オラヴィ王八年の政変26 ”オラヴィ王八年の政変”総括
この話は、祐司とパーヴォットには、直接関係のない話になります。
ランバリル子爵は、一日、猶予を与えられた後で、全ての領地をオラヴィ王に返納した。年に金貨三百五十枚という禄で、無役の宮廷貴族となった。
今までの収入の十分の一である。これでは家臣を養えないために、実に五分の四の家臣が解き放ちという名で解雇された。
そのうち、実務能力のある者は、一代家臣として、王家に再就職することができた。また、腕に自信のある者は、王立軍に糧を求めた。
しかし半数の家臣は、王家に忠誠を尽くす貴族に再仕官を求めて王都に留まるか、地方貴族に再仕官を求めて王都を去るかの選択を迫られた。
大半の者が、ランバリル子爵家の元家臣という、今では悪名のようになった肩書きから、王都での再仕官を諦めて地方に向かった。侍女、女官も、仕事がなくなりほとんどは解雇された。
ただ、ランバリル子爵家を去った家臣には、体面上のこともあり、金貨で数枚から十数枚程度の一時金が出た。
代弁人であったヴェントゥーラが、侍女頭セラヴォ・レハンドリアの夫カスペルトの借財を、ランバリル子爵家が保障するとした金貨百枚さえ、ランバリル子爵家にはかなり手痛い出費となった。
その金があれば、二人ないし三人の家臣をなんとか家にとどめておくことができるからである。
ランバリル子爵家に残った家臣も、禄は半分から四分の一に減額された。多くの雇員や使用人は、それにともなって解雇されたが、まだ、彼等は王都に新しい職を見つけることは家臣よりは容易かった。
もちろん、これらの事態は、祐司とパーヴォットがランバリル家で捕らわれてから数ヶ月ほどの間に起こったことである。
ランバリル子爵家自体は、子爵位から、貴族見習いとも言うべき、士爵に降格された。
祐司とパーヴォットを拉致した者達は、直接、ランバリル子爵家とは関連のない者という建前なので、生き残った七人は全て府内警備隊に引き渡された。
罪科は、祐司とパーヴォットを拉致して殺害を企てたことに加えて、ランバリル子爵家の敷地に侵入して乱暴狼藉を起こしたことである。
ランバリル子爵と筆頭家老カマル・レリオドルバルは、累がランバリル子爵家に及ばないように、祐司とパーヴォットを拉致した家臣に因果を含めて、前日に暇を取ったことにして、ランバリル子爵家とは無縁の元家臣とした。
その上、泣く泣く、敷地内に侵入した者達として、厳罰に処して欲しいとの嘆願書まで出した。
この結果、仕置きとしては、拉致、殺人未遂の罪で七人は、郷士身分剥奪の上、十四年から十八年の鉱山送りとなった。
これが重いか軽いかは、王都の一部でも論議になった。祐司の身分が平民ではあるが、一願巡礼という特殊な立場で、バーリフェルト男爵の友人、ケルマン男爵家の客分ということも考慮しなければならなかった。
また、襲った方が一方的に殺傷されて、被害者は無傷であるので判例に従って下された処罰である。
もし、襲撃犯が、祐司とパーヴォットに斬りかかる前に剣の鞘を祐司の前に投げつけて、決闘の形を取っていれば、罪科は拉致だけになり、ひょっとしたら郷士身分も失わずにすんだ上に、刑期も半分ほどですんだはずである。
ただ、十対一で、腕に自信のある自分達がよもや討ち取られようとは思っても見なかったための誤断である。
ここで、生き残ったマール州バルバストル伯爵領から逃げ延びてきた伯爵妃ランディーヌ派の郷士が大きな過ちをした。
この郷士は、祐司に弩を発射して足を斬られた男である。府内警備隊の一室で治療されていたが、どうしても、ワビをするためにランバリル子爵の者に会いたいと言うので筆頭家老カマル・レリオドルバルと二人の家臣が面会に行った。
その男はベットの上から、近くで詫びたいと行って家臣を近づけると、突然、家臣の剣を抜いて自刎した。
面会者が府内警備隊の建物に入る時には剣を預かるしきたりであるが、剣を持って不埒なことはしないと、筆頭家老カマル・レリオドルバルが誓約したために府内警備隊は、帯剣したまま面会させたことが仇になった。
自害した男の枕元からは、ランバリル子爵にあてた遺書が見つかった。
