黒い嵐12 バナジューニの野の戦い 二
馬の年、六月十三日 第四刻(午前十時)
シスネロス市民軍の防衛線を攻撃、突破するために、ドノバ州領主軍に備えた部隊の四千の警戒部隊のうちから、二千人が増強された。
この兵力がすぐさま、シスネロス市民軍に投入されたわけではなかったが、増援がくるということで、シスネロス市民軍に対してモンデラーネ公軍予備兵力が惜しげもなく投入された。
なんとか持ち堪えているシスネロス市民軍は、急に大きな圧力を感じるようになった。寄せては引く敵の攻撃の間合いが予備兵力という増援を受けて短くなったからだ。
そして、寄せ手は次々と交代するが、数は多くとも守っている人間は同じだから、疲労度がモンデラーネ公軍よりはるかに大きい。
また、戦い慣れているモンデラーネ公軍兵士は、適当にシスネロス市民兵をあしらいながら戦っているが、シスネロス市民兵は目一杯の戦いを続けていた。
「ドノバ侯爵近衛隊に援護を要請しろ」
ディンケ司令は、少し早いと思ったが取り返しのつかなない状態になる前に、ドノバ近衛隊も、傭兵隊と同様に防御ラインの火消し役として投入してもらうように要請する決断をした。
ドノバ候近衛隊は、ドノバ候直属部隊であるから、野戦軍司令のディンケ司令どころか、シスネロス市民軍総司令のブロムク司令に、指揮権がないため直接命令はできなかった。
しかし、ドノバ候との話し合いで、分割して使用しないのであれば傭兵隊の補助として使用する許可を得ていた。
ディンケ司令が伝令を呼び寄せて内容を伝えていると、副官が青い顔をして走ってきた。
「ドノバ侯爵近衛隊より伝令」
副官は息も絶え絶えの伝令をディンケ司令の前に連れてきた。
「さあ、先程の内容をもう一度」
「シスネロス直轄地軍の半数がシスネロス市民予備隊に攻撃をかけています。攻撃をかけているのは非選挙権地域の軍勢です」
伝令は、言葉を詰まらせながらも早口で報告した。
「裏切りか」
ブロムク司令が呻くように言った。
「そう判断できます」
「モンデラーネ公側の領主軍も接近中のため、近衛隊はシスネロス非選挙地域直轄地軍の横腹を攻撃するために出動したいと言っています」
少し落ち着いて伝令は、はっきりと言った。
「くそ、何か見落としていると気になっていたが、これか。モンデラーネ公が調略をかけていたのはシスネロス非選挙権地域の直轄地軍だったんだ」
ブロムク司令がうめくように言った。ブロムク司令は、シスネロスからの行軍中に嫌な予感があったのだ。
シスネロス市直轄地のうち、市参事の選出に関与できない非選挙地域の住民の中には、シスネロス市参事会の統治に快く思っていない者が多いことは周知の事実だった。
シスネロス市民も、シスネロス市参事会も年貢が他の領主領に較べて、はるかに低く、シスネロス市の繁栄の余録を受けているシスネロス市直轄地の住民が、実際に寝返るなど考えにくいことだった。
残念ながら、シスネロス市の人間は、与える者と、与えられる者の認識の違いを理解してはいなかった。
「ドノバ侯爵近衛隊へは予備市民軍への加勢をされよと丁寧に伝えろ。ドノバ候近衛隊ならなんとか対処してくれよう」
ディンケ司令は、内心の動揺を隠して言った。
「今は、ここを我々だけでしのぐしかない。今の話は各部隊には伝えるな」
一刻ほどの間に、四度、モンデラーネ公軍は押し寄せては引くという戦いが繰り広げられた。モンデラーネ公は崩れそうになったシスネロスの戦列に予備隊を投入し、ディンケ司令は予備隊をその戦列を支えるために投入した。
そして、被害が積み重なってきた両軍は再編成に入った。特に、陣形を整えるためと、昼食を取り、水分を補給して体力回復を図るモンデラーネ公軍は、散発的な威力偵察のような攻撃以外はおとなしくなった。
防衛に撤しているために、主導権を握られているシスネロス軍は、いつ再開されるかわからない敵の攻撃に備えて兵士各自に、水と一切れのパンを配るのが精一杯だった。
半刻ほどして、再びモンデラーネ公軍が波のように押し寄せてきた。
「今度もなんとか防ぎました」
再開されたモンデラーネ公軍の攻撃を二度に渡って防いだとわかったときに、ディンケ司令に副官が安堵の声で言った。
