嵐の後5 親子、ロティルとペトリないし乳母の資質 下
表から聞こえてくる怒号は「帰らしてくれ」とか「あんな女は母親ではない」とかいうようなモノだった。
「ちょっと失礼」
ヒルデベルトは椅子から立ち上がると、部屋のドアを開けた。そこには十代後半と思える若い男がいた。
男は職人がよく着ている灰色の武短いワンピース型のお仕着せを着ており見習いの職人といった風情だった。
その若い男は廊下で役人と言い争っていた。
「あんたが責任者かい」
若い男は、今度はヒルデベルトに言い寄った。
「そうだ。ここで騒ぐな。あまりに理不尽に騒ぐと牢で頭を冷やしてもらうぞ」
ヒルデベルトは今までの温厚な調子とは打って変わって、人を威圧するような感じで言った。その言葉に若い男は多少たじろいだようだった。
「すみません。オレも騒ぎたいわけではありません」
若い男はヒルデベルトに一寸頭を下げて言った。
「ペトリ、この度の不幸は同情するが騒いで担当を困らせるな」
ヒルデベルトの言葉に、ペトリと呼ばれた若い男は大きく目を開けて戸惑ったように言った。
「何故、名を知ってるんですか」
「わたしの顔を見たことはないか」
ヒルデベルトはペトリにしたり顔で言った。ペトリはしばらく考えてからおずおずとヒルデベルトの顔を窺うように返事をした。
「はい。時々、というか子供の頃に、ハヤル・リストハルトの屋敷で見かけてことがあるような」
「もう何年も会ってないからな。わたしはヒルデベルト。ファティウスの息子だ」
この一言でヒルデベルトに、ペトリは完全に押さえ込まれてしまった。
「え、ファティウス様の息子さん」
「母上を牢で自殺させてしまったことはこちらにも落ち度がある。それは、重々謝る」
ヒルデベルトは一拍おいて、少し頭を下げて言った。祐司とガークは顔を見合わせた。話からするとロティルは牢で自殺したようである。
「すまなかった」
現在の日本なら、容疑者を牢で自殺させてしまえば警察幹部が謝罪するのは当たり前だが、リファニアは中世社会の段階である。そこで、郷士身分の取調官が平民の若い男に謝るなど普通はあり得ない出来事である。
この様子を見ていた祐司は、ヒルデベルトが飛びきり誠実な人間なのだろうと思うと同時に、ヒルデベルトが今回の取調官に任命された理由がわかった。
さらに、ガークの要求を受け入れて、取調の様子も、担当者から逐次知らせるという破格の扱いも祐司には理解できた。
ガークは、バナミナにおいてはシスネロス、もしくはドノバ州の代表者である。マール州とドノバ州の力が隔絶している現状から、ガークがバナミナで襲撃されたという事件を口実に、どのような要求がシスネロスやドノバ候からあるかわからない。
ほぼ、事件はレティシアとアルカンという子供のはね上がった行動であるとわかっている以上、捜査状況を包み隠さず知らせることによって誠実に対応しているということを知らせたいというバルバストル伯爵側の意図である。
それには、誰に対しても誠実な態度で接するヒルデベルトは確かに適任だった。
「わたしも個人的に母上のロティルの顔を知っている。挨拶程度だが何度か話をしたこともある。
今回はお役目で、ロティルも関連すると思える事件の担当になった。これも、神々による何かの引き合わせではないかと思う」
黙り込んでしまったペトリに、ヒルデベルトは諭すように話しかけた。
「葬儀の弔い料はわたしが出そう。その上で聞きたい。母上の亡骸を引き取らないとはどういった了見だ」
ペトリは涙声で絞り出すように言った。
「あの女は、オレのことなど少しも構ってはくれない。挙げ句の果てに、お嬢ちゃん、お坊ちゃんの為に命まで差し出した。オレが言いたいのはそれだけだ」
「それでも母親は母親だろう。息子としての務めがあるだろう」
ペトリに言い寄られていた役人が鋭い調子で言った。まだ、何か言いたそうな役人にヒルデベルトは手で黙っていろと言うように制した。
「すみません。一寸、ここで待っていてください」
ヒルデベルトは祐司達にそう言うとドアを閉めて廊下に出て行った。
数分してドアが開く。そこには、男と言い争っていた役人とヒルデベルトがいた。
「ゆっくり諭してやってくれ。怒鳴ったりするなよ」
ヒルデベルトは役人にそう言うと、部屋に中に入ってドアを閉めた。
「中座して申し訳ありません」
謝りながら椅子に座るヒルデベルトに祐司は聞いた。
「先程の男はロティルさんの息子ですか」
「そうです。ペトリといって大工の見習いをしています。隠しても耳に入るので言っておきます。
