北風と灰色雲10 十二所参り 四 スバックハウ王と王妃カリニカ ①
祐司達はミガボルデ神殿と、王妃カリニカが建立したハギス神殿の境になっている木戸を通過した。
「もうここは、ハギス神殿の敷地です。ハギス神殿の祭神は女神ヘールベです。女神ヘールベを主神として祭っている神殿は珍しいです。
王妃カリニカは女神ヘーベルに戦勝を祈願して、神殿を建立する誓いをしました。この神殿の最初の礎は王妃自らが運んだのです。
でも、王妃カリニカが建立したハギス神殿は、ミガボルデ神殿の付属神殿でしかありませんでした。今のような神域を整え、壮麗な神殿を築いて独立した神殿にしたのは、息子のレキガセント王です」
ヘルヴィが博学なことを言った。
「王妃カニリカは、なにしろ女神ヘールベの化身ですからね。ちゃんとした神殿が似合います」
パーヴォットが嬉しそう言った。
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王妃カリニカは千百年ほど前の人物である。現代のリファニアから見て王妃カリニカは古代の王妃と言ってもいい。
日本で千百年前の有名な女性と言えば小野小町(生没年不詳 十世紀前半)があげられる。紫式部や清少納言は、まだ百年後の人物である。
王妃カリニカは小野小町のように、リファニアでも美貌の王妃として知られている。美人に対して”王妃カリニカもかくやと”といった表現がよく使われる。
美貌だけでなく、数多くの王妃の中でも十二代リファニア王スバックハウの王妃カリニカは特別な王妃である。
カリニカという名の王妃や王女は何人もいるが、カリニカと言えば、スバックハウ王の王妃カリニカのことを指す。
スバックハウ王は、王妃カリニカと結婚する以前は、やや軽薄な所があり、王都で浮き名を流すような王子だった。
ところがカリニカと結婚してからは、カニリカ一筋でカリニカが亡くなるまでは一人の寵姫をも置くことがなかった。
王妃カリニカは出自が特異である。前身は芸人である。正確には、当時は一般的だった神殿に奉納する踊りを披露する渡り巫女である。
この時代、種々の芸能人は、渡り巫女という名目で、信者から幾ばくかの金品を貰って神々に芸を奉納したり、豊作を祈るために芸をすることで生活する存在だった。
日本史で言えば巫女舞や、それから発展した白拍子などに近い芸能の形である。
また当時から今に至るまで、リファニアでは酒宴の後で請われるままに、身を売るようなことも当たり前のように行われている。
カリニカは、貴族の落胤とされる。母親が貴族の屋敷で舞を披露した後で、特に所望され抱かれた時の子ということである。
当時の女性の芸人は、しばしば男性貴族の相手をして、娘が生まれれば、また芸を教えた。
そして、その娘が、貴族に抱かれ子を産む、といったことは多かったので、女性芸人が貴族の血筋をひいていることはなきにしもあらずな事であった。
カリニカは、王都では有名な流れ巫女の一座の看板巫女であった。流れ巫女とは言うが、男性の構成員もおり、一緒に舞ったり、楽器演奏を担当したりする。また、リファニア万歳とも言うべき、おどけた小芝居を担当していた。
当時から王都中心にあるヘルゴラルド神殿で、舞っていたカリニカを見そめたのが、セリガス王の幕僚の一人であるトベロンウスである。
幕僚という役職は、現在のリファニア王国ではなくなって久しいが、王の側で種々の役職をこなすもので、現代のリファニアでは家老がこれに相当する。
違いは幕僚は、王から命じられた時々の仕事をこなすが、家老は財務や内政といった役割を与えらており大臣に近い存在である。
カリニカは、見事な黒髪に、澄んだような白い肌、そして海の青色のような虹彩で、男をして吸い込むばかりの魅力を持った美貌の女性であったと言われる。
