極北水道復路17 祐司の置き土産 上
祐司とパーヴォットはコルニエド神官に案内されて、ワウナキト神殿のデンザ・エドヴァル神官長の部屋へ案内された。
コルニエド神官に連れられて三階の神官長室と書かれた板が扉に架かっている部屋の前までくるとパーヴォットが素っ頓狂な声を出した。
「え、ここですか。この部屋って北側ですよね」
大概の神殿では神官長の部屋は南側、それも東南の隅であることが多い。最も日当たりがよく明るい場所だからだ。
また神官長室には地域の有力者が訪ねてくるので、居心地のいい部屋である必要もある。
「驚かれる外部の方が多いです。ワウナキト神殿の初代神官長が、ワウナキト神殿は北辺鎮護の神殿であるから神官長室は北の方向がいつでも見える必要があるとして北側に神官長室を定めたそうです。
以来数百年その伝統が続いています。そうなるとおいそれとわたしの赴任中は南側に神官長室を移動するとは言えませんよ」
コルニエド神官は部屋の前で少し声を落として説明した。そしてコルニエド神官は扉の前で「ジャギール・ユウジ殿をお連れしました」と大きな声を出した。
すると中から「お入りいただきなさい」と太い声が響いてきた。
扉を開けたコルニエド神官に促されて祐司とパーヴォットが神官長室に入るとそこには三人の聖職者が楕円形のテーブルに座っていた。
そのうちの一人はエリーアスの一族の束ねであり、現在は医務神官のウィンバルド神官と名乗っていながらリファニアの宗教組織の宗教的監査と高位聖職者の人事を行う”大神官会議”の長を務めるエリーアスの息子タブリタだった。
ウィンバルド神官が神官長室にいるとは想像しなかった祐司は少しばかり面食らった。
「わたしが当ワウナキト神殿の神殿長を拝命しています神官長のデンザ・エドヴァルです」
残り二人の聖職者は五十代半ばと四十代半ばという感じだったが、その内の四十代半ばと見える聖職者が立ち上がって名乗った。
「一願巡礼のジャギール・ユウジです。この度はワウナキト神殿参拝の許可をいただきありがとう御座いました。
それにもかかわらず不注意で”北極熱”に罹患して、そこのウィンバルド神官には大変なご迷惑をかけてしまいました。
その上にわたしが医務室にいる間に、わたしの被保護人であるローウマニ・パーヴォットに数学のご教授をゼレド・ブルクバレド神官からいただいたそうで一言なりとも礼の言葉を申したく思います。
またゼレド・ブルクバレド神官に数学の教授を口添えしたいただきましたデンザ・エドヴァル神官長には先程に重ねて礼をいいたいと思います」
祐司は神官長室に来る前に考えていた礼の言葉を言い終わると、「ありがとうございました」と言って頭を下げた。
「どうか堅苦しくならないで下さい。わたしも座りますからどうかお嬢さんと一緒に椅子にお掛け下さい」
エドヴァル神官長はそう言いながら座った。
祐司はパーヴォットに目で合図をすると、二人同時に椅子に座った。
「練習でもされたかのように同時に同じ動きで座られましたね。きっとお二人は相性がいいのでしょう」
エドヴァル神官長は少し握った右手で口を押さえてから言った。どうも笑いを堪えたようだった。
祐司とパーヴォット本人達は自覚が薄いが、時に周囲の人間からすればシンクロナイズというような動きや反応をする。
これは祐司とパーヴォットが王都にいる頃から顕著になっている。
時代背景と場所を越えて基本的に祐司とパーヴォットは似通った人間性と感性を持っている。
基本的に真面目で片意地な時があっても悪意を持った行動はしない。また悪意を持ったような行動に喜びを感じない。
それが同じ体験や誰かの発言を聞いた時に同じような行動をする原因である。
それが王都にいる頃から顕著になったのは、ひとえにパーヴォットの精神的な成長が顕著で祐司に追いついてきたからである。
祐司とパーヴォットは椅子に座ると同時に横目で見合った。そしてパーヴォットの目の合図で祐司がまだ名を名乗っていない聖職者に口を開いた。
「ゼレド・ブルクバレド神官、パーヴォットに数学をご教授しただきありがとう御座いました」
