黒い嵐11 バナジューニの野の戦い 一
オラヴィ王八年 馬の年 六月十三日 第三刻(午前八時)
この日、バナジューニの野を挟んで、両軍併せて三万を越える軍勢が対峙していた。土地の面積の割に生産能力が低いリファニアでは、大規模だと言われる戦いでも両軍合わせて一万を超えることは滅多にない。
そして、天候は快晴で、ほとんど太陽の沈む時間のない季節である。悪天候や夜になって、やむを得ず戦いが終わるということはない。
「綺麗だな」
モンデラーネ公は、他の戦車と比べて車高が高くなった戦車の上から、傍らのドラヴィ近侍長に言った。
モンデラーネ公の目は一リーグほど先に並んだシスネロス軍を見つめていた。左右の森の端からは端まで一直線に並んだシスネロス市民軍、その前にある杭のようなものが澄み渡った空気の中で微かに見えた。
シスネロス軍は数百の市旗や組合旗を林立させている。個々の兵士までは見分けられないが、今まで自分が対峙してきた軍勢とは明らかに様相が異なっていた。
シスネロス市民軍が左肩と鎧の左胸に貼り付けているシスネロス市章を描いた淡い青色の布のために全体に明るい感じがした。良く言えば垢抜けしている。悪く言えば軟弱な閲兵式用の軍勢である。
「さて、お手合わせ願おうか」
モンデラーネ公は、ひどくご機嫌な口調で言った。
「先陣は前進を開始しろ。後列は距離を置いて続け」
大きな太鼓の音が鳴る。たちまち、あちらこちらから、同じような数十ほどの太鼓の音が聞こえたきた。腹に響くような音である。
ドッドン、ドッドン。ドッドン、ドッドン。
太鼓のリズムに合わせて、モンデラーネ公軍の先陣が前進を始めた。
太鼓の響きはシスネロス陣営にもとどいていた。
「うるさい奴らだな。しかし、礼儀だ。こちらも歓迎の音楽で迎えよう」
シスネロス市民軍と傭兵隊、義勇軍を統括して指揮するディンケ司令が自分のはやる心を抑えるように、落ち着いた口調で言った。
シスネロス陣営からの太鼓の響きとラッパの音が木霊する。戦闘用意の合図である。
ヴァォーーーー、ヴァォーーーー。
太鼓とラッパの音がシスネロス陣営に流れるが、他の音はほとんど何も聞こえない。指揮官も兵士も無言で近づいてくるモンデラーネ公軍を見ている。時折、槍の穂先が陽光できらめくのがわかる。
戦列の主力である市民兵の間に、苦しいまでの緊張感が走った。
ディンケ司令に、指揮権を委譲したブロムク司令が小さな声で何事かを頼んだ。ディンケ司令は迷わず大声を出した。
「市民軍の歌」
軍楽隊がここぞとばかりに楽器を奏でる。
♪シスネロスの市民達よ、栄光の日がやってきた!
我らに向かって、暴君の血塗られた軍旗がかかげられた
血塗られた軍旗がかかげられた
どう猛な兵士たちが、野原でうごめいているのが聞こえるか?
子どもや妻たちの首をかっ切るために、
やつらは我々の元へやってきているのだ!
武器をとれ、市民たちよ
自らの軍を組織せよ
前進しよう(マルション)、前進しよう(マルション)!
我らの田畑に、汚れた血を飲み込ませてやるために!
武器をとれ、市民たちよ
自らの軍を組織せよ
前進しよう(マルション)、前進しよう(マルション)!
我らの田畑に、汚れた血を飲み込ませてやるために!
