極北水道復路23 ディネル号の出港
アッカナンの指示でディネル号から二人の船員が祐司とパーヴォットの宿泊している巡礼宿舎に出向いて二人の荷をディネル号に運び込んだ。
祐司とパーヴォットが忘れ物はないかと巡礼宿舎に確認に行ってからいよいよディネル号に乗船しようと波止場に向かっている途中で、デンザ・エドヴァル神官長、ウィンバルド神官に出会った。
「いよいよ出発ですね。ただ貴方の一願が成就しても今生のお別れになる気がいたしません」
世話になったことに謝辞を述べた祐司にデンザ・エドヴァル神官長が握手しながら言った。
「おや、神官長、わたしもそんな気がしてなりません」
続いて祐司が握手したウィンバルド神官は微笑みながら言った。
デンザ・エドヴァル神官長とウィンバルド神官はパーヴォットとも別れの言葉を交わして握手するとそのまま本殿の方へ戻っていった。
現代日本で別れの時に握手するのは多少奇異な感じがするだろうが、リファニアでは同性異性の関係なく握手は別れの時も含めて親しみのある相手とする挨拶である。
「あのー。ユウジ様、ユウジ様の一願というのは…」
パーヴォットが言葉を濁した。
頭の回転の早いパーヴォットならウィンバルド神官らが言った短い言葉からでも、祐司がどこか遠くに行ってしまうのだということはすぐに察することが出来る。
「心配するな。わたしはパーヴォットが悲しむ選択はしない。兎も角、今はエォルンに真の夏至の日までに戻ること。
そしてチャヤヌー神殿を目指してリファニアの北辺から東部沿岸を旅する。それからヘルトナに戻る。真の目的地は”迷いの森”だ」
祐司は今まで口にしなかった目的地を真っ直ぐ前を見たままで口にした。
「ヘルトナに戻るのですか」
パーヴォットが明らかに嬉しそうに言った。
北クルト北部の都市ヘルトナはパーヴォットの生まれ育った故郷である。そしてまだ仮埋葬の状態だが父キンガの遺体も眠っている。
リファニアでは埋葬した遺体の骨を数年後に掘りだして、もう一度身分やお布施に応じた別の場所に埋葬する。
七から八割が数十人から百人程度の名を記した石碑をたてた共同墓地に埋葬されるが、キンガは郷士身分であり、また祐司が多めのお布施を出しているのでヘルトナの主要神殿の壁際に埋葬される予定である。
ディネル号は二刻(四時間)ばかりワウナキト神殿の波止場に停泊した。
これはディネル号が立ち寄った最終の集落であまり上質な飲料水を入手出来なかったので飲料水の補充を行ったのと、波止場の市に持ち込まれていた海獣の皮革を追加購入した為だった。
結局、ディネル号がワウナキト神殿の波止場に入ったことは時間の損失ではなく、全体としては都合が良かったという結果になった。
ディネル号が就航するときに波止場には祐司とパーヴォットがセンバス号でワウナキト神殿に来た時の同乗者であるパンニ・イェルケゼン神官とその妻のクレド・ミラベリ-ナ神官も見送りに来た。
イェルケゼン神官とミラベリ-ナ神官の夫婦は赴任直後で公務多忙だったのか、祐司とパーヴォットがワウナキト神殿にいる時には一度も姿を見かけなかった。
祐司とパーヴォットは見送りに来てくれた三人の聖職者に丁寧に謝辞を述べた。
「パンニ・イェルケゼン神官様、クレド・ミラベリ-ナ神官様はついぞお姿を見ませんでしたが、お忙しかったのでしょうか」
パーヴォットが思ったことを口にした。
「新しく赴任した神官と言うことで、近隣の集落に顔見せに出掛けていたのです」
イェルケゼン神官がすぐに答えたくれた。
地域の神殿は地元出身者である認定神官が必ず配置されるが、ワウナキト神殿は他地域からの聖職者の赴任が多いのでこまめな顔見せが必要なのだろうとイェルケゼン神官の話を聞いて祐司は思った。
「船で行かれたのですか」
パーヴォットはさらに質問をする。
「そうです。あの船です。流石にセンバス号ほど快適ではありませんでしたが」
ミラベリ-ナ神官は波止場の近くの浜に係留してあるカヌー形式のボートを指差して言った。
カヌーは十人以上が乗れそうな大型のモノではあるが、近隣の集落といってもそれぞれが十数リーグ(20キロ程度)は離れているので一寸とした航海になるし多少でも海況が悪くなるとスリリングな思いをするだろう。
