閑話 その13 リファニアの推定人口と近隣地域
今まで閑話は、リファニア世界の説明が主で本文の話の流れとはあまり関係がありませんでした。ただ、この話は大きな視点で見れば、祐司のこれからの行動に関連する事項があります。
とは言っても当面の話の流れには関係のない部分でから、読み飛ばしていただいて構いません。
リファニアとは氷の溶け去ったグリーンランドのことです。このグリーンランドの面積は、約二百十七万六千平方㎞です。ですが、大陸氷河に覆われているために南極と同様に正確な陸地面積を算出するのは難しそうです。まあ、ざっくりと日本の六倍ほどの大きさであると考えていいでしょう。
この大陸としては狭小な世界ですが、歩いて回るには充分すぎる程の大きさのリファニアにはどの程度の人が住んでいるのか。ちなみに、現在のグリーンランドは人口五万六千人です。
まず、リファニアの南端は北緯五十九度五十分で、ヨーロッパで言えばスウェーデンの首都ストックホルム、ロシア最大の港湾都市サンクトペテルブルク(但し冬季は凍結)、に相当する。
これは、グリーンランドが寒冷なのではなく、暖流である北大西洋海流の影響を受けるヨーロッパが高緯度ながら温暖なためである。
まずリファニア南部を現在のスカンディナビア半島南部に相当する気候であると推定して人口を算出する。ちなみに、リファニア南部とは、おおむね北極圏から以南の地域である。
これらのスカンディナビア半島南部地域は海流の影響もあり、温帯に属する地域で実際の中世世界でも穀物の栽培が可能な地域である。
このスカンディナビア半島のスウェーデン(当時はノルウェーも含む)は世界でも最初に人口調査を行った国で1749年からの統計がある。
これによると、十九世紀までのスウェーデンの人口は二百万人程度で推移してきており、それ以上の人口は北アメリカなどに移住することを余儀なくされていた。
ちなみに、現在のアメリカ合衆国ではスウェーデン系とされる人々は四百五十万人ほどおり、五大湖沿岸の地域に比較的多く見られる。
リファニアを温暖とする前提でスカンディナビア半島南部を北極圏までとして、リファニア南部との面積比から考えると,リファニアの方が二倍ほど大きい。そのことから面積比ではリファニア南部の人口は四百万人と推定される。
ただし、スカンディナビア半島は山がちの地域で大きな平野はほとんどなく、土壌も氷河に覆われていたために非常に貧弱で地味も悪い。氷河に覆われていたのはリファニアも同様であるが、スカンディナビア半島にない大河に沿った地域の存在がリファニアにはある。
氷河が融解して五千年ほどであるが、それでも多少肥えた土壌が平野部に大河により集められている。
代表的な地域が物語に出て来たドノバ州である。ドノバ州は東北部を除いてリヴォン川とその支流のモサメデス川による肥沃な平野で、これはスカンディナビア半島には存在しない。このドノバ州の人口は、やや南に位置するがイギリス北端にあるスコットランド(半分は平野)を例に推定する。
スコットランドの17世紀は人口は百万である。スコットランドの面積は約八万平方㌔(平野部は半分)で、ドノバ州は約四万平方㌔ (八割以上が平野)であることから、乱暴であるがドノバ州の人口は百二十万人程度と見込む。
ドノバ州以外は山地や丘陵が多いので、人口密度はドノバ州の五分の一程度と考えてリファニア南部の人口を推定すると八百万人となる。ただ、本編でも何度も触れているが南西沿岸地域はかなり温暖で人口も多い。
このことを全て含んでリファニア南部はリファニア王国で人口八百万強と推定する。
リファニア王国でというのは、南東沿岸部にリファニア王に服しない、ヘロタイニア人の勢力地域があるからである。面積的には八万平方キロほどの面積を占めている。リファニア南東部は南西部や南部の中央盆地より気温が低い。
このため、人口もリファニア南部の人口密度の半分以下と推定して人口は五十万人と見込む。彼らはしばしば版図を広げようとしてリファニア勢との武力衝突を繰り返している。
気候の悪さと無理な兵力動員で、常住人口は減少気味であるが、常にヘロタイニアから移り住む者がいるため全体の人口は維持されている。
