ドノバ連合候国の曙7 余録の戦い 下
翌日の早朝、ガカリナ子爵は千三百の兵を率いてモンデラーネ公軍がリヴォン川を渡河して、確固たる勢力圏のリヴォン川西岸にもどると思われる地点に急行した。
戦時体制で、兵力動員が行われておりガカリナ子爵本拠には、機動兵力として相応の兵士が配置についていた。
しかし、あまりの急な出陣であり、領内に分散していた兵力を集結できなかった。このため、守備的な目的にしか使えない農民兵以外で動員力二千百を誇るガカリナ子爵と言えども千三百が精一杯の数だった。
この日、強行軍を敢行したガカリナ子爵軍は領内の西端近くで半数は農家で宿泊を、半数は野宿をした。
ガカリナ子爵家は口だけで武勇を誇るわけではない。常日頃から、領内での訓練、演習を怠ってはいない。
領民に対して、部隊移動にさいして年間一定量の食糧供与と宿泊の世話を課している。そのため、領内であれば一切の荷駄を持たずとも行軍した先には暖かい食事と寝床が待っていた。
戦場での精鋭を自負するならば、戦う前に消耗してはいけないことを代々のガカリナ子爵が理解していた賜である。
ガカリナ子爵の軍勢がモンデラーネ公軍を捕捉したのは翌朝の昼近くだった。この頃には領内を行軍している間に合流した援軍が三百ほど加わり、少数の落伍者が出たために差し引き千四百を少し下回るくらいの兵力になっていた。
昼過ぎから、家老のケブレルが予想したように雨が降り出した。
天候は急激に悪化しており、時折顔を上げられないほどの突風と篠突く雨がガカリナ子爵軍を苦しめた。
しかし、この雨はより多くの利益をガカリナ子爵軍にもたらしていた。ガカリナ子爵軍はモンデラーネ公軍に察知されることなく着実にモンデラーネ公軍のリヴォン川渡河点に接近していたのだ。
この遠因は、シスネロス水軍を率いるダネル市参事の手柄である。
モンデラーネ公はドノバ州に来寇したおりに使用したもっと南の渡河点を防御するために川に三重にロープを敷設していた。ダネル市参事は、このロープを工作員に、切れやすくなるように刃物で傷つけさせていた。
この成果があらわれて、バナジューニの野の翌日に、渡河しようとしたモンデラーネ公軍の目の前でロープが千切れた。すると、威嚇するように六隻のシスネロス水軍の船が現れた。
このために、モンデラーネ公軍は、さらにリヴォン川東岸をさかのぼって安全な渡河点まで移動する必要があった。その渡河点は”ババニン渡河点”といい、リヴォン川が広くなって、浅瀬になっている場所だった。
ババニン渡河点は浅瀬と、急流によってシスネロス水軍の船が容易に接近できない場所だった。唯一の水路は、東岸の近くにあり、岸からリファニアの貧弱な投射兵器でも、充分にシスネロス水軍に対抗できた。
そのためか、シスネロス水軍は、ババンニ渡河点の、かなり南でモンデラーネ公軍を監視しているだけだった。
ただ、最初に渡河した地点の周囲が農耕地で敵の接近がかなり遠くからでも見渡せたのに対して、このババンニ渡河点は周囲が森林地帯に囲まれているために油断すると敵に懐に飛び込まれる恐れがあった。そして、事実、その様な事態が出現した。
視界不良な森林地帯と悪天候という不利な要因以上に、ドノバ州と陸続きとはいえ、リヴォン・ノセ州内にいるという安心感がモンデラーネ公軍にあった。
これが、モンデラーネ公軍に発見されることなくガカリナ子爵軍が、渡河という最も脆弱な状態のモンデラーネ公軍に接近できた最大の理由である。
先に出した物見からモンデラーネ公軍の渡河点を確認すると、ガカリナ子爵は道を外れて道脇の林の中に軍を入れて進ませた。
やがて、河原が一望できる小高い場所に出た。
バナジューニの野で大きな損害を出したモンデラーネ公軍ではあったが、直卒の約一万を少し下回る兵士が健在だった。