ただ、モンデラーネ公軍の兵士以上に、シスネロス市民軍の疲労は傍目にも明らかであり、傭兵隊も獅子奮迅の働きはしていたが、いつまで体力と士気が持つかは余談が許さない長時間の戦いになっていた。
「兵を入れ替えては何度も攻撃をして、こちらを消耗させる方法を変更するつもりはないようだ。さすがに、モンデラーネ公は戦い慣れている」
すでに昼の時間を大きく回っているのにも関わらず沈む気配のない太陽を、恨めしげにみながらディンケ司令が言う。そして、ディンケ司令は味方が少し下がったために見渡すことができるようになった防衛ラインの異変に気が付いた。
「戦列の前を見ろ」
味方の戦列の前にある一列目と二列目の溝は同じ場所で数十ヶ所でかなりの幅が埋められており、その間にある杭も抜かれていた。
「戦車の突撃路だ。あいつらこれが狙いか。いや、どのみち、ぬかるみで戦車は使えない」
ディンケ司令は,大急ぎで対策を考え出した。
「どの隊も第一陣は、後退して休息がいるほどに、やられていますが、溝の破壊は十ヶ所近い場所で出来ました」
モンデラーネ公が乗る馬車の前で次々にやってくる伝令からの報告を聞いていたドラヴィ近侍長が、報告を急いで頭の中でまとめてモンデラーネ公に報告した。
「臨時傭兵隊を編成して正解だったな」
モンデラーネ公は薄ら笑いをしながら言った。
モンデラーネ公は、リヴォン川を渡河して兵糧が集まるまでに、リヴォン・ノセ州の領主に数十人ずつの男を雑役夫として差し出すように命じていた。
これに対して各領主は浮浪者や犯罪者などを纏めて送ってきた。モンデラーネ公はこれらの男達に対して合戦後に幾ばくかの賞金を約束した。
七百人ほどの領主が送ってきた男達に加えて、ちょっとした人間狩りを宿営地周辺で行い、後々面倒の起こりにくそうな旅人などを捉えて増員したのが、モンデラーネ公の言う臨時傭兵隊である。
モンデラーネ公の臨時傭兵隊はシスネロス側の義勇軍に匹敵する存在である。ただ、モンデラーネ公の臨時傭兵隊には、優れた戦術指揮を行うガークも、ある意味でリファニア世界を超越した祐司に匹敵する男はいなかった。
モンデラーネ公の臨時傭兵隊は、流石に技量と士気の関係から第一波の攻撃には参加してはいなかったが、混戦状態になった地点に投入されて溝の埋め立てを行った。
「御意。臨時傭兵隊は撤退させますか」
ドラヴィ近侍長は、待たせてある伝令達に指示を与えるためにモンデラーネ公にたずねた。報告を聞くのは自分の役目だが命令を出すのは、モンデラーネ公であるべきと心得ているドラヴィ近侍長は伝令達とモンデラーネ公の間から一歩横に寄った。
「いや、どうせ使い捨てのつもりだ。戦車の突進の前に攻勢に出させろ。少しでも溝を掘りもどされては厄介だ。掘り戻しの邪魔ぐらいはできるだろう。
それより、後衛を前に出せ。前衛は再編成しろ。シスネロスの陣を破ったら一気に投入する。それまで、十分休ませて食事も摂らせておけ」
伝令達は、この命令を自分達の指揮官に伝えるために走り去った。
リファニアでは、軍を前衛と後衛に分ける陣形が一般的である。乾坤一擲の大会戦というのは、ほとんど行われていなかった。戦いは領主軍同士の戦いがほとんであり、前衛同士で試し戦のような状態から戦いが始まる。
大概は、この前哨戦で分の悪かった方が引き下がり戦いは交渉へと入る。前衛同士の戦いで決着がつかなかった場合は、前衛と後衛が交代して戦いが継続する。
一つの部隊が壊滅的な打撃を受けないようにという暗黙のルールがある。
領主の軍勢は、土地を所有して、その地域を治めている郷士の軍勢の寄せ集めであるから、被害は均等にしておかないと、領地の政治的なバランスが崩れたり、郷士軍が被害が自分ばかりに、集中していると感じれば、戦いを放棄する恐れもあった。
このために、リファニアの軍勢は、前衛・後衛、あるいは前衛・中衛と・後衛といった構成になり、適時、軍勢を入れ替える。
軍勢の入れ替え時は、守りが脆弱になるので、これにつけ込もうとする攻勢側と、上手に、力を温存していた後衛を、相手に当たらせようとする守備側の駆け引きが行われる。
モンデラーネ公軍の戦い方も、この考えや習慣に因っている。より、軍を細分化して、常に敵に攻勢をかけつつ、自分の軍勢は疲労してしまわないよう攻勢時に軍勢の交代を行っている。