ロティルという乳母は自殺しました。今朝、拘束されていたサモタン城塞の独房で首をくくったのです」
「牢でそのようなことができるのか」
ガークが不思議そうに言った。後で理由を聞くとガークが知っている牢では、容疑者を収容した場合には、中の様子が丸見えになるように、一面が鉄格子となっている牢に容疑者を入れて、牢番が寝ずの番で見張るのが普通だということだった。
今、バナミナでは大勢の王都派関係者が拘束されている。そのために、牢の管理もいつもよりはいい加減だった可能性があるのだろうと祐司は思った。
「着ていた服を裂いてヒモにして、窓の鉄格子に引っかけたようです。拙い字で”死ぬ。許して、生かして”と壁に血で書いてありました。生かしての部分はよく読み取れなので”生きて”かもしれません」
祐司はヒルデベルトの言葉に顔をしかめた。
「血?」
「自分の頭を壁にぶつけて血を出したようです。額に傷がありました」
「このことはレティシアとアルカンには?」
祐司はあわててヒルデベルトに聞いた。
「我々にも情けはあります。黙っています。レティシアとアルカンは、ロティルには罪はないので許して欲しいと言っているので、ロティルは罪に問われることはないとだけ言ってあります」
「そうだな。黄泉の国に行ったものは処罰できないからな」
ガークはちょっと笑いながら言った。不謹慎な態度と言葉だが、祐司はガークなら許してしまうようなオーラを感じた。
それを裏付けるように、ガークが発する光は、いささかの揺るぎもなく安定していた。まったく、悪気はないのだ。豪放な性格と言っていいだろう。
ただ、祐司が今までつき合ってきた中で感じていたことは、ガークは他人も、自分と同じだと思っているらしいと言うことだった。
戦乱が慢性化しているリファニアでガークほどの戦術家で腕の立つ人物が、シスネロスでドノバ防衛隊に仕官するまで流浪していたのは、その性格が災いして仕官できないでいたのではと思えた。
しかし、ガークは、今、ドノバ防衛隊の幹部である。その立場なら豪放な物言いも許されるし、反対に評価されるだろうと祐司は感じていた。
地位のない者が言えば、生意気な言葉でも、それなりの地位のある人間が言えば価値ある言葉として捉えられるからだ。
「些細な話ですがロティルのことは実子に知らせました。それが、廊下で怒鳴っていた男でペトリと言います。
ペトリは母親の死体を引き取らないと言い張っているのです。死体の引き取りを拒まれた担当が困っています。何かいい方法はないでしょうか」
ヒルデベルトはちょっと疲れた感じで言った。
「取調官である貴方が、そのような内容を私たちに話していいのですか」
祐司は少し驚いたように言った。
「はい。父ファティウスが困ったことがあればユウジ殿に相談しろと言っておりました。あの御仁は若いが、上手い具合に世間ずれしているとも言っておりました」
祐司はファティウスから評価されることは悪い気分ではなかったが、世間ずれしているとは、誉めているのか貶しているのか微妙な表現だと思った。
「知恵が出るかどうかはわかりませんが、取り調べに支障にならない程度でいいので、もう少し事情を話していただけますか」
祐司がそう言うと、ヒルデベルトは少し考えてからしゃべり出した。
「ペトリはロティルの実子で十七歳です。バナミナの大工の棟梁のもとで奉公して住み込みで働いています。
それで、ロティルが死んでから、急遽、ここに呼んだのです。もちろん、母親の遺体を引き取ってもらうためです。
ところが、ペトリは母親は死んでまでレティシアとアルカンを庇っている。自分を省みずに、レティシアとアルカンの為に死んだ女は母親などではないと言い張って遺体を引き取って葬儀を行うことを拒否しているのです」
「何か複雑な話がありそうですね」
祐司はヒルデベルトの話でなんとなく理由が見えてきた。
「実はバナミナの屋敷ではよく聞く話ですが、ロティルの息子のペトリは、ハヤル・リストハルトの種ではないかという噂があるのです。
ロティルが乳母になった時は、先程、話したように亭主と住み込みでハヤル・リストハルトの屋敷で女中奉公をしていました。
ところが、亭主が出奔したために乳飲み子を連れて独り身になっていました。その時に乳母になったわけです。ハヤル・リストハルトが妊娠させて乳母として家に引き込んだのだという噂です」
ヒルデベルトは少し声を潜めて言った。
「信憑性はあるのですか」
祐司は懐疑的に聞いた。
「噂話です。証拠など何もありません。でも、世間ではある話です。ロティルの亭主が女中と逃げたのも女房のロティルを寝取られた腹いせだという者もいました」