府内警備隊の建物内で起こったことと、武器を預かることを示唆されながら、断った筆頭家老カマル・レリオドルバルの不明のために、遺書は証拠品として、いったん府内警備隊に押収され原書と割り印を押した写しを取られたうえで、ランバリル子爵家に渡された。
その遺書の内容は、自害するのは、無残な最後を遂げたバルバストル伯爵妃ランディーヌの元にいき、守れなかったことをワビて、死後も仕えるという文面に始まって、ランバリル子爵に対して、伯爵妃ランディーヌの名誉を回復して、現バルバストル伯爵を退けて、伯爵妃ランディーヌの縁者を、バルバストル伯爵に叙任できるように助力して欲しいとあった。
その具体的な名として、伯爵妃ランディーヌの二人の姉の子の名をあげていた。余計な事に姉たちの婚家を訪ねて、請願書を出しているとも書いてあった。
さらに、自分が自害するので、自分の家族の世話をはじめ、マール州から逃れてきた伯爵妃ランディーヌ派の人々の生活を援助して欲しいとあった。
遺書の中で、ランバリル子爵に対する謝罪はなかった。
この遺書の内容が、ランバリル子爵家の中で広がるに従って、祐司やパーヴォットに対して遺恨を持っていた者も、今度はマール州から逃れてきた伯爵妃ランディーヌ派の人々を恨むようになった。
ランバリル子爵が苦境に陥った最大の要因は、オラヴィ王とその岳父ドルトナン伯爵の策謀である。
これは、ランバリル子爵家の者達も心の中ではわかっている。しかし、いまさら王権に刃向かっても犬死である。
今はできるだけオラヴィ王に恭順の意を示しておくしかない。すでに、マール州のバルバストル伯爵と伯爵妃ランディーヌの抗争は、伯爵妃ランディーヌの反逆というオラヴィ王の裁定が出ている。
その伯爵妃ランディーヌの罪科の中では、リファニア王にだけ認められた貴族位の剥奪を、公的な場で口にしたことで王への反逆行為があったと認定された。王領の貴族として、この建前に異議を唱えることなどできない。
それが、わかっているからこそ、祐司とパーヴォットの名を、マール州から逃れてきた男達にあげられて、身近に鬱憤を晴らす相手として、祐司とパーヴォットを殺害することに同意した家臣が出た。
ところが自害した男は、そのような根本的な認識も無視して、バルバストル伯爵から貴族位を奪って、伯爵妃ランディーヌの縁者を新たな伯爵にするよう、ランバリル子爵に頼むと非常識なことを書いている。
マール州バルバストル伯爵領の伯爵妃ランディーヌ派は、王都派と言われたように、元は、マール州に伯爵妃ランディーヌの父親に従って下向したランバリル子爵家に縁があった者たちである。
この者たちは、マール州バルバストル伯爵領の地元派からは”もとは門番ふぜい”と陰口を言われていたように、王都では軽輩者が多かった。
それが、マール州では、領地持ちの郷士に取り立てられて代替わりしている。親の世代なら王都に残った縁者の方が本家という立場であるので多少は謙虚さはあった。
ただ、その子の世代になり、自分達はマール州の領地持ちで、王都の親戚縁者は自分達の送る金品に頼る目下の者という感覚を持つようになっていた。
その感覚は、マール州を逃れてきても変わらず、親類縁者に自分達を助けるのが当たり前だというように接した。そして、ことあるごとに、ランバリル子爵家が伯爵妃ランディーヌの血筋の者を伯爵にするようにと広言していた。
王都の人間からすれば、オラヴィ王への反逆とも取られかねない言動であるが、マール州で、この世の春を謳歌していた者には、王都の空気が読めず、自分達のことしか見えていなかった。
最初は、王都に逃れてきた縁者を居候させたり、住まいを世話していた者達も、数旬ほどで厄介者を抱え込んだとばかりに頭を抱えていた。
その極めつけの迷惑が、祐司とパーヴォットへの襲撃事件と、自害した男の残した遺書である。本来ならこの遺書は、ランバリル子爵家が握り潰すべきものである。
だが、府内警備隊の中での不祥事と言うことで、証拠品として、いずれ返却すると言われ府内警備隊に没収されてしまった。
府内警備隊では王が叙任した現伯爵を廃位しろという不敬にあたる文言に加え、伯爵妃ランディーヌの姉の子の名があがり、請願書まで出しているという内容であるので、王宮にこの件の子細を報告した。
