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千年巫女の代理人  作者: 夕暮パセリ
第五章 ドノバの太陽、中央盆地の暮れない夏
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黒い嵐15 バナジューニの野の戦い 五

挿絵(By みてみん)




馬の年 六月十三日 第六刻(午後二時)


 モンデラーネ公軍戦車隊の攻撃は、モンデラーネ公がその準備を命じてから、一刻半(三時間)がたっても実施されていなかった。

 迂回路からの連絡が不自然なまでになく、モンデラーネ公は、その戦況をはかりかねて戦車隊の投入を躊躇っていたからだ。


 ようやく、届いた連絡は、リヴォン・ノセ州領主軍が北に退いて防衛戦を行いシスネロス軍の攻撃を跳ね返しているが、最早、迂回路を通じて攻勢に出ることは難しいという内容だった。


 その内容については、モンデラーネ公は何も言わずに少し考え込んだ。


「しかし、出かけたションベンは止めるわけにいかないか」


 モンデラーネ公は高位貴族とは思えない言葉を呟いた。戦車隊は攻撃のために、ずっと待機状態だった。馬という生物を利用する戦車は、スターターを入れてすぐに全力を発揮できるわけではない。また、ずっとアイドリングの状態を続けることも出来なかった。

 

 馬にいつでも全力を発揮させるためには、それなりの工夫が必要である。


 このまま、午前中と同様の攻撃を続けて相手の力を削いでいけば、何時かは戦車を投入する頃合いが来るはずだった。しかし、それは確証のない話であり、ここまで戦いを長引かせてしまった以上、例え勝ってもモンデラーネ公軍の完勝とは言いかねた。


 完勝とは言えないまでも、相手を蹂躙して勝利したと喧伝するためには、もう猶予がないとモンデラーネ公は判断した。


 この時点までは、モンデラーネ公は本来の姿ではない、だらだらした戦いを続けてきたと言っていい。心のどこかに、素人の市民兵などは、郷士格の兵士で構成された自軍に抗しきれずに、早々に崩れると思っていた。

 早期の戦車の投入を考えたのも、リヴォン・ノセ州領主軍によって、シスネロス市民軍が打ち破られてしまっては沽券にかかわるという気持ちからだった。


 数時間の戦い後に、モンデラーネ公は、シスネロス市民軍の戦力を正しく把握し始めていた。そして、どのようにすれば勝利を得られるかを、全身全霊で絞り出すリファニア第一の戦術家としての姿が蘇ってきたのだ。


「よしやるぞ。巫術師は泥濘でいねいを排除せよ」


 モンデラーネ候は、力強い口調で言った。巫術師達はこの命令で最前線の近くまで前進した。


 バナジューニの野は、点在する水溜まりが陽光を跳ね返して所々がきらめいている。その他の地面も軟弱で、戦車の最大の武器である突進力を著しく削ぐことは確実だった。モンデラーネ公は戦車のための突進路を巫術によって造ろうとしていた。



 次第にシスネロス市民軍の後退速度が早まっていく。ディンケ司令は傭兵隊を危急の場に投入していくが傭兵隊の疲労は目にも明らかで、予備隊を援護に回すが予備隊も払拭しつつあった。