「奥さんを寝取られたから、別の女と逃げるというのはわからない話だな」
ガークも腑に落ちない様子だった。
「その女中も、ハヤル・リストハルトが狙っていたから、ロティルの亭主が、腹いせに先に頂いたのだと面白おかしく言う者もいます。まあ、所詮は無責任な噂話です。
ただ、ロティルが女中から乳母になったというのは少し気にかかる所です。子供の頃に近くに住む子供好きな神官から少しばかり字を習ったということで多少の読み書きはできるようです。
しかし、郷士の子の乳母をするには心もとないでしょう。それに、お屋敷勤めが長いとはいえ、その日暮らしといっていい下層の出です」
ヒルデベルトは、ようやく肝心な話をした。
リファニアでは上層郷士から上の階級では乳母が子を育てることは常識である。ハヤル・リストハルトは街住まいの中堅郷士であるから乳母を雇っていても不思議ではない。
英語では乳母はWet NurseとNannyもしくはDry Nurseという二つの使い分けがある。Wet Nurseは文字通りの乳母で母乳を与える乳母である。そして、Nannyは幼子を養育する乳母である。
リファニアでは母乳を与える女性には乳母という言葉を与えない。タダの母乳を与える女である。リファニアの”言葉”を直訳すれば乳女という単語が用いられる時もある。
また、母乳を与えずに子を養育する女性ないし男性は養育係あるいは指南、もしくは、ざっくばらんに先生という言葉を与える。
リファニアの乳母は母親のように子に母乳を与え、成人になるまで子を慈しみ、子に手振り身振りを教える女性である。
子の初等教育や基本的な郷士としてのマナーは乳母から習うのである。そのために、乳母は最低限読み書きや、計算ができることと、それなりの家庭の出身者が求められる。
また、その仕事上、一回のスパンが十年以上になるために、自分が授乳できる期間を考えると二回ほど子を育てれば引退する。
乳母の子は、主人の子と同様な扱いを受けて育てられる。日本でいうところの乳母子ないし乳兄弟である。
日本の場合は、乳母子は将来の主人の股肱の家臣になるがリファニアでは乳母の任務は子の成人までである。
そのため、リファニアでは乳母が春日局のように無位無冠ながら権勢を振るったり、木曾義仲の乳母子である樋口兼光が主人を落ち延びさせようと小勢で奮戦するようことにはならない。
一人の子に生涯かかわらないかわりに、リファニアでは妊娠して授乳できなくなるような年齢になっても、評判のよい乳母は授乳をしなくてもよいという条件で雇われる。
このような経験豊かな年配の乳母は、授乳をしないために、”乳無し乳母”と呼ばれる。”乳無し乳母”は普通の乳母よりも得難く乳母と同格か、それ以上に扱われる。もっとも、家庭内での言い方はどちらも乳母である。
経験があり評判のいい乳母や乳無し乳母は普通の使用人の給金より最低でも五倍以上、普通はそれ以上の給金を出さねばならない。
また、貴族階級や裕福な郷士だと、乳母や乳無し乳母に専属の使用人をあてがうこともある。乳母は主人の子と特別な関係を築くこともあり、家事を担う使用人とは一線を画した存在でもある。
「ハヤル・リストハルトは金に困っていた。しかし、体面もあって子に乳母をつける必要があった。
そこで、格安の乳母を求めた。まずは子に乳を与える乳母。そして、子を育てる乳母。それを同じ女性に託した。普通は、乳母の子はそれなりの待遇を与えられるが、母親の出自からペトリはそうではなかった。違いますか」
祐司は考え考え言った。
「そうだと思います。レティシアとアルカンが幼い頃に、親父と何回かハヤル・リストハルトの家に行きました。ペトリは雑用などをさせられて、住み込みの女中の子という扱いでしたね」
ヒルデベルトの言ったように、住み込みの女中に子がいた場合は、その子が物心がついた頃から雑用に使われることはよくある。これは、子を抱えた寡婦や、父親知れずの子を持つ女性にはありがたい習慣である。
「ハヤル・リストハルトは、本心ではロティルを乳母として認めていなかったのではないでしょうか」
「さあ、ハヤル・リストハルトは確かにロティルを乳母として扱っていました。女中の倍ほどの給金は出していたと思います。まあ、本心はわかりませんが」
祐司の問に、ヒルデベルトは一寸自信なさそうに答えた。
「安い乳母はそれなりのリスクがあるな。ロティルが確実にレティシアとアルカンに仕込んだのはシスネロスへの憎悪だ」
