虚飾と格式、領主直轄都市バナミマ2 格式の高い宿屋
ドノバ州西端の街ファバゴを出て十五リーグ(二十四キロ)西に行くと、ドノバ州とその西にあるマール州との境界である。
ここには、ドノバ候の関所がある。ただ、祐司一行は、ドノバ候臣下筆頭のグリフード男爵の証明書を持っているために待たされることも、また関銭を払うこともなかった。
しかし、マール州の関所では、関銭を払わされた。祐司とパーヴォット、馬二頭、ラバ一頭にそれぞれ銅貨五枚である。今の祐司に取っては端金だが国内であるのに関所で金を払うことには違和感がいまだにあった。
「さすがに、グリフード男爵様のお手紙は効果抜群ですね。ドノバ州を出るときは関銭はいりませんでしたね」
パーヴォットは自分の事のように自慢げに言った。パーヴォットはいつも関所を通過するときは嬉しそうである。自分で関銭を出さないからだろうかと祐司は思った。
「夏だからいいが、マール州側の宿場まではあと四リーグはあるぞ」
途中で、農家の揚げパンを商売にするように薦めた出来事があって、祐司の算段より道のりがはかどっていなかった。
「なんて名の宿場でした?」
道行きのはかどり具合など、あまり考えていないようなパーヴォットが祐司に聞いた。
「ナックナルトだ。宿場と言っても大きな村みたいなところらしい。それから、ここはバルバストル伯爵領で中々五月蝿いところらしい」
祐司はそう言いながら、ドノバ州の豊かな穀倉畑とは異なった成長が遅れている小麦や大麦畑に気がついていた。
ドノバ州は中央盆地の西に偏った位置にあるがリヴォン川が流れているように中央盆地の中では最も低い位置にある。
その西のマール州は同じ盆地の一部と言ってもやや標高が高い。そのため気温が低くドノバ州との作柄に差が出るようだ。
後ろを振り向くと、かなり遠い位置に地平線があった。少しづつだが、西に向かって標高が上がっているのがわかった。
中央盆地の西側の地域を、サトラル高原、ないしはグアン・エラサレロポ(大いなる西の斜面)と言う。数十リーグに渡って少しずつ高度が高くなる地形である。
それも、最初に二リーグで二百メートルほどあがる、やや、急な斜面があるだけで、大半はほとんど平坦な地形である。
祐司が後方、すなわち東を見て地平線が遠くなったと感じたのは、最初の急斜面を登り切ったからである。
ただ、急斜面と言っても山地の多い日本の地形の感覚からは、ごくごく緩やかな斜面だと言える。
「ここが急な坂になっているのは、地層が固かったからだろうな。ケスタ地形だな」
祐司はその風景を見ながら何気なく言った。
「チソウとかケスタチケイってなんですか」
パーヴォットが耳聡く聞いてきた。祐司は、しまったと思ったが、地面に図を描いて説明した。パーヴォットは興味深そうに図をのぞき込んでは祐司に質問した。
祐司はパーヴォットに説明しながら、もしパーヴォットが日本の中学生なら勉強熱心な女の子だったろうと感じた。
「ユウジ様は、学者であられますか?」
パーヴォットが感心したように言った。
それを聞いて祐司は苦笑した。スヴェアも同じ事を言っていたことを思い出したのだ。
そして、スヴェアと別れてから、まだ四ヶ月も経っていないことに気がついた。祐司はその間に起こった多くの出来事は自分でも消化しきれていないと思った。
「申し訳ありません。一願巡礼のユウジ様にそのような質問をいたしまして」
祐司がいつまでも黙っているのでパーヴォットが、情けなそうな声で祐司に言った。祐司は、少し微笑むと上目遣いで、祐司を見ているパーヴォットに優しく言った。
「わかった。気にするな。考え事をしていただけだ。そして、折檻しろとは言うなよ」
祐司達はまだ夕刻と言うには随分早い時間にナックルナルトに到着した。ナックナルトは街道に沿って農家が二三十メートルおきぐらいに立ち並んでいた。農家の背後は耕作地になっており、さらにその先は森だった。
祐司は集落の作りから林地村だと思ったが、パーヴォットに聞かれるとまた随分と説明しなくてはならないので黙っていた。
農家の造りは、明らかにドノバ州とは異なっており粗末と言うよりはみすぼらしく見えた。
シスネロスや、その他のドノバ州の住民が「ドノバは豊かな土地」と自慢していたことを、逆から証明しているかのようだった。
