極北水道復路3 再びエリーアスとスヴェアの一族 上
「もう少しわたしが知りたいことをお聞きしていいですか」
祐司はウィンバルド神官に訊きたいことが山積みという状態だった。
「何でしょう」
「エリーアス一族の方はいつスヴェアさん一族の事に気がついて接触したのですか」
祐司の質問にウィンバルド神官は、一瞬考え込むような顔付きになってから口を開いた。
「はい。一から話した方が早いようですね。今から百九十八年前にイェルケルさんとスヴェアさんが”迷いの森”に来ました。
その時はすでにボウラが形式的に閉鎖されて百五十年、完全に閉鎖されてから五十年ほど経過していました」
「形式的?」
思わずそう言った祐司は折角話し出したウィンバルド神官の腰を折ってしまったのではないかと後悔した。
しかしウィンバルド神官は祐司は合いの手でも入れたかのように話を続けた。
「”迷いの森”は今でもチャヤヌー神殿の神域で、一番近い大神殿のペリナ神殿が管理を代行しています。
ボウラから全部の巫術師が立ち去ってチャヤヌー神殿をはじめ各地の神殿に職能神官として赴任したのがおよそ三百七十年前です。
ただし父エリーアスの一族の者で密かに巫術の研究はボウラで続けられていました。我々は時に誰かに入れ替わる必要がありますから、ボウラで十年ばかり過ごして前の自分のことを忘れてくれるのを待つという理由もありました。
今ではそんなことをしなくとも秘密裏に入れ替わる方策がありますが、当時は手探りでした。
ただその御蔭で大きく知見が進んだことがあります。
巫術の力は今でも大気中にあるのか、または巫術師が体の中に生まれて時から持っているかという論争があります。その巫術の力は土壌に蓄えられていることを突き止めました」
「その知見は正しいですが、まだ一般的ではありませんね」
そう言った祐司は自分が巫術のエネルギーが発する光を見ることが出来る能力があり、土壌に巫術のエネルギーがあることをリファニアに来て早い段階で知ったことを話した。
「貴方にそういった能力があると聞いても驚くことではありません。希ですがリファニアにも巫術の力のある場所に反応する人間がいます」
「確かにいます。わたしは一人出会いました。イルムヒルトという女性巫術師です」
祐司はそう言ってから王都近郊のルイエデラ村で出会ったモンデラーネ公配下の女性巫術師イルムヒルトとの間にあった事件を話した。
ただ祐司は戦場と身を守る為以外に、イルムヒルトが意図的に殺害した唯一の人物であることは流石に話さなかった。
(第十章 王都の玉雪 氷雪と暗闇の日々13 巫術師イルムヒルト 八 -人非人祐司- 参照)
イルムヒルトは極めて限定的だが巫術が溜まった土壌を感知できた。彼女はその能力を使ってキリオキス・エラ州の小領主ダウディアンニ準男爵に仕えた折りに、巫術のエネルギーが溜まった泥を東にある北クルトの分水界に並べた。
そしてイルムヒルトは巫術のエネルギーを利用する形でエアーカーテンのようなモノを形成して春になって西から吹いてくる暖気を遮ることで、ダウディアンニ準男爵領の気温を上げた。
それによってダウディアンニ準男爵領の農業生産量は幾分向上した。
ただしその十数倍の面積と人口がある北クルトでは冷たい雨が降り続くような天候が続いて凶作が何年も続いた。
この為に北クルトでは餓死ではなくとも、栄養失調から体力が低下して本来なら些細な病気によって死亡した者が多数出ただろうと思われる。
(第三章 光の壁、風駈けるキリオキス山脈 キリオキスを越えて2 キリオキス山脈へ 下 参照)
イルムヒルトは天候を操る巫術が出来る希有な巫術師だが、自分の目先のことしか見えず天候を操ることで起こる理不尽な出来事について無頓着だった。
この人工的な気候改変はキリオキス山脈をパーヴォットと越えてきた祐司が巫術のエネルギーを吸い取ってしまうことで解消した。
この効果は覿面で北クルトはその年は平年作になって領内の人々は一息つくことが出来た。
(第三章 光の壁、風駈けるキリオキス山脈 キリオキスを越えて3 光と泥 参照)
その前にイルムヒルトはダウディアンニ準男爵妃がダウディアンニ準男爵との仲を邪推したことで、ダウディアンニ準男爵領を去っていた。
(第三章 光の壁、風駈けるキリオキス山脈 輝くモサメデスの川面3 準男爵の憂慮 参照)
その後にイルムヒルトは”バナジューニの野の戦い”で多数の巫術師を失ったモンデラーネ公軍に入った。
そしてモンデラーネ公から命じられて試しに冬季の王都とその周辺を、巫術のエネルギーが溜まった泥を煉瓦にして、それを王都を取り巻くように並べることで強風におくという策を行った。
ただしこの企みは王家が察知して最終的にイルムヒルトとその一味は祐司により殺傷されることで終わった。
