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千年巫女の代理人  作者: 夕暮パセリ
第五章 ドノバの太陽、中央盆地の暮れない夏
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黒い嵐16 バナジューニの野の戦い 六

挿絵(By みてみん)

 馬の年 六月十三日 第六刻半(午後三時)


「北東から敵軍が接近中、ドノバ州領主軍です。一部では小競り合いも始まっています」


 北から接近する対する警戒部隊を指揮するドノバ州領主軍に対するシュテインリット男爵からの伝令がモンデラーネ公に直接、伝令内容を伝えていた。


「ドノバ領主軍は小勢だ。寄せ付けるな」


 予想より、かなり早いドノバ州領主軍の到着の報に、モンデラーネ公は少し苛ついたように言った。

 ただ、正確にはドノバ州領主軍の軍勢が視認されて、その斥候と小競り合いが起こったというのが正しい。近距離でも戦場では、情報が正確に伝わらないことはままある。


「敵兵力はおよそ五千です」


 モンデラーネ公は右目の下を引きつらせたように伝令には見えた。モンデラーネ公が敵勢を、二千程度と報告されていたことを知らない伝令は、何か叱責があるのかと身を低くした。


「後衛を呼び止めろ。すぐにドノバ領主軍に向けろ」


 ここで、この日、戦場にあった多くの指揮官が犯した誤謬の中でも、比較的大きな誤謬をモンデラーネ公が犯した。


 普通の指揮官は、この時点で、ドノバ州領主軍の半分以下の自軍が、なんとかドノバ州領主軍を支えているうちに主力を退却させただろう。

 総攻撃のため前進を始めた軍勢を呼び戻して隊列を組み直して新たな敵に向けることは難事であるからだ


 しかし、モンデラーネ公は自分の部隊にその能力があることを知っていた。そのため、モンデラーネ公は、主力の退却ではない別の命令を発した。


「前衛はそのまま攻撃続行、後衛は向きを変えてドノバ領主軍に備えろ」


「前衛だけでいけるでしょうか」


 流石に、ドラヴィ近侍長は不安げに聞いた。


「戦果は拡大できないだろうが、シスネロス市民軍の主力は無力化できる。最低限、奴らを引き離したら後衛部隊でドノバ領主軍を屠ってやる」


 モンデラーネ公は、恐るべき勝利への執念からドノバ州領主軍の接近をピンチからチャンスに変えようと頭を切り換えた。


 シスネロス市民軍を突き放して、引き分けに持ち込んでから、接近するドノバ州領主軍に一撃を与えるのだ。領主軍の実力はモンデラーネ公は重々承知している。そして、蹴散らす自信があった。


 モンデラーネ公は、この時点で今日の戦いを、一勝一引き分けにして勝利で終わらせる算段に切り換えた。



 この時点では、バナジューニの野の戦いは小康状態になっていた。滝と見間違うばかりの豪雨は去って、時折、霧雨が舞う程度の天候になってはいた。

 バナジューニの野は、平坦な様だが、北東が一番高く南東部分に向かって非常に緩い傾斜があり、ゆっくりと水が流れ去っていた。


 しかし、もとから湿地であるバナジューニの野は、すぐに水がけるわけもなく、腰までつかるような水溜まりや、足首の上まで埋まるような泥濘が点在していた。

 


 戦車隊が大方討ち取られ、モンデラーネ公軍が引いたことで、ガークはドノバ防衛隊に集結を命じて、戦場の中央で、五列という深い戦列をひいていた。

 ガークは、戦車隊の突進を阻止するという任務を果たしたことで警戒しながらシスネロス陣営まで下がる算段だった。


 祐司には少しずつ薄くなっていく朦気の向こうに、ほとんど武装していない一群の男女を囲んだ隊列が見えた。蒙気は自然現象なので、祐司にも、他のリファニア世界の人間にも等しく視界を妨げる障害である。