 モンデラーネ公軍は、さらに多くの地点で、戦車の障害物である杭を抜き、堀を埋め立てつつあった。


 シスネロス側で手つかずなのは義勇軍であったが、ディンケ司令は退却時の殿軍として、他の部隊を逃すために最後まで温存するつもりだった。


「戦車隊が前に出て来ます」


 見張り台のかわりに、垂直に立てた梯子の上から、見張りの兵士が怒鳴った。


「いよいよ、来るか。ドノバ候近衛隊はどうしてる」


 ブロムク司令は副官に、自分を落ち着けながら聞いた。


「至急こちらに向かうが、一旦後衛で待機して戦列を整えたいとのことです」


「近衛隊が後衛の位置に来たら全軍を防備柵まで出させます。槍衾で馬の勢いを止めます。どんなことをしても、戦車は止めなければなりません」


 ディンケ司令も穏やかな口調で言った。


「できそうか?」


 ブロムク司令はディンケ司令の表情を見逃すまいと顔を見つめて聞いた。


「幸いまだぬかるんでおります。戦車の動きはかなり緩慢になりましょうから、大量の矢を持ってすれば弓兵で御者を討ち取れるかと」


 ディンケ司令は、今日何度目にかなる自分に言い聞かせるような口調で答えた。しかしその表情に迷いはなかった。


「任せる」


 ブロムク司令は安心したかのように言った。


「弓兵を前衛に出せ」


 ディンケ司令は静かに命令した。


 リファニアでは専門の弓兵は数が少ない。リファニア世界の物理的特性で、投射された矢は最初は手で叩き落とせるどの速さで飛びだし、次第に速度を上げていく。矢筋さえ見当をつければ、達人は剣でたたき落とす。凡人でも盾で充分に防ぐ時間がある。


 弓兵が威力を発揮するのは、多数の弓兵で遠距離で頭上から飽和攻撃を仕掛けた場合である。ただし、相手が頭上に盾を構えられると効果は激減する。


 これらの理由から、リファニア世界では弓兵は重きを置かれていない。


 ただ、シスネロス市民軍の兵士のうち、自前で弓矢を揃えて持って来たものが、数名に一人ほどの割合でいる。彼らは柵がある場所で戦っている時は、後方にその弓矢を残置していた。


 ディンケ司令が弓兵を前にというのは、弓矢を持っているものは前に出ろという意味である。


 戦車は囲いがあり、搭乗者は鎧を装備している。また、馬も薄いながら頭部や胸部を専門の鎧を装着しており、直接、矢を射込む攻撃は効果が薄い。また矢の速度が遅く高速機動する戦車に正確に矢を打ち込むことも難しい。


 ただし放物線で矢を打ち込んだ場合は戦車の上部は何の覆いもないために、直射よりは効果が期待出来る。

 馬の背中に命中することも多いにありうる。馬の背中まで覆う鎧は、小柄なリファニア世界の馬には負担が多き過ぎた。


 ディンケ司令は矢で幾分でも突入してくる戦車の数を減らそうとしたのだった。バナジューニの野はぬかるんでおり、全速力で疾走できない戦車の衝撃力はかなり削がれて、矢も当たりやすくなると算段していた。



 戦車隊がモンデラーネ公軍の最前列に並んだ。その姿は、シスネロスの側からもよく見えた。


 その時、バナジューニの野に蒸気がたちこめ始めた。ディンケ司令は、その意味をすぐに悟った。


「くそ。乾地巫術だ。奴ら大地を熱して水分を飛ばしてから戦車で攻撃するつもりだ」


 乾地巫術は地面を温めて湿気を大気に逃す巫術である。地面を温めると言っても精々数度から十度程度であり、難度が高い割には使い道が限定される巫術である。


 ディンケ司令はモンデラーネ公が、わざわざ戦車が使用しづらい湿地であるバナジューニの野に軍を進めてきた理由がようやくわかった。シスネロス市民軍との戦いを有利にする要素を持っていたのだ。


 バナジューニの野から立ち上がる霧のような湯気から、今までの常識を覆すほどの乾地巫術が使用されているに違いなかった。ディンケ司令は心なしか、周囲の温度が上がったように感じられた。


「急いで雨を降らせろ。こっちは降雨巫術で対抗する。相手への”雷”はなくてもいい。降雨巫術ができる巫術師は全て降雨に集中させろ」


 すぐさま、小糠雨のようなものが降り出した。その心許ない雨は、乾いていく泥濘を復活させるにはほど遠いものだった。


「どうした?これだけか」


 ディンケ司令は、この日、初めて感情を隠すことなく怒鳴った。


「相手の術は強力です。かなり鍛錬したのでしょう」


 近くにいた巫術師の一人が、悔しそうに言った。


「義勇軍は石を掘りだしたか」


 ディンケ司令は何かを思いついたかのように言った。


「はい、戦車の通過は困難な程度には」


 ディンケ司令の副官が答えた。


 後方で待機している、義勇軍にディンケ司令は、地面に埋まっている大石を掘り出すように命じていた。バナジューニの野の少し高くなった所には、一抱え以上もある大石がいたる所に埋まっていた。

