北風と灰色雲21 十二所参り 十五 バシバルニア女王の生涯 下
十二所参りの二日目、祐司一行は、”サリ湖亭”で、夕食に負けない美味い朝食で腹を満たすと、アンマサリクの街を出た。
十二所参りのうち、本命であるフェラスベム神殿を含めて、初日は五箇所の神殿を参拝したことになる。
二日目は、サリ湖の西に位置するペルス湾沿いにある二箇所の神殿をまず目指した。
最初の神殿は、ペルス湾の湾頭に位置するデルモ神殿である。
湾頭にあるジャピス山山頂に位置するデルモ神殿は風光明媚な神殿である。この神殿から見るペルス湾の風景は、バシバルニア女王のお気に入りで夏季はしばしば離宮がわりに滞在したと伝えられている。
もっともバシバルニア女王のことを快く思わない、同時代の人間に言わせると、王都では人目があるので、清貧運動の中心神殿であったデルモ神殿を度々訪れていた大神官パレルヴォと逢い引きをするためにバシバルニア女王もデルモ神殿に通っていたと言う。
その不義の罪でバシバルニア女王には、子ができなかったと書かれた書物さえある。
少女期に家庭教師をしていたパレルヴォを、バシバルニア女王が憧憬を持って接して、パレルヴォの言うことなら少々無理なことでも聞き入れていたことから出た噂で、清貧運動に懐疑的だった貴族領主や神官達の中傷に端を発している。
歴史的な事実で言えば、バシバルニア女王とパレルヴォがデルモ神殿に同時に滞在した記録はない。
都合の悪いことであるので記録に残っていないというのが、さらに信憑性があると言う者もいるが、そんなことを言えば信頼できる記録など皆無になる。
事実だけ言えばデルモ神殿には、滞在のお礼を兼ねてバシバルニア女王が奉納した絵画や工芸品が伝わっている。
「旦那さん、馬車はここまでです」
サトスコが馬車を停めた。
馬車を降りると、なんとか馬車で行ける道は終わっていて、先は所々に階段がある山道である。
「半リーグもしないうちに、デルモ神殿に着きます。馬車は行けませんが、歩きにはちょうど良い道です。危ないような場所もありません。
わたしはここで馬車の番をしています。もし万が一、暴漢が出れば角笛を吹いて下さい。すぐに駆けつけます」
サトスコは、馬車を道の端に寄せながら祐司に言った。
「そうですか、では、よろしく頼みます」
祐司は、そう言ってサトスコ以外の三人とデルモ神殿の方へ向かった。
出発して、最初のカーブを曲がると目の前に、デルモ神殿がのしかかるように見えてきた。
「バシバルニア女王は、苦しくなると色々と理由をつけて、デルモ神殿に籠もったそうです。時に晩年は、一年のうち半分をデルモ神殿で過ごしたような年もあったようです」
ヘルヴィが間近に迫ってきたデルモ神殿を見上げて言った。
「タラシコットと後継ぎの件で大変だったのでしょう」
マメダ・レスティノが、ちょっと知ったかぶったように言う。タラシコットとは、現在は、ヘロタイニア(ヨーロッパ系)人が占拠しているリファニア南東部沿岸地域の総称である。
リファニア南東部沿岸をヘロタイニア人に占拠されることを防ぐことは、バシバルニア女王の時代ならそう難しいことではなかったが、バシバルニア女王は何の手も打たなかった。
「大神官パレルヴォは、バシバルニア女王が四十歳の時に亡くなりました。亡くなった時は大神官パレルヴォは五十三歳です。大きなことを行っただけに心労も大きかったのでしょう。
大神官パレルヴォがせめて後十年ほど生きていれば、バシバルニア女王はその言に従って賢い選択をしたでしょう」
ヘルヴィは、そう言って少し溜息をついた。それから、気を取り直したように言った。
「でも、バシバルニア女王は神殿を世俗から独立させるのに力を入れました。そして我々に多くの素晴らしいモノを残してくれました。貴重な文献が散逸することを防いでくれたのもバシバルニア女王なのです」
バシバルニア女王は他のどの王よりも貶されることもあるが、他のどの王よりも誉められることもある不思議な女王である。