 その蒙気が薄くなってきており、こちらが、見えるということは相手からも視認されているということだった。


「巫術師が出て来ている。あれを討ち取りましょう」


 祐司は、男女の一群が巫術師だと判断して、ガークに進言した。


「だめだ、こっちには”屋根”の援護がない。狙い撃ちされる」


 ガークは少し間をおいてから答えた。


「今から後退しても、巫術師の攻撃を受けます。一方的に叩かれるよりは、こっちから討って出てはどうでしょう」


 術をかけるためか、男女の一群が横に展開を始めたのを見ながら、祐司はガークに言った。


「それしかないな」


 ガークは、意を決したようだった。


「ガオレさん、ここはいいから、後ろの方にいる人達にだけでも”屋根”をかけられますか?」


 祐司は蓮台の上のガレオに声をかけた。無茶な降雨術をかけために、横に臥せっていたガレオはようやく人心地がついたくらいに回復していた。


「後ろだけでいいのか」


 ガオレはいぶかしげに言った。祐司は、肯定の意味で大きく頭をふった。


「ガーク隊長、わたしを信じてください。わたしから離れなければ雷は無力化できます。それに、敵を突き離さないと離脱は難しいです」


 難しい顔で前方を睨んでいるガークに祐司は声をかけた。


「ラッパ手いるか」


 ガークは大声で叫んだ。すぐさま、楽士らしい、長髪の痩せた初老のラッパ手がやってきた。


「集合ラッパをかけろ。密集隊形で突っ込む。一か八かだ。ガオレ、全身全霊で”屋根”を頼むぞ。ツハルツ、軍旗を持ってオレの横にいろ」

 

ラッパが鳴り響く中で、ガークはそう言うと、蓮台の上に飛び乗ってドノバ防衛隊に大声で命令した。


「前に巫術師がたむろしている。大枚をいただくチャンスがきた。あいつらは敵も味方もわかっちゃいない。敵の巫術師の攻撃はあっても散発的だ。

 それに、ガオレが特大の”屋根”をかけてくれる。できるだけ集まっていろ。死なずに金貨を得たけりゃ走って走ってあいつらのところに行くんだ」


 ガークは剣を頭上に突き立てると蓮台から飛び降りて走り出した。


「ドノバ防衛隊、行くぞ。旗から離れるな」


 祐司を先頭にガークと、青いアザミの花が描かれた手製の軍旗を持ったツハルツが走り出す。

 それに続いて、まだこれほどいたのかと思えるドノバ防衛隊やその他の義勇軍兵士、そして、隊列から離れて迷子になり半ばやけくそになった傭兵やシスネロス市民軍の兵士を合わせて六百名ほどが続く。



挿絵(By みてみん)





 走るドノバ防衛隊軍旗を狙って、モンデラーネ公の巫術師たちが、霧の中から現れた集団に”雷”の一斉攻撃を開始した。


 巫術士達に帯同していた数名のラッパ手がけたたましくラッパを吹きまくる。


 祐司達の周囲のモンデラーネ兵が一斉に退く。


「”雷”がくるぞ」


 祐司のすぐ後ろを走っていたカーグが怒鳴る。


 空から雨あられのように雷が落下してくる。ところが、祐司とそれに続くシスネロス側の兵士には直撃しない。

 いや、すぐ頭上まで雷は落下しているのだが、地面直前でかき消されたように、稲妻のような光は無くなってしまう。


 祐司が短槍を高く掲げて、避雷針のように”雷”を短槍の穂先に吸収させていたのだ。原理は不明だが、日本から持ち込んだ結晶状の物に、リファニアの巫術のエネルギーは吸い取られて行く。


 短槍の穂先は、水晶にはとても及ばないが、金属の結晶が含まれていた。反対に、ガオレが巫術のエネルギーを発するときは、祐司は槍の穂先を地面につけるようにして妨害しないようにしていた。