暫く進むと高さが二尋(三.六メートル)ほどの高さの丸太で囲った直径が百メートルほどの砦のような区画があり、木造の神殿らしき建物が見えた。いざという時の避難場所だろう。
祐司はその砦の横にある大きな家の前にいた四十前後と思える白い布をターバンのように頭に巻いた男に聞いた。
村に入ってから白いターバンのような物を頭に巻き付けた男は何人か見かけたので、マール州の風習だろうと祐司は思った。
「すみません。ここの宿屋はどこでしょうか」
「うちも、”金熊亭”という宿屋してるが今日は満員だ。泊まりたいならもっと早く来ないとな」
ターバン姿の男は胡散臭そうに祐司達を見てから言った。祐司にはターバン男が自分達を値踏みしているように感じた。
「他にはありませんか」
祐司は少し腹がたったが、丁寧な口調で聞いた。
「ここの決まりで、宿屋をしている家で空き部屋があれば白い布を二階から垂らしている。満員なら赤い布だ」
男は早く行けとばかりに顎で、背後の家の二階から垂らした赤い布を示した言った。
「この時間だと、ちょっときついぞ。今日は隊商が何組も泊まってるしな。ともかく、先へ進め、半リーグほど行くまでに五軒ほど宿屋をやってる家がある」
ターバン姿の男は客商売とは思えないようなぞんざいな物言いで付け足した。
そこへ、二頭立ての、四輪馬車に乗った貴人のような風情を持った三十歳の半ばと見られる男がやってきた。馬車には、御者以外に、その男の従者のような若い男も乗ってた。
馬車の背後には、鎖帷子に剣という兵士にしては軽武装の三人の男と召使いのようなお仕着せを着た男が徒歩で従っていた。
馬車が止まると、御者が急いで馬車から降りて踏み台を用意する。
貴人のような男は、大仰に馬車から降りてくる。リファニアでは珍しい明るい金髪で、緑がかった光彩が目についた。背丈は祐司ほどもあり、リファニアではかなりの大男といえる。
男の仕草から、貴族かそれに準ずる階級のようである。
貴人の雰囲気を醸し出す男の背後に武装した男達が急いで並んだ。
「これはこれは、ダンダネール様、お供の方も含めましてお部屋がございます。是非、今日はお泊まりください」
家の中から、小太りの中年女が転がるように出て来て甘ったるい声を貴人風の男にかけた。ターバン男の様子から内儀らしい。
「おい、空き部屋はないって言ってなかったか」
思わず祐司はターバン男に言った。
「あるでしょう。赤い布が垂らしてありますから空き部屋がある証拠です」
祐司の背後から貴人風の男が言った。
「え、赤い布は空き部屋がないって印だとさっき言いましたよね」
パーヴォットがターバン男に詰め寄って言った。
「お前は傭兵かなんかだろう。うちは客を選ぶんだ。ここら辺りでは、格式のある宿なんだよ」
ターバン男はめんどくさそうに言い放った。
「ユウジ様は、りっぱな紹介状を幾つも持っておられます。身元の確かな方です。なんなら紹介状を見てください」
パーヴォットはターバン男に食い下がった。
「見なくていいよ。どこぞの神官崩れみたいなヤツのかいた紹介状なんぞ」
ターバン男の内儀は、あからさまに小馬鹿にしたように言った。
リファニアで旅をする場合は神官に書いて貰った紹介状がパスポートのような役割を果たす。
紹介状がないと関所を通過させてくれなかったり、拘束されるわけではないが、見ず知らずの旅人の身元を証明する書類であるから厳しく尋問されたり身元保証金のような感覚で割高な関銭を徴収される。
「さあ、平民風情はとっとと行ってくれ。ダンダネール様のお目が汚れる」
ターバン男も大声でがなりたてた。
「わたしは平民ではありません」
祐司は感情を抑えて言った。
「おや、失礼したね。どこの伯爵様だい」
ターバン男の内儀が小馬鹿にしたように言った。
「わたしは一願巡礼です。貴族でも郷士でも平民でもありません」
祐司はただ静かに答えた。
「ユウジ様、なんか気分が悪いですね」
立ち去ろうとする祐司にパーヴォットが呟いた。
「このやり方が土地のしきたりだろう。パーヴォット、先に行こう。宿が客を選ぶのなら客も宿を選べるからな」
祐司とパーヴォットが手綱を持って宿屋の店先から去ろうとすると、様子を見ていた貴人風の男が声をかけた。
