オラヴィ王八年の政変15 オラヴィ王の顛末記 上
「オラヴィ王八年の政変7 査問会 中」から「オラヴィ王八年の政変14 レハンドリアの翻意 下」の部分の粗筋
査問会では、侍女頭セラヴォ・レハンドリアの母リーセルネリルが、若い頃に、バーリフェルト男爵家で侍女を勤めていたが、父親の決めた結婚のために暇を取り、それをリーセルネリルが、バーリフェルト家がからんでいると逆恨みしていたことが判明する。
リーセルネリルは、侍女として活躍するという望みを自分の娘のレハンドリアに託して、幼い頃からレハンドリアに侍女になるための教育をした。
そのかいあって、セラヴォ・レハンドリアは一度バーリフェルト家で侍女見習いになったことが証明される。しかし、バーリフェルト家出入りの指物師カスペルトと結婚して、子であるリストフェルをなして、母親の呪縛から一時は逃れる。
しかし、母親リーセルネリルと、ランバリル子爵家の家臣ミルカレロと不義の関係になり、暇を取らされた元ランバリル子爵家侍女ヘルバゼ・レハンドリアの策略で、セラヴォ・レハンドリアは亭主のカスペルトが浮気をしたと思い込まされる。
カスペルトは、ヘルバゼ・レハンドリアと内縁の夫であるミルカレロに騙されて多額の借財を負わされた上に、ヤクザ者に息子といっしょに殺されそうになる。
あわやという時に、ヤクザ者の親分に救われて、以後十六年の間、借財を返しながら指物師として、カスペルトは息子のリストフェルと王都で隠れ住んでいた。
その間に、セラヴォ・レハンドリアの母親リーセルネリルは、零落した郷士と金で婚姻して姓を変える。
そして、セラヴォ・レハンドリアはランバリル子爵家の侍女になり、ランバリル子爵の妹レマンティーヌの輿入れにともなって、再度、バーリフェルト家の侍女になる。
祐司は、母親リーセルネリルの毒殺も含めて、一連の出来事にランバリル子爵家がからんでいると示唆して、セラヴォ・レハンドリアを寝返らすことに成功する。
寝返ったセラヴォ・レハンドリアは、ランバリル子爵が、バーリフェルト家の人事に介入していることを証言する。
そのことで、査問会を打ち切ったバーリフェルト男爵は、産業育成のためにカスペルトを召し抱えて、バーリフェルトに送るとセラヴォ・レハンドリアに伝えた。
セラヴォ・レハンドリアも、亭主のカスペルトと息子リストフェルとともにバーリフェルトへ赴くことになった。
査問会が終わった後、バーリフェルト男爵は、男爵妃レマンティーヌを自分の私室に呼び出した。
最初は、どうしてもバーリフェルト男爵の部屋には行きたくない。自分が来るべきだと嫌がっていた男爵妃だった。
しかし、今まで、ランバリル子爵家の威光を振りかざす男爵妃の意向に尽くしていた家臣や女官がバーリフェルト男爵の命令を遂行しないと、暇を出されるどころか、命の危険があると悟った。
バーリフェルト男爵家では、温厚な現バーリフェルト男爵をなめてかかるような風潮が確かにあった。
しかし、男爵妃レマンティーヌの腰巾着で、時にバーリフェルト男爵の意に逆らい、ランバリル子爵家の威光を振りかざしていた女官長リュガベ・バウカゼリーナが、階段から落ちて死んだという話で、空気は一変していた。
そのため、脛に傷を持った幾人もの家臣や女官が、半ば力尽くで男爵妃を部屋から連れ出して、バーリフェルト男爵の寝室の手前にある前室に連れてきた。
前室とは、リファニアの上層階級の家屋によくある部屋であり、寝室に隣接して寝起きや寝る前に着替えをしたり、一人で軽食などを食べる部屋である。
「色々と混乱するだろうがよく聞いてくれ。レマンティーヌ、離縁してくれ。それで、ランバリル子爵家とは絶縁のうえで、わたしの養女になってくれ」
仏頂面をして、前室に入ってきた男爵妃レマンティーヌにバーリフェルト男爵はいきなり本題をぶつけた。
「今、なんとおっしゃいました」
バーリフェルト男爵の言ったことを、男爵妃レマンティーヌは、まったく理解できなでいた。
「離縁してくれ」
バーリフェルト男爵は、男爵妃レマンティーヌへの三つの要求を一つ一つ飲み込ませることにしていた。
「何故です。そんなことをしたら、ランバリル子爵家が黙っていません」
