極北水道復路24 再び”キクレックの瀬”へ 一 -ムガザ・ハヴェル-
この話からヘルヴィがアッカナンを呼ぶときは、”さん”以下で呼び捨て以上のセ・アッカナンと呼びます。
アッカナンがヘルヴィを上司として呼ぶ時は”さん”にほぼ等しいセル・ヘルヴィと呼びます。
また祐司とパーヴォットがアッカナンとヘルヴィを呼ぶ時もセル・アッカナン、セル・ヘルヴィと呼んでいますが、より敬意を持っている証しとしてアッカナンさん、ヘルヴィ先生と表現します。
「この冬にヴァウト船長の提案を入れて少し改装したんです。元はマルトニアと本土だけを行き来する航路の船で長期の航海を考えていませんでしたから、居住性を上げたということでしょうか。
ズラーボン・イェルハルド艦長にもディネル号を見て貰って意見を聞いたのですが、その辺りが難しかったですね」
ヘルヴィがにこやかな顔付きで言った。
イェルハルド艦長はバーリフェルト男爵家の分家筋の出でバーリフェルト男爵家を「御本家」と呼ぶ親戚衆である。
そしてイェルハルド艦長は戦闘艦”フレヌバ(隼)号”を指揮する王立水軍のエース艦長で幾多のヘロタイニア人海賊船や移民船を撃破もしくは鹵獲している。
「ヴァウト船長が機嫌を悪くするということですか」
頭の回転の早いパーヴォットが即座に言った。
「はい。ディネル号はヴァウト船長がオーナーですからね。それに海の男は官民を問わずに自分の船には口を出して欲しくない。
その辺りのことが揉め出すと修復は難しくなります。まずは二回ほど二人を酒宴で
同席させて親しくなって貰いました。
そしてイェルハルド艦長に含んでフレヌバ号の見学にヴァウト船長を招いて貰いました。
当然お返しにヴァウト船長はディネル号に招きます。その時にわたしが同行して『イェルハルド艦長に何か訊きたいことはありますか』と言ってヴァウト船長の方から助言を求める形にしました」
ヘルヴィは淡々と説明したが、祐司はヘルヴィがパーヴォットを自分と対等の関係として話していることに気が付いた。
そして祐司はパーヴォットも少女から周囲が相応の対応をしてくれる大人の女性になりつつあるのだと思った。
「それでは、これからわたし達の仕事場兼寝室といった部屋に案内したします」
ヘルヴィはそう言って船尾の方へ祐司とパーヴォットを導いた。そして船尾近くの右舷の部屋の扉を開けた。
中は十畳ほども広さがあり、四人ほどが使用出来る大きさの机が中央に陣取り、壁の一面は棚になっており種々の帳簿らしきモノが収められていた。また棚の一番下には金櫃とおぼしき鉄板で補強された大仰な木箱が収まっていた。
さらに金櫃らしきものは二つの南京錠で施錠されたうえに、棚の基部にこれも南京錠によって鎖で繋いであった。
そしてヘルヴィが「仕事場兼寝室」と言ったように、壁の一方には片側の釣り手を外したハンモックが二組ぶら下っていた。
船室は六畳ほどの広さがあり二人部屋とするとディネル号の大きさを考慮するとかなり大きな船室である。
ただ天井までは、一尋と半ピス(約2メートル)ほどしか無く百八十センチ近くある祐司でなくともかなり窮屈な空間という感じである。
その部屋の中でアッカナンが机に出した台帳に自分のメモらしき樹皮紙から何かを写し取っていた。
「セル・ヘルヴィ、今、荷を点検して台帳への記載が終わりました」
顔を上げたアッカナンが言った。
「御苦労でした。セ・アッカナン。ただ後で私が点検をします。残金の確認もしますがその時は手伝ってください」
ヘルヴィはアッカナンの上司だと言ったが、その口調は丁寧で穏やかなものだった。
「それから机の上にティーポットとカップ、そして帳簿が一緒にあるのは拙いです。船は既に出港しています」
今度は少しばかり鋭い口調でヘルヴィはアッカナンに言った。
バーリフェルト男爵家の代表的な家臣ともいえるアッカナンならティーポットの中身を帳簿がのる机上にまき散らしてしまうなどという事態はあり得るだろうと祐司は思った。
「ああ、帳簿への記載に気を取られてうっかりとしていました。すぐに帳簿をかたづけます」
アッカナンがしまったというような顔で言った。そしてアッカナンは帳簿を急いで棚にのせた。
