極北水道復路8 ワイナキト神殿の波止場
祐司はワウナキト神殿の医務室に隣接する病室にあるベッドの上で目覚めた。昨夜はウィンバルド神官の話を聞き進めるほどに落ち込んだが、寝た後は気持ちが切り替わっていた。
「お目覚めですか。昨日も貴方の話が興味深く予定より遅くまで話し込んでしまいました」
祐司が起きたことを察したのかウィンバルド神官が病室に入ってきた。結局、祐司は三日間ウィンバルド神官と話し込んでいた。
「何刻でしょうか。少し寝過ぎたように思えます」
祐司は少しばかり照れ隠したような感じで訊いた。
七月という時期の北極点まで千キロを割り込んだ高緯度のワイナキト神殿では完全な白夜状態で時刻が明暗で判断出来ない。
「三刻(午前八時)を過ぎたところです。そう寝坊でもありません」
ウィンバルド神官は微笑みながら言った。
「すぐに着替えます」
祐司は急いでベッドから出ると言ったように着替えだした。
「”北極熱”は完全に治癒いたしました。ということにします。ですから朝食は食堂の方でお摂り下さい。きっとお嬢さんが心配して待っておられますよ」
ウィンバルド神官は祐司が着替え終わるのを待ってから言った。
祐司はスヴェアの一族に属するマレーリ・ラディスラの玄孫で、かつエリーアスの来孫であるヴォーナ・ルチバルド修道神官から顔が赤くなり発熱したような感じになる薬を貰った。
*玄孫は孫の孫、来孫はその子
その薬の作用で祐司はリファニア北辺の風土病である”北極熱”に罹患したことにして、実相は医務神官ウィンバルド、実相は大神官会議を取り仕切る大神官タブリタと怪しまれずに数日に渡って話をした。
医務室へ運ばれる時に祐司は大丈夫だと伝えるためにパーヴォットにウィンクしたが、言葉では明日にでも治癒すると言っていた。
その為に三日も医務室で長居したことでパーヴォットが心配しているだろうと気が気ではなかった。
パーヴォットには祐司は元気になっているが、”北極熱”はぶり返すことがあるのでしばらく隔離していると伝えて貰っていた。
しかしパーヴォットの性格を知っている祐司は、彼女が一人で祐司を心配して不安になっているだろうことは容易に想像出来た。
「ああ、言わずもがなですが、わたしのことと大神官会議についてはお嬢さんには他言無用で」
急いで病室から出て行こうとする祐司にウィンバルド神官が声をかけた。
祐司は「承知しています」とだけ返事をすると、急いで信者向けのゲストハウスである巡礼宿舎内にある食堂へ急いだ。
食堂の中にはパーヴォットが一人で座っていた。
祐司が食堂に入ってきた気配に振り返ったパーヴォットは立ち上がるとゆっくりと祐司のもとに歩いてきた。
「随分となごうございましたね」
パーヴォットは少し微笑みながら言ったが、表情から無理をしているように祐司には見えた。
「うん。寂しくなかったかい」
祐司はなんとなくパーヴォットの気持ちがわかったので出来るだけ普通の口調で問うた。
「寂しかったです。でもパーヴォットのことを気遣わせてはいけないと思いました。ですから帰られた時も出来るだけ普通にしていようと決めていました」
近づいた祐司とパーヴォットはごく自然に抱き合った。そして数分抱き合った後、二人は再びごく自然に手をほどいて向かい合った。
「もう大丈夫です。ユウジ様、おかえりなさい」
パーヴォットは抱き合っている間に感情を処理したようだった。
「朝飯はまだか?」
「はい。コルニネド神官様からユウジ様が朝食を食べに食堂に来るので待っていてはと言われました。一緒に食べたいです」
パーヴォットは今度は喜色満面という顔付きになった。
コルニネド神官はワウナキト神殿の神官で、祐司やパーヴォットのような巡礼の世話役である。
「他の人は?」
「ギューバン・ハルトムートとヤドゼ・リカヴァの御夫妻は昨日からラウゼウトの別院に参拝に出掛けられました。戻ってくるのは四日後だということでした」
ギューバン・ハルトムートは王家直参のの郷士で妻のヤドゼ・リカヴァとともにワイナキト神殿参拝の為に祐司とパーヴォットと一緒にワイナキト神殿所属のセンバス号に乗船していた。
ワイナキト神殿の数ある別院の中でラウゼウト別院は最も東にある神殿でワイナキト神殿から直線距離で六十リーグ(約110キロ)ほども離れている。
陸路を行けばフィヨルドを迂回するので九十リーグ(約160キロ)程にもなる。
「ハルトムートさん達は船で行ったのか?」