 少しばかり、地面に突きだした大石を義勇軍は次々掘りだしては、二つ三つばかり積み上げた。


 万が一、シスネロス市民軍が敗退に追い込まれたときに、戦車の後方に回り込まれたりすることを防ぐための低い石壁である。


「義勇隊を前進させろ。戦車が突っ込んできても、あいつらを蹴散らしている間に戦車の隊列が乱れる」


 ディンケ司令は、非情と知りつつ命令した。義勇軍の半分も生き残れないであろう命令を。


 今までと違った太鼓のリズムが打ち鳴らされる。幾流かの旗が振られる。


 ダッアダーン・ダダダ  ダッアダーン・ダダダ



「出撃命令だ」


 ガークが立ち上がった。


「任務は防衛線前にて敵戦列の防御、なお第二部隊は可能なら敵戦列を突破して敵後衛部隊を一撃せよ。一撃後は戦線離脱も可、ガーク隊長武運を祈る。ディンケ司令」


 ディンケ司令からの伝令が出撃準備を急がせる。「わかった」と短く答えるガークの横では、書類上の隊長であるネースレンが「隊長はオレだ」と小声で抗議する。


 ガークはこの出撃がモンデラーネ公戦車部隊の阻止のためだと正しく理解していた。その任務達成は自分たちの体や命を、高い確率で差し出さねばならないことも。

 そして伝令の最後にあった敵戦列を突破して敵を混乱させれば離脱してよいとの命令に、ディンケ司令の武人としての矜持をガークは感じた。そして自分が戦術家としての策をふるえる余地が、あることも理解していた。



 義勇隊はガークが率いる武芸達者な非シスネロス市民と志願したシスネロス市民からなる自称ドノバ防衛隊と非シスネロス人からなる部隊に分かれていたが、さらに非シスネロス市民の部隊は二種類の兵士から構成されていた。



 一般の義勇軍は第一部隊、祐司の所属する選抜義勇軍、自称ドノバ防衛隊は第二部隊、そして、第三部隊、影では「捨て石」と呼ばれる。


 第三部隊は二人一組となり、戦線からの逃亡を防ぐためお互いの足を1mほどの長さの鎖で繋がれている者たちが三百名ほどで編成されたいた。身内がなく人質のいない者と犯罪者として拘留されていた者もしくは、拘束時のドサクサに紛れて犯罪者と目された者である。


 先陣は第三部隊、そして、第二部隊を挟むように第一部隊が左右に分かれて前進を開始した。



挿絵(By みてみん)

 


「前進」


ガークが大音声で命令した。ドノバ防衛隊が、三段の隊形になり槍を構えて前進を開始した。中央にガーク、軍旗、蓮台に乗ったガオレのチームがいる。


 ドノバ防衛隊につられるように左右の、義勇軍第一部隊も前進を開始した。義勇軍はすぐさま柵と壕の部分を通過した。

 モンデラーネ公軍歩兵は、戦車の攻撃のためと乾地術による地面温度上昇のために、かなり防備柵の地点から引いていた。 


「ちょっときついぞ。味方の巫術師は大分疲労している。”屋根”はかけてくれんかもしれないぞ。下手をすると”雷”を雨霰とあびるぞ」


 防備柵の辺りまでくると、ガークが祐司にだけ小声で言った。


「大丈夫です。義勇軍の兵士を無駄に死なせることはありません。さあ、前衛に出ましょう」


 祐司は、自信満々という目でガークを見ながら言った。その祐司の表情にガークは感じるところがあった。


「お前等、命を長らえたいなら黙ってオレについてこい」


 ガークは戦列の前に飛び出すと怒鳴るように言った。「バォーーーー」というどよめきのような声が戦列全体に響き渡った。


 その時、モンデラーネ公の戦列の所々に割れ目ができた。その割れ目の先には、突進する直前の戦車の姿があった。


 祐司は戦場を覆うように大きな雲が流れてきているのを見上げた。また”乾地巫術”によって戦場の湿度は急激に増していた。祐司はこれらはリファニアの神々の加護に違いないと心の中で思った。