もともと、モンデラーネ公直卒の軍は、一万三千だった。近代軍でも二割を失えば士気に深刻な障害になる。
モンデラーネ公軍は、行方不明を含めてではあるが、二割に近い兵を失いながらも逃亡者も出さずに依然として軍規を保って行動していた。これは、ひとえにモンデラーネ公の手腕による。
ババニン渡河点は、浅いというだけで本来の渡河点ではない。浅いだけあって雨で増水すると流れが急激に速くなる。そのため、ババニン渡河点には、ババニンの瀬という異名もあるほどだった。
折り悪く降り出した雨でリヴォン川は増水を始めていた。さらに、浅瀬のために渡河には筏を使用するが数を揃えられなくてモンデラーネ公軍の渡河は非常に緩慢としたものになっていた。
ガカリナ子爵がモンデラーネ公軍を一望したときは、渡河が始まって半日以上過ぎており、リヴォン川東岸に残ったモンデラーネ公軍兵士の緊張感は失われ早く渡河したという焦燥感で満たされていた。
ガカリナ子爵軍が攻撃態勢の準備に入った時点で、モンデラーネ公および兵士の半分が筏での渡河を終えており、残りの五千は渡河準備中であった。渡河点の周囲はリヴォン・ノセ州領主軍のうちもともと渡河点を守っていた二千五百が取り巻いていた。
リヴォン・ノセ州領主軍はリヴォン川東部に細長く延びたリヴォン・ノセ州領の領主達で構成されており、リヴォン川西部のリヴォン・ノセ州に帰還する必要のない軍勢だった。
「リヴォン・ノセ州領主軍を狙い撃ちにいたしましょう。我々の力を見せつけて、後々ドノバに寝返らせましょう」
ガカリナ子爵の家老であるゲブレルは達成可能な目標を進言した。
リヴォン・ノセ州領主軍は一応は戦闘隊形を整えているが、小規模な領主軍の連合体で全軍一致した行動は取れないはずである。
一方、モンデラーネ公軍は渡河の準備をしながら散開しており、リヴォン・ノセ州領主軍が襲撃されても急に動けないだろうと判断していた。
それならば、程度の知れているリヴォン・ノセ州領主軍を急襲して、得体の知れないモンデラーネ公軍が反撃を開始する前に離脱すればよいと家老のケブレルは考えていた。
「くそ、モンデラーネ公の旗印が見当たらない。もう、渡河したか。味方をおいて先に渡河するとは見下げたものだ」
ガカリナ子爵は家老のケブレルの言うことなどもう聞こえていないようだった。
「狙いはただ一つ。モンデラーネ公軍だ。巫術師はここから”屋根”をかけろ」
「殿!おやめ下さい」
ゲブレルは悲鳴のような声を出した。
「狙いはただ一つ敵将だ。敵将を討ち取ればただちに撤退する。犬死は許さん」
ガカリナ子爵が振り返って全軍に大音声でいった。
これを聞いてケブレルはガカリナ子爵は狂気から攻撃を行おうとしているのではない。名を惜しんでいるのだと確信した。否、そう信じたかった。そして、覚悟を決めた。
「全軍突撃だ」
ガカリナ子爵は仮鞘から剣を抜いて高々と右手に掲げると、指揮用の馬車を全速力で走り出させた。
「バオーーーーーーーーーーー!」
ガカリナ子爵軍は一斉に雄叫びをあげて突撃を始めた。この主君にして、この家臣有りというような鬼気迫る突撃である。
林の中で隊形を崩したガカリナ子爵軍は、黒い塊のようになってモンデラーネ公軍に接近した。
「おい、なんだ」
雨を避けるために撤収されずに残っていた幕舎の前で、モンデラーネ公の一番の腹心で、今度の戦役では副将を務めるシュテインリット男爵が、ガカリナ子爵軍の出現に素っ頓狂な声を上げた。
シュテインリット男爵は一応は渡河点に通じる道々には警戒の兵を出してはいたが何の報告も入っていなかったからだ。
シュテインリット男爵は敵軍の接近に対する歩哨線を構築する命令は出していた。ただ、それを実行する部隊は、数刻後に渡河するための準備に時間を使いたいという気持ちと、できれば雨に打たれたくないという気持ちからおざなりな警戒行動しか行っていなかった。