「あいつら歌っております。戦を戯れ事と間違えております」
ドラヴィ近侍長は、目を丸くして言った。少なくとも、戦いの前に歌を歌うなどという敵に遭遇したのはドラヴィ近侍長は初めてだった。
この日の、「市民軍の歌」の歌詞は、その状況において、これほど相応しいものはなかっただろう。不安で震えていた市民兵も落ち着きを取り戻すとともに、戦意がみなぎってきた。
「くるぞ」
シスネロス市民軍の兵士の何人かは同じ言葉を呟いた。軍歌を歌い終わった時には、モンデラーネ公軍は、その先頭に立つ個々の兵士の顔が識別できるほどに近づいていた。
「巫術師は”雷”を放て。狙うのは後列だ」
ディンケ司令は巫術師の消耗を押さえるために、ギリギリまで巫術師に待機させていた。
”雷”は戦闘で使用される巫術ではもっともオーソドックスなものである。兵士が直撃されれば吹き飛ばされたり体が重量物で圧迫されたように骨折や内臓破裂を負う。程度がひどければ死ぬこともままある。
見た目からは雷と呼ばれるが祐司の目からは明らかに、純粋な電気エネルギーであるカミナリとは異なった現象である。
この雷をしのぐには、避雷針のように地面に繋がった金属製の棒でそのエネルギーを地面に逃してやるのが一般的な防御術である。
巫術のエネルギーがまったく効かない祐司には分からないことであるが、今まで体験した者達の話をからすると、柄に細い金属棒を通した槍でこの雷を受け流すと電気的な刺激というよりも何か大きな衝撃が槍を貫いていく感じがするらしい。
上手く受け流すには多少の訓練が必要で下手に受けると手に持った槍を吹き飛ばされて思わぬ怪我をすることもあるらしい。
金属製の鎧でも地面にエネルギーは抜けていくが百のハンマーで一度に殴られたように衝撃を受けてしばらくは身動きが出来なくなると言う。
やっかいなことに雷は並の巫術師でも、開けた場所で密集していれば数十人に同時に効果を及ぼせる。”雷”を気にせずに突進すれば敵陣に行き着く前に一人の巫術師によって数百名以上の戦闘不能者を出してしまう。
”雷”は電気的なエネルギーであるらしい。それに何かが負荷されているらしいということ以外は、今の祐司にはわからなかった。
”雷”への防御を行えばただじっとして敵の前にうずくまるだけである。
このために味方の軍勢の戦闘力を維持しようとすれば”屋根”と呼ばれる防御巫術を味方にかける必要がある。
”屋根”は今の祐司には”雷”以上に理解できない代物である。
横に列をなして盾の間から長槍を突き出しこちらに進んでくる。何千というモンデラーネ公軍の頭上から雷が襲いかかる。
兵士の頭上に何かかが覆い被さっているかのように、雷はとんでもない方向へ向きがかわる。或いは、何か障害物に邪魔されたかのように、光が薄くなってあきらかに威力を減じて兵士の群れに落ちる。
”屋根”は、不可視防壁とも呼ばれる巫術で、見ることはできない。ただし、祐司には”屋根”のかけられた空間は陽炎のように波立って見える。
モンデラーネ公軍の兵士達に大きな動揺が見られないことから”雷”を食らっても持ち堪えられるほどに、”雷”の威力が弱体化しているらしい。
何処を襲うかわからない雷に対して”屋根”という巫術は常に一定範囲を覆うようにかけ続けなければならない。
”屋根”は難度が低い巫術のようだが、常にかけ続けるためにはかなりの巫術師の力を消耗する。また、”屋根”を発現させている巫術師は他の術をかけることができない。
高価な存在である戦闘用の巫術が行える巫術師を攻撃と防御用の両方に多数する雇い入れることは裕福な領主でも不可能である。そのために、限られた数の巫術師にどのような術を使わせるかが指揮官の腕の見せ所にもなる。
今のところは、シスネロス軍側は”雷”に力を注ぎ、モンデラーネ公軍は”屋根”を大規模に戦列兵の上に展開している。
ほとんど、味方の”雷”は敵に被害を与えていなかった。ただ、三回ほど”屋根”に隙間があったらしくモンデラーネ公軍の真ん中で雷がとどいた。