次に北極圏からやや北のリファニア北部の人口である。面積的には南部の三倍以上もある広大な地域である。
流石に穀物栽培は北部の南部沿岸部でライ麦、内陸の条件のよいところでエン麦が見られるだけで主要な作物はジャガイモである。ただ、ジャガイモも一年では生長せずに二三年に一度の収穫という地域が多い。
リファニア北部の南では羊、北のツンドラ地域ではトナカイの遊牧が見られる。
現在の遊牧地域の人口密度からリファニアの四分の三を占める広大な地域の人口は八十万であるが、一部農業も行われるために百二十万程度と推計する。
すわなち、リファニア王統治下のリファニアの人口は一千万に少し足りない程度だと推定される。
さらに、南東部沿岸に地歩を築いているヘロタイニア人を加えればリファニアの人口は一千万をかろうじて越える。
この人口は戦国時代の日本の人口に匹敵する数です。当時の日本の範囲(琉球・北海道の大半を除かれる地域)と比べてリファニアは七倍程度の大きさがありますからひどく人口希薄な状態です。
続いてリファニアの勢力圏の人口ということを考えます。
リファニア系の住民が住みリファニア王国の一部であると認識している人々が住むのは、現在のカナダのリファニア南部から中部と同緯度のバフィン島(約五十一万平方㌔)、リファニア北部と同緯度のデボン島(五万平方㌔)、エルズミーア島(約二十万平方㌔)、そして、カナダ北東部にあるニューファンドランド島(約十一万平方㌔)がある。
リファニア世界では、マルトニア(マルト島)、現在のバフィン島は南東部は比較的温暖で、なんとか大麦やエン麦、ジャガイモが栽培できる。
但し山地がほとんどで、日本列島の一倍半という面積がありながら、条件の悪いリファニア南部の人口推定をもとに人口は三十万と判断する。
その北のリファニア名ガネッサニア(ガネッサ島)、現在のデボン島とリファニア名アリクシニア(アリクシ島)、現在のエルズミーア島は低地がツンドラ気候で島の半分は氷河で覆われている。
このため、ごく沿岸の条件のよい場所でわずかにジャガイモが栽培できる程度で、トナカイの遊牧を行うか、漁労に従事する者の世界である。
そのため二つの島を併せても、リファニア北部の条件をさらに苛酷にして推定すると人口は十万を越えることはない。
マルトニアやアリクシニアの西方は西方諸島といい、現実世界の北極海諸島にあたる。この西方諸島とキレナイト北東岸(現カナダ北東沿岸)はイヌク人 (イヌイットこのと)の居住地であるがリファニア王国の版図である。ただし総人口は五万人ほどである。
次にノヴァスコシア半島北東沿岸にあるリファニア王領であるベルタニア(ベルタ島)、現在のニューファンドランド島である。
ベルタニア(ベルタ島)、現在のニューファンドランド島は、ほぼ現在の気温気候に似ている。ここもスウェーデンの近代以前の人口(南部に集中)を元に人口七十万人と推定する。
そして、最大の海外人口は、キレナイト(北アメリカ)に存在する。
ラプラドル半島から、現在のワシントンDCの南になるヴァージニア州北部あたりを南限にして、アメリカ合衆国北東部ニューイングランド一帯には併せて九十万人のリファニア農民とリファニア化したキレナイト人五十万人が入植地を築いている。
以上、リファニア本土以外のリファニアの人口はニ百五十万人を少し越えた程度です。
参考 人口一千万人規模の戦い
A、日本の戦国時代
河越城の戦い(1546)-大規模局地戦
北条軍一万一千 上杉・足利軍八万?(関東地域の総力と越後の一部を動員)
北条軍の勝利に終わった河越夜戦で知られた戦い。上杉・足利軍の大多数は無理に動員された者で戦意が低く、実際の兵力差は見かけより少ない。
桶狭間の戦い(1560)-局地戦「歴史的意味は大きい」
織田軍五千(合戦時は三千?) 今川軍二万(徳川軍を含む、合戦時は五千)
本編での”余録の戦い”の規模に近い。敵将の首級を狙うことに攻撃側が特化した。天候の影響で敵陣に接近できたという類似点がある。
小田原城の戦い(1560~1561)-大規模包囲戦、合戦の広域化
上杉・関東連合軍十一万(戦域全体) 北条軍(数万?)