幕僚トベロンウスは、一座からカリニカを身請けするような形で自分の愛妾にした。そして、カリニカが見込んだように貴族の資質があるとわかると、父親と娘ほど年の差のあるカリニカに種々の作法や言葉遣いを教え込んだ。
この時代には、ままあったことだが貴族の資質のある女性を見いだすと教育を与えて自分の一族の男性の嫁にすることがあった。
幕僚トベロンウスもカリニカに教育を与えて、そのうちに自分の甥の側妃、あるいは遠縁の男性の正妻にでもすればよいという考えであった。
数ヶ月後、トベロンウスの屋敷を訪れた第十代リファニア王セリガスの三男であるスバックハウ王子が、一目、カリニカを見て心を奪われた。
スバックハウ王子は、屋敷に日参して、カリニカを自分に譲ってくれるように頼み込んだ。
トベロンウスは、戯れに、正妻になさるのなら譲りましょうと言った。いい加減、毎日、スバックハウ王子がやって来るのを煩わしく思っていたからである。
ところが、スバックハウ王子は、それが自分の望むことだと即答した。
これにはトベロンウスが仰天した。いくら三男とはいえスバックハウ王子はれっきとした王族である。
困ったトベロンウスは、セリガス王に相談した。
スバックハウ王子が見そめたというカリニカという女性に興味を持ったセリガス王は、トベロンウスに、カリニカを王宮に連れて来させて自分で会ってみた。
そして、セリガス王は僅かの期間にカリニカが身につけた、話しぶり、行儀作法に驚いた。
セリガス王はまあよいではないかとスバックハウ王子とカリニカの結婚を許してしまった。
セリガス王がスバックハウ王子とカリニカとの結婚を許したのは、それまでのリファニア王位の形である兄弟相続をやめて、長子相続を基本としていくという考えに合致していたからである。
兄弟相続で王位が継がれたのは、軍事的な緊張が高く、幼少の王では王として必要とされていた軍事的な才を発揮できなかったからである。
しかし、時代は進み今日明日にリファニア王に戦いを挑んでくるような勢力は、リファニアにはすでに存在しなかった。
リファニア王の役目は、長期的に王国を安定させることに変わってきた。王国を安定させるには、なるべく一人の王が長期に渡って統治を行い、王位継承時にもめないことである。
セリガス王自身は第八代リファニア王エガサの次子である。
兄であるファス王が子のないまま死去して、セリガスが後を継いで即位した時には、弟のボメロがいたが、セリガスはボメロを説得して自分の死去した時に、長子が成人していたら王位を継がせると宣言した。
弟のボメロが説得されたのは、セリガスがボメロを王の代行役である宰相に任じると言ったからである。
ボメロはリファニア王国の初代宰相である。
セリガス王の長子テドは成人になったときに、リファニアで最初の王太子の称号を得た。
ただ、長子相続はまだ安定しているとは言えない為に、次男以下の王子が豪族勢力と結びついて王位継承時に内紛が起こる可能性はあった。
セリガス王からすれば三男のスバックハウ王子が卑賤の女性を妻とすることは、自ら王位継承を放棄したと言っているのと等しいのでむしろ好都合だった。
さらにセリガス王自身の正妃も小身の貴族の娘であり、父であるエガサ王の反対を押し切って結婚にこぎ着けたということもあった。
時代背景としては、リファニア王というものの存在が、まだ、領主連合の長という形を残していた時代であり、リファニア王は飛び抜けた存在という意識が低かったことと、多分、実質的な初代リファニア王である五代目リブラレル王自体が、元々、そう大きな領主ではなかった。
そのために、当時は王家と言っても堅苦しさの薄い家風であるということから三男なら好きにすればいいという感覚だった。