モンデラーネ公軍が状況を把握しきれていないうちに、ガカリナ子爵軍はモンデラーネ公軍が蝟集している地点に切り込んできた。
筏の順番を待って列になっている者、幕舎の中で雨を避けている者、戦うための隊形も、その覚悟も出来ていないモンデラーネ公軍兵士はあっという間に突き崩されていく。
「オレに構わず敵将を討て」
すでに、ぬかるみのために馬車を捨てて徒歩で自ら剣で敵兵と切り結んでいるガカリナ子爵が叫ぶ。
ガカリナ子爵軍兵士は悪鬼のように戦った。初手から全軍突撃などという戦法も何もない戦いである。
後に生還したガカリナ子爵の兵士が家族に語った言葉としてシスネロスで噂された話がある。
「どんな無謀な戦いでもいいから、子爵の為に、子爵の命令で行う戦いを死ぬ前一度はやりたかった。そして、おれ達が粗野だ。日和見だという奴らを見返してやりたかった」と。
この言葉の真偽はともかく、真実を含んだ言葉である。ドノバ内戦以降はガカリナ子爵領は冷飯を食らわされているという思い。
金と実戦経験の為とはいえ、他人の戦のために出稼ぎ傭兵に出ざる得なかったという思いはガカリナ子爵軍の兵士が共有する思いだった。
シュテインリット男爵の幕舎にガカリナ子爵を先頭にガカリナ子爵軍が接近してくる。
シュテインリット男爵は近くにいた兵士を手当たり次第に投入してなんとか勢いを止めようとした。
「”雷”を放て」
ようやく、駆けつけてきた数名の巫術師にシュテインリット男爵は命令した。巫術士達は互いに顔を見合う。すでに、混戦状態で敵とおぼしき兵士だけを狙い撃ちにできるような状況ではなかったからだ。
「味方を巻き込んでもいい。相手は少数だ。ここをしのぐんだ」
シュテインリット男爵は敵兵の数がそう多くはないことを見破るほどには落ち着きを取り戻していた。
また、統率と士気に難があるとはいえ、リヴォン・ノセ州領主軍が隊列を整えて襲撃した集団の後備から攻撃を加えつつことを見て取っていた。
”雷”があちらこちらで炸裂する。何割かはガカリナ子爵側の巫術士による”屋根”に弾かれるがその隙間を通過する”雷”の方が多かった。
”雷”が炸裂すると周囲の兵士が数名吹き飛ぶ。吹き飛ぶ兵士はガカリナ子爵軍兵士と比べて数の多いモンデラーネ公軍兵士の方が数割ほど多い。
それでも、元から少数のガカリナ子爵軍の方が打撃は大きかった。すでに、全軍突撃で予備部隊などないガカリナ子爵軍に比べて、態勢を立て直したモンデラーネ公軍が時間を経るに従って集まってくるからだ。
態勢を立て直したモンデラーネ公軍兵士は、技量に優れている上に実戦経験が豊富であり、武勇を誇るガカリナ子爵軍兵士といえども手強い相手である。そして何より、モンデラーネ公軍はガカリナ子爵軍の三倍以上いるのだ。
後方からはリヴォン・ノセ州領主軍がガカリナ子爵軍におっかなびくりという様子だが攻撃を仕掛けだした。
シュテインリット男爵は一時の窮地を脱しつつあるのを感じた。だが、シュテインリット男爵は近くの兵に命じて次々と手薄そうなところに向かわしたためにシュテインリット男爵の周囲は一時的ながら味方が誰もいなくなったことに気がついていなかった。
「指揮官殿とお見受けした」
後ろから凄まじい殺気とともに声がかかった。シュテインリット男爵が振り向くと同時に槍がシュテインリット男爵の首を貫いた。
シュテインリット男爵は胸当てをしていたがヘルメットも被らず首筋も無防御だった。それを見抜いた達人の一撃だった。
「バオー!」
シュテインリット男爵は、自分の気管からの血なまぐさい匂いを感じた。そして、視界と意識が急激に薄れた。シュテインリット男爵は雄叫びを聞きながら倒れた。