包囲戦は勝率がよい。味方の侵害を少なくして籠城側を窮乏させる羽柴秀吉による三木城や鳥取城の包囲が有名であるが、包囲側は人数が多いだけに長期の補給体制を確立しないと本編の”シスネロス包囲戦”のように包囲側が窮乏して一気に崩れることもある。
小田原城の戦いも十日ほど小田原城を包囲するが、大軍であるがゆえに補給が続かず解囲した。
本編の”伯爵館包囲戦”が包囲側の圧勝に終わったのは、バナミナという兵站基地がそのまま包囲側の根拠地になったためである。
第四次川中島の戦い(1561)-大規模局地戦
上杉軍一万三千 武田軍二万(合戦前半は八千)
上杉軍三千(全体の二十三パーセント)、武田軍四千(全体の二十パーセント)という驚くべき戦死者を出す。近代軍でも二割の損害(負傷者も含む)で撤退を考慮しなければならない。
このような数字になったのは、上杉側が敵地から故国への帰還という気持ちから死にものぐるいで戦った(諸説はありますが作者は上杉勢の撤退論です)。霧の中の敵情がわからずに各自が目の前の敵と戦った。
武田軍は少ししのげば、援軍が来ることはわかっていたので戦況が不利でも踏みとどまったなどの要素があるからと推測される。
本編の”バナジューニの野の戦い”の後半がこれに似た状況で驚くべき戦死者を両方に出します。シスネロス側は純粋な防衛戦で退くべき地域がなかったため勇戦したこと。モンデラーネ公側は霧で戦場が見渡せない中でも自軍の優勢を信じて総攻撃に出たことなどが要因である。
長篠の戦い(1575)-大規模局地戦
織田・徳川軍三万五千 武田軍(一万五千?)
戦いの規模としては、本編の”バナジューニの野の戦い”に相当します。精鋭とされた少数軍の攻撃を練度が充分でない防衛側が防衛陣地を築いて撃退したことなどは類似します。
碧蹄館の戦い(1593)-日本、明から見れば外地での戦い
日本軍四万(合戦参加は二万) 明・李朝朝鮮軍(二万-騎兵主体)
明・李朝朝鮮がほぼ壊滅。騎馬に適さない山がちな地形、日本軍への過小評価、日本軍の戦術的優位などから一方的な戦いになった。
第一次蔚山城の戦い(1597)-大規模包囲戦、終盤は野戦
日本軍(籠城兵力一万、救援兵力一万二千) 明・李朝朝鮮軍(五万七千)
典型的な後詰めの戦い。力攻めをして兵力を損耗した明・李朝朝鮮軍が日本軍救援軍の到着で一気に崩れて二万という損害を出す。
国と国との戦いであった朝鮮出兵であるが、互いに五万程度が兵力の集中の限界で、決戦的な戦いは遂に行われなかった。当時の生産力の低い朝鮮半島での兵站(互いが占領地域から収奪)事情があるのだろう。
関ヶ原の戦い(1600)-全国規模の戦役での決戦
東軍(十万) 西軍(八万、参戦兵力は半分以下)
東軍(援軍二万)、西軍(援軍一万五千)とも援軍が接近中。「戦闘<戦術<戦略<政略」を具現化した戦い。
大坂冬の陣(1614)-大規模包囲戦
徳川軍(二十万) 豊臣軍(十万)
中世後半から末期の末のコンスタンティノープル陥落(1453年 オスマントルコ十万、ビザンチン七千)やウィーン包囲(1529年 オスマントルコ十二万 神聖ローマ一万二千)以上の兵力を集めた大包囲戦である。
B、中世末期のヨーロッパ
リファニアでも見られる身分制度、傭兵や徴募された農民兵などからよりリファニアに似た世界です。十世紀頃のフランスが人口一千万、十三世紀のイングランドが人口四百万弱です。
クレシーの戦い(1346)-英仏による百年戦争の初戦
英軍(一万二千-弓兵主力) 仏軍(三万?)
戦闘意欲旺盛なフランス騎士による重装騎馬突撃が平民の弓兵に阻止される。仏軍は一万二千の戦死者を出す。仏軍は封建領主の混成軍で統一的な指揮は困難だった。
アジャンクールの戦い(1415)-重装騎兵のつまずき
英軍(七千-弓兵主力、本拠地へ撤退中) 仏軍(二万)
仏軍はクレシーの戦いの反省から、馬鎧で強化した重装騎兵による両翼からの包囲を企図する。英軍は狭小な地形に展開して包囲を不可能にする。仏軍はやむを得ず正面攻撃を行うが英軍弓兵に撃退される。撤退に移った仏軍は英軍により一万の損害を受ける。
パテーの戦い(1429)-中世騎士黄昏のひらめき
仏軍(千五百-騎兵) 英軍(五千)
仏軍は後の大元帥リッシュモン、救国の乙女ジャンヌ=ダルクが参加。騎兵の急襲で英軍弓兵の展開をさせず仏軍勝利。
カスティヨンの戦い(1453)-戦いはしだいに火力戦に移行
仏軍(五千?) 英軍(一万?)
大砲と防御施設で援護された仏軍陣地に英軍が攻撃を敢行して敗退。英軍はフランスにおける領土をほぼ失った。