王宮からは、「まさかと思うが」という修辞つきながら、事情を聞きに王命で査察官が伯爵妃ランディーヌの二人の姉が嫁いでいる貴族家にやってきた。
本来なら、長女がマール州で、伯爵妃となるのが本当であるが、田舎暮らしより王都で暮らしたいという理由だけで、末の妹に伯爵妃を押しつけたような二人の姉は、聡明ではなかった。
姉達は無残な最期をとげた妹のことを多少は気にかけていた。二人の姉は、伯爵妃ランディーヌの傍に仕えていたという男に会って請願書を受け取ってしまった。また、それを処分せずに保管していた。
王宮からの審査官は、言葉巧みに、聡明でない二人の姉から嘆願書を押収した。
反逆者の元家臣からの請願書を妻が持っていることなど知らなかった婚家では、言い訳をするしかなかった。
ただでさえ、ランバリル子爵家の女性が嫁いでいるということで神経質になっていた婚家では、覚悟を決めて伯爵妃ランディーヌの二人の姉を離縁した。そして、すでに成人している、その子を廃嫡してランバリル子爵家に親子共々送り届けてきた。
ランバリル子爵とは、又従兄弟の関係になるバルバストル伯爵妃ランディーヌの姉達の扱いは、使用人に毛が生えたようなものである。本音では謀反を疑われたくないので出て行って欲しい存在である。
ランバリル子爵の一族の中では、未来を多少想像できる能力を持ったランバリル子爵の妹であるバーリフェルト男爵妃レマンティーヌが、これからの実家の窮状を想像して、バーリフェルト男爵の養女になるという判断をしたくらいである。
これらの事態を引き起こしたのは、自害した男であるということから、自害した男と同様にマール州から逃れてきた者への風当たりが強くなった。
マール州から逃れてきた者達が、祐司とパーヴォットを襲撃しなければ、ランバリル子爵は、男爵への降格ですんだのが、事件を起こしたために最下級の貴族位である士爵に落とされたのだと、ランバリル子爵家の家臣達は信じていた。
そのこともあって、ランバリル子爵家の家臣、特に暇を出された家臣は、露骨にその者たちを排斥し恨むようになった。
晩秋からこの二つのグループの間で喧嘩沙汰が数件起こって府内警備隊が出動する騒ぎもあった。
鬱憤を晴らす相手が、祐司とパーヴォットからマール州からの逃亡者にかわったのである。
ランバリル子爵家の家仕舞いのような騒ぎの中で、”顛末書”が出てから五日後に、予定通りに、封土を持つ貴族領主による貴族会が開催された。
本来は貴族会は、社交的要素の強い会議である。一年に一回、オラヴィ王のもとに全ての貴族領主が一堂に会して親交を深めるという性格のものである。
現実的な政治上の意味合いがあるとすれば、この一年間に、オラヴィ王がとった施策に対して、貴族領主が意見具申をする。
反対に、一年間で、各貴族領主が、オラヴィ王に奏上したことを、他の貴族領主に明らかにすることである。
これは、王も含めて抜け駆け的な行動を、緩やかながら抑制する働きがあった。政治的意義は、それだけである。
オラヴィ王八年の貴族会は、まったく異なった会議と成った。
ドルトナン伯爵やケルマン男爵を筆頭にして、オラヴィ王に近い貴族は、自ら本貫の地を除いて、王家への領地返納を自ら申し出た。
領地返納の場合は、五年間は、現在の領地経営を行いながら、王家へ年貢を納める。五年後には完全に領地は返還されて、元の領地と官位に見合った禄を王家が出すということが法令化された。
他の貴族も、順次、個別ではあるが王家と領地返納の話し合いに入った。
ここで、営々と開墾に費用を投じてきた家と、そうではない家に差が出た。バーリフェルトの年貢窃盗の時に、直轄領と自治村が区別されていたが、実は直轄領とはバーリフェルト男爵家が開墾した耕地のことで耕作権の世襲はできるが、土地自体は今でもバーリフェルト家のものである。
直轄領とは、小作に出している耕地と言っていい。領地を返納するとは統治権を返納することなので、領地を返納しても直轄地であれば年貢を小作料と言い換えて収入を今まで通り得ることが出来る。