祐司達は馬車を使ってきたので、途中で何組かの巡礼を追い抜いていた。そのこともあってか、日が昇ってきたばかりのデルモ神殿は、他の参拝客はいなかった。
「神像に、わたし達だけで参拝するとはもったいないですね」
参拝が終わったパーヴォットが言う。
「神々は、一人が祈っても、一万人が一度に祈ろうが、聞き届けてくれることに差はありません。それより、もう少し早くくれば、朝の勤行を見学できたかもしれません」
ヘルヴィは、荘厳な雰囲気の中で行われるという、デルモ神殿の朝の勤行を見損なったのが残念そうである。
「さて、参拝が終わったところで、宝物殿へ行きましょう」
ヘルヴィは気を取り直して、祐司達を宝物殿に誘った。
デルモ神殿には、バシバルニア女王が寄進した数々の宝物が収められているが、主に公開されているのは工芸品である。
特に、宝石をあしらった金細工や銀細工の品は、七百年の時を超えてもいまだに、昨日作られたかのような光を発している。
「ここの宝石は、主にタラシコットから、バシバルニア女王に献上されたモノです。タラシコットは、宝石が多く産出したのです。でも、ヘロタイニア人が大方掘り尽くしてしまったようで、今は宝石は産出しません」
ヘルヴィの説明に、パーヴォットがいつになく忌々しげな口調で反応した。
「悔しいです。ヘロタイニア人は泥棒で嘘つきで、その上に人殺しです。タラシコットの海岸から海に叩き落としてやりたいです」
「ジェルちゃんもヘロタイニア人だろう。パーヴォットもヘロタイニアの血を引いている」
祐司が諫めるように言う。ジェルはパーヴォットが気にかけている気立てのいい、ヘロタイニア人の少女である。
そして、現在のリファニア人には千五百年ほど前にヘロタイニアから渡ってきた人々の血が濃く混じっている。
(第八章 花咲き、花散る王都タチ 王都の熱い秋16 街角のヘロタイニア人少女ジェル 参照)
「いいヘロタイニア人もいます。だから、”ヘロタイニア人は一人ではいい人間が多いが、集団になると狡猾で残忍だ”って言うんですよね」
パーヴォットは、祐司に諫められても、真に何を諫められているのかはわかっていないようだった。
民族問題は、祐司の世界でもリファニアでも根が深い問題である。
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現在、リファニア南東部沿岸はヘロタイニア人が居住して、リファニア内の独立国のような形になっている。
このヘロタイニア人がリファニアに根をおろすきっかけとなった事件が、七百年前のバシバルニア女王の時代に起こった。
それまでも、少数のヘロタイニアからの移住はあった。少数なら、一世代か二世代で、リファニアは、ヘロタイニア人を同化でき、排他的な文化要素を持ったヘロタイニア人がリファニア全体の問題になることはなかった。
ところが、毎年、自ら数千という単位のヘロタイニア人を数年にわたり呼び寄せるという行為を行った者達がいる。
その第一は、タラシック・ノセ州の太守であり、さらに、タラシコットと呼ばれるリファニア南東部一帯を統べるタラシコット副王チャルデンである。
七百年前は、まだ広大で肥沃な中央盆地は、人口希薄で農民というよりも猟師や木樵、下手をすると開拓できる土地を探す探検家の世界だった。
それにひきかえ、リファニア南東部沿岸は、現在よりも温暖であり王都を有する南西部ホルメニアについで、開拓が進んでおり、南西部、南部に次ぐ人口を有してした。
南東部はスバックハウ王と王妃カリニカの時代に、偽王ベルホルディンを押し立てて叛乱を起こした地域である。
叛乱の失敗により、叛徒を主導した三人の太守は、一人は戦場の露になり、一人は自害、もう一人はヘロタイニアに落ち延びた。
そして、それぞれの家は改易となり、王都の本家も所領が没収されて爵位のない貴族となった。