(第十章 王都の玉雪 氷雪と暗闇の日々12 巫術師イルムヒルト 七 -逆襲- 参照)
「王家はどうも巫術の力が土壌にあることを知っているようです。ですから煉瓦を動かすことで術を解消させていました」
(第十章 王都の玉雪 氷雪と暗闇の日々8 巫術師イルムヒルト 三 -雪中の追跡 上- 参照)
祐司はイルムヒルトとの一件を話した後でウィンバルド神官長に付け加えるように言った。
「王家は現在のリファニアでは我々についで巫術の研究が進んでいます。そしてなにより王家には優れた間諜組織があります。
ですから我々は王家の周辺に無用に近づいてその痕跡を察知されないようにしています。こちらから調べるなどといった行為は自殺行為になります。
王家の間諜組織の名はわかっていますが、貴方はそれさえも知らない方がいいでしょう。命に関わります」
*王家の間諜対間諜組織は”カラス組”
祐司にウィンバルド神官は声を潜めるように言った。
そのことでウィンバルド神官が王家の間諜組織を如何に恐れているかが祐司にはわかった。
「さて、話が飛びましたが貴方の質問に答えます。完全に我々がボウラを去っても定期的な監視はしていたといいましたね。
その監視で四人の人間が”迷いの森”に入って、あまつさえ暮らしていることがすぐにわかりました。
スヴェアさんの夫婦と二人の子供であるアルトゥリさんとラディスラさんです。
彼等が優れた巫術師であることは彼等の道のりを調べることですぐに判明しました。そこで思い切って直接話をすることにしました。
彼等はこの世界が巫術の影響で滅亡に向かっていると信じていました。そして巫術の力に満ちた”迷いの森”を封じる人間が必要であると主張しました」
祐司は早い段階でエリーアスの一族とスヴェアが接触していたことに驚いた。そしてそのことについてスヴェアは一言も語らなかった理由を知りたくなった。
「ウィンバルド神官はリファニアが滅ぶ運命だと思っていますか」
祐司は少しばかり遠回りは質問をした。
「長い目で見ればです。どんなに早くともリファニアの大部分が氷で閉ざされて住めない地になるのは数百年先です。
わたし達は千年以内にはそのようなことは起こらないと判断しています。それは主観ではなく”宗教組織”が得ている長年の気象観測の結果によります」
ウィンバルド神官が言ったような観測結果は王家も知っており、万が一にもリファニアが住めない世界になった場合は国全体をキレナイト(北アメリカ)に引っ越すという壮大な計画を持っている。
それを支障なく行うにはリファニアが統一国家でなければならないという理由があり、王家は再度リファニアを王家主導による統一国家に戻そうと考えている。
王家はリファニアが寒冷化していくのは早くても十世代ほど先だと考えている。
エリーアスの一族と王家の間に寒冷化の予想時期にずれが生じているのは、エリーアス司祭が伝えたガリレオ式の温度計に始まる温度計の使用によるより正確な温度の記録の利用と16世紀のイタリアの数学者ジェロラモ・カルダーノによる確率論の手法をもってデータを処理しているからである。
エリーアスは聖職者であったが、大学生であった頃から理系の学問に興味があり当時の最新の機械や数学的知識を知っていたからこうした芸当が出来た。
ただ使い物になるガリレオ温度計が出来たのはエリーアス司祭がリファニア世界に来てから百年ほどしてからだった。
祐司は王家による寒冷化の予測時については知るよしがなかったが、ウィンバルド神官から根拠となるデータの一部を見せて貰った。
ガリレオ温度計は観測の初期とはいっても百年ほど使用された。
ただガリレオ温度計は別の温度計がないと絶対的な温度を示すことが難しいので、過去の記録と較べてどの程度の温度差があるかを知ることしか出来なかった。
そしてこの不便が解消されたのは、水銀温度計の発明による。
祐司はウィンバルド神官にエリーアスの一族と”宗教組織”の一部の聖職者が使用する水銀温度計を見せて貰った。
そしてウィンバルド神官は、十年以上の使用実績から温度計は世の役に立つことが確かなので、近々公表することを考えていると祐司に伝えた。
なおウィンバルド神官が世に出すことを決めたリファニアの温度計は、海面高度により水の凝固点が0度という基準は祐司の使っている摂氏温度と同じだが、沸騰点はリファニアでは60進法が一部用いられていることから60度に定めてあった。
*一刻(二時間)は60ミト
十九世紀後半から来たサラエリザベスならよりスケッチ程度の資料を出すだけで温度計の制作は容易だったと思われるが、サラエリザベスは温度計の実用性に関心がなかったのだろうと祐司は思った。