「ヘルヴィ先生、アッカナンさんが部下なのですか。なんかおかしな感じがします」
パーヴォットが素直な感想を口にした。
「一番おかしいく思っているのはわたし達ですよ」
ヘルヴィが苦笑しながら言った。
「はい。人前ではセル・ヘルヴィと呼べと大殿から命令が出ているのです。ただ常にセル・ヘルヴィと呼んでいないとヘマをしそうなので、ヘルヴィ先生はセル・ヘルヴィという名だと思うようにしています」
郷士階級としては誰に対しても気さくなアッカナンが微笑しながら言った。
「わたしもです。アッカナンさんはセ・アッカナンという名だと思うようにしています」
ヘルヴィは嘆息をついた。
「それを聞いてわたしとっても安心しました。セル・ヘルヴィやセ・アッカナンなんて言い合っていてわたしが知っているヘルヴィ先生やアッカナンさんではなくなったのかと思ってしまいました」
パーヴォットは真にほっとしたという口調だった。
「仕事の場では先生と生徒という感じですが、それ以外は全然変わりませんよ」
アッカナンがさらに微笑の度合いを増して言った。
「何故、バーリフェルト男爵様からその様な命令が?呼びやすい言い方では拙いのですか」
パーヴォットが不思議そうに訊いた。それにアッカナンが説明を始めた。
「今、王都貴族では人材の囲い込みが進んでいます。ただ人数を増やせばいいのではなく有能な人材の取り合いです。
そして有能な人材が流出しないように、各家とも門地よりも実力主義になってきており軽輩でも有能で何かしらの技能があれば今までのことなかれ人事を無視して取り立てています。
どうしたことか昔から王都貴族の習性で、時勢が動く時は一斉に新たらしい事を取り入れることを躊躇いません。
やはり王都貴族は王家を手本にしますから、オラヴィ王の進めていた実力主義の人事が王都貴族にも浸透してきたのです」
「それがヘルヴィ先生がアッカナンさんをセ・アッカナンと呼ぶこととどう関係があるのですか」
パーヴォットは益々訝しげだったが、アッカナンは説明を淡々とした口調で続けた。
「有能な者を登用しても、その有能な者を適材適所に配置してそれなりの権限を発揮させなければならないことは誰もが頭ではわかっています。
わたし達は代々バーリフェルト男爵家に忠誠を尽くすことで、子々孫々禄をいただいてきました。
その主家たるバーリフェルト男爵家の存続あってこそわたし達は暮らしていけます。だから有能な者を迎え入れてその者に存分に力を発揮させることが自分達の為になることもわかっています。
ただ気持ちはそうがいかないのが人間です。
今、家臣としてバーリフェルト男爵家を取り仕切っているのは、大殿の秘書官であるプロシウス様です。
ただプロシウス様は新参者と呼ばれても三代前からバーリフェルト男爵家の家臣です。
しかしセル・ヘルヴィは一昨年雇員から家臣に取り立てられたばかりです。
セル・ヘルヴィはバーリフェルト男爵家はかくあるべきという変な独りよがりの意識がなく、丁々発止の王都商人と自分も商人のようにやり合えますので今のバーリフェルト男爵家には必要不可欠の人材です。
何しろセル・ヘルヴィが商人との交渉を担当した昨年とその前の一昨年を比べると、同種の購入品で一割以上支払いが減っています。またバーリフェルト男爵家から商人に売り渡した金額も一割以上多くなっています。
これらを金額にすると金貨四百枚を超えます。
四百枚の金貨が余分あればさらに有能な者を数人仕官させられます。武具を整えることも出来ます。
今までいかに見栄を保つために商人に上手く乗せられて、損をしていたかということです」
アッカナンは最後に軽く首を左右に振った。
アッカナンは金貨四百枚と言ったが金貨四百枚は現代日本では一億円弱程度、経済規模が小さいリファニアであるので現代日本では数億円という感覚になる。
「でも気持ちがついていかない者がいるということですね」
祐司は相の手のように言った。
「ですから軽輩とはいえ歴代の家臣であるわたしがセル・ヘルヴィの下で部下として精勤している姿を示すことが必要だと大殿は考えたのです。
確かに言えますことはサンドリネル妃様やプロシウス様は鋭敏なお方で仕事が出来ます。
しかしバーリフェルト男爵家の家風を知り尽くして、情にほだすことを思いつくのは大殿しかおられません。