男爵妃レマンティーヌは、せせら笑いながら言った。
「オラヴィ王陛下の署名入りの、”顛末書”が届いた。読んでみなさい」
バーリフェルト男爵は、男爵妃レマンティーヌに、査問会の途中で、勅使が届けにきた”顛末書”を指さしながら言った。
渋々、男爵妃レマンティーヌは、細かな文字で、羊皮紙の裏表に書かれた”顛末書”を読み始めた。
「これは、嘘です。すぐに真相がしれます。こんなことを信じる者など、王都にはおりません」
男爵妃レマンティーヌは、表の部分だけを読むか読まないかといったところで、羊皮紙を床に投げ捨てた。
「不敬だぞ。オラヴィ王陛下の署名入りだ」
バーリフェルト男爵は、床の羊皮紙を拾い上げると、丁寧に広げて机の上に置いた。そして、できるだけ冷静な口調で、妻のレマンティーヌ言った。
「これを読んでも、わからないのか。ランバリル子爵家はおしまいなのだ。明日、公になるがランバリル子爵は、勘定長官を解任される。今頃は、失意か怒りかはわからんが自分の屋敷に着いているだろう」
「何故、兄が勘定長官を解任されるのですか。誰が解任するのですか。不当です」
男爵妃レマンティーヌは、激しい口調で、バーリフェルト男爵に言った。
「オラヴィ王陛下が、解任する。ランバリル子爵の体調がおもわしくないというのが表向きの理由だ。
しかし、先程の書状で、王都の貴族は、すでにその理由を全員が知っている。この事態に、ほくそ笑んでいる者、静観してしている者、自分の首筋が気になってしかたのない者、立場上色々だ」
バーリフェルト男爵は他人事のように言った後で、口調をかえて、男爵妃レマンティーヌにきっぱりと言い切った。
「詳しく言わなくともわかるだろう。バーリフェルト男爵家は、ランバリル子爵家の没落につき合う気はない」
「薄情者」
男爵妃レマンティーヌが憤怒の表情で怒鳴った。流石に、バーリフェルト男爵も言い返しそうになったが、一息二息して心を落ち着けてから惚けたように言った。
「薄情者?このわたしが」
「いままで、我がランバリル子爵家は、バーリフェルト男爵家の為に、度々、口を利いてはよしなに図ったではありませんか。貴方が府内警備長官の要職あるのは、一体誰のおかげなのですか。
第一、この”顛末書”に書かれていることは、全て虚偽です。兄を陥れようという悪質な策略です」
男爵妃レマンティーヌは、バーリフェルト男爵が机の上の置いた”顛末書”を、指さして言った。
「我がランバリル子爵家か。レマンティーヌ、いつまでも、バーリフェルト男爵家の奥方にはならんのだな」
バーリフェルト男爵が溜息をつきながら言った言葉に、流石に、男爵妃レマンティーヌも、我にかえった。
「言い過ぎました。でも、離縁は嫌です」
「わしも本心は嫌だ。でも、バーリフェルト家の当主として、バーリフェルト男爵家の存続を考えねばならない。多くの家臣の生活もだ」
バーリフェルト男爵は感情を抑えた口調で言った。
「だから離縁しろと」
「離縁して、ランバリル子爵家と絶縁しろ。一旦、離縁してからお前をわしの養女にする。養女になるからには、ランバリル子爵家と絶縁してもらう。
生活は今までのままだ。ランバリル子爵家のことが、落ち着いてから折りを見てまた結婚もできよう」
バーリフェルト男爵の、思いがけない言葉に、男爵妃レマンティーヌは、衝撃を受けた。
「あなたの養女と言いましたか。頭がおかしくなったのですか。ネルグレットやサネルマの姉妹になれと」
「あまり長く考えている時間はない。明日、ランバリル子爵の勘定長官解任が発表されてからでは手遅れだ」
男爵妃レマンティーヌは、バーリフェルト男爵の自分の常識どころか、世間一般の常識の斜め上を行く提案に、どう答えていいのかもわからなかった。
「黙っていてもしかたない。何度でも言うがわたしはお前を愛している。だから、命を助け、今まで通りとは、いかないかも知れないが、相応の暮らしをさせたやりたい」
バーリフェルト男爵は、机の上の”顛末書”を手に持った。
「この”顛末書”が全てを書いてあるわけではない。お前の妹のディアタンティーヌは、明日にでも離縁される上に、”貴族評定院”に訴えられる」