また、統治権を返納することで、警察権を行使する費用が減るという利点もある。しかし、遠方の地や、王領が接していなければ、今までの領主が管理を委託されるという形になり、その差額を引いた年貢を払って今までと同じような封土に近い形で統治ができる。
その上、これは、その地が王領と言うことで他の領主が手を出すことが憚られる地と成る利点がある。
日本史で言えば、寄進系荘園のような存在である。領地経営の立場からすれば、近代イギリス貴族の自分が土地を所有した領地という感覚に近い。
同じ領主でも、直轄地の多い領主は領地を返納しても収入が激減することはない。反対に少ない領主は、宮廷貴族として録が出ると言っても役職により収入が大きく変動するために、今後は常に必死にならざるをえない。
元々、開墾領主であった地方貴族から、王権による庇護を求めて王都貴族になったバーリフェルト家や、マール州のバルバストル伯爵の分家ケルマン男爵家は、その出自から地道に王領でも開墾を行っており、ホルメニアと、その周辺の領地の中にでも三割から四割ほどの直轄地があった。
古い家柄を誇り、最初から耕地が広がっていたホルメニアに広い領地を持つ貴族ほど開墾の意識が薄く精々二割ほどの直轄地しかない上に、年貢割増しを条件に、農民に耕地の所有権を譲渡するといった慣習があり、実際の直轄地は一割以下の領主がほとんどだった。
四大公爵家は、王妃を出す準王家という特殊な立場と、元々、領地が狭小であることから領地の返納は不要と、オラヴィ王自身が宣言した。
その中で、貧乏くじというか、当然の報いを受けたのはマブラレン公爵家である。
マブラレン公爵家は、王妃を出せる四大公爵家の一つで、王家につぐ名家である。
マブラレン公爵家当主ザサヒ・ヴァールテ・ドルシエドガウドは、ランバリル子爵の甘言に乗って、貴族会でオラヴィ王に譲位を迫り、自分がリファニア王に即位するという見果てぬ夢に取り付かれていた。
その情報を、掴んでいるオラヴィ王は、お家取り潰しという圧力をランバリル子爵にかけた。
そして、ランバリル子爵に、マブラレン公爵家当主ドルシエドガウドから、ランバリル子爵に宛てた王位に就くために益々尽力を頼むと言った内容が書かれた書状を提出させた。
貴族にとって命より大切なものは、名誉である。
不法な策略を行う者には、それなりの仁義がある。現代の日本政界でもまま見られるが、収賄などを行った、あるいは不法な口利きをした政治家、秘書がより上部に波及しないように黙りを決め込んで罪を被ることがある。
末端の尻尾でなければ、口を割らないと言うことが、カリをつくり、信用を得ることになり、後で巻き返すこともできるからだ。
これは、リファニアでも同様である。謀反人には謀反人の仁義がある。より上位者を庇わなければ、謀反人と言う不名誉に加えて、人を売って自分が助かりたい人間であるという烙印を押される。
しかし、リファニア貴族には名誉よりさらに大切なモノがある。それは家の存続である。爵位のある家さえ残れば、代がかわってからにはなるが巻き返すこともできる。
オラヴィ王と、その周辺の者しか知らないが、身内の女性を嫁がせた先に身内の間男を送り込んで血筋で他家を乗っ取ろうした疑惑以上の、貴族をして驚天動地なことをランバリル子爵が行っていたという証拠があった。
読者の皆さんは、第六章での、マール州バルバストル伯爵家臣ダンダネール、郷士ファティウス、王家の監察官ゴットフリーの間で話された、バルバストル伯爵妃ランディーヌの秘密について憶えておられるだろうか。
ランバリル子爵家から、マール州に下向した本家バルバストル伯爵を継いだ先々代バルバストル伯爵の長女で、先代と当代のバルバストル伯爵妃であったランディーヌは、十数年前に死んでおり、身代わりが立てられたという内容の話である。
このことをランバリル子爵が黙認していたという内容にも取れる複数の書状が、マール州バナミナの伯爵舘や、王都派の屋敷から押収されていた。
なによりも血筋にこだわり、血筋ゆえに貴族を名乗れるリファニア貴族とあろうものが、本家に縁もゆかりのないどころか、貴族ですらない女性を、分家ランバリル子爵家の縁者だとして伯爵妃にしていたのである。