時間はかかっても、相手はいつか体力、気力の限界に達して戦列が崩壊する。こまかなジャブをボディーに長時間叩き込むような戦法である。
時間はかかるが、自軍の損害は限定できる。最期は、戦車による両翼包囲、もしくは中央突破というトドメの一撃を与える。
ただ、バナジューニの野の戦いでは、モンデラーネ公が考えていた以上に、シスネロス市民軍が粘ったことで、モンデラーネ公軍の方が攻め疲れる恐れが出て来た。
膠着した状態を、どう打開しようとモンデラーネ公が思い悩んでいるときに、入ってきた情報が東の迂回路で、シスネロス軍が同士討ちで、主力が撤退しているというものだった。
この情報が本当なら、腹背から攻撃して一気にシスネロス軍の主力である市民軍を壊滅させることができる。ただし、政治的には、モンデラーネ公直卒部隊がシスネロス市民軍主力を壊滅させなければならなかった。
そこで、モンデラーネ公は戦車による戦列突破を考えた。本来、戦車は敵が障害物のない場所で戦列を構成しているか、敵が後退を始めた時に用いることが効果的である。
シスネロス市民軍が、戦車の突撃阻止を目的に障害物を作っていたために、モンデラーネ公は戦車を温存していた。
しかし、戦車を突進を阻止する障害物の一部が除去されたことから、敵の戦列に錐のような穴を開けるように戦車を突入させて、一気に敵の背後に回りこませようとしたのだ。
ただ、モンデラーネ公は、迂回路からの情報が途絶えていることには気になっていたが、敗走するシスネロス軍を追いかけているため伝令を出し損ねているとも考えられた。
リヴォン・ノセ州領主軍には、迂回路を突破されてモンデラーネ公軍の背後にシスネロス軍を回り込ませないことが任務であると申しつけており、そのための軍監も派遣していた。余程のことが無い限りは、敵の陽動で釣り出されることはなく、リヴォン・ノセ州領主軍が一気に敗北するとは考えにくかった。
もともと、敵を釣り出す陽動は、下手をすると本当の敗走になりかねない難しい戦術行動だった。モンデラーネ公はシスネロス市民軍が、そのような芸当ができる軍勢とは思えなかった。
そのような、判断をしているシスネロス予備市民軍との戦いに入っているはずの、リヴォン・ノセ州領主軍と軍監のノシェット男爵から、戦勝の連絡のないことで、モンデラーネ公は一抹の不安をぬぐいきれなかった。
「戦車隊にすぐにでも出撃できるように準備しろと伝えろ。敵の中央を突破させて、そこへ、左翼軍の後衛部隊を飛び込ませる。デラトル男爵には右翼隊で牽制攻撃を続行させろ。巫術師隊を前に出せ。
今から戦車の突進路を造らせる。突進路ができて、左翼後衛の準備が整ったら、戦車隊は出撃せよ」
モンデラーネ公は、そう矢継ぎ早に命令したが心のどこかで戦車隊の早期投入に躊躇していた。
モンデラーネ公自身は、迂回路から、シスネロス市直轄地軍の内応を伝えた、最初の伝令が到着して以来、次の伝令が届かないことに何か引っかかっていたのだ。
モンデラーネ公は戦いが終わっても、気付かなかったが、この時にモンデラーネ公に最大の危機が訪れようとしていた。
モンデラーネ公の伝令が戦場を走り回っているころ、シスネロス北側にあるドノバ候公邸に二輪馬車に乗った伝令が到着した。
伝令は急いで公邸に設けられた、シスネロス防衛軍本部に駆け込んだ。
「で、始まったのか?」
伝令からの報告書をランブル市参事が読んでいる横で、ハタレン市長が伝令に直接聞いた。
「はい、一刻ほど前に、わたしは合戦が始まってすぐに出立しました」
「狼煙の合図では、いまだに合戦中とのことです」
シスネロス市守備隊のマッシス司令が補足した。シスネロスとバナジューニの野の間には数箇所の狼煙場が設けられていた。
狼煙の煙の数で、合戦中、撤退中というなど、簡単な情報が伝わるような手筈になっていた。
太陽が出ている時は、祐司の世界では、ヘリオグラフとよばれた二枚の鏡を使った合図も送られていた。これは、敵からは判別できない優れた方法だった。そのために、シスネロス軍では機密扱いで、軍の関係者以外は、その存在を知らなかった。
「少なくとも合戦は一刻以上は続いているわけだ。ディンケ司令の目論見通りに最初の一撃をかわしたんだ」