 そして祐司は蓮台のガオレに声をかけた。


「ガオレさん、お得意の雨を頼みます」

 

「その前に、シアツを頼む」


 祐司はガオレの言葉に少し戸惑ったが、水晶に貯めてある巫術のエネルギーをガオレの様子を見ながら注ぎ込んだ。


ガオレは術をかけだした。そして豪雨が降り出した。その直後、モンデラーネ公軍の戦車が突進を開始した。


 豪雨はすぐに、豪雨ではなく修飾なしの滝のような雨となった。乾地術で乾きかけた地面からもの凄い勢いで、蒙気もうきが立ち上る。そして見る間にあちらこちらに大きな水溜まりができ、それらは次々と連なって辺り一面を水浸しにしていった。


 突進してくる戦車の行き足が見る見るうちに落ちる。中には深いぬかぬみに車輪を取られて完全に停止している戦車もある。


 その戦車の姿も、モンデラーネ公軍も蒙気と雨によって見えなくなっていく。


「ユウジ、もっと力をくれ」


 ガオレの言葉に祐司は、さらに戸惑った。ガオレの体力が巫術のエネルギーの補充に耐えられないほど弱っているのがわかっていたからだ。


「もう一度オレに力をくれ」


 ガオレは怒鳴るように頼んだ。祐司は意を決して巫術のエネルギーを水晶からガオレに移した。


「もっとだ」


「ダメです。もう、限界です」


 祐司は頼み込むように言った。


「限界はとっくにきている。人間てのは、死ぬ時は分かるんだ。オレに死ぬ前にもう一度力をくれ」


 ガオレは降雨術をかけつづけながら言った。


「ユウジ、娘のボティルにオレの死に様を伝えてくれ。負け犬の死に様じゃなかったってことをな」


 祐司は、さらに巫術のエネルギーをガオレに注ぎ込んだ。前にもまして、滝の下にいるような雨が降り出した。

 顔に当たる雨が痛いくらいである。強烈な豪雨の中心は、モンデラーネ公軍が布陣している辺りだから、そこではどのような状態になっているのか祐司は想像もできなかった。


「後衛の市民軍を押し出して、戦車を討ち取れ。空いた戦列には傭兵隊を配備しろ」


 あまりの豪雨と、蒙気にあっけにとられていたディンケ司令が、あわてて言う。いつまで経っても、モンデラーネ公の戦車が現れないことの理由が、酷くぬかるんだ地面に、戦車が立ち往生しているのだということに、ようやく思い至ったのだ。


 この時、ディンケ司令が傭兵隊を繰り出せば戦車隊どころか、モンデラーネ公軍前衛の戦列兵を全て駆逐することも可能だったかもしれない。しかし、ディンケ司令は、自分の完全な指揮下にある切り札の傭兵隊を最後の攻勢に温存した。


 ただ伝令の不徹底で百人程の傭兵隊の兵士が、市民兵と共に前進した。

 

 もの凄い蒙気が戦場を覆う。あまりに大量の水蒸気がたちまちのうちに空中で水滴となり湯気のように漂っているのだ。温度も戦場では数度上がっている。

 それでも三十度に達しない温度であったが、そのような高温多湿な環境の経験したことのないリファニアの兵士達にとっては苛酷な環境が出現した。


 視界は十メートルもなくなった。モンデラーネ公戦車隊は方向を見失った。


 乾燥した地面と人のふくらはぎまで浸かってしまうような大きなぬかるんだ水たまりが混在する中で時に現れるシスネロス兵士や味方をはね飛ばす戦車、ぬかるみに車輪を取られて動けなくなったところを、四方から攻撃されてなぶり殺しになる戦車、時に戦車同志が激突して、馬が戦車の残骸を引きずっていく。


 中には進路を見誤った挙げ句に、味方の戦列に突入する戦車もあった。霧の中から突然現れては、数名の兵士をはね飛ばしていく戦車のために、シスネロス市民軍も、モンデラーネ公軍の戦列は乱れに乱れた。