 祐司が、”雷”が飛んでくるのを識別できるからこその芸当だった。


 集団の後ろの方は、ガオレがかけた”屋根”が見事に”雷”を跳ね返していた


 祐司たちから離れた場所に着弾した雷は、あちらこちらで戦っているシスネロス兵とモンデラーネ公兵士を同時に吹き飛ばしていた。


 巫術師たちが明らかに動揺しているのが祐司の目にもわかるほど、巫術士達のいる場所が至近に迫って来た。


 数十名ほどの巫術師達が走って逃げ出した。それを援護するようにモンデラーネ公の兵士が立ちふさがる。


「こっちからの術だ」


 蓮台に乗ったガレオは少し血を吐きながら呻くと、雷を放った。


 巨大な雷が、二三十人のモンデラーネ公兵士の一群を吹き飛ばし、百人近い兵士を失神させた。かろうじて、立っているものも足取りがふらついている。


「すげー。特大の”雷”だ」


 祐司の横で、ツハルツが感嘆したような口調で言った。


「面白い。もう一発」


 ガオレはそう言うと、大きく目を見開いて”雷”を再度放った。逃げ出した巫術師達の真ん中で、また特大の”雷”が炸裂した。


 数名の巫術師が数メートルも吹き飛ばされて動かなくなった。巫術師は、皮肉なことに、屋根をかけていない限りは、巫術のエネルギーに弱い。

 あわてて、巫術士達が逃げ出した。しかし、数名は”雷”にやられたのか、起き上がることも出来ない。十人以上が逃げ出したのはいいが足がよろけるのか何度も転倒する。


 そんな巫術士に易々と追いついた、ドノバ防衛隊の兵士は、それこそ巫術師を背後から串刺し、もしくは袈裟懸けに切り捨てた。倒れている巫術師には、二三人が槍で何度も突きまくった。


 護衛の兵士は、まだ、周囲に二三百名はいたが、多くが足元がよろめいていたのと、数名ずつ分散しているために、すぐさま討ち取られるか、ドノバ防衛隊の奔流に恐れをなして、四方へ逃げ去った。


挿絵(By みてみん)



 そして、再び、ドノバ防衛隊は逃げた巫術師を追いかけた。

   

 まだ、あちらこちらに残る朦気と濃霧がたちこめる場所に至ったモンデラーネ公麾下の巫術士達が、逃げて行く先に池のような水溜まりが現われた。

 乾地術は、ぬかるみながらも戦車が進撃可能な進撃路がはっきりと残っていた戦線の後方では行われなかったのだ。そのため大量の水は低地に集まって池のようになっていた。


 そして祐司たち先頭を走る兵は巫術師の一団に追いついた。祐司、カーグ、そしてドノバ防衛隊軍旗を持ったツハルツ、ヴェトスラル師匠は幾人かの巫術師の背後を槍で突きながら彼らの前に走り出た。


 背中を突かれて、よろめくように歩いている巫術師は、後からきたドノバ防衛隊の餌食になっていった。


 突然、目の前に現れた池と祐司に行く手を阻まれた何人かの巫術師たちは剣を抜いた。そして、一群は押し寄せるドノバ防衛隊の兵士に立ち向かってくる。


 そして、別の一群は腰まで水に浸かりながら足を泥に取られて池の中をつききって逃げようとする。


 剣で立ち向かって血路を開こうとした巫術師は、あっという間にドノバ防衛隊の兵士数名に取り囲まれて槍衾にかかった。中には数名の女性巫術師もいたが、戦いで興奮している兵士には男も女も区別はなかった。


 池をつききり逃げ出した者は、泥に足を取られて一歩動く度に十秒以上かかる。そこを槍で背中を突かれたり、数名の弓兵により狙い撃ちされていく。


 たちまち池は鮮血で染まった。


 普通なら、巫術師はこのような場合は降伏して命乞いする。そして、その希少価値から大概は助命されて今度は降った軍の巫術師として、それなりの待遇を受けるのが当たり前である。


