霧雨の特許都市ヘルトナ2 初めての街 下
アヒレス村と違って流石にヘルトナは街であり、人混みというものがあった。ようやく辺りが暗くなってきたので人混みからは巫術のエネルギーに反応する光が一団の塊のように見えた。
時折、その人混みの中に特に強く発せられる光が見える。
巫術師かその能力を持った人間である。帰りながらおおよその人数を数えると十人ばかりいた。近寄れば人より多少多くの光を放つ者もいるが、本人もその力に気付かないような微弱なものだろう。祐司は巫術の有為的な潜在能力を持つ人間はおよそ五六十人に一人ぐらいだろうと算段した。
ヨスタの店に帰るとヨスタが夕食を用意して待っていた。家族は祐司が風呂に行っている間にすませたらしく、ヨスタの奥方と息子は儀礼的な挨拶が終わるとすぐに別室に退いた。
祐司とヨスタは料理が並べられた机に差し向かいに座った。ヨスタは最初に小さな金属製のコップで酒をすすめた。
「これは効きますね」
祐司は一口、口に含むと思わずうめくように言った。
「ジギタリス入りの火酒です。一杯かせいぜい二杯にしておいてください」
ヨスタも同じように酒を飲んでからうめくように言った。ジギタリスは現代の日本でも知られている強精剤だ。
「さあ、手近な材料のありあわせ料理ですが」
ヨスタは祐司に食事を勧めた。炙った燻製肉のシチューをメインに、卵料理にレタスのような野菜を煮た物、蜂蜜入りのヨーグルト、食パンの形の白パンが皿に盛ってあった。
塩味を主にした味だが祐司が日本からこの世界に来て食べた料理の中では一番旨かった。
「さて、ユウジ様のこれからの段取りですが、先程も言いましたように焦らずに天候の回復を待ちながら、この街でリファニアの習慣を身につけてください。アヒレスは田舎ですから街の習慣とは相容れないものも多いですから」
食事が一段落したところでヨスタが本題を切り出した。
「なんならご商売の練習をなさってもいいでしょう」
「商売の練習ですか?」
「ええ、ユウジさまは、これから、あちらこちらを旅をされるそうですね。では、路銀はいくらあっても困りますまい。巡礼と言っても嵩張らず高価な嗜好品を運んでいる者は大勢います」
「そうは言っても何を売ればよいのか」
祐司は少しばかり薬草を運んできていたが、ヨスタの意見が聞きたくてカマをかけるように聞いた。
「ユウジさまは、千年巫女様のもとで薬草の修行をされたのではありませんか?」
「ええ、見よう見まねです」
祐司はそう言いながら、ノートや携帯に記録した薬草の知識のことを考えた。あまり意識はしていなかったが、この知識はスヴェアが祐司に与えてくれた贈り物かもしれないと祐司は思った。
ヨスタは次にヘルトナの説明を始めた。
ヘルトナは北クルト伯領である北ヘルト州の中に幾つかある特許都市の一つである。人口が少ない割には広大な領地を統治するため、北クルト伯領では間接統治が基本である。
北クルト伯爵が直接統治しているのは、伯爵の居城がある首邑都市ヘニングリアとその周辺、いくつかの直轄都市だけで、分家がいる幾つかの都市をはじめヘルトナのような商業都市は特許都市とされている。
特許都市は代官が派遣されているが行政権は名目ばかりで、市参事による一部の司法権も有する寡頭政治が行われている。その代償は伯爵家が派遣する守備隊の費用負担、周辺の道路や橋の補修費負担である。
個人が負担するのは家屋、土地を有する者が払う租税、そして、大きな金額が動くのが商品取引時の印紙代である。
ヨスタの話では商業上のトラブルは代官に対して訴えることができるが、受け付けられるのは印紙のある契約書と領収書に限られている。
そのため取引額により一パーセントから三パーセントの費用がかかるが、それで商売上の安心を得られる印紙の使用は常識化している。そのほかの訴訟も訴訟料がかかり領主の収入になっている。
祐司の感覚からすれば税負担は軽い。しかし、自分がやっと食える自給自足の社会ではそれほど余剰物資は出ない。
義務教育も社会保障もなく、自分達の代わりに治安の維持を引き受けることと揉め事の採決という恩恵だけを考えるとありがたいとは思えないのだろう。
それに、リファニアの地はいずれも自治意欲が旺盛で領主といえども、支配を認めさせるかわりに目に見える恩恵を与えなければならず、”やらずぶったくり”的はことはできないらしい。
部屋の中がかなり暗くなってきたので、ヨスタは燭台の蝋燭の方を見ながら大声を上げた。
「火を持ってこい」
しばらくすると、祐司を風呂屋まで案内してくれた小僧がオルゴール箱ほどの大きさと形の火種が入った箱を持ってきた。小僧はヨスタに言われる前に、息を吹きかけて火種を少しおこすと蝋燭に火を付けた。