セリガス王の長男と次男はともに優れた資質を見せており、凡庸だと見られていた三男のスバックハウ王子に、セリガス王が、そう期待していなかったことも理由かもしれない。
ただ、伝説の類であるが、セリガス王は、そのころ、すでに名刹の風格を漂わせていたチュコト神殿に勅使を送って、スバックハウ王子とカリニカの結婚に関する神託を得たとされる。
その神託の内容は、”女神ヘールベは、王家の守護神なり。また、王家を王家たらしめるのは女神ヘールベなり。女神ヘールベの宿りし女を逃すべからず”という内容だったとされる。
幕僚のトベロンウスは、戯れに言ったことではあるが、約束は約束なので、カリニカを自分の養女にして、トベロンウス家からカリニカが、スバックハウ王子に嫁いだという形を取った。
この時、スバックハウ王子は二十四歳、カリニカは十九歳であった。
翌年、カリニカは、長子レキガセント、さらに二年後には、母親譲りの美貌の娘のマルジューデを産んでいる。
また、その翌年には次男フドバルド、さらにその二年後に三男リセルハルトを産んでいる。
この後も、二人の子を出産するが二人とも夭折した。しかし、成人した四人の子の血筋は、多くのリファニア貴族を生んでいる。
例えば、本文に出てくるバーリフェルト男爵の祖先は、地方に下り開発領主として力を付けて貴族として叙任されるが、初代バーリフェルト男爵は、当時は士爵であるがスバックハウ王の次男フドバルドの八代目にあたる。
バーリフェルト男爵家の家臣ヘルヴィが、王妃カリニカのことを「あのカリニカ王妃です」と嬉しそうに言ったのは、仕えるバーリフェルト男爵家が王妃カリニカの血筋であることが理由である。
カリニカは聡明な女性で、卑賤の出身とは思えぬ気品がありセリガス王と王妃ジュレムナはこの新しい嫁を大層気に入った。
そのおかげか、カリニカの養父にあたる幕僚のトベロンウスは、スバックハウ王子とカリニカが結婚して、三年後に、前年に亡くなった王弟ボメロの後を継いで、宰相の位を賜り、このころ病で思うように活動できなくなったセリガス王に代わって国政を司るようになった。
スバックハウ王子が、カリニカを正妻として迎えて七年後、父王セリガスが亡くなった。その後を、長子テドが、第十一代目リファニア王テドとして即位した。
ところが、これに対して、次男のダリユシャルが、自分の岳父である有力領主のホリマンユと組んで反旗を翻した。
ダリユシャルには、それまで、まったく反逆の兆候など見られず、兄王テドに忠誠を誓う賢弟という評判だった。
この反逆の正確な動機は、いまだに解き明かされていない。
当時は、精神疾患などの余程の障害がないかぎり、長子が王位を継ぐという形が確立しておらず、王は武威を示した者が手に入れる称号であるという時代の名残があったと説明するしかない。
一説では、宰相として出世をしたトベロンウスを、妬んだホリマンユが、ダリユシャル王子をたきつけたとされる。
そして、ホリマンユは、ダリユシャル王子を王にして、自分が宰相となりたかったとも言われている。
テド王が正式な即位の式を終えてその日の、夜半に、ダリユシャルは突如兵を率いて、王宮に侵入した。ダリユシャルは、テド王を家族もろとも殺害してしまった。
さらに、大領主ホリマンユの兵は、宰相トベロンウスの屋敷を襲った。不意をつかれた宰相トベロンウスは捕らえられ屋敷に人質として監禁された。そのために、それなりの数を持っていた宰相トベロンウスの手勢は手が出せなくなった。
十一代目リファニア王テド王の治世は、十代目セリガス王崩御の翌日に行われた仮即位から七十三日間で、歴代のリファニア王では最短の在位期間である。正式なリファニア王としては一日に満たない。
翌日、騒然とした王都で兄王テドを弑逆したダリユシャルは自分がリファニア王となったことを宣言した。