バーリフェルト男爵の言う”貴族評定院”とは、一般に、”評定院”と言われる機関である。
また、王宮の”月光の間”という広間で開催されることが、慣例であるので、”月光院”という何やら日本的な感覚では、大名の生母のような名で呼ばれる。
”貴族評定院”は、貴族階級の犯罪行為を裁くための特別法廷である。貴族は命より大切な名誉を背負っているので、犯罪行為を犯した場合は自死するか、地位身分を放り出して逐電する。
または、跡目を譲って謹慎の意味で隠居する。高位貴族の裁定で被害者と示談を行うといったことで、通常の裁判で裁かれることはない。
貴族は平民に無礼があれば処罰を行ってよいという権利がある。日本でいうところの無礼討ちである。
しかし、日本で、実際は無礼討ちを実行することが極めて煩瑣であったのと同様に、リファニアでも貴族が勝手気ままに平民を害していいわけではない。
平民を害した場合は、王領の貴族であれば、リファニア王、地方貴族なら、その州の太守と呼ばれる上位貴族に、その経過を記して、やむを得ない処置であったいう報告書を提出しなければならない。
さらに、害された平民が、地域で所属する神殿にも同様の報告書を出して、信者を無理無体の理由で害したのではないことを報告する。
貴族が直接、平民と接する機会自体が少ないので、貴族自らが平民を害することは極めて希であるが、平民から見れば貴族は、自分たちの生死与奪の権利を持った恐ろしい存在である。
本文で、祐司が貴族身分の者に”自分は死ねと言われれば死ぬしかない身です”と言っているのは、そう大げさな表現でもない。
また、侍女頭セラヴォ・レハンドリアの、亭主であるマジャーネ・カスペルトが、ランバリル子爵家が背後にいることを持ち出されると、十六年の長きに渡って隠れるように生活してきたというのは、平民の感覚からは当たり前のことなのである。
しかし、計画的な犯行で、それを隠微しようとした場合は、一般的な法の適用の外に置かれる貴族でも罪に問われる。または、貴族間の犯罪行為は裁かれる。
その裁判を行うのが”貴族評定院”である。ただ、貴族間、貴族平民間で示談になり、その報告がされれば”貴族評定院”は開催されることはないので、”貴族評定院”は滅多なことで開催されることはない。
「何故、妹のディアタンティーヌが訴えられるのですか。誰が訴えるのですか。”顛末書”は嘘です」
男爵妃レマンティーヌは、怒ったような口調で言い立てた。
「”顛末書”は嘘というが、オラヴィ王陛下の署名入りだぞ。詳しく説明しようか。ディアタンティーヌは、夫のセレスバデス準男爵が訴える」
「何故、夫が妻を訴えるのですか」
冷静にしゃべるバーリフェルト男爵に、男爵妃レマンティーヌは苛立ちを隠さずに聞いた。
「読んでいないのか。子殺しだ。お前の妹ディアタンティーヌは自分の腹を痛めて生んだ我が子を殺した」
「子殺し?だから、”顛末書”に書いてあることはデタラメです。何故、妹が我が子を殺めなければならないのです」
「お前は聞かされていなかったようだな。セレスバデス準男爵とディアタンティーヌの嫡男は去年四歳で亡くなった。
病死だ。でも、ずっと不審に思っていたセレスバデス準男爵が医師を締め上げて、適切な治療をせずに、あまつさえ死期を早めるために、ドクセリから抽出した汁を与えたことを白状させた」
「その医師は、ランバリル子爵家の御殿医で、ランバリル子爵の従兄弟のクシュナ・レスティノだ。レマンティーヌよ。クシュナ・レスティノは、お前もよく知っている仲だろう。
セレスバデス準男爵の嫡男の具合が、悪くなった時に、それまで、かかりつけていた医師を差し置いて、ランバリル子爵は、ディアタンティーヌのお気に入りの医師クシュナ・レスティノに、無理矢理、嫡男の治療を行わせて死にいたらしめたのだ。
医者のクシュナ・レスティノは、ランバリル子爵の黙認のもと、お前の妹で実母であるディアタンティーヌの指示だと供述した」
「何故、ディアタンティーヌが、あんなに可愛がっていた我が子を殺すのです。そして、クシュナ・レスティノは、王都でも著名な医師です。人の命を救っても殺すことなどありません」
