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千年巫女の代理人  作者: 夕暮パセリ
第二十一章 極北紀行
1119/1156

極北水道往路34 中キクレック海峡の談話 一 -リファニア王国軍参謀本部-

「何が聞きたいのですか?」


 祐司は覚悟したように言った。


「合戦は益々大規模でまた広範囲な場所で同時に起こるようになるでしょう。そしてそれに上手く対応できた勢力は勝者になるでしょう。

 具体的に大規模になる一方の合戦、あるいは戦役を勝ち抜くには王立軍はどのような改革が必要でしょう」


 アッカナンはそう言ってから画板にのせた樹皮紙に筆記を始める様子を見せた。


「速記をするということですが、ゆっくりしゃべりましょうか」


「いいえ、普通でいいです。ただ速記をしていると筆記することに気が行きますので話の内容が今一つ頭に入りません。

 ですから時々、自分が書いた速記を読むことがありますが、それはご容赦してください」


 祐司はアッカナンの要望に「わかりました」と言ってから、少しゆっくりした口調で語り出した。


「アッカナンさんの言いたいことはわかります。モンデラーネ公は天下一の合戦上手です。恐らくリファニアの歴史でも有数の武人です。

 しかし多くの戦場が同時に出現しても、モンデラーネ公は一人ですから全ての戦場で勝つことは出来ません。


 失礼ながら王立軍、王家近衛隊、そして新進気鋭の補助近衛隊ムラデムリの幾多の指揮官でもモンデラーネ公を凌ぐ指揮官はいないでしょう。


 ただモンデラーネ公麾下の武将を上回る指揮官は数多くいらっしゃると思います。


 しかしモンデラーネ公に対する軍勢が上手く連携できないとモンデラーネ公は目前の敵を次々撃破して全てに勝利するかもしれません」


「戦いには絶対がありません。その懸念があります」


 アッカナンは一番聞きたいことを祐司が言ったというような表情になった。


「天才に対してどのような対抗策を採ればいいのかという話をしたいと思います。凡人が百人いて机上で論議を延々としても、天才が一瞬で決断したことには敵いませんん。

 でもこましな十人が下手なりに考えた末に計画を立てて、王命で後の九十人に実行役になって貰えばどうでしょう。


 こましな十人の考えることはひょっとしたら天才一人で考える範囲より広いかもしれない。

 また天才はいつ出てくるかわかりません。天才が出ても時勢に合わなければ才能は見いだされる事も無い。


 こましな十人は多分いつの世にもいます。このこましな十人をしっかりと把握しておくことが大事だと思います」


「もう少し具体的に」


 アッカナンは自分で言ったように、自分で書いた速記の内容を読み直してから聞いた。


「わたしは去年”イルマ峠城塞”での攻防戦に参加しました。その時に指揮官の末端を任せていただきました。


 イルマ城塞守備の指揮官は実戦経験豊富な傭兵隊のムラジュ兵団千人隊長ハハネ・アリスチド殿でした。

 そして実戦経験のないイルマ峠城塞の元からの守備隊長ヘウレデ・エマルビンは北西軍を率いて、ムラデムリの先遣隊隊長ヴェルゼデ・バシュトメルロはムラデムリを率いていました。



挿絵(By みてみん)




 さらに王家直参のジェムザ・ヴェレルヴォルド殿はわたしを含めてた義勇軍の隊長でした。本来なら烏合の衆です。


 しかしハハネ・アリスチド殿は総指揮官となって他の隊長を幕僚として処し、その意見を聞いてから決断だけを行いました。

これは他の隊長を務めていた方々が思慮があり、引くべきところを心得ていたからです。


 またハハネ・アリスチド殿はわたしのような者の意見も聞いて決断の材料にされました。


 ただモンデラーネ公軍の脅威下で団結する必要があったのと全ての指揮官が人間が出来ていたという幸運の産物でもありますが、私としては色々と考えさせられました。


 さらに一昨年わたしが参加した”バナジューニの戦い”を例に話します。


 迎え撃ったシスネロス市民軍の総指揮官は市民軍のバガリ・ブロムク殿、ただし合戦中の指揮はシスネロス市傭兵団団長キャナン・ディンケ殿がとられました。

 バガリ・ブロムク殿は合戦が始まるまでの軍勢の行軍、キャナン・ディンケ殿と相談した上で軍勢を配置を担当されました。シスネロス市民軍の市民を動かすには市民軍の本来の指揮官バガリ・ブロムク殿が最適だからです。