さらに土着の部族長から発展した実質的な領主階級の多くは、叛徒に従軍した咎で荘園のように経営していた領地を召し上げられた。
これらの者で貴族階級の者は、無爵位ながら王都周辺に僅かな封土を与えられて王家に仕えることを条件に生き延びることができた。
リファニアの貴族が巫術に耐えるという生まれながらの貴族である由縁で、そうそう排除してしまうわけにはいかないという王権から見た理由がある。
貴族の血を引く人間は、リファニアの体制の中に組み込んでおく必要がある。野で勝手に新たな貴族集団を形成されても困るのだ。
千年以上前のスバックハウ王と王妃カリニカの時代は、まだ、郷士という階級は確立されていなかった。貴族に武力でつかえる、小作地持ちの郎党から郷士階級は生まれてきた。
ここまで、登場した郷士の様子や言葉遣いから読者の皆さんは、ヨーロッパの騎士や日本の武士の雰囲気を感じられたかも知れない。土地に結びついて武装した階級という面では、日本の武士の方に近い存在である。
ただしリファニアの郷士は日本の皇孫や中央の貴族家の末裔を、棟梁としてかついだ平安時代後期の武士階級よりも、発祥としてはより地域に根ざした戦国時代の国人やドイツのユンカーに近い。
偽王ベルホルディンの乱の後、南東部沿岸地域で仕える貴族を失った者達は農村に戻った。
支配者のいなくなった南東部沿岸に送り込まれたのは、スバックハウ王の時代は、王命を受けた高位貴族であった。
しかし野にもどった旧領主の郎等達は一定の小作地を経営する国人とも言えるような存在で南東部では彼等の力は侮れないものだった。
南東部沿岸でリファニア王が任命した総督が把握している地域は主邑ミレファ周辺をはじめ、全体の十分の一ほどでしかなかった。
その他の地域は土地に根ざした国人とも言える者が押さえ、年貢を徴収する権利を総督に認めさせて面従腹背といった様子であり、リファニア王としては統治が上手く行っているとは言い難かった。
そこで、今から八百年前の名君ネルガファサス王の子であるガファスダ王の時に、ガファスダ王の庶次男であるネルトンス公爵デモスティンが、南東部沿岸の没落貴族の娘を娶って、リファニア副王という肩書きで南東部一円を差配することになった。
リファニア王国でありながら、特定の地域をまとめて、王にかわって統治するという形からは、日本史で言えば室町幕府の鎌倉公方のような存在である。
このリファニア副王は南東部沿岸全体を示す地名からタラシコット副王という名称がついた。
さらに補佐役として、叛乱軍に加わらずに存続した数少ない旧領主のうち最大のタルエバノン家当主を伯爵に叙任した。そして、タラシコット宰相と言う職名を与えた。
また、南東部三州に加えて、東南部との結びつきが強い南部の東端のハスデナ州とチャフレ州を加えて、タラシコット五州とした。
これは、南東部の住民に、南東部が特別の存在であり、王都から直接支配されているのではないということを示すために行われた処置だった。そして、地元の名家を為政者の中に取り込むことで支配を安定させようとした。
またタラシコット副王にはタラシコット内だけで通用する、タラシコット爵位の叙任権が与えられた。
内々にこの爵位は分家まで行き渡るように広く叙任をするようにタラシコット副王には伝えられていた。
爵位を与えられた家は、大家の分家と言えども独立傾向が強くなることが経験的に知られていた。爵位を持った家が多くなれば勢力が分散されるだろうという算段である。
ただ、王都の人間が頭で考えるようにはいかない。
タラシコット副王の三代目あたりから、副王がタラシコットに居住せずに、王都で治世の大半を過ごすようになった。
タラシコットはタラシコット宰相家の勢力が伸張して、多くのタラシコット爵位を持った弱小な家を家臣のように支配しだした。そして、王都の人間が当初予想していた以上にタラシコットはリファニア内の独立王国のような地域になっていった。