「ひょっとして、ジャギール・ユウジ殿ではないか」
「はい、ユウジですが」
「わたしは、マール州バルバストル伯爵に仕えるバンドネ・ダンダネール・ハル・エンゲルト・クルム・ディ・マールという郷士だ。
郷士としては、いささか分を過ぎた姿をしておるが、領内ではバルバストル伯爵より準男爵格の扱いを受けておる。また、一応血筋では貴族である。そのような、理由から、容赦のほどを願いたい」
「バンドネ・ダンダネール様、どうして、わたしを知っておられるのですか」
祐司は少し身構えた感じで言った。
「このたびの戦、その様子、子細を知るために、我が主バルバストル伯爵よりドノバ候に直接聞き及んでくるようにとの命を受けた。
そのため、先日までシスネロスに滞在しておったのだが、そのおり、ドノバ候筆頭家臣のグリフード男爵と親しく話す機会があった。その時に、貴殿のことが話題になり、グリフード男爵はマール州で見かけたのなら是非に世話を頼むと仰せになっておられた」
ダンダネールと名乗った男は慇懃な言い方でいったが、決して商人のような物言いではなく威厳があった。悪く言えば上から目線である。
「はい、ここが一杯で泊まれないということでしたので、別の宿屋を探すところです」
祐司は、内心おもしろいことになったと感じながら、宿屋の主人に聞こえるように大きな声で言った。
「おい、親父、部屋は空いておるのか」
ダンダネールは間髪を入れずに、宿屋の主人を手招きで呼び寄せて言った。
「はい、空いております。ダンダネール様のために、いつも、最上のお部屋を開けております」
宿の主人はあからさまに媚びを売る。ダンダンールは、おべんちゃらを言っている主人を手で制して命令した。
「ユウジ殿にその部屋を手配せよ」
「は、はい、かしこまりました」
宿の主人の、手の平を返すような物言いに祐司はすっかり興ざめた。
「いいです。わたしの分にあった別の宿を探します。どうも、格式が高い宿ということでわたし風情の者が泊まれるような所ではございません」
「ユウジ殿、貴殿の紹介状を見せてはいただけないか。どの程度の格式がないと宿泊できないのかわたしも知っておく必要がある」
ダンダネールの言葉に、祐司はうやうやしく紹介状やら書状をダンダネールに渡した。ダンダネールは、暫くそれらの紹介状を読んでいた。
「ほう、千年巫女神殿のグネリ神官長、ヘルトナのペリナ神殿の神官長、シスネロスのアハス神殿の神官長、おや、ドノバ候筆頭のグリフード男爵の書簡もあるぞ。それに、畏れ多いことにドノバ候とシスネロス市参事会の感状だ。いや、恐れ入った。わたしなど足元にも及ばない」
ダンダネールは、それぞれの紹介状を両手で持って祐司に返した。そして、宿の主人に、肩をすくめながら言った。
「このような紹介状や感状を持った者が泊まれないほどに格式の高い宿にわたしが泊まれるわけがない。いままで失礼した。これからは別の宿を探すことにする」
宿の前から立ち去ろうとする祐司とパーヴォットの前に、主人とお内儀が立ちはざかる。
「知らぬ事とはいえ、失礼しました。お泊まり下せればどのような御礼でも差し上げます。どうぞ、お泊まりください」
主人は祐司に懇願するように声をかけた。
ダンダネールは配下だけでも五人である。このもうけ口を逃す手はないと気づいたターバン男はダンダネールの言葉に下手を売ったかと思いあわてて祐司に言った。
ターバン男にすれば、祐司と従者を格安で、あるいは恩着せがましくタダで泊まらせてダンダネールからふんだくる料金で補いが着く算段だった。
「じゃ、金貨一枚ください」
パーヴォットが悪戯っぽく言った。
「バカにするな。とっとと失せろ」
お内儀が怒鳴った。
「宿泊を断ったかと思うと、宿泊をお願いされる。今度は失せろですか。だんだん扱いがひどくなりますね。命のあるうちに失礼します」
祐司はいつの間にか、二の腕を掴んでいた主人をふりほどきながら言った。
「では、わたしもユウジ殿と別の宿をさがしましょう」
ダンダネールは祐司と歩調を合わせて宿の前から離れた。
「ダンダネール様、貴方様が泊まるような宿はこの近在ではウチだけです」
お内儀が大声で叫んだ。
「グリフード様に世話を頼まれた人が、去っていくのにここに泊まれるか」
