閑話44 三十年戦争はどう決着したのか 一
本文でエリーアス神父の話にからめて三十戦争の経緯が出てきました。しかし三十年戦争有数の激戦ブライテンフォルトの戦い以降には触れていません。
そこでこの閑話ではブライテンフォルトの戦い以降の三十年戦争の後半とその結末について記述します。
ただこの話の前半は三十年戦争前半のまとめになります。
1618年5月、ボヘミア(現チェコ)の貴族トゥルン伯爵率いるプロテスタント勢力はプラハ城で、プロテスタント信仰の権利確認の為に後に神聖ローマ帝国皇帝フェルディナンド2世となるボヘミア王フェルディナンド配下のカトリックの代表、ヴィレム・スラヴァタとヤロスラフ・ボルジタと会談します。
しかしこの会談は決裂してプラハ窓外投擲事件として知られるヴィレム・スラヴァタとヤロスラフ・ボルジ、そして秘書のフィリップ・ファブリツィウスを城の窓から投げ出すという結末になります。
ボヘミアのプロテスタント勢力はボヘミアにプロテスタント主体の政府を樹立し、カトリック擁護のハプスブルク家が皇帝位を事実上世襲していた神聖ローマ帝国と対立する姿勢を明確にします。
これが三十年戦争の始まりとされます。
その後、ボヘミアのプロテスタント勢力は、神聖ローマ帝国内のプロテスタント同盟の盟主プファルツ選帝侯フリードリヒ5世をボヘミア王に担ぎ上げます。
しかし神聖ローマ帝国皇帝フェルディナンド2世の派遣した皇帝軍に、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世とボヘミアのプロテスタントの軍勢はプラハ近郊の”白山の戦い”に敗れて、以降プロテスタント勢力の武威はふるわずに、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世は1623年に家族共々オランダへの亡命を余儀なくされました。
しかしこのことでそれまで事態を静観していた、ドイツ北部のプロテスタント諸侯達の足並みが反カトリック勢力で揃ってきます。
それに乗じて1625年に時の北欧の大国でプロテスタント国家のデンマーク王クリスチャン4世が介入してきますが、北部ドイツで活動するも、1626年の”ルッターの戦い”で敗北すると本国であるユトランド半島に侵攻され1628年には戦争から脱落します。
こうした三十戦争初頭から前半にかけてのプロテスタント勢力の不振は、戦争の舞台であるドイツの北部プロテスタント領主の足並みが揃わないことと、神聖ローマ帝国皇帝フェルディナンド2世側に名将ティリー伯、そして希代の梟雄ヴァレンシュタインといった有能な軍事指揮官がいたことにあります。
ただここで神聖ローマ帝国皇帝フェルディナンド2世が大きな政治的誤謬を侵してしまいます。
軍事的な成功に自信過剰になった神聖ローマ帝国皇帝フェルディナンド2世は、1629年に帝国議会で返還勅令を可決します。
これは1555年以降にカトリック教会から奪われたすべての土地の返還を義務付けていました。
これは政治的には賢明な方策とは言えませんでした。
なぜなら、この法は北ドイツと中央ドイツのほぼすべての州の境界線が変更されることと、ほぼ一世紀にわたってカトリック信者があまり存在していなかった地域でカトリック信仰が復活することになるからです。
神聖ローマ帝国皇帝フェルディナンド2世は、関係する諸侯の誰も同意しないことを十分に承知していたので皇帝勅令という手段を使い、協議なしに法律を変更する権利を主張します。
これはドイツ北部及び中部のプロテスタント系諸侯が唱える「ドイツの自由」に対する攻撃と見なされてプロテスタント系諸侯の積極的な戦争介入を呼び起こします。
そしてこの時期に神聖ローマ帝国皇帝フェルディナンド2世は何度も帝国軍に勝利をもたらしたヴァレンシュタインを1630年に罷免してしまいます。
これはヴァレンシュタインが免奪税などの軍税制度を創出して占領地から物資を取り立てながら規律ある軍事行動を行っていたことが本来なら自分の税となる物資を収奪されたと考える諸侯の反発が大きかったことが根底にあります。
