尖塔山よりの脱出5 降下三日から四日目早朝
祐司が目を覚ますとすでに外につづく岩の割れ目から太陽の光が差し込んでいた。祐司は明らかに寝すぎた失敗を後悔した。残りの食糧から考えてできれば今日中に、山の麓近くにある森に到着したかった。
祐司は急いで残った一個の不思議パンを半分食べた。ペットボトルの水を二口ばかり飲んでから、新たな水を補給しようと岩の割れ目を探った。昨日、降ってきた岩穴は、あちこちから水がしみ出ていたり、かなりの水量が岩の窪みに溜まっていたから少しばかりの水なら手に入ると祐司は思っていた。しかし、見事に岩は乾いていた。
大蛇が出て来た穴の奥には水が溜まっているはずだが、祐司はそこにもどる気にはならなかった。
岩の割れ目から頭半分を外に出して辺りの様子を見てみた。ほぼ垂直に近い岩壁が十メートルばかり小さな岩のテラスまで続いている。祐司は一日目にしたように慎重に岩にロープをかけると降下を始めた。岩に腹ばいになるような格好でロープを頼りに少しずつ降っていく。
岩は太陽に熱せられてか酷く熱い。岩のテラスについたころには祐司は全身から汗が噴き出るような状態だった。
祐司は急いでパーカーと防寒用に着込んでいたトレーナーをリュックサックに畳んでしまい込んだ。それから汗で少しばかり湿った薄手のネルのシャツを脱いでリュックサックに巻き付けた。そのまま乾かそうという魂胆である。
半袖の下着一枚になった祐司は再びロープをかける岩を探すと再び慎重に降下を行う。大分、慣れてきたのか当初の倍ぐらいの早さで次の岩棚まで降りた。しかし、最後の数歩は手は汗で濡れてロープを掴むのが少し難しくなった。祐司は手ぬぐいで何度も手を拭くと軍手をはめた。
祐司は喉が渇きを感じたが、手持ちの水を考えてもう一つ下の岩棚まで我慢することにした。
祐司は生来自分の力量を過信することがなかった。そして、より慎重にもう一つ下の岩棚につくとようやくリュックサックからペットボトルを取り出して一口だけ水を口に含ませた。そして、どこかの映画で見たように水を噛むようにして少しずつ飲み込んだ。
祐司が二回ほどロープを新たな岩にかけて降下をすると、いつの間にか霧が出て来たのか周囲の視界が悪化していった。
太陽が隠れたにも関わらず、気温は低下するどころか暑苦しさは増していった。
祐司は手袋を脱いでじっとしていても手の甲から汗が噴き出るのを眺めた。頭からの汗が眉毛を伝わって目の辺りにも落ちてくる。
祐司は頭にタオルをまいて汗避けにした。そして、再び岩にロープをかけると降下を始めた。
何度か、汗でロープを掴み損ねそうになりながらもようやくやや広い岩棚に足をつけた。大量の発汗は水を節約するという選択を祐司から奪っていた。かなりの量の水を定期的に補給しなければたちまち脱水症状におちいるだろう。
祐司は我慢できずにペットボトルに入っていた残りの水を半分ほど飲んだ。
祐司は人心地をつくと、妙なことに気がついた。暑霞ともいえる濃い霧のような物は祐司の周囲数メートルばかりはまったくないか、非常に薄いのである。まるで、霧の壁に囲まれているようである。
祐司が移動すると霧の壁も祐司を避けるように移動する。常に祐司の周囲だけに霧が侵入してこないのである。
そして、暑さも大気からではなく暖められた岩からの輻射熱であることに気がついた。岩を熱する霧の中は想像もできない炎暑と湿気に満たされているに違いない。
祐司はこの現象を理解できるほどの知識はなかった。ただ祐司にとっては幸運な現象においても岩が発する熱を防ぐことはできない。祐司の汗のしたたりは途切れることがない。
体感温度は四十度を超えているかもしれない。この環境では、数時間しか動けないだろうと祐司は思った。
水を飲み人心地ついた祐司は岩に背をついて座り込んだ。霧は益々濃くなりロープを下ろした先がようやく判別できるほどになった。
祐司は再び気力を振り絞って、微かに見える次の岩棚を見定めると。岩にロープをかけて降る。最後の頼みの綱の革袋から水を飲んだ。
そして、また岩にロープをかけては降る。祐司は昨日までと同じようにその作業を淡々とこなした。
祐司は霧の中に何かがいるのに気がついた。
時々低く重たい羽ばたき音がけたたましい羽ばたき音に変わったと思うと、小さなネズミほどの大きさの黒い影が一瞬霧の中で祐司の背丈ほどの高さを飛んでいるのが見える。それは霧の壁から出てくる直前に反転するように飛んでいるようだった。
音と一瞬見せる影の外観からして虫のようである。複数の影が短時間に異方向から現れることからかなりの数が飛び回っているようである。目が光るのか小さな青い光が霧を通して見えた。
当面の危険性はないと判断して祐司はできるだけこの影には気にせずに降下を続けた。何時間かして幸いに今までほぼ垂直に近かった岩壁に微かだが傾斜がかかるようになってきたことに祐司は気がついた。
ただ、気温は益々上がってきた。祐司は暑さで休息が休息にならないので停まることなく、今では数メートル以上先は何も見えなくなった視界のなかで短めにロープを繰り出しては少しずつ降った。
祐司は何回かロープを省略して岩を直接降ろうかとも思った。それは自分の焦りであり、結局は安全を確保しながらロープを利用した方が早く降下できるのだと自分に言い聞かせた。