これに、断固抵抗したのが、スバックハウ王子である。いや、スバックハウ王子を説き伏せたカリニカである。
複数の年代記には、「王は尊き存在である故、王で御座います。力で奪っていいものではありせん。力で奪い取ったとたんに、手にいれた王位は尊き存在ではなくなります。今こそ王を尊き存在に戻すために、王を力ずくで手に入れた者と、リファニアの民に正義を示さねばなりません」と、躊躇うスバックハウ王子にカリニカが説いたと記されている。
王位を簒奪した次男ダリユシャルの最大の誤りは、中庸で気概にも乏しいと思われていた三男スバックハウ王子、そして、卑賤の身と軽蔑していたカリニカの存在を無視していたことである。
ダリユシャルは王位さえ手に入れれば、弟のスバックハウ王子などすぐに靡くはずであるとたかをくくっていた。
また、兄王の一族を皆殺しにするのであるから、スバックハウ王子の家族まで排してしまえば王族はひどく手薄になり、王家の弱体化に繋がるという考えもあったようである。
ところが、次男ダリユシャルの意に反して、一度、肝を据えた三男スバックハウ王子は素早く行動した。
スバックハウ王子は離宮に住んでいた母親で前王妃であるジュレムナを連れ出して、王都の民家に隠すと、わずかの手勢を率いて、まず、監禁されている宰相トベロンウスの屋敷に向かった。
宰相トベロンウスの屋敷の周囲では、トベロンウスの家臣達が切歯扼腕しながら屋敷を取り巻いていた。
スバックハウ王子は、十人ばかりの手勢だけを連れて、屋敷の門に向かった。そこで、誰何されると、「兄ダリユシャルより、宰相トベロンウスを死罪にするようにと命じられた。すぐに宰相のもとに案内せよ」と堂々とした口調で言った。
最初は、宰相トベロンウスの屋敷に立て籠もっている者達は、そのような命がないのでと門を開けるのを拒んでいた。
しかし、スバックハウ王子が、自分がその命を持ってきたのだと言い張りとうとう門を開けさせた。
スバックハウ王子と手勢は、宰相トベロンウスが監禁されている二階の部屋に行くと、案内役と警備役の兵士を、あっという間に始末してしまった。
すぐさま、スバックハウ王子は窓に駆け寄ると、屋敷を包囲していたトベロンウスの家臣達に「すでに宰相トベロンウスは我が手にある。しばし、我らで防いでいるので、手遅れにならないうちに逆徒を始末しろ」と叫んだ。
勇躍、宰相トベロンウスの家臣達は丸太で門を突破すると、屋敷を占拠していた大領主ホリマンユの手勢を瞬く間に始末した。
スバックハウ王子に救われた宰相トベロンウスは、すぐさま、王都に叛徒ありとの使者を近隣の領主に送った。
そして、自らの家臣が破壊した門を応急処置で修復させると、王宮の叛徒に備えて屋敷の防備を固めさせた。
それから、今も昔も王都第一のヘルゴラルド神殿から神官長を呼び寄せると、スバックハウ王子に仮即位の儀式を行わせて、第十二代リファニア王として即位させた。この時、駆けつけたカリニカも王妃になる儀式を受けた。
本来なら、ダリユシャル王子が、兄のデド王を殺害するのと並行して行う事であったが、ダリユシャル王子は、完全に王都を掌握してから、堂々と仮即位の儀式を行い、誰がリファニア王になったかを、王都の民衆に示すつもりだった。
それが、虚をつかれて、軽んじていた弟に即位されてしまった。
ダリユシャル王子は激怒した。そして、動かすことのできる兵を全て宰相トベロンウスの屋敷に送った。
宰相トベロンウスの屋敷にも、宰相トベロンウスの家臣以外に、前王テドに忠誠を誓う者が援軍として入っていたが、その数は五百ほどだった。
それに対して、ダリユシャル王子の軍勢は二千を超えていた。
激しい攻防戦が開始された。いくら屋敷という拠点によっているとはいえ、所詮は王都の屋敷であり、本来は軍事拠点ではない。