目の前にいる三人目の聖職者が、パーヴォットに数学を教授してくれたゼレド・ブルクバレド神官かを祐司はパーヴォットに目で訊いたのだが、パーヴォットは祐司が三人目の聖職者がゼレド・ブルクバレド神官かどうか目で訊くだろうと思い祐司の方へ目を向けたのがまた周囲から見ると面白ようにシンクロナイズしていた。
ブルクバレド神官はその様子を見て少し微笑んでから口を開いた。
「いいえ。わたしは長らく神学校で数学の師範をしておりました。足かけで三十八年になります。
わたしが知っている中で一番数学が得意なお嬢さんとは言いませんが、一番数学が好きなお嬢さんでしょうか。
わたしのような数学に関して増長してるような者は何故わからないのかと、時に神学生に感情のままに悪態をつきました。お恥ずかしい限りです。
ですからわたしに神学校で学んだ者がワウナキト神殿に来ると、わたしの神学校時代の不行状を詫びるばかりです。
パーヴォットさんは時に理解に躓くことがありますが、素直な間違え方です。まだ理解が不足している者はそうした所で躓くのだから、こう教えればいいのだと気が付かされました。
もし神学校でわたしがパーヴォットさんを教える機会があれば、ずっといい数学の師範になっていたでしょう」
ブルクバレド神官はパーヴォットを褒めているのかどうかという微妙な言い方をした。
「あの、ダバン・ウィンバウト神官が同席されているのは?」
祐司が気になっていたいた事を訊いた。
「”北極熱”の予後を診断いたします。後で一緒に医務室に来て下さい」
ウィンバルド神官は答えになっていないことを言った。
「明後日にはお立ちと聞いています。今日はこれから少し時間があります。パーヴォットさんがお望みなら最後の教授をいたしましょう」
ブルクバレド神官がパーヴォットの方を見て言った。
「ありがとうございます。お願いできますか」
ウィンバウト神官は「では、パーヴォットさんをおあずかりします」と言ってパーヴォットと一緒に神官長室を出て行った。
「さて、デンザ・エドヴァル神官長の別の顔を紹介します」
少し間を置いてウィンバルド神官が言った。
「別の顔?」
祐司は少し用心しながら言った。
「わたしはウィンバルド神官ことタブリタの孫にあたります。ようやく百二十歳になったところです」
デンザ・エドヴァル神官長がそれまでと比べて自分を引いたような感じで言った。
「あなたもエリーアスさんの一族でしたか」
祐司はさもありなんという口調である。
ウィンバルド神官の話からするとワウナキト神殿の別院を隠れ蓑にして、世間からは秘匿された”大神官会議”のメンバーが潜伏しているということだったが、それをワウナキト神殿の神官長を巻き込まないで行えるとは思えないからだ。
「スヴェア一族の血も八分の一引いています」
ウィンバルド神官が付け足すように言った。
「エリーアスさんお一族はかなりおられるようですね」
祐司はエリーアスの一族がリファニアの”宗教組織”に深く入り込み、”宗教の融和”という道筋を外れないように行動していることを知ったが、リファニアの”宗教組織”の規模を考えれば数人という人数では上層部を固めてもそれは難事である。
祐司は少なくとも数十人以上の長寿一族が”宗教組織”の要所にいるのだろうと考えている。
「父エリーアスの血を引く者は年々増えています。スヴェアさんお一族の血もね。今のリファニアでは一年に十人程度の長寿の血を引いた者が生まれているとだけ言っておきます」
ウィンバルド神官が思わぬ事を言った。
長寿一族が増えれば増えるほど幾何級数的に世間に露見する危険性が高まるからだ。
「百年ほど前に一族が生き残るための根本的な方策を変更しました」
ウィンバルド神官が祐司の疑念を読み取ったように言った。
「根本的な方策の変更?」
「世から隠れ続けることです。今はまだその方策をしばらく続けますが、時期がくれば死んだことにして誰かに入れ替わって長寿を誤魔化すという方法が何時までも通用するとは思えません。
長寿一族の存在はいつかは露見します。個人を識別する技術はこれからどんどんと進化するでしょう。わたし達は肖像画の技法の発達からそれを危惧しだしたのです」
ウィンバルド神官は気鬱そうに言った。