ダンダネールは振り返りもせずに言った。
「そうですか。またのお越しを」
これ以上、ダンダネールという男の気分を害しても、しかたないと思ったのか主人は丁寧に頭を下げた。
「いや、またのお越しはない。あんな醜態を見せられて興ざめだ。第一、わたしには格式の高い宿に泊まる資格がない」
今度はダンダネールは振り返って宿の主人に言った。
「これはご無体な言い方でございますな。ウチではなく他の宿に泊まったとランディーヌ様のお耳にでも入ったら」
主人は、意地の悪そうな言い方で言った。
祐司はこの時点でランディーヌという人物がバルバストル伯爵の奥方であることを知らなかったが、宿の主人の言葉は脅迫だと感じた。
「ランディーヌ様の耳に、わたしが此処に泊まらなかったということが入ったら何か不都合でも起こるのか」
ダンダネールは、少しも動じないで受け流した。主人は当てがあずれたのか、それ以上は何も言わなかった。
「さあ、行きましょう。馬車にお乗りください。従者を降ろして、あなた方の馬とラバを曳かせましょう」
「銀貨五枚を出します。お泊まり下さい」
諦めきれないのか、ようやく事態の深刻さに気が付いたのか、あわててお内儀が言った。郷士、それも領内では貴族格の人物が宿泊を拒んだということが噂になれば商売上かなり影響が出るかもしれないからだ。
「相場は上がりました。金貨二枚です」
パーヴォットは、そう言うと祐司の後について宿の前から早足で去った。
ダンダネールは、祐司に確かめることなく従者を馬車から降ろした。そして、なりゆきで祐司とパーヴォットは勧められるままに馬車に乗った。
祐司はシスネロスで、馬車の床下に押し込められたことはあったが、ちゃんとした形で馬車に乗るのは初めてだった。
馬車といっても、戦車に毛が生えたような乗り物で、屋根はなく板を差し渡しただけのベンチが前後に二列あるだけだった。御者は前列のベンチで二頭立ての馬を制御していた。見た目は荷車に近い。
ダンダネールは前のベンチに御者と座り、祐司とパーヴォットは後ろのベンチに座った。
ダンダネールの合図で馬車は静かに動き出した。馬車の速度は人が歩くほどである。その、後をダンダネールの護衛と、祐司たちの馬を引いた従者が従っている。
「いいのですか、わたしの子供じみた仕返しにつき合わしてしまいまして」
祐司は居心地が悪そうにダンダネールに言った。
「いいのですよ。あの宿屋は先代からの付き合いがあって、我慢して利用していただけです。宿屋の先代は気の良い男でしたが代替わりしてから、料理の味は落ちる、使用人の質は落ちる。なのに代金は上がると碌なことはありませでした。
伯爵妃であるランディーヌ様がたまたま二度ほどあの宿に泊まったことで、主人は舞い上がってしまったようです。ランディーヌ様御用達の宿の主人だとね。まあ、ちょうど、宿をかわる口実ができました」
ダンダネールは饒舌に喋った。
「でも、どうして、わたし達を宿泊させたくなかったのでしょう。わたしは宿泊を嫌がられるほど、落ちぶれた格好をしていたとは思えませんが」
パーヴォットは、祐司ほどに動ぜずダンダネールに声をかけた。
「この時期は街道が賑やかになりますからね。二人ずれ、それも一人は従者となると二部屋はいります」
「同じ二部屋でも多人数の客を泊めた方が儲かると言うことですね」
パーヴォットは、親しげな口調でダンダネールと会話する。パーヴォットは祐司には、いつまでたっても他人行儀にしゃべる癖が抜けなかった。ただ、パーヴォットは初対面でも相手の様子を見てはかなり、上位の人間でも、どんどんしゃべりかけた。
小さな時から、他人の中で、相手の機嫌や様子を見て生きてこなければならなかったパーヴォットの習いかもしれないと祐司は思っていた。
それでも、祐司が最初にパーヴォットに出会った頃は、パーヴォットは寡黙だった。ところが、最近のパーヴォットは黙って相手をやり過ごすことよりは何か一言いうことの方が多い。祐司はそちらの方が本当のパーヴォットのように思えた。
「目先だけの利益を追うあの夫婦にはあきれるが、それ以上に、ドノバ侯爵に世話を頼まれたという言葉の意味が理解できんとは、平民とは言えマール州の住民が、いかに井の中の蛙であるかが知れようというものだ。