数名の兵士が吹き飛ばされるのがはっきり見えた。
モンデラーネ公の歩兵戦列が接近してきたので、シスネロス市民軍から矢が一斉に放たれる。
大きく弧を描いて矢が飛ぶ。多少、”屋根”の影響を受けた矢は進路を変えながらモンデラーネ公軍に降り注ぐ。
巫術で完全に防げるのは巫術のエネルギーであり、完全に矢の攻撃を防ぐには突風などを吹かす必要がある。
ただ、モンデラーネ軍の戦列兵は盾を持っているので多くは防がれてしまう。
「あれがモンデラーネ公、ご自慢の郷士格の兵士を集めた戦列兵です。なんとか分断するなり、巫術か矢かで足止めせんと一撃でこちらの戦列を破られますぞ」
シスネロス市参事会から、観戦のために派遣されていたヤロミル市参事が、傍らのディンケ司令に言った。
「再度確認のため、市民軍前衛各隊に太鼓連打で後ろに下がれと伝えよ。傭兵隊は第三隊形」
ディンケ司令は、それには答えずに確認のための指示を出した。
「最初を凌げば何とかなる。敵兵の足元をよく見ろ。戦車は使えん」
ディンケ司令の言葉は冷静だった。
モンデラーネ公の兵士が数十メートルの距離に迫ってきたため、彼らが足首まで埋まるほどの泥濘に苦しめられているのが見えた。歩く速度も通常の半分もないかもしれない。
足元を取られながらも、遂にシスネロス側左翼で両軍が接触した。ようやく地面が乾いていた最後の二十メートルほどをモンデラーネ公戦列兵は大地を振るわせるほどの怒号を上げて突っ込んできた。
モンデラーネ公軍が指呼の距離に迫ると、シスネロス側の第二列から槍が投擲される。モンデラーネ公側は盾を上げて防ぐ。至近距離では槍と盾がどちらが巫術によって強化されているかで勝負が決まる。
敵兵を捉えた槍のうち半分ほどの槍は跳ね返され、四半分は盾と大きく打ち破って敵兵を傷つけた。しかし、敵兵の鎧に阻まれて致命傷を与えたのは少数だった。残りの四半分は盾に突き刺さった。
こうなると、槍を突き立てたままでは盾として機能が著しく減じるが、お構いなしに,槍が刺さったままの盾をかざして進んでくる。
この様子に、攻守をかえればシスネロス市民兵は堪らずに後退するだろうと、ディンケ司令は思った。
ディンケ司令は今日の戦いは、敵に主導権を取られて防御に撤することになると思った。
モンデラーネ公軍の戦列兵が、シスネロス市民兵の守る溝に数メートルまで接近した時に異変が起こった。
戦場全体では、何十名かのモンデラーネ公軍兵士が、深さが二メートルほどの落とし穴に落ちたのだ。落ちた兵隊は穴の底に突き立ててあった杭に貫かれて、死んだり大怪我を負った。
この穴を掘ったのは、シスネロスの少年兵達だった。彼らは必要十分な仕事を行ったと言っていいだろう。
穴に落ちなかった兵士は慌てて止まったり、穴を避けようと左右に動く。モンデラーネ公軍の戦列が乱れた。
「愉快、愉快」
ヤロミル市参事は、大声で喜んだが、ディンケ司令は唇を真横一文字にしたまま戦況を見守っていた。
モンデラーネ公軍の攻撃は、多少の時差と場所により濃淡をともなって五月雨式に開始された。
「さあ、最初の攻撃力は多少弱めた。市民兵諸君、頑張ってくれよ」
この様子を見て、ディンケ司令は祈るように言った。軍議でも言ったように、実戦経験のないシスネロス市民軍は最初の一撃で崩れる恐れがあった。
敵の攻撃力を多少でも弱めて、何としてでも、最初の一撃を跳ね返して防御ラインを死守する必要があった。
初手の攻撃をしのげば、兵士は自信がつくとともに、戦場の興奮に酔って逃げ出す確率は少なくなる。落とし穴はその初手の攻撃を弱めるための策だった。
「どんな様子だ」
モンデラーネ公のもとに、左翼から伝令が来た。
「はい、防御線の前に落とし穴があったようです。我が軍の兵が何人か落ちています。ただ、攻撃はそのまま続行しています」
「小賢しいマネを。しかし、所詮は苦し紛れの奇計だ」
ドラヴィ近侍長が苦々しそうに言った。
