黒い嵐20 バナジューニの野の戦い 十
馬の年 六月十三日 第八刻半少し前 (午後六時五十分)
モンデラーネ公軍の後退を促す太鼓が響いて、潮が引くようにモンデラーネ公軍の姿が見えなくなってもシスネロス市民軍は半刻以上の間、戦闘態勢を保っていた。
それが、霧が晴れるに従って、モンデラーネ公軍がはるかに離れた場所にいることが、シスネロス市民軍兵士からも見て取れた。シスネロス市民軍兵士は、ようやく手から武器を離して休息することができた。
一日中、モンデラーネ公軍の猛攻を受け止めてきたシスネロス市民軍に、パンやチーズが急いで配られてようやく兵士達は人心地をつきつつあった。モンデラーネ公の前衛主力はすでに撤退を開始しており戦場からの離脱に成功しつつあった。
霧はさらに薄くなり、シスネロス市民軍の防衛ラインからもモンデラーネ公軍が撤退して行く様子が散見できた。
「逃げ出しやがった。追撃命令は出ないのか」
モンデラーネ公軍の撤退を見て、市民軍副司令のキネン・ボードワンが後方の司令部の方向に怒鳴った。
このボードワン副司令とは、祐司が兵舎の食堂に拘束された時に、身内を人質としたと言わんばかりの演説を行った人物である。
そのランブル司令付副司令のボードワンは、ディンケ傭兵隊司令が戦場指揮官になったことで、役目としては司令部付きの高級伝令のような役になった。
ボードワン副司令は、それを是としなかった。志願して右翼の一軍を指揮する司令官になった。
元々二ヶ月前までは、部隊長を務めていたことと、総動員のために、指揮官の絶対数が不足しおり、ボードワン副司令の願いはすぐに聞き届けられた。
シスネロス市民軍は市民によるボランティアの軍隊という性格上、軍事的才能だけが昇進の要因ではなかった。
次男のボードワンは、家業の相続を諦めるとともに、新しい商売を始めることも自信がなかった。そこで、市民軍の専業職に就いたのである。そして、市民軍でキャリアを積もうと思った最大の理由はボードワン副司令は、有力市参事の甥だったからだ。
市民軍は、たまに治安活動のために出動するくらいで実戦があるわけではない。底抜けのぼんくらでない限りは、市民軍専業となれば一軍の隊長になれる。
上手く立ち回れば、市民軍司令も夢ではない。副司令ともなればお情けで、退職予定前に二三ヶ月ほど市民軍司令に任命してもらえる。
市民軍司令となれば一族の誉れである。
二年前までは、ボードワン副司令は、そんな夢想にひたれる余裕があった。ところが、後ろ盾の有力市参事である伯父が急死した。
今までの昇進の幾分かは伯父のお陰であることは、確かだったがボードワン副司令なりに真面目に勤め上げてきたという自負もあった。
副司令にとっては、今度の戦いはシスネロス市民軍の多くの者と同じように初陣であった。ボードワン副司令は、自分の昇進は伯父の力だけでないことを証明する絶好の機会のように思われた。
それが、指揮系統の関係から副司令として務められないことを知ると、いてもたっても堪らなくなり一軍の指揮官になることを志願したのだ。
ボードワン副司令は、長時間にわたり兵士を指揮して、士気を鼓舞して担当の防御線を守りきった。任務を果たしたことにボードワン副司令は満足していた。
ところが、義勇軍が手柄をたてているという話が伝わってきた。ドノバ候近衛隊が活躍しているという話も前線で広がった。
ボードワン副司令は、自分が陰日向無く義務を果たしてきたことを無視されているように感じた。
「おい、敵を追撃するぞ!」
ボードワン副司令はそう言ってから、自分の言葉に驚いた。
「隊長、そんな命令は出ていません。防衛ラインを守備せよとの命令です」
横にいた百人隊長が、飛び上がらんばかりに驚いて言う。
「今、誰かが追撃せねば勝機を失うぞ。それが、本陣の腰抜けにはわからんのだ」
ボードワン副司令は,一度言い出したことは、引っ込めようがないと感じていた。(なるようになるまでだ)ボードワン副司令は考えるのを止めた。
そして、口から出てくる言葉を自分でも信じた。