バーリフェルト男爵の説明を、聞いて男爵妃レマンティーヌは、口では否定したが、妹のディアタンティーヌは、かなり冷淡な性格であることを知っているだけに、心の中ではあり得る話かもしれないという気持ちもあった。
「レマンティーヌよ。”最良の暗殺者は、上手に人の命を奪うが、人の命は救えない。最良の医師は、人の命を救うことも、奪うこともできる”という格言を知っているだろう。
貴族の家ではあってはならぬことだが、今年三歳になった次男は、セレスバデス準男爵の子種ではなく、情夫のクシュナ・レスティノの子だと、妹のディアタンティーヌと、お前の従兄弟であるクシュナ・レスティノが別々に認めた。
さらに、嫡男の死後、セレスバデス準男爵の六歳になる嫡女に、ランバリル子爵家は縁談を持ちかけていた。
血筋、そして、婚姻関係両方から、セレスバデス準男爵家の乗っ取りだ。
セレスバデス家は、準男爵とはいえ、数々の名艦長を輩出した王立水軍では名門の家柄だ。ランバリル子爵家は、婚姻で種々の役職を担う貴族家と結びついているが、王立水軍とは縁が遠い。
そのために、子爵家でありながら、当主の妹を、王立水軍に影響力のあるセレスバデス準男爵家に嫁がせた。事が露見すると、何故、妹をセレスバデス家に与えたか納得がいく。
普通ならこのようなスキャンダルは表に出ずに処理されるだろうが、正真、自分の子である嫡男を殺されたセレスバデス準男爵の恨みはかなりのものだ。
お前の妹のディアタンティーヌは、自分の子を殺した罪で、訴えられるという生き恥をさらさないために、自分の意志がどうであれ、ディアタンティーヌは自害することになるだろう」
男爵妃レマンティーヌは、バーリフェルト男爵が言った妹のディアタンティーヌが、自害を強要されるという話に激しく動揺した。
「相談に行ってきます」
男爵妃レマンティーヌは、部屋を出て行こうとする。それを、バーリフェルト男爵は呼び止めた。
「どこへだ」
「兄上の所にです」
「一旦、ランバリル子爵家に行けば、ここには戻れないぞ」
バーリフェルト男爵の言葉に、男爵妃レマンティーヌは足を止めた。
「わたしには選択肢がないのですね」
「ある。離縁してここに戻らないか、離縁した上に、ランバリル子爵家と絶縁して、ここで暮らすかだ」
バーリフェルト男爵は、男爵妃レマンティーヌが、今まで聞いたことのないような乾いた口調で言った。
「絶縁?ランバリル子爵家が黙っていませんよ」
男爵妃レマンティーヌは、ここに至っても実家の権威に頼ることでしか、バーリフェルト男爵に反論できなかった。バーリフェルト男爵は、それを根本から崩すような話で返した。
「ランバリル子爵は、すべての領地を、オラヴィ王陛下に献上するそうだ。そうオラヴィ王陛下が持ちかけるだろう。
これからは、役職に応じた禄で生活する。家名を断絶させるわけにもいかない。第一命は惜しいからな。
それに、領地を献上してしまえば、セレスバデス準男爵に、いずれは支払うことになる嫡男の賠償金のために屋敷は取られるだろう。
前代未聞だが、ランバリル子爵は、王都で借家暮らしをすることになる。貴族として体面が保てない以上は、いずれ爵位を返上することになるだろう」
王都にある王都貴族の屋敷は王家の土地を無償で貸し与えられているから、土地を取られることはない。しかし屋敷は自前で建てたモノであるから、所有権を取られて家賃を払いながら住むということはありえる。
「あれほど、お父様と兄に世話になっていながら。恩知らず。今こそ、ランバリル子爵家のために働いてくれないのですか。どうか、オラヴィ王陛下にお取りなしを頼むことはできないのですか」
男爵妃レマンティーヌは、冷静さを取り戻してくるに従って、実家および妹のディアタンティーヌが、陥っている苦境の深刻さを理解してきた。
「他家の為に、一肌脱ぐことはある。でも、相手の没落につき合うことはしない。貴族とはそういうものだ」
男爵妃レマンティーヌの頼みを、バーリフェルト男爵は、けんもほろろに断った。そして、バーリフェルト男爵家の中で男爵妃レマンティーヌに、まだ伝わっていない情報を口にした。
「そうだ。一寸した事故があった」
「急にそんな話を」