(第五章 ドノバの太陽、中央盆地の暮れない夏 黒い嵐3 シスネロスの戦い 三 参照)


 ただバガリ・ブロムク殿は合戦が始まると全てを実戦経験があるキャナン・ディンケ殿に任せました。

 

シスネロスからの補給はシスネロス市庁舎が行って、戦場にいる者は補給に関しては要望するだけで手間を取られることはありませんでした。


 それに引き換えモンデラーネ公は全てを自分で行いました。軍勢の配置、戦場で出す全ての命令、そして補給隊への命令もモンデラーネ公が行っていました。


 合戦は激戦になり、流石のモンデラーネ公も手一杯になって、シスネロス市民軍に勝利して追撃をすることを前提に出していた補給隊への戦場に急行せよという命令の変更までは頭が回りませんでした。


 その結果、モンデラーネ公軍が撤退に移ったその時に続々と到着した補給隊の大部分はシスネロス市民軍に捕獲されました」


「わかりました。現在はその時々に応じて何となく指揮官が個人的に集めている幕僚を制度化するのですね」



「一軍の将は細かなことは専門の幕僚に任せた方がいいと思います。百人隊にはいならいと思いますが千人隊以上の規模の隊には、”策を練る”、”補給を担当する”、”情報を集めたり分析する”といった専門の幕僚がいれば指揮官は自分の策を検証させたり決断だけをすればよくなります。


 この幕僚は直接は軍勢を指揮はしません。自分の専門だけを行います。今から話すことは幕僚に過分に頼ったり、権限を与えてはいけないという話になります。


 当然、全軍を指揮する指揮官。リファニアの場合はリファニア王ということになります。

 聡明なオラヴィ王陛下は青星会せいせいかいという有能な貴族や官僚で構成された諮問機関をお持ちで最後の選択と決断をされていると聞いております。


 軍事的な事柄に関して、オラヴィ王に諮問するのが最上級の幕僚ということになります。ただ実際に戦役の間はこの最上級の幕僚が作戦を立案実行させるでしょう。


 今これを幕僚本部と名付けます。


 この幕僚本部は戦争という行為を行う場合、或いは武威を維持して平和を保つ場合には有能な組織となるはずです。

 ただし組織は全て生き物のように生き残っていこうとするし、力をつけたいという衝動で動きます。

 

 厄介なのは幕僚本部が有能で大きな権威とさらに権限を発揮し出す時です。


幕僚本部には指揮権を与えてはいけません。指揮をするのは総司令官だけです。もちろんリファニアではそれはリファニア王以外考えられません。

 これは王国の強みです。王国では王を制して動くことは出来ず、それをすれば自分達が寄る国の根幹を否定します。


 もちろんリファニア王は実際に指揮をする総司令官を任命するでしょう。


また幕僚本部は軍事の専門家です。


幕僚本部の幕僚が第一線を視察することは有益でしょうが、第一線には指揮官がおり、指揮官の幕僚が補佐しています。


 そうして時に幕僚本部の幕僚が口を出したくなることもあるでしょう。ただ第一戦の指揮官が意見を求めたとき以外は絶対に口を出させてはいけません。

 幕僚は長く続けることを避けて、上位の幕僚になる前に必ず第一線の指揮官や副官を務めさせて唯我独尊的な姿勢にならないようにしなければなりません。


 軍事的観点から考えれば最善手が政治的な悪手だということは常にあり得ます。幕僚本部は政治的な制約と目的達成の為に許容される条件を厳守するように徹底しなければ軍が国家を守る道具では無く、国家が軍を維持する為の道具になりかねません」



注:参謀本部と参謀の暴走

 各国の参謀本部の中で最も有名なモノはプロイセン参謀本部(後のドイツ参謀本部)でしょう。

 第一次世界大戦でドイツが敗れるとドイツは軍備の制限と供に有能であると各国から評価されていた参謀本部の解体も要求されます。




 プロイセン参謀本部の萌芽は17世紀後半の食料、野営地、武器等を担当する兵站幕僚にまで遡ります。

 兵站幕僚は更に軍需総監部となって軍の工兵部隊を監督し、行軍経路を監視し、陣地と要塞陣地を選択する役割を担当します。


 19世紀初頭のナポレオン戦争で1808年にゲルハルト・フォン・シャルンホルストの指揮下で参謀本部が新設されます。



挿絵(By みてみん)