「諸君、疲れているのはわかる。ただ、敵は撤退に移った。これを捕捉撃滅することで、モンデラーネ公は二度とシスネロスに侵攻する愚挙を犯すことはない。
運がよければモンデラーネ公自身も討ち取れよう。諸君、今こそ、シスネロス救国の英雄になるのだ」
ボードワン副司令麾下の将兵は疲労の極にあったが、戦いの余韻でまだ身体に残るアドレナリンが副司令の言葉で最後の効力を発揮した。
「おー!」
疲れ切った筈の、八百人ばかりの市民兵が、ボードワン副司令の乗る戦車を先頭に突撃を始めた。
この日、シスネロス市民軍唯一の敵戦列に向かっての攻勢である。
これを見てあわてたのは、ディンケ司令である。
「おい、あの一隊は何をしてるんだ。持ち場を離れさすな」
「ボードワン副司令の隊です。先頭はボードワン副司令のようです」
見張り台の梯子の上にいる、兵士が叫んだ。
「ディンケまずいぞ。すぐに、援護部隊を出さないと」
ブロムク司令が、焦ったように言う。ボードワンは元々はブロムクの部下であり、長年の顔馴染みでもある。
「ともかく、ボードワン副司令の部隊が抜けた穴を埋めるのが先です。モンデラーネ公を甘く見てはいけません。
どのような落とし穴を用意しているかもわかりません。市民軍に組織的な攻勢を行う能力はありません。これ以上部隊が釣り出されないようにしないと大変なことになります」
ディンケ司令は、ボードワンの部隊に追従する動きがないことを確かめると、比較的落ち着いた口調で言った。
「しかし、このままでは、ボードワン副司令の部隊は」
ブロムク司令は、ボードワン隊の、破局がわかっているだけに食い下がった。
「命令に背いた部隊を援護して全軍を危険にさらすことは出来ません。貴方が指揮を取りたければいつでもわたしを解任してください」
ディンケ司令の言葉に、ブロムク司令の理性は、それに従うことしかないことを理解していた。ただ、感情を飲み込ませるのに少し時間がかかった。ボードワン副司令は二年以上に渡り、自分の下で働いてきた部下である。
指揮や管理能力は、可もなく不可もなくといった副司令だが、やはり顔見知りとしての情がボードワン副司令に対してあった。
「わかった。ディンケ司令。血迷ったことを言ったのは謝る。わたしも市民軍による戦列の維持は、完全にモンデラーネ公の逆襲がないと判断できるまで必要だと思う。
ましてや現在攻勢に出ているドノバ候近衛軍に、万が一のことがあった時の確固たる収容陣地が必要だ」
ドノバ候近衛隊の名を出すことでブロムク司令は自分を納得させた。
「敵の策略の乗って戦列から離れるな。現在の戦列を維持せよと、もう一度、命令を徹底せよ」
ディンケ司令の命令を伝令が急いで各部隊に伝えるために駆け巡った。大半の部隊は攻勢に出る気はあったとしても、兵士の疲労で動けない状態にあった。
その頃ボードワン副司令とその隊は遂に指呼の距離に、エスパルテ男爵が率いるモンデラーネ公軍の殿が待ち構える戦列を指呼の間に捉えた。
「かかれ!」
ボードワン副司令はそう言った直後に自分の戦車を敵歩兵の密集隊形に突入させた。戦車はまだぬかるむ地面をはうような速度で動いていたが、敵歩兵は左右に戦車を避けた。
次の瞬間、ボードワン副司令は左右から何本もの槍が伸びてくるのを見た。
精鋭と言っていいほどに訓練された歩兵部隊に、単独でそれも早足程度の速度で戦車が突っ込むとどうなるのかを至近で見た者達は思い知ることになる。
六本の槍が同時に、ボードワン副司令の胴を刺し抜いた。槍は合図で動いたかのように持ち上げられた。
戦車からボードワン副司令の身体は完全に切り離され槍に持ち上げられた形で宙に浮いた。そして、更に二本の槍がボードワン副司令の胴を貫いた。
「勝負しろ」
ボードワン副司令は断末魔の叫び声を上げた。その叫び声をあげたままボードワン副司令の身体は地面に叩き落とされた。そして、槍はボードワン副司令の身体から抜かれた。
まだ、ボードワン副司令が動いているのを見ると八本の槍が再びボードワン副司令の身体を貫いた。
この日、ボードワン副司令はシスネロス側で戦死した唯一の高級指揮官だった。