あまりに、唐突なことを言い出したバーリフェルト男爵に、男爵妃は眉をひそめながら言った。
「女官長のバウカゼリーナが大階段を踏み外した。打ち所が悪かったようで死んだぞ。わたしも、あの階段は危ないと思っていた。これを機会に、途中に踊り場を二箇所ほど作らせるつもりだ」
女官長リュガベ・バウカゼリーナは、侍女頭セラヴォ・レハンドリアと同様にランバリル子爵家から、男爵妃レマンティーヌの輿入れとともにバーリフェルト家に移ってきた女性である。
女官は、当主に仕えて、王家や他家との公的な付き合いに関わる行事の補佐を、家老や家令の命を受けて行っている。
それに対して、侍女は、主として奥方に仕えて他家や、親類との私的な付き合いに関する仕事を取り仕切って、奥方を中心にしたサロンを形成する。
「バウカゼリーナが、まさか」
リュガベ・バウカゼリーナは、男爵妃レマンティーヌの強引とも言える口利きで、バーリフェルト家の女官長になった。忠義一徹な家臣達から見れば、リュガベ・バウカゼリーナは、獅子身中の虫である。
「他の女官にも用心しなさいと言っておいた。すると、何人かが後でわたしに会いたいと言ってきた。そして、色々と面白い話をしてくれた」
「貴方がそんなことをする人だななんて」
バーリフェルト男爵の言葉に、男爵妃レマンティーヌは、ショックを受けていた。レマンティーヌからすれば、ほぼ性的な関係を拒否されている以外は、バーリフェルト男爵は、お人好しの上に優柔不断で、無理難題を言えば大概のことは聞いてくれる扱いやすい男だったからである。
「オラヴィ王殿下と、それを支えるバーリフェルト男爵家を守る為なら何でもする。それが貴族というものだ。
ままごと遊び気分で陰謀ごっこをする手合いは貴族ではない。ランバリル子爵は一端の陰謀家きどりのつもりだっただろうが、あまりにあちらこちらの人間に話をしてことをさせすぎた。
全体のことは個々の人間に話していなくとも、いくつかの断片がわかれば全体が見えてくる。山のような証拠と証人をオラヴィ王陛下はすでに押さえている。
ランバリル子爵家につき合って没落するのは、片手を越える数の貴族だ。我がバーリフェルト男爵家はすんでのところでそれをかわした」
バーリフェルト男爵は、最後の言葉をほっとしたような口調で言った。そして、男爵妃レマンティーヌの顔をじっと見つめてから、また口を開いた。
「わたしが、お前のことをないがしろにせずに出来るだけ、お前の意向に従ってきたのは、権勢のあるランバリル子爵家から来た嫁だからだ。
すでに、ランバリル子爵家は失墜した。これからはランバリル子爵家のことを、考慮せずにお前と話ができる。だから、今の、わたしが本当のわたしだ」
「そうですわね。わたしのことなど大嫌いでしょうね」
「いいや、レマンティーヌ、お前を愛している」
このバーリフェルト男爵の言葉には嘘がある。しかし、結婚して初めて夫に愛していると言われて、男爵妃レマンティーヌは悪い気はしなかった。
「抱きもしない女を愛しているのですか」
男爵妃レマンティーヌの返した言葉の口調にトゲがなかったので、バーリフェルト男爵は、さらに甘言を弄した。
「そうだ。わたしなりに愛している。一度、妻とした女を石を持って追ったりはしない。だから、この屋敷にいて欲しい。
ただ、バーリフェルト家の安寧も考えなければならない。それには、離縁してお前を、わたしの養女にするしかないのだ」
男爵妃レマンティーヌは、愚かな女ではない。少なくとも自分のこと、自分の行く末に関してはそれなりに判断のできる女性である。
没落していく父母もいない実家に、出戻りとして帰ったとて、いかほどの生活ができるのかは、どう考えて見通しが暗い。
男爵妃レマンティーヌは、夫のバーリフェルト男爵から性的な満足は得ていないが、元々、性的な欲求の強い女性ではなく、バーリフェルト男爵妃として物欲と権勢欲を満たしながら優雅な生活を送っている。
「わかりました。離縁して貴方の養女になります」
男爵妃レマンティーヌは、目を閉じて言った。
愛と会話のない夫婦とはいえ、十年近く夫婦として暮らしてきたバーリフェルト男爵は、男爵妃レマンティーヌが、目を閉じて発言するときは、それなりの覚悟を決めたときであることを知っていた。