 ところが、ドノバ防衛隊の兵士は巫術師を討ち取れば賞金が出ると聞いていたために容赦なく巫術師を殺掠することに身を任せた。


 突然、雪と突風が舞った。幅は狭いが戦場をもの凄い勢いの風が吹き抜けていった。数名の兵士が風で吹き飛ばされて地面に転がった。


 池の端でフードを被った巫術師が剣をかざしている。生き残った巫術士達がその剣を構えた巫術師の周りに集まっていく。


「カタビ風のマリッサだ」


 地面に転がった兵士の一人がその巫術師を指さして叫んだ。


 カタビ風とは冬季にリファニアの内陸部で吹き荒れる地吹雪、祐司の世界ではブリザードというほうが理解されやすい。


 祐司はカタビ風のマリッサという巫術師の噂をシスネロスの宿屋で風呂屋帰りのビールを飲んでいたときに聞いたことがあった。


 降雪と人を吹き飛ばすほどの突風という珍しい術を使う高名な巫術師である。突風はスヴェアも山賊を威嚇する時に使用したが、カタビ風のマリッサの突風はスヴェアを上回る威力である。


 ただ、スヴェアは風と温暖期における降雪はもっとも環境に対する影響力が大きいと言って、突風を見せたのは山賊に対する一回限りだった。

 風を操る巫術師はリファニアを滅亡へ駆り立てる第一の要因であり、それを排除しなければならないとスヴェアが何度か言っていたことを祐司は思い出した。



「オレが相手をする」


 祐司は短槍を背中に回して後ろ手に構えながら走ってカタビ風のマリッサの方へ駈けた。


「ヴェトスラル師匠、すぐに戻ります。ガオレさんをお願いします」


「無茶だ。あいつは、カタビ風のマリッサだ」


 大きなヴェトスラル師匠の声が、祐司の背後から追ってきたが、祐司は振り向くことも、返事をすることもなく、カタビ風のマリッサに真一文字に駈けていった。


 フードを被ったカタビ風のマリッサは、祐司から見て三十前という感じの女だった。そして祐司はマリッサを、倒すべき敵だとだけ認識していた。マリッサは祐司に向かって術を発動した。


 マリッサは微笑を浮かべていた。


 この時、マリッサの顔を正面から見ると目は少しばかり光を発したように見えただろう。マリッサの目が大きく見開かれた。


 目の前に走り込んできたイス人の男に対してかけた術は、周りの兵士を巻き添えにして数十メートルほども吹っ飛んでもおかしくないほどの会心の術のかけ具合だった。

 そして、吹き飛ばされた兵士たちの倒れている一角から仲間の巫術師と脱出できることを確信していた。


 マリッサの顔が引きつった。術は発動しなかった。


 マリッサは剣を上段に構えた。猪突してくる男を直前で避けて剣で横合いから斬りつける算段をマリッサは咄嗟に行った。マリッサは剣の達人でもあるのだ。


 しかし、マリッサが見たこともないほどの速さで短槍が繰り出された。「よけきれない」そうマリッサは感じたがまだ恐怖はなかった。マリッサの胸はモンデラーネ公より賜った最上級の巫術師が丹精した胸当てで保護されているからだ。


 マリッサの胸当ては朽ちた木のように穂先に貫かれ、そして割れた。「どうして」マリッサはそう声を上げた瞬間に自分の胸を短槍が貫くのを感じた。


 マリッサは胸を射貫かれながら本能的に両手で下腹部を守った。モンデラーネ公の子を宿す下腹部を。


 祐司は槍が人体に侵入する、いまだに慣れない感触を手に感じた。槍は人体に侵入すると筋肉が反応して槍が一瞬止まるように感じる。そして、次の瞬間には、すっと槍は人体奥深くに入り込む。