ハタレン市長が、少し安堵したように言った。
「こちらの方が兵力が多いから、粘っていればいい」
いつものように、ドストレーム市参事は冷静な口調で言った。
「どうだ。シネス砦で遊んでいる兵を応援に回したらどうだ」
ランブル市参事が突然、思いついたように言った。
「なりません」
マッシス司令がランブル市参事に叱責するように言った。
「では、シネス砦の兵を北上させたらどうだ。敵に遭遇すれば砦に戻ればいい。遭遇しなければ、モンデラーネ公軍の背後に回れるぞ」
ランブル市参事は、別案を提案した。
「リヴォン川に展開してる船からの報告では、確かにシネス砦の北四リーグ以内には敵はいません。
リヴォン川沿いの道とバナジューニの野に至る道の三叉路には、リヴォン。ノセ州領主軍の一部がいるだけと報告が来ています」
水軍を管制するダネル市参事が、ランブル市参事の案を擁護するように言った。
「最高司令官の判断無しに一旦決めた配置を換えてはなりません」
急遽、留守部隊を任されている、市民軍のマッシス司令が、叱るような声で言った。マッシス司令は、ブロムク司令の前任者で退役しているところを急遽、市防衛隊の司令として呼び出されていた。マッシス司令は石橋を叩いて渡るような性格だった。
そのためもあって、シスネロス市参事会はブロムク司令の留守中、シスネロス守備隊の指揮を任せるために軍務に復帰してもらっていた。
「あなたが、そう言うなら」
ランブル市参事は、ちょっと不満そうだったが素直に従った。最高指揮官という肩書きはあっても、軍事に関しては素人のランブル市参事は、玄人の軍人に言われると反論はできない。
もし、最高司令官の市民軍ブロムク司令か、またドノバ候がシスネロスの司令部にいた場合は、結果論ではあるがモンデラーネ公が討ち取られるという可能性もあった。
彼らなら必ず、ランブル市参事が言った策を実行しただろう。もちろん、ドノバ候にシスネロス市民軍を動かす権限はないが、残った家臣団をシネス砦に急行させるから、シネス砦から兵力を出せと言うくらいのことは言っただろう。
どんな軍隊でも戦っている最中に、敵軍に背後に回られることほど恐ろしいことはない。一気に士気が崩壊する恐れもある。
しかし、ブロムク司令はランブル市参事の指示で、ドノバ候は自分の意志でバナジューニの野にいた。
ランブル市参事は政治的な思惑を優先させたために自身の保身に繋がる最後の機会を逃したのだ。
「では、ブロムク司令に指示を仰ぎましょう」
自分自身も、内心ではランブル市参事の意見に興味を持っていた、ハタレン市長が言った。
「いいでしょう。合戦で忙しいだろうが、大局も判断してもらわないとな」
ようやく、マッシス司令が肯定の言葉を発した。ただ、この言葉が終わってすぐに、部屋に入ってきた伝令の報告によって、実行されることはなかった。
「シネス砦の北方で、大部隊が移動中」
伝令は、モンデラーネ公のリヴォン川渡河点を監視している水軍からのものだった。
「やはり、シネス砦から兵力は出せない。釣り出すつもりだったのかもしれない」
マッシス司令が、そう言うと今度は誰もが沈黙した。
「まあ、ブロムク司令とディンケ司令に任せた以上は、ここで戦勝の報告を待とう」
ハタレン市長が、そう言って話を打ち切った。
実はこの大部隊は、戦闘部隊ではなかった。モンデラーネ公の命令でバナジューニの野へ急行している輜重隊だった。
この部隊に対する正しい報告がシスネロスにもたらされたのは、最初の伝令がバナジューニの野から到着して三刻半(七時間)ほどもたってからであった。
リヴォン川沿いにシネス砦に南下する道とバナジューニの野に向かう道が分岐する三叉路を守っていたリヴォン・ノセ州領主軍千を排除する必要はあった。
ただ、戦意が低い寄せ集めの領主軍を、傭兵隊の精鋭に支援されれば、予備市民兵とはいえ二千程度のシスネロス軍が撃破する可能性は高かった。そして、輜重部隊を急襲すればモンデラーネ公は撤退を決意しただろう。
例え、リヴォン・ノセ州領主軍を撃破できなくとも、モンデラーネ公はバナジューニの野から幾ばくかの兵力を派遣しただろう。それは、主戦場であるバナジューニの野でのシスネロス軍にとっては、大きな福音になった筈である。