各地の太守の土着が進行して、王権の弱体化が進み出した時期でありタラシコットだけが突出して、独立傾向が高かったワケではないので王都では、そう問題視されていなかった。
むしろいつもは王都で居住している副王が、何年かに一度タラシコットを訪れるときには臣下の礼を律儀に守るタラシコット宰相家は、王家に忠誠を尽くす姿として認識された。
タラシコット、リファニア南部にヘロタイニア人が入り出すのは、今から七百年ほど前のバシバルニア女王の時代からである。この切っ掛けはタラシコット宰相家が、相続争いから二つに分裂したことである。
六代目タラシコット宰相ファスラシャが亡くなった時には、幼少の長子しかいなかった。宰相を補佐する筆頭家老マヴァダセラは、子が成人するまで宰相代行に就任すると言い出したが、タラシコット宰相を輩出するタルエバノン家は、ファスラシャの弟であるファデルタを宰相に押した。
これがこじれて、タラシコット内を二分する争いに発展する。
結局は、数年間、小競り合いが続いた末に、久しぶりに王都からタラシコットに下向したタラシコット副王ヴォジャンの仲裁で、タラシコットを南北に二分して、ファスラシャの弟と長子を、南北のタラシコット宰相とすることで決着した。
これを切っ掛けにして、本来そうあるべきように、タラシコット副王ヴォジャンは、タラシコットの主邑であるタラシック・ノセ州のミレフェに宮廷を開いた。
ところが、タラシコット副王ヴォジャンの、従兄弟ヤビスデルネが、王都で、自分がタラシコット副王であると主張しだした。
タラシコット副王が,名目的な存在に成り下がっていたのが、タラシコット全土に君臨することになり、タラシコット副王の値打ちが上がったためである。
本来ならこのような主張は一蹴される筈であるが、ヤビスデルネの兄は当代リファニア女王バシバルニアの王配ロストルだった。
バシバルニア女王は前王ヴァハスが、晩年でようやく得た子で、異母兄とその子の急死で、急遽、後継ぎとなり、即位した時から中継ぎの女王であるとされていた。
そこで、王家の中で、聡明であると目されていた又従兄弟のロストルが王配となった。
バシバルニア女王は大神官パレルヴォを、強引な手法で支持したりはしたが、実質的な政治はロストルが担当した。
バシバルニア女王は政治にはおおむね無関心で、主に謁見や巡幸、そして文化保護と信心に心を砕く女性だった。
特にややこしそうな問題は、すべて王配のロストルに丸投げしていた。このタラシコット副王の問題も、ロストルに丸投げしたので、ロストルは自分の弟であるヤビスデルネの言うことに肩入れした。
理由は現在の王家に近い者が、タラシコット副王にふさわしいといういささか牽強付会に近いものだった。
これに、当時の実質的な王であるロストルの意見に賛同する貴族も現れて、一気に政治問題化した。
そこで、王都の貴族の間で妥協案として、タラシコット西部の二州を、ヤビスデルネに担当させて、タラシコット西副王とする案が出た。
この案はタラシコット副王ヴォジャンがタラシコット全土の統治を総攬するという条件で妥協した。
こうして、タラシコット五州のうち、タラシコット副王はアノマクシャ州、タラシック・ノセ州、タラシック・サルナ州を統治する。残りの二州のハスデナ州とチャフレ州をタラシコット西副王が統治することが定められた。
そのタラシコット副王、西副王を補佐して実質的な統治を行う、タラシコット宰相は南北に分かれていて、北タラシコット宰相は、アノマクシャ州、タラシック・ノセ州、及びタラシック・サルナ州の北半分、南タラシコット宰相は、ハスデナ州とチャフレ州及びタラシック・サルナ州の南半分を担当している。
すなわちタラシコット副王が統治を行うタラシック・サルナ州では、北部は北タラシコット宰相、南部は南タラシコット宰相の実質的な管轄下にあり、南タラシコット宰相は、二君に仕える状態である。