遂にモンデラーネ公軍の先鋒は最初の溝を乗り越えてモンデラーネ公軍側に突き出た杭の列で待ち構えるシスネロス市民軍に長槍を繰り出した。
戦列と戦列、長槍と盾、そして盾と長槍の戦いである。
ここかしこで、鉄と鉄が接触する音が聞こえる。最初にシスネロス市民軍の戦列に到達したモンデラーネ公軍の兵士は疎らで、シスネロス市民軍は、その歩みを完全に止めさせていた。
「いいぞ、できるだけ持ち堪えろ。奴らはぬかるみで疲労している。落とし穴で一気に襲いかかることにも失敗した。そのまま押し返すんだ」
ディンケ司令の願いとは裏腹に、やがて、戦いに参加するモンデラーネ公軍の兵士の数が多くなると、いくつかの地点でシスネロス市民軍の戦列は杭の位置から徐々に後退する。
杭の後ろには、所々に開口部を持った柵が設けられている。この柵がシスネロス市民軍の主要抵抗線であり、ここを抜かれると防御は著しく困難になる。
幾つかの場所では柵を挟んだ戦闘が行われ出した。ただ、その戦闘もモンデラーネ公が望んでいたような、全ての場所での一斉攻撃ではなく、ディンケ司令が意図したようなバラバラに始められた攻撃だった。
突出してきたモンデラーネ公軍の兵士は、前方左右と三方向から、待機していたシスネロス市民軍後列からの反撃を受けた。
しかし、時間が経つにつれて、技量に勝るモンデラーネ公軍兵士は攻撃をかわしながら、少しずつ錐のようにシスネロス市民軍の中に入り込んでいった。
「太鼓だ」
ディンケ司令が片手で近くの鼓手に合図するような仕草をしながら言った。
太鼓はモンデラーネ公軍では、主に戦意を高揚させるために太鼓を使用していたが、シスネロス軍では、幾つかの符丁を決めて命令の伝達に使用していた。
ディンケ司令のいる中央の太鼓が鳴ると、百メートルほどの間隔で置かれた太鼓が次々鳴り出した。
ドーンン、ドーンン。ドーンン、ドーンン。ドーンン、ドーンン。
太鼓の音を聞いたシスネロス市民軍は、早くも追撃態勢に入ったモンデラーネ公の戦列兵に討ち取られながらも長槍を構えながら後ろ向きで崩れずに後退していく。
やがて、市民軍の背後にいた傭兵部隊の位置までくる。傭兵部隊は、横幅を変えずに通常の三倍の深さを持った兵士と兵士の間が離れた深縦隊形になっていた。
市民軍はその傭兵隊兵士の間をすりぬけて後退していく。
その後ろから追撃してきたモンデラーネ公戦列兵に傭兵隊が押し出していく。傭兵隊の密度は低いが職業軍人である傭兵隊は、隊列を組む市民兵とは異なり個人の武芸が優秀であるため散兵で戦うことができる。
追撃のために戦列が乱れていたモンデラーネ公戦列兵は、こんどは杭のある地点まで押し戻された。
杭のある地点まで押し出した傭兵隊は、そこで防衛ラインを再構築した。
死傷者を後衛部隊から補充して、シスネロス市民軍は戦列を整え直して再び縦に長くなり隙間を空けた傭兵隊の間をすり抜けて、新たな戦列をひきなおした。
ブロムク司令とディンケ司令は相談の上でシスネロス市外で、動員がかかってから出陣までの貴重な六日のうち三日をこの市民軍と傭兵隊の隊列交代の訓練に費やしていた。
シスネロス市民軍の戦列に再びモンデラーネ公軍が押し寄せる。一度目より長くシスネロス市民軍は持ち堪えた。東西に長く延びた戦列の一角が崩れそうになったのを見たディンケ司令は再び太鼓の合図で傭兵隊を前に出した。
最初と同じような光景が繰り返されて、モンデラーネ公軍が押し返される。しかし、モンデラーネ公軍を押し返すのには少々手間取っているのが、シスネロス市民軍の本陣から見て取れた。
「手間取っているな」
傭兵隊のディンケ司令に指揮権を委譲して、じっと戦況を見ていたブロムク司令が、呟くように言った。
「敵は暫時後衛部隊も投入しているようです」
ディンケ司令が耳聡く聞きつけて言った。
「この波状攻撃はいつまで続くんだ」
観戦のために派遣されたヤロミル市参事が、心配そうにディンケ司令に聞いた。