「とりゃ」


 祐司は大声を上げて突いた以上の力で槍を引き抜いた。槍を引き抜き抜きながらカタビ風のマリッサの慈悲を乞うような顔を見た。

 勢いで「相手をする」といったものの口を、噛みしめながら悲しい目で自分を睨んでいる女の顔を見ると堪らない嫌悪感が襲ってきた。

 

 カタビ風のマリッサは前屈みになって跪くように倒れた。大きな動脈を切断したようで見る見る地面に血の海が広がる。

 

 二人の傭兵隊の装束を着た兵士が倒れたカタビ風のマリッサに駆け寄る。一人が急いでマリッサのフードを脱がして、濃い茶色の髪の毛を掴んで首と共に上半身を持ち上げる。

 そして、身体の前に回り込んで正座したような格好になったカタビ風のマリッサの髪の毛を引っ張って白いうなじを露わにした。


 その瞬間、もう一人の兵士が「バオー」というリファニア特有の掛け声とともに、剣でカタビ風のマリッサの首を切断した。


 切断されたマリッサの首があった場所から勢いよく二筋の血が吹き上がった。生きていたのだ。


「短槍の若旦那、お手柄だ。最上級巫術師を一撃で屠ふるとはびっくりだ。われわれにも分け前お願いしますよ」


 髪の毛を掴んでまだ血のしたたり落ちているカタビ風のマリッサの首を持った傭兵隊の兵士が祐司に笑顔で言った。多分、義勇軍で戦功を上げると法外な賞金が出ることを聞き知ったのだろう。


 兵士はマリッサの髪の毛を掴んで、その首を祐司に見せた。マリッサの首は白い歯が見えるほどに口を開けて右目はつむり、左目は半分開けていた。死んだ首に表情はなく、祐司は作り物の首のように思えた。


「首は預かっておきます。心配しないでください。証人は山ほどいますから、貴方の手柄を取るようなことはしません」


 祐司はそれに答えずに周りを見渡した。マリッサに援護してもらおうと集まっていた巫術師達がドノバ防衛隊や迷子になってドノバ防衛隊に従っている兵士達によって大方討ち取られていた。


 バナジューニの野の戦いにおける巫術師虐殺として名を残した戦闘、否、殺戮は終結しつつあった。




「巫術師が襲われています。今、こちらの”屋根”は皆無です」


 モンデラーネ公のもとに、前線から半隊長が伝令にやってきた。近代軍で言えば将校が直接、伝令に来たのことに等しい。


「救援しろ」


 モンデラーネ公は、驚愕すべき報告に反射的に言った。


「今からでは間に合いません。マリッサ様が急行いたしましたので大半は逃げ切れると思います」


 堪らずに、伝来に来た半隊長が言った。伝令が意見具申をするのは、モンデラーネ公の本陣では、珍しい光景である。


「一時後退だ。合図をしろ」


モンデラーネ公はついに戦列の後退を決意した。砲兵の役割を果たす巫術師という武器を一時的にでも失った以上、攻勢が不可能どころかシスネロス側の”雷”を一方的に受けることになるからだ。


 この時点で、モンデラーネ公は、戦いは引き分けで終わらす覚悟を決めていた。


 モンデラーネ公が、後退の合図を命令した時、少しばかり蒙気が薄くなって戦場の四半分ほどが見渡せた。蒙気は再び濃くなったが、モンデラーネ公が戦況を判断するには充分だった。


 モンデラーネ公は、戦況を見せてくれた自分の強運を神々に感謝した。ただ、それは、更なる敗北への深みにはまっていく可能性のある選択をモンデラーネ公にもたらしていた。


「後退の合図は待て」


「戦列を整えろ。残った巫術師をかき集めろ。マリッサが連れ戻してくる巫術師も順次加えろ。

 ”屋根”だけかければいい。隠霧術を使える巫術師にはどんどん霧を出させろ。今度はこっちが霧を味方にする。シスネロス側はもう立っているのも精一杯だ。部隊は混乱している。一斉攻撃で一撃を与えてから離脱する」