これでは将来問題が起きない方が不思議である。
それでも、名目上は女王バシバルニアが仲裁した形のタラシコットの統治は曲がりなりにも順調に運び出した。
当時はタラシコットの生産力が高く、豊かな土地で、人口も順調に増加していたので多少の不満があっても、それぞれが繁栄を謳歌することが出来た。
元の主邑ミレファに加えて、タラシコット西副王の宮廷があるハスデナ州のマルメも王都タチ、ミレファに次ぐ、リファニア第三の都市として発展した。
まだ、シスネロスがただの湿地だった時代である。
バシバルニア女王の即位二十周年、タラシコット副王ヴォジャンとタラシコット西副王ヤビスデルネの連名で多大な献上があり、女王バシバルニアは、それで、デルモ神殿を全面的に改修した。
祐司とパーヴォットが見学した数々の財宝は、この時代に南西部沿岸からもたらされたものである。
実際の問題は、タラシコット西副王が任命されてから、二代後のタラシコット副王チャルデンの時代に起きた。
タラシコット副王チャルデンは、王都との交易品は全てミレファを通じて行うという布告を出したのだ。
この理由は判然としないが、ミレファの商人達の要請とも、チャルデンが、交易の利を独占して、タラシコット内での立場を強化したかったとも言われる。
陸路と港湾都市ピスで王都との交易を行っていた、当時のタラシコット西副王マバクルムは、当然ながら反発し拒絶する。
これに対して、南タラシコット宰相マブルトは、自分が仕え補佐すべきタラシコット西副王マバクルムではなく、タラシコット副王チャルデンに賛同した。
当時タラシコット有数の都市ミレファは北タラシコット宰相が実質的に統治するタラシック・ノセ州にあるが、ミレファとその周辺だけは、タラシコット副王チャルデンの直接の統治下にあった。
実はタラシコット副王チャルデンは、北タラシコット宰相家の実質的な支配を脱却して、できれば、実質的に北タラシコット宰相家を家臣化することを狙っていた。
それが難しいと判断すると、南タラシコット宰相マブルトに南タラシコットは、南タラシコット宰相の独立した統治に、北タラシコットはタラシコット副王が直接統治をすることを持ちかけた。
その際は南タラシコットの産物は南タラシコット宰相の統治下にあるピスから王都に運ぶことを許可するとも約束した。
この密約に気がついたタラシコット西副王マバクルムは、すぐさま、タラシコット副王チャルデンから排斥されようとしている北タラシコット宰相ラスガストと盟約を結び、タラシコット副王チャルデンに対抗する。
ややこしい話である。タラシコット副王もタラシコット西副王も相手の最上位の家臣を寝返らせたのである。
ややこしいので、図で確認して欲しい。
タラシコット副王チャルデンの命を聞かないという理由で、南タラシコット宰相マブルトは、タラシック・サルナ州の南半分の主な都市と城塞に兵を入れてタラシコット西副王の統治は認めないと表明した。
これに対して、タラシコット西副王の軍勢が幾つかの城塞を攻撃することで、ついにタラシコットでの内戦が開始された。
南北のタラシコット宰相家は、双方とも、傭兵、もしくは奴隷兵としてヘロタイニア人部隊を組織しだした。これが、ヘロタイニア人がリファニアに入り出した切っ掛けである。
当時は、南東部はかなり温暖であったので、そこから得られる農産物、鉄、銅といったものがヘロタイニアに交易品として出された。
ヘロタイニアからは、対価として輸出できるものは人間しかなかった。
最初は、少人数のヘロタイニア人兵士が補助兵として、各部隊にばらまかれていたが、言葉の問題からすぐに、まとまった数のヘロタイニア人部隊が編成された。
そして、ヘロタイニア人部隊が使い物になるとわかると、さらなる効率化のために、部族単位での編成が始まった。