祐司はパーヴォットがハルトムートらが五日後に帰ってくるということから陸路ではないと思った。陸路なら往復に十日はかかるだろう。
「そうです。センバス号で行かれました。ラウゼウト別院はウラゼルト湾の奥にあって、周辺のイス人が南から来た商人と交易するそうです。
商人の中には自分で船を仕立てられない者がいるので、別の商人の船に便乗してラウゼウト別院の交易商で入手した品をセンバス号で運んで貰うそうです」
パーヴォットの言ったことには説明がいる。
ワイナキト神殿所属の輸送船センバス号は夏季にワイナキト神殿が必要とする物資を運ぶが帰りは空船になるので搬送料を取って商人が買い付けた品を運ぶ。
商人が持ち込んで来る物品は狩猟用や鍋釜といった金属製品、衣服、穀物といったものだが、イス人が交易品にするのは鯨油、鯨や海獣の乾燥肉、ホッキョクダラを主にした干し魚、毛皮でありイス人に渡す品物と比べて数倍の容積になる。
この為に自前の船を用意出来ない商人は、船を仕立てた商人の船に売り荷を積み込んでもらい、帰路は買い荷の一部または全部をワイナキト神殿のセンバス号で運んで貰うことになる。
この方策は積荷の運搬費を得てセンバス号の運用資金にしようとする以上に直接のワイナキト神殿の信者である北辺のイス人に利益をもたらそうとする動機がある。
それは商人の人数が増えれば増えるほど、イス人との取引に競争原理が強く働いてイス人がより高値で取引ができるからだ。
「さて朝食を取りに行こうか」
空っぽという状態の食堂を見渡しながら祐司が言った。
祐司達が宿泊している巡礼宿舎は旅籠ではないので、専門の人間がサービスを行っているワケではない。そこで或る程度はセルフサービスということになる。
「先程、神人が来てもうすぐユウジ様が戻られるので、そうしたら朝食を運んで来ると言っておりました」
パーヴォットがそう答えると、まるでその言葉を待っていたかのように神人が岡持に似た木箱を持って食道に入って来た。
そして木箱の中から二人分の朝食とハーブティーが入ったポットを机の上に並べると「食べ終わりましたら、食器を木箱の中に入れて調理場まで持って来て下さい」と言って神人は去って行った。
祐司とパーヴォットは久しぶりに食事を共にした。
ただ食事内容は巡礼宿舎ということもあり質素である。乾燥した鯨肉と野草に近いような種々の野菜が入った煮込みにライ麦パンだけである。
それでも祐司はパーヴォットの食いっぷりを見ているだけで幸せな気持ちがこみ上げて来た。
「なんでパーヴォットといると幸せなのかな」
祐司は思わず口から言葉がこぼれた。
「わたしもそんな気持ちです」
パーヴォットは口に入った食べ物を急いで飲み込むようにしてから言った。
「いつまでも…」
パーヴォットが下を向いて小さな声を飲み込んだ。
「もう決めている。いつまでも一緒だ」
祐司は確信を持った声で返した。
「無理をなさらないで下さい」
パーヴォットは少し悲しげな声だった。
「無理はしない。愛した人と一緒にいたい。パーヴォットを愛している」
祐司はてらい無く自然に愛しているという言葉が出た。
「パーヴォットなんか愛される女ではありません。でもユウジ様を愛しています」
パーヴォットは祐司の顔が見られないのか下を向いたまま呟くような声で絞り出すように言った。
「さあ、食べてしまおう」
祐司が促すとパーヴォットは右手で目をこすってから頭を上げた。
「はい」
パーヴォットは笑ってはいたが無理して笑ったと祐司は感じた。
朝食が終わると、祐司とパーヴォットは食器を神人に言われたように、神殿の調理場に返却してから波止場に向かった。
波止場には昨日到着した交易船が停泊していた。そして停泊場所の前には複数の簡易天幕が設えられて交易船でやってきた商人達が種々の品物を並べていた。
その品物を二三十人の周辺の住人であろうイス人達が値踏みするように見たり、また実際に商人と商談をしていた。
祐司とパーヴォットは早速その様子を見に行った。
波止場には交易船以外に十隻ほどの荷を積んだ手こぎボートが係留されていた。イス人が売り荷を積んで来たボートのようだった。
商人とイス人のやり取りはかなり大きな声で行われているので、近くに行くだけで商談内容が筒抜けだった。
おもしろいことに商人とイス人の会話は比較的きれいな王都言葉で行われていた。極北に近い地域に住むイス人ほど自分達だけで会話するときはまだイス語を使用する。