また、兵力差は如何ともしがたく、その日の夕方には、屋敷の敷地の半分ほどは、ダリユシャル 王子の軍勢に占拠され、主に屋敷の母屋を中心とした地域に、スバックハウ王子と宰相トベロンウスの軍勢は押し込まれていた。
宰相トベロンウスは、スバックハウ王に抜け穴から脱出して、海路逃亡するように勧めた。
スバックハウ王は、狼狽して、甲冑を脱ぎすてると、宰相トベロンウスに出来るだけ長く、敵勢を防ぐことを命じると、海路で王都を脱出する準備を部下に命じた。
その時、王妃カリニカがスバックハウ王の甲冑を着て、部屋に入ってきて堂々とした声で、スバックハウ王に次のように言ったとされる。
少し長くなるが、歴史書が伝える王妃カリニカが言ったとされる言葉を以下に記載する。
「リファニア王は、人であって人では御座いません。リファニア王はリファニアの統治を行うだけでなく、リファニアの国の象徴です。
わたしが愛するリファニアが正義が行わる国であるためには、正当なリファニア王の後継者が神々の祝福と、リファニアをリファニアたらしめているリファニアの国法を持って、リファニアの国土と民に君臨するリファニア王に即位しなければなりません。
リファニア王たる者は、リファニアの象徴ゆえにリファニアと分かちがたき存在です。王の死、そして、不当なる王位の継承はリファニアという国をも殺します。
リファニア王に忠誠を誓い、これを守護せんと命を落とす者は、王個人に忠誠を誓い王を守護するものではありません。
リファニアの象徴たるリファニア王を守護することで、我らが作り上げたリファニアに忠誠を誓い、リファニアの民が暮らすリファニアを守護せんがために命を捧げるのです。
リファニア王たる者は、自分の命を長らえる為に戦うのではなく、リファニアが長く神々に祝福された土地であるために戦うのです。
リファニア王たる者は、自身がリファニアであると覚悟を決め、神々が黄泉の国に受け容れて安息を与えて下さるまでは、我らの祖先が血を流し汗を惜しまずに築き上げたリファニアと、その民という重荷を背負って歩まねばなりません。
リファニア王たる者が逃げるのはリファニアを自ら滅ぼす時です。時にリファニア王はリファニアを守護せんがために、命を捧げることもあるのです。
逃げたいのであればお逃げになるがよろしい。わたしはここで死んでも本望です。ここで死ねばリファニア王妃として死ねます。
貴方はリファニア王として死にたいのか、それとも、王位を簒奪されたあわれな一介の亡命者として死にたいのかをお決めなさい。
もし、逃げるのであれば、わたしは自身の命にかえて、大恩ある貴方のために敵勢をここで防ぎましょう。
もし、リファニア王としてここに留まるのであれば、王として、リファニアを守護し、夫として、わたしめと、子供の命をお守り下さい」
王妃カリニカは、そう言うと、落ち着いた風情で椅子に座った。
この王妃カリニカの肝の座った言葉に、スバックハウ王は自分を取り戻した。
この王妃カリニカの言葉は、十代半ばまで無学文盲の女性であった言葉としては出来すぎている。
ただ、当時、英雄譚を語る琵琶法師のような、自称神官といった者が、リファニアの街々を流浪していた。
そのような者達が語っていた、今は失われた英雄譚の中の一節であるというのが一般的な見方である。
この王妃カリニカの言葉は、尊王攘夷思想が芽生えてきた現代のリファニアでは、よく引用される言葉である。
太古の王妃の言葉が、世情を動かしつつあることからも、王妃カリニカが特別な王妃とされる由縁である。
また、王妃カリニカが死去して、数十年後に書かれた書では、逃亡の準備を始めたスバックハウ王と宰相トベロンウスに、対して、有名な説得の前に、次のように言い放ったとされる。