リファニアの肖像画の技術は二百年ほど前から飛躍的に向上している。そして肖像画は格子状に張り巡らした糸のすぐ近くにモデルを置いて画面に同じく描かれた格子状の線に機械的に顔の造作の位置を描いていくなどの技法が用いられている。
これにより多少画力があれば均一的で実に写実的な肖像画が作製出来るようになった。
またこうした肖像画は画家と言うよりも複数の職人的な絵師が分業体制で制作することからリファニアでは絵画とは別の肖像画という名の工芸作品と認識されている。
こうした肖像画は貴族階級では生涯に数枚、ホルメニアのような文化的な地域に住む裕福な階層では二三枚ほど描くことが多い。
高位聖職者ともなると肖像画の一枚も残さないと何か意趣があるのかと思われる。ただエリーアスの一族からすれば写真的な肖像画は憂鬱の種になる。
「そういった懸念でしたら拙い知識を伝えたかもしれません」
祐司が渋い顔で言った。
そして祐司は自分が王都で提案して実行された指紋による犯人特定の事案を話した。
祐司はバーリフェルト男爵から当時王都を震撼させていた私娼連続刺殺事件解決の助力を頼まれた。
(第十一章 冬神スカジナの黄昏 Jack the Ripper in Tachi2 新妻カロシェネリ 参照)
そして祐司は有力容疑者たる認定神官にして画家であるカマロ・ベルラジェドの指紋を、王都の女渡世人”灰色のデレシアネ”の配下のスリ技術を持って得ることが出来た。
(第十一章 冬神スカジナの黄昏 Jack the Ripper in Tachi10 少女娼婦パーヴォット 参照)
そしてベルラジェドが犯行現場に残した指先の皮膚の指紋を比べてベルラジェドが犯人だと特定した。
この事案は指紋が個人で異なる上に一生変化しないという知識がまだなっかったので、逮捕には至らないが犯人は特定できたという事にしか用いられなかった。
ただこれ以降バーリフェルト男爵が指揮する府内警備隊では指紋の研究が進み、やがて指紋が犯行証拠として認められるのは近い将来である。
またリファニアでは信者証明が身分証明書になるので、指紋の押印が信者証明に求められるというようなことも考えられる。
さらに祐司が伝えた指紋の知識がなくとも、手形や足形の同一人物の同一性は比較的認められている。
ノヴェレサルナ連合侯爵家女侯爵デデゼル・リューチル・ミラングラスは死んだと思わせていた自分の嫡子ゲファシン・ヴァシュル・ラファエルドル幼児期に神殿に残した手形を示してその生存を証明している。
(第十三章 喉赤き燕の鳴く季節 イティレック大峡谷を越えて7 ミラングラスの奇計と英断 三 参照)
祐司はこの事例もウィンバルド神官に話した。
「子のすこやかな成長を祈って手形を神殿に奉納する事は少しづつ広がっている習慣です。段々と用心しても気が休まらない時代になるでしょう」
エドヴァル神官長は嘆息した。
「写真のことは知っていますか」
祐司はふと思いついた事を口にしてしまった。
「シャシンとは?」
すぐにウィンバルド神官長が反応したので祐司はしかたなく説明をした。
「レンズで集めた光をガラス板やフィルムといった柔軟な素材の上に塗った光に反応する感光剤を化学変化させて姿形をそっくりそのまま写し取る技術です。
感光剤は臭化銀だったと思います。臭化銀は何の役に立つかは知られてはいないですがリファニアでは知られている物質です」
祐司は王都にいる時に、ちょっとした気まぐれでリファニアで写真技術を開発は可能かと王立図書館で調べたことがあった。
そして感光剤になる臭化銀がすでに見出されていることを知ったが、その時は出来るかもしれないという程度で、スマートフォンでいつでも画像を得られる祐司は興味を失っていた。
「わたしも写真を撮ることが出来ます。今、お見せします」
そう言った祐司はいつも隠し持っていたスマートフォンを取り出した。
そして祐司はウィンバルド神官を撮影すると、今度は自分を撮影してその画像をウィンバルド神官とエドヴァル神官長に見せた。
「瞬時にこんなことが」
画像を見せられたエドヴァル神官長が呻くように言った。
「この機械の写真は感光剤を使わないものですが、リファニアの知識から超越したモノとなりますから説明は省いていいでしょうか。リファニアで電気についての知見が進めば百年か二百年で誰か発明してくれます」