ボードワン副司令の戦車は、そこから十メートルほど先で馬と御者が槍に刺し抜かれて動きを止めていた。
モンデラーネ公の殿軍兵士は、投げ槍を一斉に投擲するとシスネロス市民兵に襲いかかった。咳き込むほどに、駈け続けてきたシスネロス市民兵は、碌な抵抗も出来ずにヒトガタの的のようにモンデラーネ公殿軍兵士の槍に貫かれていった。
シスネロス市民軍が撤退、否、敗走を開始するまでの間、敵にほとんど損害を与えられないままに、およそ二百の市民兵が命を落としていた。エスパルテ男爵指揮下のモンデラーネ公兵士は鬱憤を果たすように、残された百数十名ほどの負傷者にトドメを差した。
負傷者達は武器を捨てて、慈悲を乞うように両手を挙げていたが容赦なくモンデラーネ公軍の兵士は、槍で負傷者の身体を貫き剣を振り下ろした。
この行為は、後にシスネロス市民が、モンデラーネ公への憎悪を掻き立てて、ドノバ州を恐怖心からまとめる要因になる。
戦いの最終局面での、モンデラーネ公軍殿軍による戦術的、いや戦闘的勝利には大きな代償が伴っていた。
元来、エスパルテ男爵の部隊に、モンデラーネ公から与えられた任務は、ぬかるみで立ち往生している輜重隊の援護だった。
モンデラーネ公は、戦いの最中に次から次へと戦場に到着する輜重隊に頭を悩ませていた。到着した輜重隊はいずれもが疲労困憊しており、立てないほどに疲労した馬が続出していた。
「兵士を飢えさせるな」
このモンデラーネ公の言葉は正確無比に実行された。モンデラーネ公の意図とはまったく別にして。
輜重隊は、モンデラーネ公の意志に従うべく戦場に食糧などの補給物資を運んでいたが、
戦場到達を早めるために、途中で半分近くの物資を置き去りにした。そして、この置き去りにした物資は後に、シスネロス側が大半を回収することになる。
荷が軽くなったモンデラーネ公軍輜重隊は、戦いに間に合った。
これから、撤退行動に移ろうとする矢先に、次々到着する輜重隊にモンデラーネ公は、その困苦を理解しながらも、はらわたが煮えくりかえった。
この予想外の出来事に対して、モンデラーネ公は殿軍に輜重隊が動けるようになるまでその援護を命じていた。
しかし、モンデラーネ公が危惧していたように、その命令は徹底されなかった。
これは部隊を掌握できなかったエスパルテ男爵の責任もあるが、モンデラーネ公軍の本質からきたものだった。
ボードワン副司令の部隊を殲滅させたエスパルテ男爵の部隊は、戦いの終局に至っても、戦意が衰えてはいなかった。いや、モンデラーネ公軍の兵士に取っては、戦いは勝利で終わり、手柄をあげて恩賞を得る場だった。
一日中、戦った挙げ句に、何の手柄も戦利品もなく戦場から去ることなど受け入れがたいことだった。
そこへ、ボードワン副司令の部隊が、来襲したのだ。下級指揮官を含む兵士達は、これを好機と捉えた。
戦意旺盛なモンデラーネ公軍の兵士は敵軍の撃滅に熱中した。中世的な風習が残る殿軍は、シスネロス市民軍の戦死者から首をはね、戦利品を押収することに没頭した。
殿軍を指揮するエスパルテ男爵は、ボードワン副司令の部隊には、一部の部隊だけで十分対応が可能と考えていた。
しかし、熱狂した兵士達は、命令も出ていないのにも関わらず殿軍全体でボードワン副司令の部隊の殲滅に没頭した。
そこに、横腹からドノバ候近衛軍とシスネロス傭兵隊が殺到した。一瞬にして狩られる者と、狩る者の立場は逆転した。モンデラーネ公殿軍は総崩れになった。
そこへ、さらにドノバ州領主軍を突き放した、ドラヴィ近侍長指揮下のモンデラーネ公軍親衛隊が東から突っ込んできた。
モンデラーネ公親衛隊の指揮官は、もちろん、モンデラーネ公であるが、ドラヴィ近侍長は、常時は親衛隊の代理指揮官として親衛隊の警備任務や訓練などを担当していたことから、親衛隊兵士もドラヴィ近侍長の指揮に違和感なく従った。
「味方を援護して、敵中を突破するぞ」
ドラヴィ近侍長の命令で親衛隊は錐のように、ドノバ候近衛隊とシスネロス市傭兵部隊の中を駆け抜けて行った。
これに対して、シスネロス側は、モンデラーネ公軍親衛隊が接近すると左右に退いて道を空けるような行動を取った。