 地面はぬかるんで、一歩歩くと足首まで埋まってしまう。


 四半刻(三十分)の後には、モンデラーネ公のご自慢の一つである戦車部隊は実質的な戦力を喪失した。

 特に手痛かったのは、訓練に手間のかかる戦車兵の半数以上、資質を見分けた上で調教を繰り返した馬の五分の四が帰還しなかったことである。


 そのような様子は、両軍の指揮官の所からはまったく見えず。絶え間なく味方の勝利、総退却といったような矛盾した報告だけがもたらされる。


 モンデラーネ公戦車隊壊滅の後も、水溜まりと、ぬかるみ、そして視界の利かない中でシスネロス市民軍と、モンデラーネ公軍のヤクザの出入りのような戦闘は続いていた。


 視界が効かないために指揮官は、自分の部隊すら見渡せずお互いの兵士が出会った敵と戦うだけであった。


 半刻(一時間)近く、モンデラーネ公もシスネロス軍指揮官のディンケ司令も次に出すべき命令を躊躇していた。


「全軍、後退。防衛線の位置まで下がる」


 シスネロス軍のディンケ司令は我慢できなくなって後退の命令を出した。しかし、混乱した状態の戦場には、大勢の迷子兵があふれており組織的に後退してきた部隊は全体の三分の二程度だった。


 そして、味方の後退を知った兵が三々五々もどってくる。



挿絵(By みてみん)




 モンデラーネ公軍軍の前線指揮官の伝令内容は、まだ混乱していたが、敵が後退を始めたという報告が混じり始めた。


 こころなしか、霧のような朦気も少し薄くなってきた。その様子に、なんとか戦場を見ようと目を懲らしていたモンデラーネ公のもとへ、息を切らした伝令がやってきた。


「敵の一隊が、我が戦列の後方へ進出しました。今、周辺の部隊を集結させて本陣への突破を阻止しております」


 前線からのこの報告にモンデラーネ公本陣は驚愕した。あわてて、ドラヴィ近侍長がモンデラーネ公の周辺に兵を集めて防備を固めた。


 このモンデラーネ公本陣を狙っているとされたシスネロスの部隊とは、ドノバ防衛隊のことであった。

 戦場全体が、彼我入り乱れての乱戦になるなかで、部隊としてまとまって最もモンデラーネ公陣営に接近していたためである。もっとも、ドノバ防衛隊には、モンデラーネ公本陣を突く意志も、さらに、モンデラーネ公陣営に接近する意志さえもなかった。


 モンデラーネ公は、戦車部隊を混乱させて、味方戦列の一部を突破した部隊は、敵の最精鋭部隊であるドノバ候近衛隊だと思っていた。その部隊は不敵に本陣を狙っているという。モンデラーネ公の知識では、そのような働きができるのはドノバ近衛軍しかなかったからだ。