「大貴族と人にかしずかれ、宰相まで登り詰められたお方は、この手弱女を愛妾として、毎晩、お抱きになりました。また、今、王となられた方は、わたしを妻として、毎晩、お抱きになりました。
そのお二人が、お逃げになるのなら、わたしは自ら敵の手に落ちて、無数の兵士に抱かれましょう。
どうぞ、かつての愛妾、かつての妻を敵の手に任せているスキにお二人で、お逃げになるがいい。
それが、わたしの貴方達への恩返しです。そして、王と宰相を自ら捨てて逃げるために、愛妾と妻であった女を捨て去る男だということを世に伝えましょう」
貴族の娘として生まれ、育ったような女性には言えない、激しい言葉である。
この言葉の後に、気が変わったと言って、甲冑姿になり、説得を始めたとされる。ただ、この恨みがましいようなこの言葉も後世の作という説が有力である。
ただ、筆者の異なる複数の書に類似の言葉があり、似たようなことを、王妃カリニカが言った可能性はあるだろうというのが定説である。
スバックハウ王は、まず王妃カリニカの甲冑を自ら脱がせると、王妃としての服装に着替えさせた。そして、自分が敵勢を打ち破る間、子を託すと王妃カリニカに言った。
スバックハウ王は、王妃カリニカと子供達を従えてバルコニーに出ると、眼下の叛徒に、大音声で「わたしは、神々の前で即位したスバックハウ王である。一度、ワケもわからないまま王を弑逆する手伝いをした者は許そう。
二度、王を弑逆する者は黄泉の国の周辺で永遠に漂え。そして、ここを攻める者はリファニア王と戦っていることを知るべし」と言った。そして、自ら戦場で王の本陣を示すワタリガラスの軍旗を家臣から受け取った。
スバックハウ王は、軍旗を王妃カリニカに渡して掲げさせた。軍旗を見た敵勢が唸るような声を出した。
「逆徒を成敗した者には恩賞を与える」とスバックハウ王は言うのを忘れなかった。
当時、王の軍旗は、ヘルゴラルド 神殿に預けられており、王や王子が親征する時のみ持ち出されていた。
軍旗は、王妃となったカリニカが、宰相トベロンウスの舘に駆けつける時に機転を利かせて、ヘルゴラルド神殿から持ち出していた。
ダリユシャル王子と大領主ホリマンユの手勢は戦意が高かったが、王家の家臣達はなりゆきで戦いに参加していた。王家の家臣達は、王の本営に掲げられる軍旗を見て一気に志気が萎えた。
この当時は、王家の家臣であれば、一生に何度か王の軍旗の下で、行軍し、戦ったことがある。その時に自分達が命懸けで守護していた軍旗に刃向かうことは躊躇われた。
ダリユシャル王子に殺されたテド王が王子の時に、幾度もテド王に率いられて行軍した老兵部隊が最初に寝返った。
彼等は、全て四十才以上の老兵だったが、戦場で何度も軍旗を持って自分達を鼓舞したテド王の姿を、矢が飛んでくるのも恐れずに、軍旗を王妃に掲げさせて演説するスバックハウ王に見たのだ。
老兵部隊が、スバックハウ王に寝返ったことで、他の隊も次々にスバックハウ王に寝返った。
しばらくは、ダリユシャル王子と大領主ホリマンユの軍勢は、数では勝るが統一した指揮系統を持たない寝返り軍勢と互角以上の戦いをしていた。
しかし、スバックハウ王が、軍旗を高く掲げて屋敷から出てくると、寝返り軍に宰相トベロンウスの手勢も加わり、一気にスバックハウ王側が優勢になった。
そして、城壁を占拠していたホリマンユの手勢から、宰相トベロンウスの呼びかけに応じた領主の軍勢が、王都に接近しているという情報が入った。
この情報でダリユシャル王子の軍勢は総崩れになった。スバックハウ王は、その勢いのままに王宮に攻め寄せた。
半刻ほどダリユシャル勢は抵抗したが、それだけだった。スバックハウ王側が王宮の門を打ち破り王宮に入ると、守備兵は抵抗せずに「スバックハウ王、万歳」と歓声を上げた。
すでにダリユシャル王子と、その岳父ホリマンユは、家族とともに逃走した後だった。