「わたしも破滅は千年以上先の話だという意見に賛同します。スヴェアさんはその破滅が間近であり、わたしにそれを防ぐ為にリファニアの巫術のエネルギーを出来るだけ減らして欲しいと望みました。
巫術の力を使用するたびにスヴェアさんは気候を中心とした環境が悪化すると信じていました。
その為に巫術が濫用できないようにリファニアから出来るだけ巫術のエネルギーを排除して欲しいとわたしに頼みました。
ただそれは副作用としてリファニアの寒冷化を促進することになります。しかしスヴェアさんはより広大な地が人の住める地になると信じており、リファニアの人間はそこに移ればいいと考えていました。
しかしわたしはリファニアを旅する中で、リファニアにある巫術のエネルギーさえわたしが万という年月を旅しても意味のあるほどに減らすことは出来ないと悟りました。
そしてささやかな巫術など環境に影響するほどの力はないと判断しています。唯一排除しなければならないのは天候を改変する巫術だけです。
このリファニアが緑の地であるという世界が成り立っているのは、巫術のエネルギーによります」
一通りデータと観測用の水銀温度計の実物を見せて貰った祐司は、ウィンバルド神官に自分の実感を語った。
「この地が温暖なのは巫術の力によるとはどういう根拠ですか」
「リファニアの西の海に”海の川”という北上する海流が流れていますね。暖流でその影響でリファニアの気温が保たれています。
ただわたしの世界では、”海の川”は北大西洋海流と呼ばれて、ヘロタイニア(ヨーロッパ)を温暖化しており、リファニアは氷に閉ざされた世界です。
”海の川”がリファニアの西を流れるようになり、リファニアを緑の地にしたのは巫術のエネルギーによります」
そして祐司は自分の仮説をウィンバルド神官に話し出した。
祐司が推測するにリファニア世界の北大西洋海流はヘロタイニア(ヨーロッパ)方面には流れずにリファニア(グリーンランド)西方をリファニアを暖めながら北上する。
そして狭いリファニア本土とアリクニシア(エルズミーア島)の間にあるキクレックの瀬(ネアズ海峡)を通り抜けて北極海に達する。
そこで一旦滞留して水温を下げた後にリファニア東岸を南下し始める。この海流はやがて中緯度で北大西洋海流に出会うが、北大西洋海流を弾き飛ばすようにしてリファニア西方に流れるようなコースに変えているとすれば説明がつく。
このような現象が起こる理由を祐司は以下のように推測した。
祐司は海水にも巫術のエネルギーが溶け込んでいることを今回の旅で知った。すると海水も巫術のエネルギーによる物理的な特性を持つことになる。
祐司の世界とリファニア世界で最も顕著に異なる物理的な特性は慣性の法則である。物体が力を与えられて空間に飛ばされると抵抗がない限りは同じ方向へ、同じ速度で飛んで行く。
ただし地球上では大気があるので、物体は抵抗を受けて最初の速度を失いながら重力によって落下する。
ところがリファニア世界では物体は最初はゆっくり飛んで次第に速度を上げていく。そして最高速度に達したところで地面に落下する。
この現象がリファニア世界では海流の速度にも現れていると祐司は考えた。
赤道付近で暖められた海水は、赤道に向かって北半球では北東、南半球では南東から吹き付ける貿易風によって赤道に添って西向きに流れる。
やがてこの海流が大陸に行く手を阻まれると、北半球では北上し、南半球では南下する。この海流は暖流であり大陸の東岸を流れるのは暖流と言うことになる。
北大西洋海流は北アメリカ大陸東岸を北上する暖流である。出発点はメキシコ湾、カリブ海域である。
赤道に添って流れてきた海流は一旦広まった海域に入り滞留気味となり、やがて速度をあげながら勢いよく北アメリカ東岸を北上するが、リファニア世界の海は巫術のエネルギーの支配下にあるためにこの流れは勢いが弱い。
これに対して祐司の世界の北大西洋海流が寒冷化した東グリーンランド海流はそう強力な海流ではない。
ところが”冷たい川”(東グリーンランド)海流は”海の川”(北大西洋海流)に接する海域では相当な速度になり、勢いがあるためにまだゆっくりとしか移動していない”海の川”を押しのけてしまう。
それに加えて北極海からリファニア(グリーンランド)の西方海域を南下する寒流であるラプラドル海流は、流れる方向を変えて勢いがついた”海の川”(北大西洋海流)に阻まれてしまう。
このためにラプラドル海流はリファニア西岸を南下できないために、向きを一旦東に向けて、冷たい川(東グリーンランド海流)と一緒になりリファニア東岸を南下するために”冷たい川”は本来より強力な海流となっている。
そう考えるとリファニア(グリーンランド)の温暖化と、ヘロタイニア(ヨーロッパ)が祐司の世界とは異なり寒冷な地域になっていることが上手く説明できる。