 モンデラーネ公は敵司令官が、大きな誤謬をしたと確信した。戦いの帰趨が見えぬまま闇雲に切り札を投入すれば戦機を逸するからだ。


 モンデラーネ公はいよいよ戦機が熟したと判断した。


「総攻撃だ。前衛のすぐ後ろに巫術師をつけて援護させろ」


 モンデラーネ公の突然の言葉に、ドラヴィ近侍長は一拍おいて「御意」と返事した。


 モンデラーネ公は、戦車隊の攻撃が失敗に終わったことを受け入れていたが、勝利への執念を捨ててはいなかった。


 モンデラーネ公の本当の自慢は戦車隊ではない。大枚をつぎ込んで幼い頃から養成した巫術師集団こそが戦いの帰趨を決してきた一番の要素である。


 独立自我の強い巫術師を雇うのではなく自前で、忠誠を誓う巫術師を揃えてきた強みはリファニア広しと言えども他にはない切り札と自認していた。

 その巫術師集団は雇われ巫術師とは異なり最前線近くまで進出することに抵抗はなかった。そして、その巫術師集団の中でも一頭飛び抜けているのがマリッサである。


 午前中、モンデラーネ公の攻撃をかわしていた敵は、モンデラーネ公が考えていたより何倍も粘ったが、流石に疲労に色が見える。

 また、戦車隊は戦力外になってしまったが敵の予備隊が払拭したことで、こちらに残っている戦力を一気に投入して戦いに決着をつける時だと判断したのだ。


 攻撃の要である虎の子の戦車攻撃が無力化した以上、戦いを切り上げるのが常識的な判断だったかもしれない。ただ、モンデラーネ公は戦場においては、不撓不屈の人であった。


 泥沼のような消耗戦に陥った戦いは、ギャンブルの誘惑に満ちている。或いは、突然暴落をした株のようなものである。

 次の掛け金で大当たりになるかもしれない。明日、再び株は反転して高騰するかもしれない。


 敵が本格的な逆襲に転じていないため、こちらから一方的に戦いを切り上げることも可能な今こそ決断の分かれ目だった。

 モンデラーネ公が、戦いの初心者であれば、己の損害に怯んで戦いを切り上げたかもしれない。ただモンデラーネ公は己の兵士の血に動揺するような人物ではなく、歴戦の将だった。


 現在のままでは掛け金を失って敗北は確実なのだ。ならばと思うのは人情である。


 モンデラーネ公にとって現時点で戦いを止めることは、敗北とまでは言えなくともシスネロス市民軍がモンデラーネ公と互角以上の戦いをしたということを喧伝されてしまう。


 無敵のモンデラーネ公軍は、素人同然のシスネロス市民軍の前から撤退するなどということは実質的な敗北であり、武威を持って周辺に睨みをきかせて、戦わずに、幾多の地域を併合をしてきた実績が無になりかねない。


 シスネロス市民軍が、モンデラーネ公軍を撃退したと喧伝されれば、今までは、戦わずに降っていた敵が、本気で反抗するようになるだろう。

 戦いになれば勝っても損害は出る。この戦いに負ける、或いは引き分けでも余計な戦いを強いられるだろう。


 すでに、大勝利は望めなくなっているが、せめて敵将の首を取るくらいの勝利を持って、バナジューニの野の戦いを終えたいのがモンデラーネ公の気持ちであった。


「敵は最後の予備を投入した。その部隊も突進力を失っている」


「切り札を最後まで取って置くことは、殿を於いてリファニアの誰もが出来るものでは御座いません」


 ドラヴィ近侍長が心底から言った。


「乾地術は何故効かなかった」


 モンデラーネ公は、護衛役で傍に置いたマリッサにたずねた。


「シスネロスはかなりの数の降雨術に長けた巫術師を動員したと思われます。おそらく二三十人は下らないかと。

 ただ、このような長時間の豪雨です。すでに体力も尽きかけておりましょう。残念ながら、こちらの、乾地術をかけております巫術師もそろそろ限界では御座います」


 マリッサも、初めて見る豪雨に、たった一人の巫術師の仕事だとは想像も出来なかった。もともと天候を操る巫術は難度が高いためにマリッサの言うように二三十人も、それが、可能な巫術師を集めることも実は考えにくいことだった。


「雨と乾燥では霧をつくり出すばかりだ。今の所、霧はこちらに不利。乾地術を行っている巫術師も前線に出せ。シスネロス市民軍の後方へも”雷”を見舞ってやれ」


 モンデラーネ公は、ドラヴィ近侍長に指示すると、今度はマリッサに命令した。


「マリッサ、お前はすぐに巫術師達の所へ行って援護しろ。可能なら突撃路をこじ開けろ」


「お任せください」


 マリッサは一礼をすると、すぐさま走り去った。


「霧が晴れたら親衛隊を前線に出して一気にカタをつける。親衛隊に準備をさせておけ」


 モンデラーネ公はドノバ防衛隊を、ドノバ候近衛隊と誤認してはいたが、ドノバ候近衛隊の三倍の兵力を持つモンデラーネ公親衛隊は、ドノバ候近衛隊が新手として投入されても、それを食い破る力はあった。


 モンデラーネ公は間違ってはいたが、修復可能な判断の間違いの範疇でとどまっていたのだ。


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