「こちらが、疲れ果ててしまうまでです。それとも、損害が積み重なって士気が折れるまです。これが、モンデラーネ公の常套手段なのです。
なら、こちらも、どんどん部隊を交代させて攻撃を受け流すだけです。数はこちらの方が多いんです」
ディンケ司令は願望を含めて言った。
確かに、ディンケ司令の言うように、シスネロス市民軍の方が数が多い。バナジューニの野で戦いが始まった時点で、主力のシスネロス市民軍は一万二千、コルセット役の傭兵隊二千三百が、第一線の兵力である。それ以外に、予備兵力として、後方に市民軍千、義勇軍二千七百が控えている。
また、バナジューニの野と、東の迂回路の両方に対応するためドノバ候近衛隊千七百が、さらに後方に待機している。
一方、モンデラーネ公軍は、初期段階でバナジューニの野の第一線に展開している兵力は七千五百で、後方にドノバ州領主軍を警戒して四千を展開させている。
これ以外に決戦兵力として、戦車隊とモンデラーネ公親衛隊二千がある。また、第二戦部隊としてしか評価されていない雑兵扱いの臨時傭兵隊が八百ほどいた。
実際に戦っているのは、シスネロス側が一万四千七百、モンデラーネ公側が七千五百であり、シスネロス側が二倍弱の人数になる。
ただ、モンデラーネ公軍は精鋭部隊である。一人でシスネロス市民兵なら二三人を上手くいなしながら相手にできる。それだけに、モンデラーネ公は補充の難しい精鋭兵士の損傷をできるだけ避けたい。
上手く相手をいなしながら、自分は手傷を負わないように順次新手の兵士と交代する。敵は戦い続けるうちに、多少の戦死者や負傷者が出て疲労していく。
そして、そのようなことが長時間続けば士気が切れる。戦列の一角が崩れ出すと、後は連鎖反応である。後ずさりしだしたり、背を向けた敵にモンデラーネ公軍は一気に攻勢をかけて大損害を与える。味方の損害を最小限にして勝利を得る。これが、モンデラーネ公の常套戦法である。
「どのくらい損害が出ている」
喉が渇くのか、ブロムク司令がかすれたような声で言った。
「百人程度が戦死。倍以上が負傷で戦列にたてません。傭兵隊も同程度の損害が出ています」
戦列の背後で指揮をとっている各部隊長からの報告をまとめていた副官が答えた。
数の多いシスネロス市民軍の損害は、ディンケ司令にとって許容の範囲だったが、数は少ないが戦力の中核になる傭兵隊の損害は思った以上だった。
ブロムク司令は心の中で生産に直結するシスネロス市民の損害に顔をしかめた。そして、金で補充できる傭兵隊の損害を容認した。
ただ、ディンケ司令にとっても、市民軍の損害は重要な戦況を判断する材料であった。シスネロス市民軍の唯一の利点は、その士気の高さである。損害が累積して、その心が折れたら一気に崩れる恐れがあった。
総指揮官のブロムク司令や野戦軍指揮官のディンケ司令にとって、目前で行われている戦いは、モンデラーネ公軍との雌雄を決する決戦ではない。モンデラーネ公に、シスネロス市民軍が手強いと思わせて退却させるのが最大の目的だった。
その願いとは裏腹に、シスネロス側に損害が予想を上回っているにもかかわらず、モンデラーネ公軍との戦いは益々苛烈になっていった。
一刻後、自分の思い通りに戦況が進んでいないと感じているのはモンデラーネ公も同じだった。
損害は、予想通り、ほとんど出ていなかったが、上手くシスネロス市民軍と傭兵隊が交代して防御を行うために、数が少ないモンデラーネ公軍兵士の方が、体力を消耗してきたのだ。体力が消耗すれば気力も低下する。
低下した気力で行う攻撃は鈍いものになり、シスネロス市民軍は防御ラインで留まることができた。
また、損害が少ないとはいえ、モンデラーネ公は長期の周辺地域への侵攻併合という戦略的な中で、精鋭のモンデラーネ公軍兵士の損失は避けたかった。敵が崩れないでも、敵兵力は少しずつ削っているが、モンデラーネ公にとって、精鋭と素人の市民兵の損失の差が、十対一のやり取りであっても割に合わなかった。