幸いセル・ヘルヴィとわたしはユウジ殿との関係で親しくなった間柄で、何のてらいもありませんから大殿にセル・ヘルヴィと呼べといわれたら躊躇いもなく人前で、セル・ヘルヴィと呼びかけられます」
アッカナンの説明にパーヴォットが納得顔になった。
バーリフェルト男爵パンニヴォーナ・ワイゼス・ルマンニはサンドリネル妃やプロシウスから家中の進路について実務的な相談に乗せてもらっておらず、決まったことを何気に実行させられる役割であるが家臣団から信頼されている。
これはバーリフェルト男爵家の家風である渡世人の心情に似た”義理と人情”を大切にする心持ちをバーリフェルト男爵パンニヴォーナ・ワイゼス・ルマンニが持っているからだろうと祐司は考えている。
「バーリフェルト男爵家の気持ちの切り替えにお二人の間柄と能力はまさに適役だったということですね。
アッカナンさんは帳簿の事を少し学べば、祐筆として各種の書類を整えることは長けているからヘルヴィ先生の補佐としては適役ですね」
ヘルヴィはパーヴォットの言葉にしたり顔で返した。
「まあ、そういうことです。セ・アッカナンがわたしをセル・ヘルヴィと呼ぶだけのことで何となく他の家臣の方々のあたりが微妙に違ってきました。
バーリフェルト男爵家の良い家風として別に足を引っ張られるようなことはありませんでしたが、皆様のご協力が余計に増した気がします」
「ヘルヴィ先生以外にバーリフェルト男爵家では有能な家臣を得ることが出来たのですか?」
パーヴォットの質問にアッカナンが思わぬ事を言った。
「はい。まさに経理の鬼のような人材を得ることが出来ました。ムガザ・ハヴェルド殿という男なのですが元はランバリル士爵家の家臣で家中の勘定補佐をしていました。
実はムガザ・ハヴェルド殿はバーリフェルト男爵家でも知られた能吏で、牢人になったと聞いて是非にでも仕官して欲しかったのです」
「ランバリル士爵家から仕官ですか。バーリフェルト男爵家も仕官させたのは英断ですが、ムガザ・ハヴェルドという方もよくバーリフェルト男爵家に仕官なさいしましたね」
パーヴォットが疑念いっぱいという表情で言った。確かに祐司にとっても宜なる事の無い話である。
「ええ、有り難いことです。ランバリル子爵家の経理の二番手だったのがムガザ・ハヴェル殿です。
大殿はプロシウス様の勧めで家中の勘定方を小作地などの管理、わたし達のような渉外、そしてムガザ・ハヴェル殿が差配する金庫番ともいうべき経理に分割したのです」
アッカナンはパーヴォットの疑義に直接答えることなく、ムガザ・ハヴェルという人物の補足説明だけをした。
「ところでユウジ殿はバーリフェルト男爵家の勘定はどのように感じられていましたか」
ヘルヴィは別の質問を祐司に投げかけた。
「はっきり言ってどんぶり勘定です」
祐司はバーリフェルト男爵家の家臣ではあるが、気やすい関係のヘルヴィであるので正直な感想を言った。
この祐司の感想にアッカナンが多少自虐気味な口調でしゃべり出した。
「まあ堅苦しくなくいいところもあるのですが、金の管理と出入りはしっかりとしなければ穴の空いた壺に水を注ぎ込み続けるような事になりかねません。
壺の穴を塞ぐのが経理ですよね。ユウジ殿が教えてくれた知識です。プロシウス様はそのような経理が出来る方を探していましたが、顔見知りの家中からでは矢張り今までのように情に流されるし、また能力のある者も中々おりませんでした。
去年の途中からになりますが、ムガザ・ハヴェル殿が経理を切り回しだしてから定期的に出ていた出費が目に見えて減ったのです。
ムガザ・ハヴェル殿がこれもユウジ殿が言っていた経費という概念を植えつけて、経費になるモノは必要なので金に糸目はつけないが経費とは認められないモノには小銅貨一枚も出さないと徹底したのです」
「反発はなかったのですか」
パーヴォットが遠慮がちに訊いた。アッカナンはすぐに説明を続けた。
「今言ったようにムガザ・ハヴェル殿は必要な金の出費は糸目をつけないと宣言したように何の文句もなく出していました。