この時代に女子供も含む部族単位で、ヘロタイニア人を最初に、そして大規模に呼び寄せたのはタラシコット副王チャルデンである。
敵味方ともヘロタイニア人部隊がしだいに増えたきたが、奴隷兵や傭兵はまだしも部族単位で雇われたヘロタイニア人部隊は、相手のヘロタイニア人部隊と戦うことを拒否した。
そのため、タラシコットのあちらこちらで毎日のように繰り返される小競り合いは、お互いに味方のリファニア人部隊が、敵のヘロタイニア人部隊と戦うことになった。
こうなると、自軍のリファニア人部隊は、相手のリファニア人部隊とヘロタイニア人部隊を相手に戦えるが、ヘロタイニア人部隊はリファニア人部隊だけと戦うことになるので、相手方のリファニア人部隊を全力で壊滅させる方が有利になると気がつく。
相手にヘロタイニア人部隊しか残っていなければ、自軍のリファニア人部隊で牽制しておいて、自軍のヘロタイニア人部隊で相手方の策源地を思う存分荒らすことができるからである。
内戦が始まって三年で、タラシコットからは十万という、七百年前という時代を考えると途方もない数の難民が中央盆地の開拓地に逃れた。
さらに毎年のように万という難民が発生した。
現代の中央盆地の住民達の過半は、この時の難民の子孫である。
相手のヘロタイニア人部隊と戦うことだけは嫌がるが、それ以外は勇猛で、体格的にも大柄なヘロタイニア人を、リファニアに招き入れることを、タラシコットの支配者達は躊躇しなかった。
次第に戦費に窮するようになった、タラシコットの支配者達は農民が逃亡した土地を、給金のかわりにヘロタイニア人達に与えるようになった。
心ある者は、この情勢が続けば、やがてリファニアは、タラシコットを失うであろうと警告した。
もちもん、タラシコットの支配者達もその危険性は感じていたが、今は相手を打倒することが第一であると自らの目を閉じていた。
このタラシコット情勢に対して王都のバシバルニア女王は、当時リファニアでは高齢の六十代であり無為無策だった。
また、身内びいきがあるとはいえ、それなりの政治力を発揮してきた王配のロストルは、脳卒中の後遺症で半身不随の状態で意思疎通もままならなかった。
そして中継ぎの女王として、後継ぎの男子を産むことを期待されていたバシバルニア女王の産んだ女子は、五才になることなく夭折していた。
こうなると、次の王を誰にするかで、王都の貴族は派閥を構成して暗躍を始める。
誰もがタラシコットの情勢については、真剣に考えていなかった。
それでも女王の勅命による軍を派遣して内戦をバシバルニア女王の武威で収めようという試みはあった。
敵対する双方の軍の中間に位置して、鉾を収めよと言う女王の命を聞かない方を攻撃すると伝えるのである。
今でいう平和維持軍の発想である。
ただ、その為の費用が、バシバルニア女王の長年の悲願であった王立図書館の創立費用の執行を遅らせて捻出されると聞いたバシバルニア女王は、これを裁可せずに軍の派遣はうやむやになった。
文化芸術の保護者として、すでに名の高まっていたバシバルニア女王は生涯の決算として、王立図書館の創立を願っており、死ぬまでにその完成した姿を見たかったのだ。
この王立図書館は、各時代の公文書はじめ、当時、入手できたありとあらえる書籍に加えて、市井の劇団の使用していた台本や、楽士の譜面といったものまで保管されておりリファニア文化の伝承に大きな力を与えた。
しかし王立図書館の完成を急がせた、バシバルニア女王の決断に対する代償は大きかった。
王都とタラシコットとの間は王都からの勅命による停戦命令と、タラシコットからの相手方の軍勢が攻撃を止めないために停戦は不可能だというむなしい書簡の往復だけになった。
バシバルニア女王が崩御した後、リファニア王国は複数の王家が並び立つという異常な状態に陥った。
そしてその混乱が百五十年後におさまった時には、タラシコットはヘロタイニア人の居住地となっており彼等は新しい故郷をマルブと呼んだ。