戦死者や負傷者を出しながらもシスネロス市民軍は攻守をかえて、モンデラーネ公軍がやりたかったことを行っていた。
「案外しぶといな。切り札が必要か」
思ったようには崩れないシスネロス市民兵に、モンデラーネ公は少しばかり苛立ってきた。モンデラーネ公が言う切り札とは戦車隊のことである。
モンデラーネ公は敵が敗走を始めると、戦車で蹂躙して敵に大損害を与えてきた。戦車の突破力を利用すれば、敵の戦列は突破できるが戦車も、それなりの損傷を受ける。
この戦いがモンデラーネ公にとって乾坤一擲の決戦でない以上、できれば戦車は温存しておきたかった。あるいは、無理な使い方はしたくなかった。
「戦車を使うとなると、そろそろ、使えるように舞台を造り替えるか」
モンデラーネ公は、もちろん戦車を使用する場合の用意も怠ってはいなかった。
「シスネロス側の領主軍が半日行程以内に入ったと物見から連絡が入りました」
伝令からの報告を聞いていたドラヴィ近侍長がモンデラーネ公に心配げに言った。
「数は?」
「およそ二千ほどと」
「少ないな。少数で急行しているのか。目論見通りに日和見が出たか」
物見の二千という報告は概ね正しかった。ただ、物見は敵軍接近の報を早く伝えることに気が入りすぎて、この二千以外に、少し待てば視界に入ったであろう後方を行軍している三千の軍勢を見逃してしまっていた。
「後方で領主軍への備えに待機している部隊の半分をこちらに回せ」
間違った報告によるとはいえモンデラーネ公の、この命令は無駄に遊兵をつくならない理にかなったものである。
ただ、陣形変更を伴う援軍派遣をモンデラーネ公は滅多なことではしない。この日のシスネロス市民兵の頑張りが、モンデラーネ公にこの一言を言わせたのだ。
「東の迂回路のシスネロス軍の一部が、シスネロス軍の本隊を攻撃しております。シスネロス軍は撤退しております」
驚愕の内容を持って、迂回路から伝令がやってきた。
「調略の結果ですか」
ドラヴィ近侍長が、おずおずたずねた。
「いや、わからん。調略というほどのことはしておらん」
「殿、これは好機に御座います。シスネロス市民軍を足止めしておるだけで、背後からリヴォン・ノセ州領主軍が襲いかかりましょう」
ドラヴィ近侍長は、訝しげにしているモンデラーネ公に勢い込んで言った。
「いや、それは拙い」
モンデラーネ公にとっての勝利は、自分の率いる部隊が主体となる勝利である。伝令の伝える内容が正確なら、ドラヴィ近侍長の言うような展開になるだろう。しかし、それは自分の勝利とは言えない。
ここは、一気にシスネロス市民軍を打ち破って、シスネロス市民軍を退却に追い込む。そこへリヴォン・ノセ州領主軍が背後に現れ、シスネロス市民軍が退却もままないままに、モンデラーネ公直卒部隊が一気に壊滅させるという展開が、モンデラーネ公にとって最上の展開だった。
そして、モンデラーネ公は、多少の損耗に目をつぶって戦車による、早期の戦列突破を考え出した。
「急いで、戦車が使えるようにしろ。猶予は四半刻だ。もし、リヴォン・ノセ州領主軍がシスネロス軍の背後に現れたら一気に勝敗を決する」
モンデラーネ公を最高指揮官として、命令系統が明確である。ただし、戦況に対応して各部隊を動かす指揮官は、右翼部隊と後方警戒部隊のみにある。
直卒部隊はモンデラーネ公が視界におさめている限りは、全体を見渡した合理的な指揮を受けることができる。ただし、モンデラーネ公と第一線部隊を繋ぐ、結節点となる指揮官がいないために突発的な出来事には一拍遅れた命令でしか動けない。
リヴォン・ノセ州領主軍全体の指揮系統は実質的に、モンデラーネ公が派遣した軍監が握っている。
シスネロス軍の指揮系統は複雑である。建前上は、ドノバ州住民からなる全軍の総指揮官はドノバ候であるが、ドノバ候が動かせるのは近衛隊だけである。
シスネロス市民軍の、総指揮官はランブル市参事であるが、ドノバ州領主とは、建前上対等の関係にあり領主軍に命令できるのはドノバ候だけである。