出せない金については相手が納得するまで、理路整然と説明するのと大殿がムガザ・ハヴェルはあえて悪役になってもらっている。ムガザ・ハヴェルの考えは自分の考えでもあるのでどうしても納得できなければわたしが苦情を聞こうと言ったので、今では経理に関して文句を言う家臣はおりません。
それに経理の長は親類衆のトジャザ・フクセチエ様ですから。トジャザ・フクセチエ様は経理では名目上の長ですが渉外も牽引されており、わたしの直接の上司で役名は勘定方渉外組頭となります」
「いい人事だと思います」
アッカナンの言った内容に祐司は表情も含めて同意した。
アッカナンの言ったトジャザ・フクセチエは先々代バーリフェルト男爵殿下の庶子で、バーリフェルト男爵パンニヴォーナ・ワイゼス・ルマンニからすると伯父になる。
一時は過半の親戚衆がランバリル子爵家の権勢に惑わされて、バーリフェルト男爵パンニヴォーナ・ワイゼス・ルマンニを軽んじていた時でも、バーリフェルト男爵家の近衛隊隊長トジャザ・フクセチエはバーリフェルト男爵パンニヴォーナ・ワイゼス・ルマンニを支持していた。
トジャザ・フクセチエが近衛隊隊長だったのは、バーリフェルト男爵パンニヴォーナ・ワイゼス・ルマンニがバーリフェルト男爵家内での第一の武装勢力である近衛隊を自分の意志通りに動かしたかったからだ。
トジャザ・フクセチエはパーヴォットを何度か見かけて、愛らしさとともに聡明さと勇気のある少女だと見抜いて、我が子バローミュー・ロクナットの嫁にと祐司とパーヴォットに見合い話を持ちかけたことがある。
(第十一章 冬神スカジナの黄昏 王都の陽光7 パーヴォットの見合い話 上 参照)
この見合い話はトジャザ・フクセチエがバーリフェルト男爵パンニヴォーナ・ワイゼス・ルマンニに仲介を頼んだのだが、祐司とパーヴォットの間柄を知っているバーリフェルト男爵パンニヴォーナ・ワイゼス・ルマンニはその場で事情を話して断ればいいのに、”義理と人情に篤い”といバーリフェルト男爵家の価値観によって自分を支持してくれた伯父トジャザ・フクセチエに余計な気を使って承知してしまった。
バーリフェルト男爵パンニヴォーナ・ワイゼス・ルマンニとしては、トジャザ・フクセチエの願いを聞き届けることで義理を果たして、断ることを祐司に丸投げしたのだ。
この些か無責任な企ては、サンドリネル妃に露見してバーリフェルト男爵パンニヴォーナ・ワイゼス・ルマンニは大目玉を貰うことになった。
祐司が「いい人事」と言ったのはトジャザ・フクセチエは商才があって個人でかなりの小作地を持っており王都の商人から手形を買い取って利をあげていたからだ。
本来ならトジャザ・フクセチエは文官として手腕を発揮させるのが適材適所であるが、バーリフェルト男爵家内の親戚衆の勢力関係から近衛隊隊長に任じられていた。
「あのー、ムガザ・ハヴェルという方は昨年バーリフェルト男爵家が”北西戦役”で出した軍勢の経費の件でも活躍されたのでしょうね」
祐司はパーヴォットの質問に、ふとある小さな事件を思い出した。そしてパーヴォットもその事件の顛末を知りたいのだろうと思った。
「はい。ムガザ・ハヴェル殿の仕事がなければ、二割ではきかない余分な出費が出たと思います。ユウジ殿も御存知だと思いますが、それでいてバーリフェルト男爵勢は金では苦労することなく、他家に侮られることもありませんでした」
ヘルヴィの説明にパーヴォットは本題に近い質問をした。
「あのー。その”北西戦役”の件ですが、王都から送る予定だった備品と現地で調達した品の件でムガザ・ハヴェル様が注意をされたことがあるのでは?」
「はい。心当たりがあります」
ヘルヴィとアッカナンは顔を見合わせてから、ヘルヴィが探るように言った。
「一寸、見て欲しいモノがあります。船室から取ってきます」
パーヴォットが立ち上がって言った。
「それならわたしはハーブティーを貰いに行きます」
すぐにアッカナンがティーポットを手に持って言った。
「セ・アッカナン、ティーポットの残りのハーブティーはわたしが飲みましょう」
ヘルヴィの言葉にまさにアッカナンはバーリフェルト男爵家歴代の家臣らしいことを言った。
「ああ、これは船の出港前にわたしが飲み干して空です。カップにも残っていません」
無論、このアッカナンの言葉に一同は心の中でこけた。