「訪れた集落の中で一組の結婚式がありまして、その祝いの差配を頼まれました。
ただこの辺りの婚姻は普通でも三日がかりということで、その間はわたし達もお付き合いをして欲しいと頼まれたりして戻ってくるのに日時がかかりました」
イェルケゼン神官が妻のミラベリ-ナ神官に続けて言った。
「やはりこの時期は結婚式は多いのですか」
パーヴォットが訊く。
リファニアの住民のうち少なくとも七割ほどは農民である。農村部の結婚式は六月に多い。
これは春の農繁期が落ち着いて、まだ秋の農繁期が始まらない時候のいい季節に慶事をしようとするからである。
「いいえ、今の季節は希だそうです。北辺の地は夏が短いので今は一年の蓄えを老若男女でかき集めているという時期です。
ですから結婚式は必要な物資も揃ってそろそろ冬籠もりをしようかという九月から十月頃が多いそうです。
今回お付き合いした結婚式は集落長の息子さんと、隣の集落長の娘さんの結婚式で割合に遠方からの招待客が来やすい時期にしたようです」
イェルケゼン神官が丁寧に説明してくれた。
「北辺の花嫁さん見たかったな」
パーヴォットが羨ましそうに言った。
「そうですな。中々立派な衣装だと思いました。結婚式の衣装は一生モノの晴れ着にするそうです。その衣装は集落がお祝いの贈答として用意する習慣だそうです」
イェルケゼン神官が説明した。
「家も南部では見られない中々珍しいモノでした。天幕かと最初は思っていましたが、木の支柱を使った頑丈なものでした。この辺りは樹木がありませんから、流木と皮革やトナカイの毛で作れる程度の家が伝統的な家だそうです」
ミラベリ-ナ神官が先程と同じように夫婦で気が合ったことを示すように付け足した。
ただイェルケゼン神官とミラベリ-ナ神官の夫婦にとっては恒久的な建物としての幕舎式の住居は初見のモノだったようだが、祐司とパーヴォットはマルトニアのバーリフェルト男爵家の所領で幕舎式の集会場を利用したことがあった。
バーリフェルト男爵家の所領に伝統的な放牧生活をするイス人も居住しており、彼等の住居を真似たモノだった。
(第十一章 冬神スカジナの黄昏 春の女神セルピナ15 マルトニア見聞記六 -ポンテテ郡- 参照)
「お話は尽きぬかと思いますが、そろそろ出港の自家のようです」
ヴォーナ・ルチバルド修道神官が声をかけてきた。
祐司は「センバス号でご一緒出来たのも何かの縁だと思います。名残は尽きませんが、これで失礼いたします」と言い、パーヴォットと一緒にそれぞれイェルケゼン神官とミラベリ-ナ神官と握手すると二人はディネル号に乗り込んだ。
二人の乗船を待っていたかのようにすぐにディネル号は舫い綱を解いて桟橋から離れ始めた。
無動力の帆船が桟橋から離れる時はそれなりに細やかな操船操作が必要であるが、リファニアデアは巫術師が行う”送風術”でいとも容易に船は桟橋から離れる。
祐司とパーヴォットはしばらく桟橋で見送ってくれていた三人の聖職者に手を振っていた。
「ディネル号へようこそ。エォルンまでしっかりとお送りいたします」
船が桟橋から離れて少し手空きになったのかヴァウト船長が声をかけてきた。
「予定ではエォルン到着はいつになるのでしょうか」
祐司は日程に追われていることを気取られないように出来るだけ軽い口調で訊いた。
「天候が安定していますので、順調なら六月の二十日だと思います。ただいい天候が続いていますからそろそろ一荒れ来るかもしれません。それでも余程の嵐が来ない限りは遅れても二十二日には到着しています。
ただ天候の関係もありますが、行きの船よりも多少揺れが大きくなるでしょうからそれはお許しください」
ヴァウト船長は空を見上げながら言った。
祐司はヴァウト船長は天候悪化の兆しが見えているのではないかと感じた。
「ユウジ殿、お部屋に案内します」
今度はヘルヴィが声をかけてきた。
「おや、アッカナンさんは?」
パーヴォットが訊く。
「アッカナンは今、先程仕入れた品の目録と金銭支出記録を作っています」
ヘルヴィの言ったことに祐司は違和感を感じた。