「討ち取ったり」
ガカリナ子爵近衛隊長バラートは肩で息をしてそう言い放った。バラートに同行していた二人の近衛兵が素早くシュテインリット男爵の首級をあげる。
襲撃は四半刻ばかりで終わった。ガカリナ子爵軍はシュテインリット男爵の首を槍の穂先につけて、それを旗印のように掲げると今度は後退のための突撃を敢行した。そのガカリナ子爵軍の前方を誰がけしかけたのかモンデラーネ公軍の馬が二三百頭ほど走っていた。
そして、隊列の真ん中にはモンデラーネ公軍から分捕った戦車に放り込まれたガカリナ子爵の討ち死にした死体があった。
この退却を命じたのは家老のケブレルである。彼は家老としての役割を違えることなく、突撃が始まった時には、その中に身を投じていた。そして、万が一の役割が巡ってくることに備えていたのだ。そう指揮官を失った場合は、自分がガカリナ子爵軍を率いるという役割を。
先頭で戦っていたガカリナ子爵は無数の敵兵に囲まれて、三人を倒すも腹や胸に五本の槍を突き立てられて討ち死にした。
ガカリナ子爵は突撃をモンデラーネ公軍の直前で止めて「バンガ・バラストラ・ホラーツ・ハル・バナヴォト。ガカリナ子爵である。誰か相手をしろ」と怒鳴った。
ガカリナ子爵が引き連れていた旗手と僅かな兵に向かって、敵襲ということだけしかわからない大勢のモンデラーネ公軍兵士が殺到した。
シュテインリット男爵の近くの兵が手薄になり、ガカリナ子爵軍が接近できたのもガカリナ子爵がモンデラーネ公軍兵士を誘引したことが一因である。
家老のケブレルとそれに従う兵士がガカリナ子爵の首を断とうとしていたモンデラーネ公軍兵士を倒して、満足そうな死に顔のガカリナ子爵の死体を確保した。
その時、敵将を討ち取ったという声が聞こえてきた。
「退却だ。敵将の首とガカリナ子爵様を本城の奥方とお子様達に届けるんだ」
「バオー!」
近くにいたガカリナ子爵軍兵士が泣き顔で雄叫びを上げる。
指揮官が指揮を執れなくなれば副官が、副官が指揮を出来なくなれば一番隊隊長がというように、”最後の一兵まで”という中世的な軍隊に似つかわしくないモットーを旗印に書き込んだガカリナ子爵軍は曲がりなりにも指揮系統を定めてあった。
「二番隊の生き残りは命を賭けてでも敵の馬を放て」「生きて帰りたかったら、巫術師を見かけしだい殺せ」「太鼓手、退却の合図だ」「おい、そこの戦車をいただけ」「太鼓手、楔隊形の合図だ」
本来は武人であるケブレルは、矢次ざまに命令を出した。そして、ガカリナ子爵軍はドノバ第一の兵であることを兵士達は証明した。
「攻撃発起地点に向かって、突撃!」
ケブレルはガカリナ子爵がしたように剣を右手でもって高く掲げると走り出した。
ガカリナ子爵軍兵士は、リヴォン・ノセ州領主軍の真ん中を切り裂くように走り去った。ガカリナ子爵軍兵士は死を賭して、さらに行く手を阻もうとしているモンデラーネ公軍に突撃した。
薄い戦列しか引けていなかったモンデラーネ公軍は、すぐさま突破された。
家老のケブレルが発したガカリナ子爵の死体を持って帰還するという命令で生に対する執着がこみ上げてきた。
その生への執着から、ガカリナ子爵軍兵士は肉体の限界まで駈けた。
態勢を立て直したモンデラーネ公軍は、追撃に移った。各隊の隊長には司令官の首を持ち去られたとなれば、きつい叱責と処罰をモンデラーネ公から受けるかもしれないという恐怖心もあった。
しかし、指揮官を失ったモンデラーネ公軍の追撃はひどく混乱したものだった。幾度か述べたがモンデラーネ公軍の弱点は指揮系統にあった。
モンデラーネ公という戦術の天才をもってして無敵の名を持つモンデラーネ公軍ではあったが、モンデラーネ公を直接補佐する上級指揮官には恵まれていなかった。