そのためにリファニアの”言葉”は彼等に取って習得して使用する第二言語となる。
”言葉”を憶えるのはワイナキト神殿の聖職者ということになるので、北辺のイス人の”言葉”は綺麗な王都言葉となる。
またイス人も伝統衣装ではなく商人から得た衣服を着ている者が多いので、王都あたりの市と雰囲気はそう変わらない。
商人が売っているモノは鍋などの調理具、衣服、装身具、金属製や木製の食器、柄のついた銛、嵩張るモノでは漁網などがあった。
大体の話がつくとイス人は商人を自分が乗ってきたボートに連れて行き、今度は商人が品物を値踏みしていた。
「ここの習慣でまずイス人が買い取りたいモノを商人に伝えて、商人はイス人に得たいモノを伝えます。大体、話がつくと今度は商人がイス人の品を見てまた交渉となります」
祐司とパーヴォットの背後から声がした。
二人が振り向くとヴォーナ・ルチバルド修道神官がいた。
「どうも急に声をかけて驚かせてしまいました」
ヴォーナ・ルチバルド修道神官が申し訳なさそうに言った。
「ヴォーナ・ルチバルドさんも見学ですか?」
パーヴォットが訊いた。
「いいえ、番をしています」
「番?」
祐司とパーヴォットが顔を見合わせてから同時に言った。
「お二人は本当に以心伝心ですね」
ヴォーナ・ルチバルド修道神官は微笑ましそうに笑いながら言った。
「あおの波止場はワイナキト神殿が建設して管理しています。この市がある場所もワイナキト神殿の敷地で神域に準じます。
そこで不祥事が起こらないように聖職者が歩き回っているのです。わたしはここでは新米ですから市の様子を知るためにもと午前中はここで番をすることを神官長から申し使っています。
滅多なことは起こらないそうですか、それでも交渉に熱が入りすぎて諍いになることもあるやといことがあれば仲裁しなければなりません」
ヴォーナ・ルチバルド修道神官はそう説明すると「波止場の方へ行ってみませんか」と二人を誘った。
祐司とパーヴォットがヴォーナ・ルチバルド修道神官について波止場にいくと、イス人のボートから波止場のデリックで大樽を持ち上げて船倉に積み込む作業をしていた。どうのその大樽は最後だったらしくイス人のボートは空っぽになっていった。
祐司とパーヴォットがワイナキト神殿の桟橋に到着した時はデリックはなかったので祐司が病室に収容されている間に設置されたようだった。
「鯨油です」
ヴォーナ・ルチバルド修道神官がぽつりと言った。
リファニアでは鯨油はおもに灯火用に用いられている。鯨油は安価ではあるが嫌な臭いが出る魚油と比べて臭いが少ないので魚油よりやや高価だが広く使われている。さらには鯨油から造られた蝋燭も普及している。
「あれ、船倉から樽が出てきましたよ」
パーヴォットが言うように船倉から樽が吊り下げられて出てきたが、それは見た目も軽そうだった。
「あれは空樽です。イス人はあの樽に鯨油を入れてまた引き渡すのです。樽は鯨油の販売商人の持ち物で仕入れ商人と生産者のイス人に貸すという形だそうです。それか樽の貸し出し商人がいてそれを使っているようです」
祐司はヴォーナ・ルチバルド修道神官の話を聞いてレンタルパレットやコンテナの貸し出しのような仕組みだと思った。
注:リファニアの鯨利用
リファニアの捕鯨はリファニア人が”マレ・オスム(我等の海)”ないし”リファニア王の湯船”と呼ぶリファニア西方海域、北極海、特に現在のカナダ北方の北極海諸島が主な漁場です。
主な捕鯨対象はヒゲクジラ類ではホッキョククジラとセミクジラ、歯鯨類ではキタトックリクジラです。
この三種のクジラは資源量が多いという要素以上に動きが緩慢で、大型ボートに毛が生えたようなリファニアの捕鯨船でもなんとか捕獲可能だからです。
リファニアではクジラはそれこそ骨に至るまで全て利用されます。
皮膚の下に蓄えられた鯨油は本文でも記述したようにそのままか蝋燭にして灯火用、潤滑油、薬品似利用します。
鯨油を採取する脂肪層は関西でコロとして食油にしますが、リファニアでも脂肪層も食べます。
鯨肉は輸送と保存面から主に乾燥肉として利用されるので、祐司とパーヴォットは内陸部の宗教都市マルタンでも鯨肉にありついています。
また脳を含む各種内蔵は捕鯨地周辺に限られますが、最下等の肉として流通しています。
骨は食用の為に骨髄を掻き出してから、砕かれて肥料として用いられます。