 プロイセン参謀本部が傑出した働きを見せたのは、当時の参謀総長ベルムート・フォン・モルトケが中心となって鉄道・電信の整備を行いながら作戦計画を立案した晋墺戦争(1866年)と普仏戦争においてです。


この当時のプロイセン参謀本部はまだ小さな組織でしたが対デンマーク戦争、対オーストリア戦争、対フランス戦争を予想して作戦の基礎となる進撃路の研究、先に述べた鉄道・電信の施設などを計画的に進めていきます。


 ただ当時の将軍達は参謀本部というものの役目をはっきりとは把握しておらず、晋墺戦争などでは勝手な行動に出ることもありました。

 ただ戦場では目の前の状況に対していちいち本国の参謀本部にお伺いを立てていると戦機を逸してしまいます。


 そこでプロイセン参謀本部では委託命令 (Mission-type tactics)という概念を生み出していました。


委託命令とは目的・目標を上級指揮官が明確に指示するが、達成方法については実施部隊の下級指揮官が臨機応変に変更する権限を与えられる命令ということです。


 ところがプロイセン参謀本部のモデルにして参謀本部を設置した旧陸軍では”Mission-type tactics”を”独断専行”と意訳してしまいました。


 ”独断専行”は軍のドクトリンによって是とされることで、後の満州事変や日中戦争において中央の不拡大を無視して現地指揮官が戦火を拡大し、さらに現地指揮官が特に咎められないという事態を招いてしまいます。


 さて晋墺戦争、晋仏戦争で見事な働きをしたプロイセン参謀本部と参謀総長モルトケは一躍注目を浴びて各国が参謀本部制度を導入します。


 ただ晋仏戦争でドイツ帝国が成立当時のドイツは西はフランス、東はロシアと国境を接しており、そのドイツの地政学的な位置からフランス・ロシア相手に同時に戦争をするのはドイツは絶対に避けるべきで常に外交的予防策を採り続ける必要がありました。



挿絵(By みてみん)




 1880年代までは宰相ビスマルクが協調的な外交を行いますが、皇帝ヴィルヘルム2世による列強の既得権とぶつかる帝国主義的膨張政策が展開されます。

 この政策は軍事力を背景に露骨な示威行動を通して実行され、フランス、ロシア、そしてイギリスとの関係を悪化させます。


 こうした背景からシュリーヘンは1905年に仮想敵国ロシア帝国とフランスに対する作戦計画「シュリーフェン・プラン」を考案します。



挿絵(By みてみん)




 作戦計画の骨子は国土が広大で戦争が始まっても総動員で軍隊を組織し直してドイツとの戦争を始めるのに手間取るであろうロシアの前に短期間でフランスを屈服させて、返す刀でロシアを撃退するというものです。


 ロシアの動員は一ヶ月はかかり実際にドイツに攻勢をかけるのは二ヶ月後という算段ですが、これはそれ以上の短期間でフランスを屈服させロシアに当たるために西部国境から東部国境へ軍の配置転換をすることは難しかったという理由で自分に都合のいい要素を自分で組み込んだと言えます。


 このロシアの動員が遅いというのは、「シュリーフェン・プラン」の妥当性を説明する理由付けでもあったのです。


 実際に第一次世界大戦ではドイツの予想を上回って1914年7月31日に動員令を発令したロシアは僅か半月で東部ドイツ国境を突破してきて「シュリーヘンプラン」の大前提が崩れます。

 

ただロシアの動員とドイツへの攻勢開始が予想通りの期間を必要としても、それ以上の問題点が「シュリーヘンプラン」にありました。



挿絵(By みてみん)




 最大の問題点は中立国ベルギーを国土を侵して、右翼からフランス軍、そしてパリを包囲撃滅するという作戦にありました。


 ドイツ政府の方針としてフランスとの戦争ではベルギーとも戦うという方針がありこれを元にシュリーヘンが対フランス戦の作戦計画をつくれば「シュリーヘンプラン」もよしとされます。