モンデラーネ公からすれば、どの指揮官も兵士長に毛がはえたくらいで兵士を上手く行軍させるくらいしか能がなかった。モンデラーネ公がかろうじて信頼出るのはシュテインリット男爵ぐらいだった。
「いちいち細かなことで指示を仰ぐな」モンデラーネ公が苛立ってよく発する言葉である。
ただ、あくまで中世の戦術家の域にとどまるモンデラーネ公自身もどのようにすれば、有能と思える下級指揮官を得られるのかという構想も、その思いさえ無かった。
シュテインリット男爵という指揮官を失い。モンデラーネ公の指示を仰ぐことも、新たな指揮官を決めることも怠たり、闇雲な追撃に移ったモンデラーネ公軍は、もう一度、手痛い打撃を受ける。
ケブレルに率いられたガカリナ子爵軍が、息も絶え絶えに小高い丘に駆け上がろうとする頃には、モンデラーネ公軍の先頭が指呼の距離に迫っていた。
そこへ、ガカリナ子爵軍の巫術師による”雷”が連続して降り注ぐ。敵集団に接近する場合に”屋根”をかけないのは自殺行為である。この時は、巫術師にその指示を出す者もおらず、ガカリナ子爵軍に数名の仲間を殺された巫術師も逃げ去っていた。
つい先日、仲間の巫術師の大半を殺された生き残りの巫術師は襲撃が始まった当初から逃げ腰だったのだ。
混乱したモンデラーネ公軍の追撃部隊が後退を始める。
ただ、安全を見越したのか、”雷”は追撃するモンデラーネ公軍の後続部隊に集中した。先頭部隊は”雷”の攻撃を受けずに丘を駆け上りだした。
そして、稜線に達した時に、目の前に二百を越える兵士が槍を構えているのを見た。その兵士達は散開して丘を駆け上ってきたモンデラーネ公軍兵士を容易く仕留めた。
丘に上にようやく容易ならざる敵の存在を知ったモンデラーネ公軍の先頭部隊は慌てて退却した。
このモンデラーネ公軍兵士を追い払った二百の兵士は、ガカリナ子爵軍の落後兵のうちで追いついてきた者達だった。その中に、ガカリナ子爵軍にとって落後兵を集めていた近衛隊の副官がいたことが幸運だった。
彼は落後兵を率いて丘の到着した時に、ちょうど、ガカリナ子爵軍の撤退が始まったのだ。近衛隊副官は味方の援護のために飛び出しそうになる兵士達を静めて一列ながらも戦列を引いて追撃してくるだろう敵に備えていたのだった。
ガカリナ子爵軍は、奇しくも貴重な予備部隊となった落後兵の集団を含めて、奪い取ったモンデラーネ公軍の馬とともに完全に戦場から離脱した。
戦場となった河原には三百のガカリナ子爵軍兵士の死体と、七百人を越えるモンデラーネ公軍兵士の死体が残された。
そして、ガカリナ子爵軍の攻撃発起場所になった丘の稜線にも百近いモンデラーネ公軍兵士の死体があった。
中世世界のリファニアにおいて、僅か四半刻という戦いで出した被害にしては、特筆すべき数である。いかにガカリナ軍の攻勢が、生死を含めて損害を考えない常識外れのものだったがわかる。
対岸で異変に気がついたモンデラーネ公は自ら取って返そうとした。しかし、風雨が強くなり筏を出すのが危ないという側近たちの言葉にようやく思い止まった。
それでも、モンデラーネ公の命令で一艘に百人ばかりの兵士を乗せた大型の筏が七艘岸を離れた。
強風と荒れる川波の中で、四方八方から水しぶきを浴びる筏に乗った兵士達が船頭の制止を振り切って筏の端に寄った。そこに、押し寄せた波で一艘の筏がひどく傾いて大方の兵士が川に投げ出された。
この筏は何人かの兵士がしがみついたままどんどん下流に流されていった。
残りの筏も増水して勢いを増した流れに逆らえずに下流に流されだした。筏は短いもので二リーグ、長いもので五リーグほども下流に流されてようやく岸にたどり着いた。
幸いにシスネロス水軍の船も、岸によって増水を避けていたために、流された筏を攻撃されたり、捕獲されたりすることはなかった。