これは自らが貴族を否定することに等しい所業である。このことが公になれば、王が許したとしても、全ての貴族はランバリル子爵、いやランバリル子爵家を潰して処刑するかリファニアから追放せよと騒ぎ立て、歴史に大汚点を残す。
実際は、ランバリル子爵は、疑いは持っていたが確信はなかった。そして、万が一身代わりであれば、ランバリル子爵は、それを是正するために手を打とうとしていたというのが真相である。
しばしば、ランバリル子爵は、現在のバルバストル伯爵家妃は、本当のランディーヌで間違いはないかという内容の書状を出していた。
ただ、その内容が遠回しであったので、読みようによっては黙認していたようにも取れた。
そのことを、通常ならば、ランバリル子爵は弁明することもできただろうが、すでに、他家の乗っ取りを企てていたという先入観があるために、弁明すればするほど、嘘をついていると取られることは、聡明なランバリル子爵にはわかっていた。
オラヴィ王が持っている書状は、ランバリル子爵家が続く限りは世に出ては困るのである。
そのランバリル子爵の弱みにつけ込み、オラヴィ王は、ランバリル子爵からマブラレン公爵家当主ドルシエドガウドの書状を提出させた。
密かにオラヴィ王は、マブラレン公爵家当主ドルシエドガウドを含めて四大公爵家の当主を集めてこの書状を見せた。
そして、オラヴィ王は、マブラレン公爵家当主ドルシエドガウドに公爵の譲位をせまりこれを承知させた。
そして、岳父であるドルトナン伯爵家当主ズラーボン・ハレイ・カレルヴォの三男カマル・ファセリィ・ルヴァルドを、マブラレン公爵家当主ドルシエドガウドの孫娘アリチャネルと婚姻させて、アリチャネルを女性当主、その代行をルヴァルドとすることを認めさせた。
すなわち、四大公爵家の一つであるマブラレン公爵家は、今後はドルトナン家の血筋になるということである。
セラヴォ・レハンドリアの査問会の日に始まった政変は、定例の貴族会が終わった日の、十日で一応終息した。この政変は、後世、オラヴィ王八年の政変と言われる。
政変の仕上げは、この年の終わりに、王宮でそれなりの力を持っていた前王妃ベネシーが、王都第一のヘルゴラルド神殿内にあるワステアル神殿の神殿長に叙階されたことである。
リファニアの”宗教”は、おおいに身分を考慮しつつも高位聖職者の任命は実力主義である。しかし、王族ともなると高位聖職者の席がいくつか用意されている。
そのうちの一つが歴代のリファニア王の菩提を弔うワステアル神殿の神官長である。前王妃が存命であればいずれ神殿長に叙階されることが慣例である。
さらに慣例では前王妃が五十歳以上になった時点で、叙階されるが、前王妃ベネシーは、ようやく四十歳になったばかりである。
前王妃ベネシーが、ワステアル神殿の神官長に叙階されたのは、王宮の意志である。ワステアル神殿の神官長は、それなりに遇されるが公式の場では、王族の席ではなく神職の席にとなる。
リファニアの”宗教”は、世俗には介入しないという建前であるので、名前ばかりとはいえ神官職になった前王妃ベネシーは、一切の政治的活動を封じられたということである。
王権に抗う大領主は力を失い宮廷権力から遠ざけられた。領地返納により、王家の支配権が及ぶ土地の実に六割は、王家が直接統治する王領になった。特にホルメニアでは、八割五分の土地が王家の統治下になった。
オラヴィ王八年の政変の結果、オラヴィ王はリファニア最大の領主となった。日本流に言えば、リファニア内の王領という名の直轄地だけでも百六十万石の大大名である。
そして、政変直後の晩秋から、翌年の早春に行われた政治制度的な改革も進んだ。
まず、王家が家臣団全員の封土を併せたよりも多くの領地を持つ事になったために貴族会が完全に儀礼的なものになった。
そして、王都タチの町会の代表者会、王領内の都市の市参事会の代表、王領を数十に区切り、その区切りごとにもうけられるようになった大村会の代表者が、王に直接意見書や嘆願書を提出できるようになった。
反対にそれらの者に、王命で統治に関する指示書が届くことになった。
このことで、王領の住民は、誰に統治されているのかを次第に実感するようになる。