祐司は画像を見せ終わるとスマートフォンについて質問攻めにされることを恐れて素早くスマートフォンを仕舞い込んだ。
「了解しました。技術は自分で得てこそとは我が一族が肝に銘じた言葉でもあります。ただ少しばかりデンキについての知見を教えて下さい」
何か言いたそうなエドヴァル神官長を右手で制したウィンバルド神官が制して、祐司に新たな要望を出した。
すると祐司は写真の話題から今更ながら気が付いたことを、ウィンバルド神官に懸念を持って伝えた。
「サラエリザベスさんの時代にはすでに写真は一般的なものになっていました。サラエリザベスさんとは写真の話はしませんでした。
ですがもしサラエリザベスさんが感光剤について少しでも知識があれば、サラエリザベスさんの一族は資金力があるので写真、サラエリザベスさんならホトグラフィーと言う技術を完成させるかもしれません。
サラエリザベスさんお一族はサラエリザベスさんの知識を小出しにして、画期的な商品を世に出して儲けて一族の安定化を図っていますから」
サラエリザベスの住んでいた1870年代のアメリカ合衆国では撮影をするには写真屋に行かなければならないが写真は身近なものになっており、サラエリザベスの写真も現存している。
*”第二十二章 極北紀行 下 極北水道復路2 エリーアスとサラエリザベスの一族”にサラエリザベスの写真があります。
「そのシャシンの件はサラエリザベスさんの一族と接触した時には確かめておかねばなりませんな」
エドヴァル神官長がウィンバルド神官に言った。
「先程、カンコウザイは臭化銀を使うといいましたね」
ウィンバルド神官が自分の記憶を喚起するかのように言った。
「そう臭化銀だったと思います。少し調べて情報をお渡しします。出発までにご要望のあった数式はお届けします。
その他の情報についてはまとまったものは置いていきますが、残りは帰りのセンバス号で仕上げてエォルンのサンデクト神殿のデクド・ナルレント神官長にお渡しするということでいいですか。
ただわたしの情報も概略的なものに過ぎません。実用化となると相当な実験と期間がかかると思いますよ」
祐司は頭の中で作業の算段をしながら言った。
サンデクト神殿のデクド・ナルレント神官長はスヴェアの一族でエリーアス一族との調整役でもある。
祐司とパーヴォットはセンバス号で”真の夏至の日”までにエォルンに帰還する予定になっており、祐司は帰路の船でウィンバルド神官に渡す書類を書けばいいと算段した。
「地道に実験して見ましょう。試行錯誤をしてこそ学問が進み技術を手に入れられるのです」
ウィンバルド神官は祐司の言葉を受け流すように言った。
「先程、根本的な方針の変更と仰っておりましたが…?」
祐司は途中からそれてしまった話を聞き返した。
ウィンバルド神官は両手を組みながら話し始めた。
「いちまでも長寿者の存在を隠し続けることは出来ません。長寿者集団は三系統あり年々増加しています。
今はなんとかどの集団も統制が出来ており不埒な者もいませんが、それは僥倖に過ぎません。
ですから百年を目処に長寿者集団の存在を世に知らせる方針です。その前提としてリファニアにおける長寿者集団の人口を百人に一人程度まで増やします。
逆に言うと百人に一人が長寿者となることの出来る人間であれば、まったくの珍しい存在ではありません。
百人に一人とはリファニアで十万人ということです。その大部分は自分が長寿者集団に属するとは知らずに長寿者になって貰います。
その位の人数であれば気味悪がられるのではなく、自分の子孫も長寿になることを求めて長寿者は重宝されるでしょう」
「積極的に外部の者と子供をもうけていくということですか」
祐司は確かめるように訊いた。
「そうです。この計画は数年前から試験的に行われおり、すでに四十人以上の子供が生まれています。
誰かは言えませんが、その中には貴族家の子供も四人います。その子達を足がかりに貴族家には積極的に長寿者を増やします。
貴族階級とそれにつながる高位郷士階級に有意に長寿者が多ければ、異端の者として排除される可能性は少なくなりますからね」
ウィンバルド神官は決意を披露するという雰囲気だった。