あなたの従者の言ったように金貨一枚が安い買い物だったと気がつくときは、何もかもが手遅れでしょうが」
ダンダネールは楽しそうに言った。
「しかし、わたし達は最悪野宿でも構いませんが、貴方様は宿に心当たりがあるのでしょうか」
祐司は、またおずおずとダンダネールに聞いた。
「あてはあります。もう少し先に何軒か宿屋があります。先程、言いましたようにこの時期は街道の旅人が多いです。それを当て込んで、臨時に宿屋もしている家もあります。どこかには泊れるでしょう」
馬車は小さなナックルヘルトの集落を出ようとしていた。道は急に悪くなって馬車は少し揺れ出した。ダンダネールは、そんなことに一切意に返さないで、前のベンチから体を斜めにして祐司の方に向きながら聞いた。
「そうそう、宿屋に関して何かご希望がありますか」
「風呂があれば何も言うことはありません。無くても風呂屋が近くにあれば満足です」
祐司はためらいなく言った。
「風呂好きですか。かなり良い育ちの方とお見受けいたします。風呂と言えば、”モミの葉亭”でしょうかな」
ダンダネールは、顔をほころばせて言った。確かにリファニアの都市住民でも、定期的に風呂屋に通うのは中の上以上の家庭だった。それも、一週間に一度程度である。
下層になると、月に一度程度通えばいいほうだ。それでも、常設の風呂屋がある都市では、冠婚葬祭における身だしなみを気にして多く住民が風呂屋に行く。
農村では夏季に井戸や川の水をかぶったりはするが、本格的な風呂、蒸し風呂に入るのは自分の結婚式の前の日だけなどという者もいる。
ただ、リファニアが寒冷な気候、洗濯をマメにするという習慣、最も大きな理由は祐司が慣れたということで、祐司も出会った相手の体臭に悩むということは、ほとんどなかった。
祐司はリファニアの風呂は蒸し風呂ばかりかと思っていたが、聞くところでは富裕層は部屋に持ち込んだ風呂桶の中に湯を入れて温浴するらしい。
ダンダネールが、祐司に育ちがいいといったのはそのためである。
「”モミの木亭”という旅籠は温泉が出る。温泉でもよいか」
「温泉!願ったりかなったりでございます」
ダンダネールの温泉という言葉に祐司は猛然と反応した。リファニアの”言葉”に温泉に相当する単語があることからいつかは、温泉に出会えるのではと思っていた祐司は、”金熊亭”に無理に宿泊しなくて本当によかったと、心底、リファニアの神々に感謝した。
「ちょっと、悪戯ついでだ。あなたの従者を先にいかせて宿泊を頼ませて見ましょう」
パーヴォットは「はい」というと、歩く速さほどで動いている馬車から飛び降りると、急いで駆けて行った。
「おい、場所を知っているのか」
祐司があわてて呼び止めるが、パーヴォットは聞こえないのかどんどん駆けて行ったしまった。
「道端に、カシの葉亭の看板が出ています。字が読めればわかるでしょう。字が読めなくてもカシの葉の絵が描いてありますから、大丈夫だと思います」
御者がのんきそうに言った。
その言葉通り、四半刻もしないうちにパーヴォットが戻ってきた。ただ、パーヴォットと出会った場所は、カシの葉亭の看板が出ている場所だった。
「この小道の奥です。案内します」
パーヴォットは、馬車の前を歩き出した。
「どうだった」
祐司が馬車の上からパーヴォットに声をかけた。
「全然、扱いが違います。どうぞ、お待ちしてますって」
パーヴォットは自分の手柄のように言った。
”モミの葉亭”の主人は店の前で一行を待っていた。やって来たのがダンダネールだとわかると、目を見開いて言った。
「これはこれは、ダンダネール様」
「冬にならずとも、宿り木は見分けがつく。ですね」
パーヴォットがうれしそうに言う。
”冬にならずとも、宿り木は見分けがつく”とはリファニアの慣用句で異質な物、転じて邪悪なものは、少しばかり注意して見ればわかると、あるいは自分から正体を現すという意味である。
「なかなか察しのいい従者だな」
ダンダネールはそう言いながらもパーヴォットに釘を差した。
「一つ忠告しておこう。言わぬが花だ」
「申し訳ございません。出過ぎた事を言いました」
パーヴォットは深々とダンダネールに頭を下げた。