 モンデラーネ公は、シスネロス軍主力に手痛い一撃を、お見舞いするという戦術的勝利を狙った。


 モンデラーネ公はシスネロス市民軍を行動不能になる程度の損害を与えて、取って返す刀で、ドノバ州領主軍をも撃破するつもりだった。 


 モンデラーネ公軍前衛のあちらこちらから総攻撃開始を知らせる太鼓が連打される。残った巫術士達が”屋根”をかけ、巫術の霧を出しだした。


 延々とこの時点で八時間以上に及んだ戦いの最中に、モンデラーネ公は沈着冷静で優れた戦術指揮官であることを示した。ところが、モンデラーネ公の目論見は成功しなかった。

 

 これはモンデラーネ公の誤りではなかった。むしろ、この戦いの局面にきても集中力を切らさずに勝機を見いだした決断の人たるモンデラーネ公を賞賛するべきである。

 ただ、神ならぬモンデラーネ公は、自分の決断を打ち砕く予測しがたい四つの陥穽があることなど知るよしもなかった。


 モンデラーネ公であれば一つ一つの要因でなら、咄嗟に対処したであろう。さすがに、予想されなかった総攻撃の成功を阻害する四つの要因は大きかった。


 一つはマリッサが連れ帰って来るはずの巫術師はマリッサを含めて誰一人帰ってこなかったこと。これは、近代戦で言えば砲兵なしで攻撃をすることに等しい。


 二つ目は急激にシスネロス市民軍の士気が回復、いや、指揮官が望みうる最高の士気になったこと。


 三つ目は、モンデラーネ公軍の攻撃に横やりが入ったこと。


 四つ目は、いささか要因としては小さなアクシデントだった。戦場の真ん中にはいつの間にか小さな浅い池が出来ていたこと。



 一つ目の要因は祐司達の義勇軍、特にドノバ防衛隊の活躍による。その活躍以上に義勇軍の錐のような突進はモンデラーネ公をして、敵の最精鋭部隊にして最後の予備軍であるドノバ近衛軍による攻撃だと誤認させた。

 敵が最後の予備軍を投入して、なおかつ、自分に予備軍(この場合はモンデラーネ公親衛隊)が残った状態を勝機だと思ったのだ。


 二つ目の要因は、ドノバ候その人であった。


 シスネロス市民軍が、不安にかられながら戦いの始まった朝と較べて目に見えて薄く戦列を整えようとする時に、戦列の前に、鮮やかな色合いのドノバ州旗とドノバ候軍旗をはためかせた戦車が現れた。


「ドノバ候がこられたぞ」「ドノバ候が我らと戦って下さるぞ」


 シスネロス市民軍の兵士は、歓喜の声をあげた。兵士は自分達の最高指揮官を戦場で見ると士気が上がる。それも苦しくなった所に、救世主のように出現したドノバ候の姿は万の援軍が現れたような効果を兵士にもたらした。


 実戦的でありながら、贅を尽くした甲冑姿のドノバ候が御者の隣に仁王立ちになっていた。


「敵は消耗した。それは諸君らの手柄だ。敵は苦し紛れに最後の攻撃に全てをかけてくる。これを跳ね返せば勝利だ!もう一度言う。敵の攻撃はこれで最後だ。勇敢なドノバ州軍諸君、勝利を掴め」


 大声を出しながら、早足ほどの速さで進む戦車の上からドノバ候は何度もシスネロス市民軍、そして、シスネロス傭兵隊に呼びかけた。


「さあ、市民諸君、我らの歌を歌うのだ。市民軍の歌を。わしも歌うぞ」


「バオォォーーーー」


 ドノバ候の言葉に、市民軍は奮い立った。ドノバ候近衛隊のラッパ手と太鼓手達が曲を奏で始めた。


♪シスネロスの市民達よ、栄光の日がやってきた!