パーヴォットはアッカナンさんと言ったが、これはリファニアの言葉では”セル・アッカナン”となり”セル”を”さん”と訳している。女性の場美は”セレ”という接頭辞になる。
これに対してヘルヴィは”セ・アッカナン”と言った。これは日本語では表現が難しいが”君”程度になるが”君”よりまだ打ち解けた表現で日本語では相当するものがないといえる。
リファニアでは郷士階級や上層の平民が同輩同士が仕事で呼び合う時に”セ”を使用する。
またすぐ下の部下に相当するような者に呼びかける時も使用されるが、目上の者には使用しない。
祐司とパーヴォットは王都でバーリフェルト男爵家を親しくしながら、その様子から家臣間の上下関係の機微がなんとなくわかっていた。
領地を一旦王家に差し出すなど今や王家に忠誠無比を誓っているバーリフェルト男爵家も元は封建領主である。
封建領主の家臣団は軍事組織でもあるので、時の役職に応じて当然ながら上下関係が規定される。
しかし代々仕えてきたか、新参かという門地もこの上下関係の中では重要な要素になる。特に長らく戦乱に巻き込まれなかった王都貴族家ではこの傾向が強いく、門地によって役職の方が規定されやすい。
ヘルヴィは書類作成に長けて海千山千の商人との折衝に長けた家臣でバーリフェルト男爵家にとって必要不可欠な存在であるが、雇用人から家臣になったのは一昨年である。
それに比べてアッカナンは歴代の家臣であり、バーリフェルト男爵家では中堅どころといった祐筆である。
それからすると、ヘルヴィがアッカナンのことを”セ・アッカナン”と呼んだのは少なくともヘルヴィとアッカナンが同輩ということになる。
しかしヘルヴィが手空きで、アッカナンが事務仕事をしているとなるとヘルヴィがアッカナンの上司であるとも祐司には思えた。
「ヘルヴィ先生とアッカナンさんはどのような役割でディネル号に乗船しているのでしょうか」
祐司は疑問を遠回しに訊いた。
「わたしは今回の北辺でも買い付けの責任者で、アッカナンはわたしの助手ということになります。
去年まではわたしの仕事には正式な役職名がなく御文庫付き渉外役という肩書きでしたが、今年から勘定渉外役筆頭与力という少々古めかしい役職名がつきました。
ただ役職名が明確になっても各種あの取引が増加してわたし一人では商人との交渉が無理になってきたので、わたしの仕事を将来的には引き継ぐことを視野に入れて三人の助手を勘定渉外役与力と同心として大殿が任命してくれました。
そのうちの与力の一人がアッカナンです。
あの人は物腰が柔らかいのですが、筋はきっちり通すことが出来ますから商人相手の仕事が出来ます。大殿が祐筆より今のバーリフェルト男爵家には適任だろうと任じたのです」
「ここだけの話ですが、その人事はフェベヴォ・サンドリネル様かガガベレ・ブロシウス様からでは?」
ヘルヴィの説明に祐司は思わず言わずもがな質問をしてしまった。
バーリフェルト男爵パンニヴォーナ・レイナウトは一時は画家として市井で暮らそうとした考えていたので低い視点でも世情を見ることが出来ながら貴族としての威厳もあり、また決断すべき時は逃げることなく最善の手を打てる人物である。
ただ”詰めが甘い”、”一言多い”といったバーリフェルト男爵家の家臣団まで含めた欠点があり、時に子供じみた真似をしてしまう。
その為に聡明すぎるほどであるバーリフェルト男爵妃フェベヴォ・サンドリネルとその双子の姉妹ブアッバ・エレ・ネルグレットとデジナン・サネルマ、そしてブアッバ・エレ・ネルグレットの夫ニメナレ・ウオレヴィデ、デジナン・サネルマの夫レフトサリドリ子爵ヘヴァデ・ダルメ・フェルメドル、さらにバーリフェルト男爵家の最も有能な家臣プロシウスが時に会合をしてバーリフェルト男爵家の進むべき方向を決めている。
(第十一章 冬神スカジナの黄昏 春の女神セルピナ20 祐司の仮説とバーリフェルト男爵家の密議 参照)
これはバーリフェルト男爵パンニヴォーナ・レイナウトにも内緒であるので祐司が知るところではないが、バーリフェルト男爵家を知っている祐司からすれば、ヘルヴィの立場をより明確にして有能であれば取り立てることに躊躇しないという気風を推し進めるのはバーリフェルト男爵妃フェベヴォ・サンドリネルか時に聡明すぎて他人がついてくることが出来ないデジナン・サネルマと聡明さは妹に劣るが正義感溢れるバーリフェルト男爵家の世継ぎである姉ブアッバ・エレ・ネルグレットに仕えるプロシウスであろうことは容易に想像出来る。