 ところがベルギーの中立を侵すことで、ドイツの大義名分が失われ、またイギリスの参戦を誘発する危険性がありました。

 しかしシュリーヘンは純粋に軍事的な観点から「シュリーヘンプラン」を策定してしまいます。


 これは政府が是正を求めるべき事柄ですが、この当時のドイツ参謀本部はドイツ皇帝の直轄ともいうべき存在で直接政府が口出しできませんでした。


 さらに「シュリーヘンプラン」によるドイツ軍師団数は実際には十個師団以上不足しており、最右翼にあって最も長距離を走破してパリ包囲の任務を負った第一軍への補給は実施が危ぶまれていました。


 その上、このシュリーヘンプランは対仏戦争でドイツが実施を考えている計画として1910年頃にはヨーロッパ各国が知ることになります。


 その為にベルギーはドイツ軍の侵攻上にあるリエージュ要塞を費用をかけて維持します。

 このリエージュ要塞は第一次世界大戦では数日に渡ってドイツ軍を足留めしてシュリーヘンプランに大きな齟齬を与えています。


 シュリーヘンの退任後に参謀総長に就任した小モルトケは最右翼の師団を減らしてなんとか補給が実現可能な兵力にします。


 ただ減じた兵力である上に小モルトケがさらに西部の兵力を急遽東部へ送ったことと長距離を走破して疲労した軍はパリ前面の”マルヌの戦い”で押し戻されてしまい対フランスの早期離脱は望めなくなります。


 小モルトケはこのことで解任されますが、ドイツ参謀本部の権威は傷つかず第一次世界大戦に対処していきます。


ヴィルヘルム2世は後任の参謀総長に東部戦線における緒戦の”タンネンベルクの戦い”でロシア軍を潰滅させたことで国民人気の高いヒンデンブルクを参謀総長、参謀次長には彼の参謀長であるルーデンドルフを任じます。


 以降はルーデンドルフ独裁といった様な状態で、参謀本部が政府や議会に介入するという形になります。


 ただ参謀本部の純粋名軍事的観点という狭い領域からの戦争指導は勝利に結びつきませんでした。


 例えばドイツはイギリスを海上封鎖して戦争継続を困難にしようと潜水艦作戦を実施しまうが、これをより完全に行う為に中立国の船舶をも攻撃する「無制限潜水艦作戦」を実施します。



挿絵(By みてみん)




 しかしこれによってアメリカ合衆国の参戦を促してしまい、数十万の新手の兵力が西部戦線に登場します。


 このことを知っている祐司はアッカナンに「軍事的観点から考えれば最善手が政治的な悪手だということは常にあり得ます。幕僚本部は政治的な制約と目的達成の為に許容される条件を厳守するように徹底しなければ軍が国家を守る道具では無く、国家が軍を維持する為の道具になりかねません」と言ったのです。


 また祐司は「幕僚本部には指揮権を与えてはいけません」としつこく言っています。


 これは有名な辻政信参謀(1902~1961?)のことが頭にあったからです。


 辻政信参謀は陸軍幼年学校、士官学校を首席で卒業した陸軍のエリート軍人です。日中戦争から太平洋戦争の有名どころの戦場ではしばしば辻政信参謀の姿がありました。


 1939年のソ連・モンゴル軍との衝突である”ノモノンハン事件”では関東軍の参謀として参加します。

関東軍司令部では外蒙古モンゴルのソ連軍のタムスク航空基地の空爆を計画しますが、東京の参謀本部は電報で中止を指令します。


 ところが辻政信参謀はソ連空軍が越境爆撃している以上、外蒙古のタムスク航空基地爆撃を行うことは認められるとしてこの電報を握りつぶし作戦続行の返電を行わせます。


この返電の決裁書は軍司令官らの欄に辻政信参謀が代理だとして自分の印を押しています。この行為は明らかに当時の陸軍刑法に抵触します。


 辻政信参謀の作戦指導は”(へい)拙速(せっそく)(たっと)ぶ”の原則を守りますが、結果的に兵力の逐次投入とい形になり第23師団壊滅とい形で事件は終息に向かうことになります。