突然、岩壁までの幅が十メートルほどの細長く左右に延びた砂地にたどり着いた。辺りは薄暗くなってきた。祐司はここで決断に迫られた。
危険を冒して暮れゆく道なき山を下るのか。残り少ない水を頼りにここで一夜を過ごすのかである。
しばらく、躊躇した後に祐司は一夜の停滞を受け入れた。
そうして、祐司は腰を砂地に下ろした。尻に堅いものが当たった。木の枝でもあるのかと思ってその堅いものを取り上げた。
骨である。
一握りでようやく持てるほどの太い骨である。乾ききっているが、人の大腿骨に違いない。祐司はそっとそれを地面に置いた。
そして、周囲の砂を少しかき分けて見た。手の先が堅い物に当たる。恐る恐るその堅い物を埋めている砂を取り除く。
予想していたが、やはり出てきたのは頭蓋骨だった。完全に骨になっているので不思議と恐怖感はなかった。
祐司は頭蓋骨と大腿骨を砂に埋め戻した。
結局、昼食をはぶいた祐司は、最後のパンを一切れを少しづつ囓るようにして食べた。そして、自制心を最大限に働かせて革袋の水を二口飲んだ。もう革袋の水は数口ばかりしか残っていない。
祐司ははっきりと死の影を意識した。明日は普通に動けるのは半日ぐらいだろう。それまでにこの灼熱地獄から逃れない限り脱水症状で動けなくなる。
祐司はリュックを枕に三日目の夜を待った。じっと仰向けになって寝転んでいると、羽音のような音が聞こえてくる。
しかし、祐司は今日までの体験ですっかり「肝が据わった」ことと、体力的な限界から微睡み始めた。暑さで寝苦しいため何度も夢を見ては目が覚める。一度だけ我慢できずに革袋の水を一口だけ飲んだ。
祐司は暑さのためとうとう夜中過ぎに寝るのを諦めて夜明けまで待つことにした。じっとしていても額に汗が滲む。依然として羽音が低く響いている。
祐司は漆黒の闇に抗しかねて時々ペンライトを点灯した。そうすると、羽音が大きくなり一斉に虫たちが近づいてくるようだった。あまり騒がしくなると祐司はランプを消した。
何度かランプを付けたり消したりしているうちに辺りは明るくなってきた。
辺りが完全に明るくなると砂地の広いテラスを少しばかり歩き回った。相変わらず祐司の周囲に霧の壁、いや頭上も覆っているので霧のドームが祐司の移動にしたがって動く。
地面には所々に昨日見たような人骨が散らばっていた。少し歩いただけで人骨は人数にして二桁になるだろうという量であった。
骨の主であったろう人物達の遺留品もあった。金属製の籠手やぼろぼろになりかけた鎖帷子、錆びて朽ちてしまった剣、穴のあいた何かの大きな動物の骨でつくった水筒らしきものもあった。
骨董品のような品物からして数百年ほども過去の遺物に違いないが、不思議なことにそれほどまでに古びた様子はなく、どれもがほぼ原形を保っていた。
祐司は砂地の縁に行って下を覗き込んだ。霧は下に向かっては薄くなっており数十メートルほど下まで見えた。
傾斜は七十度くらいだろう。もっとも垂直も七十度も上からみればほとんど違いはないが、祐司は今日までの経験から着実に傾斜が緩やかになってきていることがわかった。
祐司は革袋の最後の水を飲んだ。
小さな岩の割れ目や足場があちこちにありロープなしでも降りられそうだった。目的地もそんなに遠い筈でもないが、祐司は岩にロープをかけて降下する方法を最後まで守ることにした。
自分でも気がつかない以上に体力は消耗している筈であるし、一人ではどんな小さな怪我でも命取りになる恐れがあるからである。
皮肉にもこの慎重さが仇になった。
降り始めてロープを四回ほどかけ直したところで霧はすっかり晴れた。虫の羽音も聞こえなくなり。鳥の声が懐かしげに聞こえてきた。気温はすっかり低下して下着姿では風が吹くと肌寒かった。
山頂から見えていた森はすぐ眼下にあった。灌木も斜面に生えており傾斜も六十度ほどになった。祐司は灌木にロープを通した。もうロープの先端は森の平らな地面についていた。
祐司は体重をロープに少しかけた。
その時、体が少し宙に浮いた。とっさにロープが切れたことがわかった。
祐司は手で落下を止めようと、岩や灌木を掴もうとした。傾斜が緩やかになっていたため落下というより斜面を滑り落ちるように降った。傾斜が四五十度になったところでようやく祐司は止まった。
左足首に激痛が走った。祐司はしばらく歯を食いしばって痛みを堪えた。少し痛みが弱くなると体を仰向けにして滑り台のように手と尻で斜面を制動しながら森の中に滑り込んだ。
祐司は人心地をつくと靴を脱いで痛みのある部分を触ってみた。幸いにも骨は折れていないようだった。祐司は靴紐を少し緩めて靴をはき直した。そして手近にあった枝を杖代わりにして立ち上がった。
祐司は降りてきた岸壁を見上げた。数十メートル上から霧が山を覆い隠していた。
森の中に獣道があり祐司はゆっくり進んだ。ともかく水を確保したかった。すぐに小さな広場のような場所に出た。
女がいた。
「オレ、どこに来ちまったんだよ?」祐司はそういいながら跪いてしまった。
目の前の女は白い後光が差していた。
「尖塔山」
常は霧に覆われており、このように全容を見せたのは祐司がリファニアに姿を現した日だけである。