特に中立を保っていたプロテスタント諸侯のブランデンブルク選帝侯ゲオルク・ヴィルヘルム、ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世に加えて、カトリック諸侯の代表格バイエルン選帝侯マクシミリアン1世までもがヴァレンシュタイン罷免を要求したことで、フェルディナント2世は窮地に立たされます。
さらにイタリアのマントヴァ公国でスペインとフランスが介入した継承問題が起こると、スペインに加勢するためフェルディナンド2世はヴァレンシュタイン軍を派遣しようとします。
しかしこれをヴァレンシュタインが拒否されたことからフェルディナンド2世がヴァレンシュタインに不信感を募らせていたことが罷免の直接の原因となります。
この状況に当時北欧で急激に勢力を拡大してきたプロテスタントのルター派を奉じるスウェーデン王グスタフ2世アドルフが介入してきます。
スウェーデン王グスタフ2世アドルフにはイギリス国教会のインブランド王チャールズ1世が兵力の支援をおこないますが、特に大きかったのはフランスの財政支援です。
フランス王国自体はカトリックを奉じており国内のプロテスタント勢力であるユグノーと争っていましたが、そうした宗教的な事情以上に南のスペイン、東の神聖ローマ帝国を統べるハプスブルク家に対抗するという目的が勝っていました。
当時フランスの政治を主導するリシュリューはカトリックの高位聖職者である枢機卿という立場ですがフランスの財政力を利用してスウェーデンとドイツのプロテスタント諸侯を援助します。
1630年にフランスから12万リーブルが主にスウェーデンに支給されます。これは当時のフランスの総収入の2パーセントに満たない金額ですが、スウェーデンの収入を25パーセント以上増加させて、グスタフ2世アドルフがドイツで36000の軍勢を維持することを可能にしました。
さらに1631年のバーヴァルデ条約ではスウェーデンとザクセン、ブランデンブルクを含むプロテスタントの同盟国にフランスは資金を提供しますが、これは年間40万ライヒスターラー、つまり100万リーブルに相当しました。
1630年6月に北部ドイツのポメラニアに16000の軍勢を率いて上陸したスウェーデン王グスタフ2世アドルフはオーデル川に沿って南下します。
ただ帝国軍の侵攻による荒廃にもかかわらず、プロテスタント諸侯のザクセンとブランデンブルクはポンメルンで独自の野心を抱いており、それはスウェーデン王グスタフ2世アドルフがバルト海沿岸で優勢を得たいという要求と衝突して足並みは揃いませんでした。
ところがティリー伯の率いる帝国軍による1631年5月のドイツ中部のプロテスタントの拠点都市マクデブルクの略奪と住民虐殺は状況を変えます。
ティリー伯はマクデブルクの破壊はプロテスタント諸勢力への見せしめになったと考えますが、事態は逆で帝国軍、カトリック勢力にプロテスタント勢力は激しい敵愾心を燃やします。
このような状況で、三十年戦争屈指の激戦であるスウェーデン王グスタフ2世アドルフが率いるスウェーデン軍、ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルクの率いるザクセン軍のプロテスタント勢力とティリー泊が率いる帝国軍のカトリック勢力が激突した”ブライテンフォルトの戦い”が起こります。
この合戦でプロテスタント勢力は三十年戦争の中で初めて明確な勝利を得ます。
そしてスウェーデン軍はドイツ南部のカトリック勢力の拠点バイエルンに侵攻します。
本文ではこの時期にバイエルンに侵攻してきたスウェーデン軍にエリーアス司祭が赴任していたフィクテヴバッハ男爵家領が荒されます。
その余波でエリーアス司祭は脱走兵に襲撃されていた農民の母娘を救ったことで脱走兵に追われて、古いドルメンの下に逃げ込みます。
そしてエリーアス司祭はリファニアに転移してしまったので、この後の状況を知ることはありませんでした。
さてエリーアスがリファニアに移転した翌年の1632年4月にはなんとかバイエルンからスウェーデン軍を駆逐しようと、ティリー伯はプロテスタント諸侯の応援を得た総兵力10万に達していたスウェーデン軍に蹴散らかされた状態になっていました。