   我らに向かって、暴君の血塗られた軍旗がかかげられた

  血塗られた軍旗がかかげられた

   どう猛な兵士たちが、野原でうごめいているのが聞こえるか?

  子どもや妻たちの首をかっ切るために、

   やつらは我々の元へやってきているのだ!


  武器をとれ、市民たちよ

 自らの軍を組織せよ

  前進しよう(マルション)、前進しよう(マルション)!

我らの田畑に、汚れた血を飲み込ませてやるために!


  武器をとれ、市民たちよ

 自らの軍を組織せよ

  前進しよう(マルション)、前進しよう(マルション)!

我らの田畑に、汚れた血を飲み込ませてやるために!



 市民軍の歌を歌うドノバ候を乗せた馬車が自分達の前を通り過ぎると,兵士達が一斉に武器をかざして叫ぶ。


 ドノバ候と市民軍による「市民軍の歌」の意味合いは、市民軍が自主的に歌う場合とドノバ候が歌えと言って歌った場合は同じ歌詞でも意味合いが相当違ってくる。


 「市民軍の歌」の一大斉唱が終わると、市民軍の兵士は涙を流さんばかりに興奮した。そして、武器を打ち鳴らしながら大声で唱えた。


 ドノバ候の望んだように。


「ドノバ候万歳」「ドノバ州万歳」  


 突然のシスネロスの屋敷で待機している筈のドノバ候の登場、戦いで研ぎ澄まされた神経が、そして勝利まであと少しという錯覚とも希望ともいえる確信が、疲れ切っているはずの兵士の体内に大量のアドレナリンを放出させ熱狂的な雰囲気に駆り立てる。


 「ドノバ候万歳」「ドノバ州万歳」


 戦い慣れている傭兵も含め兵士達の叫び声は、大地と空を振るわせて獣のうなり声のように響き渡った。



 モンデラーネ公の攻撃を阻害した三つ目の要因は、果敢な指揮官によるシスネロス側の戦術的な行動だった。


 戦場の西端の森に近く、少し小高くなっているために戦車が一列になって通過できるほどの乾いた地面があった。

 目ざとくその回廊のような場所を見つけたのは、ドノバ候の庶子で近衛隊戦車隊長のハヤル・バルガネンだった。


 バルガネンは決断が素早く、そして迷わず行動をするという性格だった。総指揮官としては軽率と侮りを受けるかもしれない資質は、戦術指揮官としては最大の美徳だった。


 モンデラーネ公が総攻撃を再度命令した時に、三十乗の近衛隊戦車に加えてドノバ候がディンケ司令にかけあって追随させたシスネロス市傭兵隊の虎の子戦車部隊二十乗が従っていた。


 四つ目の要因は巫術士達が行く手を阻まれて多数が命を落とした池、ないし大きな水たまりである。


 バナジューニの野は前述したように、僅かに北西が高く南東へ向かって水が流れる。ただ、湿地帯であるのは中央部が窪んでいるためである。その窪地の一つが池になっていたのだ。


 モンデラーネ公軍が戦列を組んで前進しようとすると、迂回しなければならないために全体の戦列が乱れるのである。

 

 そして池の背後にはドノバ防衛隊を中核に、シスネロス側の雑多な落後兵を集めた集団がいた。


 池やドノバ防衛隊を避けて前進すれば、シスネロス市民軍が待ち構える防御ラインの中央は攻撃の死角になってしまうのだ。

 そのモンデラーネ公軍の攻撃の死角から、果敢にシスネロス市民軍や傭兵隊が打って出れば、攻撃中のモンデラーネ公軍は横腹を突かれる恐れがあった。


 さらに自分達の背後に数百の武装した敵軍を置いて、背中を見せながら前方の敵と戦うという、いささか攻撃精神を発揮できない状況にあった。

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