 また事件後に辻政信参謀は指揮官や捕虜交換によって帰還した将校に自殺を強要しています。


こうした経緯から辻政信参謀は中国駐留の第十一軍に左遷されますが、越権行為や恣意的な独断専行をした将校へ処罰をしたようで実はその直接の責任を問わないという陸軍の体質から甘い処分になっています。


 その後に辻政信参謀は参謀本部の作戦課に転任して、早期の対米戦争を勝算が無くとも行うべきと強固に主張します。


 参謀本部は開戦の是非を判断する組織ではなく、政府の開戦決定を受けて作戦を立案する組織です。まして参謀本部の一課員である辻政信参謀の言動は任務の範疇を大きく外れます。


 太平洋戦争の緒戦ではマレー半島で第5師団の先頭に立って直接作戦指導を行い、作戦参謀としての任務を逸脱し第一線で命令系統を無視して指揮をとることもあったようです。


ただし辻政信参謀は紀元節や天長節どの記念日に占領する日が来るような実情を無視した作戦計画を立て作戦部隊に無理な行動をさせたという批判もあります。

 ただマレー半島での戦いは辻政信参謀の長所が発揮された戦場で、詳細は省きますが辻政信参謀の作戦指導は的確でした。

 

マレー作戦の指揮官である山下奉文中将は辻政信参謀とはそりが合わず「矢張り我意強く、小才に長じ、(略) 国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注意すべき男也」と記述しています。


 シンガポール占領後に日本軍は華僑の一斉検問を行い、抗日分子であると判断した者を大量に処刑する「シンガポール華僑粛清事件」を起こしています。


 この計画と後に転任したフィリピンでのアメリカ・フィリピン軍捕虜を炎天下に長距離を歩かせて多数の死者を出した”バターン、死の行軍”に辻政信参謀は関与したとされています。


 さらに辻政信参謀は攻勢限界の露呈したニューギニアのポートモレスビー攻略、太平洋戦争が日本の攻勢から守勢へと転換したガダルカナル島攻防戦の作戦指導に出向きます。


 しかしポートモレスビー攻略では補給を無視したような攻勢による頓挫と撤退、ガダルカナル島では現地情報を軽視した作戦指導で損害を大きくしてマレー半島で見せたような活躍は出来ずにマラリアに罹患して本土に帰還します。

 

 そして1943年8月には支那派遣軍の参謀として中国、1944年7月にはビルマ(現ミャンマー)の第三十三軍の参謀に転じます。

 終戦時はタイのバンコクに滞在していましたが、戦犯として追及されることを避けるために日本人僧侶に変装してタイ国内に潜伏します。


 それからバンコクの中国国民党の出先を通じて中国の重慶に移り国民党政権の国防部勤務という肩書きを与えられます。


 これは辻政信参謀が以前国民党政権の高官の家族を助けたことと、国民党政権の総統蔣介石が自身の母が病死した際に辻政信参謀が慰霊祭を行ったことで辻政信参謀に好意をもっていたからだとされます。


その後、国共内戦が激化すると日本に帰還して各地を転々とします。1950年に辻正信は戦犯指定から逃れると、逃走潜伏中の記録”潜行三千里”とビルマまでの体験による”十五対一”を出版してベストセラーとなり裕福な生活をおくれるようになります。


 1952年には辻政信は郷里の石川県から衆議院選挙に出て三度の当選を果たします。この間に自由党から自民党へと所属政党が変わります。

 1959年に岸政権を攻撃して除名され衆議院議員を辞任しますが、同年選挙が行われた参議院選挙で当選します。


 1961年に辻正信は東南アジア視察を名目に出国します。ところがラオス北部のジャール平原へ単身向かったことは確かですがそれ以降は行方不明になっています。


 辻政信参謀は毀誉褒貶きよほうへんの激しい人物ですが、派遣参謀として現地司令官をないがしろにする逸脱した行動が目立ちます。

 これに対して後に辻政信参謀は「幕僚にわがままを許すのは、上官の罪ではなかろうか」と自分の行動を是とするか非とすのかどちらでもとれるようなことを言っています。


この辻政信参謀の事案があったので、祐司は参謀には指揮権を与えてはいけないと繰り返し、「さらに幕僚は長く続けることを避けて、上位の幕僚になる前に必ず第一線の指揮官や副官を務めさせて唯我独尊的な姿勢にならないようにしなければなりません」と忠告したのです。

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