蝋燭に火がついて、明かりが小僧の顔を照らす。祐司は、小僧の少女とも思える優しげな面差しと、ほんの少し赤みがある頬を見てフェルメールの絵をぼんやりと思い出した。
ヨスタは小僧が何も言わずに部屋から出て行くと、戸棚の中から大きめの羊皮紙を取りだしてきた。
地図だった。
ヨスタはその樹皮紙にかかれたリファニアの絵地図で周辺の状況を祐司に説明した。
「このキリオキスを越えた先は、キリオキス・エラ(東キリオキス)州になります。山がちな領地にしがみついた小領主達がいます。そこを抜けると、リファニア中央部の平原地帯です。中央盆地とかリヴォン盆地と呼ばれています。
最初に着く大きな街は、ここにあるドノバ州の自治都市シスネロスです。ちょうど中央盆地を南に流れるリヴォン川に沿っています。中央盆地の物資が集まり、また周囲へと運ばれます。ここはヘルトナの数倍も大きいです。
また周辺も買い取ったり、開拓をしたりしてちょっとした領主なみの農地を押さえています。シスネロスはリファニアでは珍しいことにドノバ州全体を統治する自治都市なのです。
それにシスネロスはリファニアでも有数の自由闊達な都市で、名のある巫術師や職人も大勢います。ユウジ様が求めておられる”太古の書”の写しなども所持している神殿もあります。ユウジ様はグネリ様の紹介状をお持ちですから、お布施次第で見せてもらえるでしょう。
そこを更に西へ進むとあまり険しくないベムリーナ山脈を越えて,リファニアで最も温暖な南西沿岸地方に入ります」
「シスネロスか。是非、行ってみたいです」
シスネロスについてのヨスタの説明に勇み立つように祐司は答えた。
「ただ、何度も言いますように天候が悪すぎます。ここから直接キリオキスを越えて中央盆地に至る道は間道なのです。今は南クルトの内戦でしかたなしに夏場のみ使っているだけです」
ヨスタは、祐司をいさめにかかる。
「南に下がって、南クルト侯爵領からキリオキスのもう少し低い峠を通過する。地図ではこのあたりです。本来の交易路でもあります。いっそ、南海岸まで出てキリオキスを迂回してしまう手もあります。
しかし、南へ行くほど治安は乱れています。北クルト州は用心していればという程度で済みますが、段々と安全な商圏が狭まっています
これらのルートは護衛付きの行商隊に帯同して南クルトから中央盆地に行くことになります。実際、危険は承知で、この数年はそのルートで物資や人が動いています」
ヨスタはさも困ったことだというような顔をした。
「南クルト侯爵領の前領主は子がなかったために甥たちによる相続争いがここ数年続いてましてね。治安で安心できるのは自治都市の周辺だけです。
それに争っている双方が軍資金欲しさに通行税を取ります。強制徴兵や物資の徴用を避けたければ大枚を要求されることもあります」
「急がば回れですか、いや、果報は寝て待てかな」
楽しい話を聞かされた祐治はため息のように言った。言ってからどちらも違うような気がした。
「なんですか、それは?」
ヨスタが怪訝そうに聞く。
「故郷の諺です」
祐司も落ち着いて言った。その後、祐司とヨスタは四方山話をしながら食事を続け、ホップの苦みのないビールのような醸造酒を飲んだ。
「春になればキリオキスを越えて暖かな西風が吹いてきます。その風の到来で一斉に農耕が始まります。
ところが、この数年、暖かな西風が吹く時期がどんどん遅くなっています。キリキオスの西側では暖かくなってもです。こんなことが続けばクルトは人の住めない土地になってしまいます」
「西が暖かくなってもですか?ちょっとおかしいですね」
祐司の常識では西側に暖かい大気が充満すれば、キリオキスを越えてくる風は乾燥してより気温が上昇してクルト盆地に吹き降りる筈である。
それなのに、盆地であるクルトは乾燥するどころか、いつも冷たい雨模様の天気が続いている。スヴェアが言っていたようにクルトの悪天候は巫術の力の作用かもしれないと祐司は考えた。
「何か気になることでも?」
「まあ、是非キリオキスには行ってみたいです。天候の回復を待ちます」
ヨスタに結論を言ってキリオキスに関する話を打ち切った。
「明日は”羊の日”ですね。守備隊の野外訓練がありますから見学してはどうですか」
気を取りなすようにヨスタが祐司に言った。
「わたしでも見られるんですか?」
「ええ、訓練は威嚇と示威を兼ねていますからね」
一拍おいてヨスタが言った。
「下宿は明日、知り合いに頼みましょう。で、今夜は泊まってくださいよ」
祐司は窓から冷気のような風が吹き込んで来るのに気が付いた。表はすっかり暗くはなっていたが、部屋から漏れる僅かの光で本格的な雨が降り出したことが見て取れた。