ドラヴィ近侍長は味方を収容しつつ、敵中を果敢に突破したということでモンデラーネ公に大いに面目を施し、またモンデラーネ公軍親衛隊の名を上げることになる。
ただ、この見事な敵中突破は、シスネロス側が出していた命令の為である。
「逃げる敵は追うな。輜重隊を捕獲しろ」「敵と交戦するな。道を空けろ」
至る所で、シスネロス軍の指揮官が同様の命令を出した。ドノバ候近衛隊はロムニス隊長から損害を受けるような戦いをするなと厳命されていた。シスネロス市傭兵隊の、指揮官達も冷静な判断をした。
撤退するモンデラーネ公軍親衛隊と、その輜重隊の間にシスネロス軍が割り込んだ。そして、三百近い荷馬車が捕獲される。
モンデラーネ公軍は、精鋭だが、それは第一線の戦闘部隊に限ったことである。輜重隊は、四十半ばを過ぎた老兵を養うために存在するような役目を持たされており、忠誠心はあっても身体がついていかない部隊だった。
その老兵達は、モンデラーネ公の命令とあって急ぎに急ぎ、無理に無理を重ねて、バナジューニの野に、ようやく到着したのだ。
モンデラーネ公は休息を、命じて動けるようになるまで輜重隊を援護させようとした。ところが、輜重隊の疲労度は、少しばかりの休息で回復する限界を越えていた。人馬とも疲労困憊どころか、一度立ち止まって座り込めば、しばらく起き上がれないほどの状態だったのだ。
そして、体力と気力を振り絞って撤退を行おうとした時には、撤退方向の街道は、モンデラーネ公軍の兵士であふれており動くに動けなかった。
それでもなんとか撤退しようと泥濘の中で馬車をあちらこちらに動かしために、次々と馬が動かなくなった。
もともとリファニアの馬は小柄で、良馬は戦車部隊に優先的に配備されているために資質があまりよくない輜重隊の馬は体力の限界に達して、宥めようが、鞭を振るおうが動かない馬が続出したのだ。
荷馬車は大きさによって二頭立てと、四頭立てがあったが、その中の一頭でも動かなければ、一旦、馬を解き放してから、動ける馬を選んで荷馬車が動けるようにする手間がかかった。
このためにシスネロス軍が接近して来たときには輜重隊は戦場の後方で、護衛部隊も含めて味方から取り残されるような状態だった。
シスネロス軍の接近で、輜重兵は、槍や刀剣を杖代わりにして身一つで逃げ出すのが精一杯で荷車は、ほとんどが馬ごとシスネロス側に鹵獲されてしまった。
さらに、モンデラーネ公軍親衛隊の敵中突破で、エスパルテ指揮下の兵士も半数ほどが、親衛隊と逃げ延びたが、残りの半数は行く手を塞がれてバラバラに逃亡することになり、部隊としては壊滅状態になっていた。
エスパルテ男爵は、思わぬ事態に僅かの手勢を率いて、部隊の掌握を図ったがドノバ候近衛隊の攻勢で戦場を離脱せざる得なかった。
このモンデラーネ公軍の退却の混乱に見捨てられている軍勢があった。僭称ドノバ候パウティスの百数十名の小勢である。
僭称ドノバ候の軍勢は一日中後方で待機していた。僭称ドノバ候パウティスとて、小勢で参戦する気はまったくなく、決定的にシスネロス市民軍が崩れた時に、旧ドノバ候軍旗を振りかざして内応を誘うつもりだった。
モンデラーネ公が総退却を命じた時に、モンデラーネ公以下、その指揮官達は僭称ドノバ候部隊への指示を忘れたのだ。
僭称ドノバ候パウティスが事態の異変に気が付いた時は、モンデラーネ公軍主力が撤退した後だった。
モンデラーネ公軍の輜重隊が、すぐ横に動かずにいたために撤退の時期を見逃してしまったのだ。
撤退しようとした時には、シスネロス軍の一部がすでに、輜重隊に取り付きだしていた。輜重隊のすぐ東隣にいた僭称ドノバ候軍は、このためにモンデラーネ公軍主力を追って、西に撤退することができなった。
モンデラーネ公から回してもらった臨時傭兵隊の兵士は、シスネロス軍の姿を見ると大半は逃亡した。
僭称ドノバ候パウティスは、僅かの直参に守られて唯一の脱出方向であった北へと逃亡を開始した。また、その方向は逃げ遅れた、エスパルテ男爵指揮下の部隊や、輜重兵たちモンデラーネ公軍兵士の脱出方向でもあった。




