンが輸入されるようになりました。
リファニアの武具は大西洋沿岸では定評がありますが、それには優れた鞣しの技術も一役買っています。
注:戦病死
近代以前の戦争では戦闘における戦死者よりも戦病死者が多くなることは珍しいことではありませんでした。
劣悪な居住環境による不衛生な状態では容易に伝染病が発生して、感染症に対する理解が不足していることから十分な手当ても受けることが出来ずに軽傷でも命にかかわる状態になります。
十九世紀後半の南北戦争では北軍は十一万の戦死者に対して二十三万(事故死も含む)の戦病死者、南軍は九万の戦死者に対して二十万の戦病死者を出しており戦死者の倍を超えています。
日清戦争では日本軍の戦死者は千百三十二人ですが、戦病死者は一万千八百九十四人と戦死者の十倍となっています。
これが近代以前となると兵籍簿などがないため、まったくの推計でしか算出できません。また役にたたないと思えばお役御免として合戦の期間が長くなればなるほどカウントされない膨大な戦病死が出たと想像できます。
次話と次々話は章末にある閑話です。祐司とパーヴォットの冒険譚をテンポよく読みたい方は「第十八章 霜を踏みゆく旅路 ベルンハルド将軍1 王宮の密議と騎兵誕生秘話 上」へお進み下さい。
北西戦役の話はこれで一段落です。モンデラーネ公は前年のドノバ州侵攻でバナジューニの野で喫した初めての明確な敗北が終わりの始まりである前奏曲であり、今年の北西戦役の敗退が終わりへ向かう間奏曲であったことを神々ならぬ身ですから知るよしもありません。