モンデラーネ公ともあろう者が背後を脆弱な状態のまま放置していたのには、それなりの理由がある。
一つはシネス砦に入ったシスネロス部隊に兵力を誤認していたことである。当初、シネス砦には予備市民軍五百しかいなかった。
この情報はシスネロスの協力者、間諜、また、シネス砦付近での情報収集から確実視されていた。
三日前の軍議で、予備市民軍二千と傭兵隊二百が増強されたが、ダネル市参事の提案で全て川船で運ばれた。さらに、ブロムク司令の提案で、派遣される兵士にも船でバナジューニの野に向かうと説明されていた。
増員された兵士はシネス砦に到着すると、川に大きく突き出た桟橋と、補給物資に隠れて砦に入った。砦の兵員はまだ、避難が完了していない付近の農民にも五百のままだと説明されていた。
シネス砦付近まで密かに達したモンデラーネ公軍の斥候も、砦に立て籠もった兵力はわからなかった。
砦では、シスネロスから持ち込んだ食糧を火を焚かずに食べることで余計な炊事の煙を出さない気配りをしていたからだ。そして、斥候は捕らえた農民から砦の守備兵力を聞き出してモンデラーネ公に報告していた。
ブロムク司令は、ダメ元でモンデラーネ公がシネス砦に誘い出せればと考えていたための処置であった。
シネス砦に大軍が取り付けば船でその背後に上陸するか、大迂回してでも、モンデラーネ公軍を挟撃する策を考えていた。
そのブロムク司令自身も、モンデラーネ公が背後にスキを見せるとまでは考えていなかった。
モンデラーネ公もまったく無用心であったわけではない。一応、農民が避難して、ほとんど無人になったシネス砦付近まで斥候を幾組か出して用心はしていた。
そして、五百程度の兵力なら、比較的忠誠心が期待出来るリヴォン・ノセ州の領主軍を選抜して千ほど警戒にあてておけば十分だと判断していた。
モンデラーネ公のスキと言えば、この数年、モンデラーネ公軍に対して自分から攻勢に出た軍勢はなかった。目の前には、自軍と比べて能力に劣るだろうが、自身の軍に倍するほどの軍勢がおり、これを完全に撃破する必要にかられていた。
モンデラーネ公の頭は、それを遂行する策はどうするか、思わぬ事態にどう対処するかという思考で溢れんばかりになっていた。
できれば、目一杯の兵力を目も前の敵に当たらせたいという状況の中で、防御に対しての配慮はどうしても疎かになっていた。
一寸、気の利く武将でもいれば、自分は攻撃に専念して、防御に関する手配を任せたであろう。
しかし、何度も言うようにモンデラーネ公は、配下の武将には恵まれていなかった、またはそう思い込んで、信用していなかった。
何から何でも、全て自分でしようとするモンデラーネ公に、スキを作らせたのはこのような理由からだった。
モンデラーネ公を上手く騙すほどに、シスネロス側の計画は成功していたのだ。
ただ、モンデラーネ公ほどの戦い上手が、防御面でスキを見せる筈がないという思い込みから、シネス砦から打って出るという考えを、シスネロス側の指揮官達の頭から奪っていた。
シスネロス側の戦機は逃された。
「ところで、ドノバ候のお具合は、どうですか」
ハタレン市長が、何も言わずに上座に座っているドノバ候の長子エーリーにたずねた。
「はい、今日も体調が思わしくありません。起きたり寝たりの様子です。そんな状態でも、ここに来たがっておりましたが、何とか説得しました。油断すると、バナジューニの野にでも行きそうで困ります」
エーリーは、心底困り顔で言った。
エーリーは、ドノバ候代理としてシスネロス市防衛本部に詰めていた。リファニアでは合戦の場合に、できるだけ当主と世襲権のある子を同一の場所に置かないことが習いであった。
そういった理由以上に、ドノバ候近衛隊隊長を務める次子ロムニスが出陣しているのに、文人肌の長子エーリーが戦場に出向くことは不必要だと、シスネロスでは自然に受け入れられていた。
エーリーが、言ったドノバ候が具合が悪いというのは、もちろんウソである。ドノバ候が実は元気で私邸にいるというのは、ハタレン市長と何人かの市参事には公然の秘密であった。
ただ、この時ドノバ候は、ドノバ候の行動を誰よりもよく理解している長子エーリーを含めて、シスネロスの人間にとっては想像の埒外である斜め上の行動を取っていた。