そして敗走するティリー伯の帝国軍はバイエルンのアウブスブルク北方のレヒ川河畔でスウェーデン軍に補足されます。
やむを得ずティリー伯はカトリック諸国のリーダーであるバイエルン公マクシミリアン1世の兵士を併せて22000の兵と砲20門で、スウェーデン軍に挑みます。
これに対してスウェーデン王グスタフ2世アドルフのスウェーデン軍とザクセン軍、ワイマール軍の連合軍は兵力37500、砲72門と大きな優勢を得ていました。
この合戦はレヒ川を挟んで行われたので”レヒ川の戦い”と言います。
グスタフ2世アドルフは自軍のいる川岸が相手側より高いことに目をつけて本格的な戦闘が行われた4月15日の前日から猛烈な砲撃を行います。
15日の砲撃でティリー伯は序盤の戦闘で負傷してしまい指揮は副官のアルドリンガーが引き継ぎますが負傷し、バイエルン公マクシミリアン1世が指揮を執らざるを得なくなります。
このように指揮系統に混乱が生じていた中で大砲と煙幕に援護されたフィンランド兵がレヒ川の強行渡河に成功して皇帝軍に強襲を仕掛けます。
皇帝軍はこの攻撃を支えきることが出来ずに押されていたところに、さらにスウェーデン軍の本隊が渡河してきたため、マクシミリアン1世は物資を放棄しての撤退を命令します。
そして3000の戦死傷者と1000の捕虜を出した皇帝軍は総崩れとなり、再び勝利はスウェーデン王グスタフ2世アドルフのもとに輝きます。
さらに負傷したティリー伯はエリーアス司祭が学んだインゴルシュタット大学があるインゴルシュタットに運ばれますが回復することなく4月30日に死亡します。
この”レヒ川の戦い”で、皇帝軍は壊滅的な損害を被ります。
この為に神聖ローマ帝国皇帝フェルディナンド2世は一度解任したヴァレンシュタインを呼び戻さざるを得なくなります。
この効果はすぐに現れます。
”レヒ川の戦い”で勝利したスウェーデン軍ですかドイツ南部のカトリック勢力下のバイエルンという敵地の中で補給は困難で、なおかつ帝国軍はすぐに勢力を回復させます。
その為に7月にスウェーデン軍より優勢になったヴァレンシュタイン軍と合戦することを避けてグスタフ2世アドルフはニュルンベルクに撤退することにします。
すぐにヴァレンシュタインはスウェーデン軍を飢餓と疫病で弱体化させようと50000の軍勢(他に従者などの非戦闘員25000)でニュルンベルクを包囲します。
ただこれほどの大軍でも大きなニュルンベルクを完全に包囲できず、自軍への補給に苦しみます。
スウェーデン軍は補充が行われて18500から45000人にまで増強された上に砲175門を揃えます。
この兵力でグスタフ2世アドルフはヴァレンシュタインと決戦を考えます。
1632年9月初旬、ヴァレンシュタインは再編した帝国軍43500をもってバイエルン州ニュルンベルク近郊の高地にある廃城(アルテ・フェステ「古い要塞」)に軍を布陣させていました。
グスタフ2世アドルフは補給面で不安があったので、ヴァレンシュタイン軍に有利な場所から出てこさせようと挑発しますがヴァレンシュタインはこれにのってきませんでした。
やむを得ず44600の兵力を有するスウェーデン軍は強攻を行います。
帝国軍は塹壕と逆茂木で防御を行ってスウェーデン軍の前進を阻止しました。スウェーデンは騎兵隊まで下馬して攻撃に参加させますが、攻勢の限界に達したスウェーデン軍にヴァレンシュタインは騎兵攻撃を行います。
スウェーデン軍予備騎兵隊が投入されスウェーデンは潰滅状態になることを避けることは出来ましたがスウェーデン軍は2500の死傷者を出して撤退します。
スウェーデン軍はバイエルンから撤退します。
これに乗じてヴァレンシュタインはプロテスタント諸侯の有力者ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世を戦争から脱落させるためにザクセンに侵攻します。
11月に初旬にザクセン州のライプチヒを占領したヴァレンシュタインはそこでの冬営を計画します。
そしてヴァレンシュタインはパッペンハイムの軍団5800をがライプチヒの南東にあるハレに派遣します。