「早々に手続きをしよう」
バーリフェルト男爵は、好人物と思われているが、実はやや陰険なことも行うことのできる人間である。
政略の為とはいえ、最愛の前妻と生木を裂くように別れさせられたことを、今でも深く根に持っていた。
もちろん、政略結婚であるから、現男爵妃レマンティーヌに罪科が有るわけではない。結婚当初は、バーリフェルト男爵も、レマンティーヌにもある程度の同情心を持っていた。
ところが、レマンティーヌが、前妻サンドリネルの悪口をことあるごとにあげつらい、ランバリル子爵家の威光をもって、バーリフェルト男爵を軽んじたことから、いつの間にかバーリフェルト男爵はレマンティーヌにも一矢を報いることを考えていた。
そこで、自分の妻であるをレマンティーヌを養女にすることで、復讐心を満たそうとしていたのである。
「一つ、聞きたいことがある」
バーリフェルト男爵は何気ない風を装って聞いた。
「なんで御座いましょう」
男爵妃レマンティーヌも、重たい決断をした後なので、居直ったのか軽い口調で言った。
「グラウスのことだ。お前、ホルテリンク家に金など渡していないだろうな」
バンガ・グラウス・ハル・ディートマル・ホルテリンクは、バーリフェルト男爵の父親と、グラウスの祖父の約束で、サネルマの許嫁とされている男で、市門で祐司の所有する感状や紹介状を破り捨てた。
その償いと、それらを再度、冬至までに、持ちかえれば、男らしい男と認めて婚約できるという、サネルマの挑発に応じて旅に出ている。
(第八章 花咲き、花散る王都タチ 王都の熱い秋3 癇癪のグラウス 参照)
それが、成るか成らないかは、路銀がどれほど用意出来たかで大きく成否が異なってくる。
男爵妃レマンティーヌは、前妻サンドリネルの娘であるサネルマを嫌っていたので、ホルテリンク家に密かに路銀を都合している可能性があった。
「いいえ」
男爵妃レマンティーヌは、目を少し大きく開けて言った。
「ランバリル子爵家からもか」
男爵妃レマンティーヌは、今度は頭を小さく左右に振った。
「そうか。下がっていいぞ。互いに少し休もう」
バーリフェルト男爵の言葉に、男爵妃レマンティーヌは、「はい」と小さな声で返事をして部屋を出て行った。
バーリフェルト男爵は、完全に男爵妃レマンティーヌが去ってから、寝室のドアを開けて寝室にいる人物に、前室に入ってくるように合図した。寝室から出て来たのは、祐司と、筆頭家老のマーヌ・ラーシュロフである。
「ジャギール・ユウジ殿、どうだ」
バーリフェルト男爵の質問に、祐司は頭を一回下げてから返事をした。
「嘘を言っています。ランバリル子爵家に頼っていたと思います」
祐司は、バーリフェルト男爵から、寝室にある覗き穴を使って男爵妃レマンティーヌの様子を観察しているようにと頼まれた。
目がちゃんと見ているものを、見逃さないほどに、頭の切れるサネルマは、感情を読み取る祐司の能力に気がついていた。
それが、巫術のエネルギーの発する光の様子を見て取ることは、サネルマにもわからなかった。
そのため、サネルマは、常識的に、祐司は相手のちょっとした仕草で嘘を見抜いているのだと判断していた。
サネルマは、自分の運命がかかっていることだけに、自分が気がついた祐司の能力を使うことに躊躇はなかった。
サネルマは、父親のバーリフェルト男爵に頼んで、男爵妃が、路銀をグラウスに都合していないのかを確かめて貰ったのだ。
「それは、さらに厄介だ」
バーリフェルト男爵は腕組みをしながら言った。
「それでは、わたしは下がります」
祐司は、お辞儀をしながら後ずさりを始めた。
「男爵殿下、お願いがあります」
祐司は三歩ほど下がったところで、とまって、より腰を低くしてバーリフェルト男爵に言った。
「なんだ。褒美のことか。ちゃんと考えておるぞ」
バーリフェルト男爵は微笑みながら言った。
「いいえ、何もいりません。わたしを生かしておいてください」
祐司は、床を見ながら言った。バーリフェルト男爵は、それに対して姿勢をただして答えた。
「大丈夫だ。信用して欲しい。但し、他言無用でな」