結局、モンデラーネ公にとっては今回の遠征は当面は何の利益もなく、なけなしの蓄えを軍糧で消費した上に、軍資金として携行していた金貨と数百頭の馬、それに見合う荷馬車、数日分とはいえ兵糧をシスネロス側に奪われた。
なにより頭が痛いのが戦車隊は年単位で再建に力を傾注しなければならないほどの損害を受け。マリッサという得難い巫術師を筆頭に、しばらくは戦を控えなければならないほどの多くの巫術師を失ったことである。
幸いにも軍の主力は、大きく傷ついていたが回復可能な程度の損害に留まっていた。
確認された戦死者は二千人弱で、バナジューニの野の戦いの最終局面で行われた、ドノバ候近衛隊の追撃で陣営が乱されたために千数百人ほどの兵が行方不明になっていた。
長篠の戦いで、一万を投入した武田軍が千ほどの戦死者を出して壊滅と言われている例からしても、直率部隊一万三千のうち二千を失ったモンデラーネ公軍の被害の大きさがわかる。
重ねて述べるが、モンデラーネ公軍がそれほどの痛手を受けながら敗走という事態にならなかったのは、モンデラーネ公という不撓不屈の性格を持った軍事的天才の存在が大きい。
極少数であるが、シスネロス側の落ち武者狩りを突破してきた兵士の報告から、その大半は殺されたのではなく東の方向に逃亡したと思われた。
そして、行方不明の兵士の中には、使い方如何ではモンデラーネ公のシスネロスに対する有力な持ち駒である旧ドノバ候の遺子僭称ドノバ候パットウィンと、少数ではあるがその家臣達が含まれていた。
当面は僭称ドノバ候パットウィンは利用価値がないが、再度、モンデラーネ公がドノバ州に介入するための理由として保持する必要はあった。
今となっては僭称ドノバ候パットウィン自身が、シスネロスによる落ち武者狩りを逃れて帰還するのを願うばかりだった。
さらに、モンデラーネ公を嘆息させたのは、新たに被った千に近い戦死者と、渡河の不手際というまったく余計な損失とともに、片腕のシュテインリット男爵を失ったことである。
バナジューニの野で戦死したデラトル男爵は、モンデラーネ公軍第一の勇将であり、シュテインリット男爵は、モンデラーネ公側近で唯一調略を任せられる知将だった。
このシュテインリット男爵を失った影響は、時間が経つに従ってモンデラーネ公は実感するようになる。
シュテインリット男爵のいた立場に、本来は内政担当で家老であるイルデフォン子爵が入り込んでくることになる。
すると、シュテインリット男爵が組織して育てていた彼の家臣は遠ざけられ、調略や間諜に関して、聞きかじった通り一遍の知識しかないイルデフォン子爵の家臣団が、その仕事を担うことになった。
これは、封建的な組織の欠点である。トップが変われば、そのノウハウを持つトップに従っていた部下も全て入れ替わってしまう。
いくら有能でもシュテインリット男爵の家臣は、シュテインリット家の家臣のままイルデフォン子爵に仕えることも、また、新しくイルデフォン子爵に仕え直すこともできないからである。
さすがに、先のことまで気が回らないモンデラーネ公は最初は苛立ちのままに護衛に着いていたリヴォン・ノセ州領主軍の領主を呼びつけて罵倒した。
しかし、ドノバ州に接するリヴォン・ノセ州の領主をあまり追い詰めると、勢いに乗るドノバ州側に寝返る恐れもあるため最後は、次回の遠征では勇猛さを見せることを誓わせただけで実質的な処罰はできなかった。
これらの後始末のためにモンデラーネ公軍は自領へもどる行軍で三日ほどの遅滞を生じることになった。
その間、モンデラーネ公は、遠征の後始末について早くも頭を悩ませ出すことになる。
特に、シュテインリット男爵が戦死した二日後、懐に飛び込んで来たシスネロス元市参事ランブルの処遇はモンデラーネ公も判断がつきかねていた。