ガークがうなるような声で言った。それには、何も答えずにヒルデベルトはロティルの話を続けた。
「前にも話したように、ロティルは乳母を解雇されてからも、時々、手伝いの為にハヤル・リストハルトに呼ばれては少しばかりの金をハヤル・リストハルトから貰っていました。これは、ハヤル・リストハルトの家の女中に確認しました」
「それは、時々、ロティルさんがレティシアとアルカンの世話をする対価の金ではないのですか」
祐司もガークの話には乗らずにヒルデベルトの話に集中した。
「わたしもそう感じました。額の確認もしましたが、一月に銅貨十枚ほどだったそうです。体面上、乳母を必要とするような時に呼び出されていたようです」
乳母の存在は、郷士の子として育てられているという証でもあるので子が公式に外出するときにはお付きとして従う。ロティルは、そのような時に呼び出されたのだろうと祐司は思った。
「月に銅貨十枚では、万が一、ペトリさんがハヤル・リストハルトの子だったしても、養育費や口止めの金とは桁が違いすぎます」
祐司はそう言ってから舌で唇をなめた。
「大体、そのペトリとかいう者はハヤル・リストハルトと似ているのか?先程の女中の子と同様という扱いをしていたというから実子ではないと思うのだが」
ガークが直球を投げ込んできた。
「わたしの目から見る限りでは親子ではないでしょう」
ヒルデベルトは自信ありげに言った。
「そうだろう。ロティルは格安の女中上がりの乳母だ。その能力の適正も、ハヤル・リストハルトは承知の上だったんだ。
体面のためだけの乳母だ。だから、オレがさっき言ったようにハヤル・リストハルトはロティルの子であるペトリを女中の子のように扱った」
ガークは断定的に言った。ガークの言ったことは事実だろう。しかし、祐司は事実ではなく、ペトリが信じている真実を知りたかった。
「でも、ロティルやペトリはハヤル・リストハルトとペトリが親子であることを否定していなかったでしょう」
祐司の質問に、ヒルデベルトは一寸驚いたように答えた。
「そうです」
「生きていくためには夢が必要なのかもしれません」
祐司の言ったことをヒルデベルトはすぐに理解した。
「そうですね。わたしも、その意見に賛成です。ユウジ殿言うように、ロティルはあえて、ペトリがハヤル・リストハルトの子ではないと否定するようなことは近所の者には言っていませんでした。
ペトリも自分の父親が、ハヤル・リストハルトではないかと思っているのだと言う者もいました」
ヒルデベルトは祐司の意見に賛同した。ガークは、きょとんとしている。
「どういうことだ」
「自分の母親が、乳母といっても女中上がりという事実は覆りません。そして、母親のロティルは平民でも下層の出です。
その夫は自分が生まれると、他の女と出奔した下男です。その男が父親だということを認めると、自分の境遇は、苦い灰色の世界に包まれてしまいます。
でも、ゆえあって、名乗りは出来ないが、郷士のハヤル・リストハルトの子であると、ペトリは信じることによって夢が見られるのです」
「自分の力で、のし上がればいいではないか。嘘の出自を信じて生きていくなど理解できないぞ」
ガークがあきれたように言い放った。
「人はそれぞれです。ガークさんのように、有能でトントン拍子の人間ばかりではありません」
「オレはトントン拍子ではないが、なんとなくわかってきたような気がする。まあ、ペトリが、ハヤル・リストハルトの子だと信じているのなら、ペトリという男にとって、レティシアとアルカンは自分の妹と弟ということになるな」
ガークも祐司の話に乗ってきた。
「実の妹と弟は、郷士の子として何の不自由のなく暮らしている。それに、引き替え我が身はどうだということを、物心がついたころから身近に見せつけられていたということではないでしょうか」
「ロティルの名誉の為に言っておきますが、ペトリは普通の平民の子が育つように育てられていました」
ヒルデベルトの言葉に、祐司は自分の考えを思い切ってさらけ出した。
「でも、ペトリさんが少しでも自分の父親がハヤル・リストハルトだと思っているのなら、理不尽な扱いはなんとか我慢しても、母親が自分の兄弟かもしれないレティシアとアルカンを甲斐甲斐しく世話するのを見るのは耐えられなかった。ペトリさんは言いしれぬ疎外感があった」
「ロティルが乳母を解雇されてから、ロティルとペトリは、どういうことなしに暮らしていたそうです。親子の間に諍いがあったという話はありません」
ヒルデベルトは祐司の言葉に反論した。