これによってヴァレンシュタインの残された兵士は15000になったことを知ったグスタフ2世アドルフは自軍が19000であるのでザクセンからヴァレンシュタイン軍を撤退させる為に合戦を挑むことにしました。
両軍は1632年11月15日にライプチヒの南東10キロにあるリュッツェン近郊で対峙します。
この合戦は”リュッツェンの戦い”で知られており、三十年戦争でも最も重要な戦いになります。
15日にスウェーデン軍がリュッツンの近郊2キロの位置で野営していることを知ったヴァレンシュタインはすぐさまパッペンハイムに自軍に合流するように伝令を送りました。
翌日16日にスウェーデン軍は野営地から前進を開始しますが、フロスグラーベン運河を渡河する手間から、スウェーデン軍が攻撃態勢を整えたのは昼前になっており、すでにパッペンハイム軍が到着していたためスウェーデン軍の数的優位はなくなっていました。
スウェーデン軍はリュッツェン=ライプツィヒ街道沿いの溝を固めていたマスケット銃兵隊の隊列を制圧して帝国軍の左翼を迂回しようとしました。
この時に到着したパッペンハイム軍はスウェーデン軍に攻撃を開始してスウェーデン歩兵をライプチヒ=リュッツン街道の向こう側まで押し返します。
この攻撃でスウェーデン軍は大きな損失を被りますが、パッペンハイムは致命傷を受け戦死します。
この後、戦闘は相対する部隊間の混乱した銃撃戦の連続となります。
この時、味方部隊を鼓舞しようとしていたグスタフ2世アドルフと随行員は道に迷い帝国軍の騎兵隊に遭遇してしまいます。さらにグスタフ2世アドルフは撃たれて落馬し戦死してしまいます。
パッペンハイムの騎兵の多くは逃走し、帝国軍のいくつかの部隊は銃や補給車を運ぶために必要な馬に乗って逃げた従者とともに自らの荷物列車を略奪し始めます。
ザクセン=ヴァイマル軍ベルンハルトはついにリュッツェンを制圧して、続いて撤退する敵軍に向けて向けられた風車の隣にある帝国軍主力砲台を占領しました。
日が暮れるとヴァレンシュタインは部隊に撤退を命じて戦闘は終結します。ただヴァレンシュタイン軍は荷馬を失ったため、残っていた大砲と補給車も放棄せざるを得ない中での撤退になります。
”リュッツンの戦い”ではスウェーデン軍の戦死傷者6000に対して帝国軍の死傷者数は5200でスウェーデン軍の戦死傷者より少なかったのですが、ヴァレンシュタインはライプツィヒを保持できないと判断して、1200人以上の負傷者を残してボヘミアに撤退しました。
撤退中、帝国軍は作物の破壊に怒ったザクセン農民に悩まされ、さらにかなりの損害を被ることになります。
ヴァレンシュタインの撤退と砲兵の捕獲によりスウェーデン軍は”リュッツェンの戦い”での勝利を喧伝します。
確かにスウェーデン軍はザクセンからヴァレンシュタインを追い出すという戦術的目的も達成しますが、”リュッツンの戦い”で最も重要なことはグスタフ2世アドルフの死でした。
グスタフ2世アドルフの跡を継いだのは六歳の娘クリスティーナだったため、政策の指揮はアクセル・オクセンシェルナ率いるスウェーデン枢密院が引き継ぎます。
1633年1月に首相に任命されたオクセンシェルナは、スウェーデンが投資に見合うだけの見返りを得るには戦争を続けるしかないと判断します。
一方、神聖ローマ帝国内ではスウェーデン王グスタフ2世アドルフを戦死させたことでヴァレンシュタインの必要性は低下しいました。
また皇帝側もヴァレンシュタインの徴税方法を学び取り独自に軍を組織するようになりました。
またヴァレンシュタインは名声を得たものの軍隊の忠誠は直接金を払う皇帝に向いていたため将校の多くはヴァレンシュタインより皇帝に忠誠心を持っていました。
こうした中でヴァレンシュタインは裏切りの可能性から神聖ローマ帝国皇帝フェルディナンド2世に危険視されて、ヴァレンシュタインは1634年2月にエーガー(現チェコのヘプ)の居城で皇帝軍の将校によって暗殺されます。
こうして三十年戦争の中でも特に著名な武将であったスウェーデン王グスタフ2世アドルフとヴァレンシュタインは歴史の中に消えていきました。