「まあ、噂はありますがそれにしてもアッカナンの配置換えをしたのは大殿です。また大殿はアッカナンの禄を上げて家中に昇進だということを示しました。
アッカナンの禄を上げるように命じたのは大殿なのは確実です。大殿はそのような配慮をされる方です」
ヘルヴィは苦笑しながらこの話は終わりにして欲しいという顔になった。
ディネル号の後部の出入り口から船内に祐司とパーヴォットを案内したヘルヴィは船体のやや後方左舷にある個室へ祐司とパーヴォットを案内した。
部屋は三畳もないほどの広さで幅が明らかに狭いベッドがほぼ部屋を占領しているという状態だった。そして申し訳程度の大きさの机がベッドを椅子がわりにする前提で壁に固定される形で備えられていた。
ワウナキト神殿に向かうために往路に利用したのセンバス号はリファニア最初のバーク型帆船で、おそらく排水量で六百から七百トンほどの大型船であり、また同乗者を乗せることを前提として貨客船であった。
その為に船室も二人部屋だったが六畳近くの広さがあった。そのセンバス号の船室と比べると一人部屋とはいえ息苦しさを感じるほどである。
ただディネル号は貨物輸送の為の船で大きさもセンバス号の半分もないのでいたしかたのないことだった。
「ここです。狭いですが二部屋続きになっています。どちらも同じ大きさで同じ造りですからお好きな方をお選びください」
ヘルヴィは半分ほど開いていた引き戸を全開にして室内を見せながら言った。引き戸の開口部は幅があり大人の男が四人ほども並んで通れるほどだった。
「荷物は片方の部屋に纏めて入れてくださっていますから、その部屋がわたしの部屋でいいのではないですか」
パーヴォットが即座に言った。
「どうしてだい」
祐司はパーヴォットに訊く。
「わたしは従者としての役割があります。従者の部屋に荷が多く有るのは当たり前です」
パーヴォットはそう言うとさらに「いいですよね」と祐司を牽制するように鋭い言葉を発した。
「ひょっとしたらここはヘルヴィ先生とアッカナンさんの部屋だったのではないのでしょうか」
パーヴォットはヘルヴィに対して、すまなそうな口調で言った。
「いいえ、ここは船倉の一部です。ベッドも荷物台にマットを置いたものです。船倉だが船室としても使用出来る部屋です。
その為に荷の出し入れに不便でないように引き戸になっています。ユウジ殿が乗ってくるまでは海獣の皮革が積まれていました。
それは右舷の部屋にも積まれていましたが下の船倉に移しました。どうも船の重心を多少とでも下げる為にヴァウト船長も思案してしたようですが、お二人の部屋を作ることで決断したようです」
ヘルヴィの説明で祐司は引き戸の開口部がやたらと広いことと、先程ヴァウト船長が「行きの船よりも多少揺れが大きくなるでしょう」と言っていた真の意味がわかった。
祐司は漠然とセンバス号の半分もないディネル号の大きさと天候の悪化で揺れが大きくなるとヴァウト船長が言っていると思っていたが、ヴァウト船長は別の観点から揺れが大きくなると言ったようだった。
荷を下部の船倉に移せば船の重心は下がって、船の復元性は向上する。ただ船の揺れは大きくなる。
「ディネル号には一度乗船しましたが何か中の様子が憶えているのとは違います」
パーヴォットが小首を傾げながら言う。
祐司とパーヴォットはマルトニアのサスカチャとバーリフェルト男爵家の代官所があるポンテテ郡を往復した時にディネル号に乗ったことがある。
(第十一章 冬神スカジナの黄昏 春の女神セルピナ13 マルトニア見聞記四 -サスカチャ湾の談義- 付録:動員兵力1 参照)
「この冬にヴァウト船長の提案を入れて少し改装したんです。元はマルトニアと本土だけを行き来する航路の船で長期の航海を考えていませんでしたから、居住性を上げたということでしょうか。
ズラーボン・イェルハルド艦長にもディネル号を見て貰って意見を聞いたのですが、その辺りが難しかったですね」
ヘルヴィがにこやかな顔付きで言った。