「乳母を止めてから母親のロティルと子のペトリだけの暮らしになりました。子供時代は常にレティシアとアルカンの影があったが、やっと親子二人だけの関係になれたのです。
少々、遅かったかもしれませんが、ロティルが自分だけの母親になったことはペトリさんにとっては居心地がよかったでしょう。
ところが、ロティルは自分を差し置いて身の危険も顧みずにレティシアとアルカンを匿った。そして、自分が、レティシアとアルカンよりもないがしろにされているのではないかという漠然とした不安と嫉妬はペトリの心に火を付けた」
祐司の説明にヒルデベルトは得心した。
「そんなところでしょう」
「ヒルデベルトさん。せめて、ロティルの子のペトリさんからは母親に対する憎悪を取り除いてあげたいですね」
「先程も言ったように、ロティルの亡骸の件では担当も困っております。身内が引き取らないとなると、どう埋葬していいものか。無縁墓地に埋葬するしかありませんが、顔見知りなだけに何とかしてやりたいですね」
ヒルデベルトは心底、困ったような顔で言った。
「ロティルさんは遺書めいたことを牢屋の壁に書いたのですね。なんと書いたのですか。もう一度、教えてくれませんか」
「”死ぬ。許して、生かして”もしくは”死ぬ。許して、生きて”ですが。何か?」
「誰に宛てて書いたのですか」
「それは、我々でしょう。自分が死ぬのでレティシアとアルカンは許してくれということでしょう」
ヒルデベルトはおかしな事を聞くという表情で言った。
「宛名はないのですね」
「ありません」
「その言葉は、ペトリさんに向けて書かれたのではありませんか」
「え?」
ヒルデベルトとガークが同時に言った。
「もしペトリさんが本当に、ハヤル・リストハルトの子なら罪に問われますか」
「そうですね。考えもしていませんでしたが、実の子なら、伯爵殿下殺害未遂ですから庶子でも罪に連座します」
祐司の言ったことにヒルデベルトは頭が回り出したようだった。
「リストハルトは死んでいます。ペトリがリストハルトの息子であると証明したり証言できるのは、ロティルさんしかいません。
ですから、ロティルさんが死ねば証明のしようがない。遺書めいた壁の文字はペトリさんに宛てたものだったら」
「そうか。わたしが死ぬから、もう証拠は出ない。あなたは”生きて”か。ペトリを助けるために母親のロティルが死んだということになるな」
ガークが横合いから大きな声で言った。ヒルデベルトも頭を縦に振った。
「ペトリさんという人に伝えてあげてください」
祐司は微笑みながらヒルデベルトに言った。
「いや、どうもいいお知恵を貰いました。方便ということはわかりますが、これで、ペトリという男は多少は救われるでしょう。
担当に、ペトリに少々悔しげに、連座の罪が証明できなくなったというようなことを遠回しに言うように伝えます。それで、ペトリは母親が自分を庇って死んだのだと思ってくれるでしょう」
ヒルデベルトは嬉しそうに言うと右手を祐司に差し出した。祐司とヒルデベルトはしっかりと握手を交わした。
この後、ガークは取調内容を書面にして渡してくれるように、ヒルデベルトに頼んで話は終わった。
「ガークさん。わたしは、ロティルの言葉はレティシアとアルカンに宛てられたモノだと思います」
祐司はサモタン城塞から帰る途中にガークに何気ないような感じで言った。
「うん?」
「シスネロスへの憎悪を煽ったことへの許しを伝えたかったのだと思います。ロティルさんは、何故、レティシアとアルカンが貴方を襲ったのかを考えたでしょう。そして、自分のシスネロスを罵る言動をレティシアとアルカンに言っていたのを思い出した。
そして、ロティルさんは、レティシアが貴方を襲ったのは自分の言っていたことが原因であると思い至った。わたしはロティルさんは、レティシアとアルカンに詫びるために死んだのだと思います」
祐司は独り言のように言った。
「でも、レティシアとアルカンはそれを知ることはないわけか」
ガークは、溜息混じりに答えた。
「それでいいのではないですか。今更、ロティルさんに謝られてもどうにもなりません。レティシアとアルカンが知れば余計に苦しむかもしれません」
祐司はガークの顔を見ずに前を向いたまま言った。
「そうだな、ロティルという女が自分一人で苦しめばいいことだ。育てた子が苦しむような言葉を残すとは、やはり安物の乳母はダメだな。
子が出来たら、郷士の子として育てるには、リューディナでは不足する部分があるから乳母をと考えていた。奮発して人柄もよくて、教養もある乳母を探すことにする」
ガークは歯に衣を着せない。




