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千年巫女の代理人  作者: 夕暮パセリ
第二十一章 極北紀行
1072/1161

大神官タブリタの系譜22 巫術師の邑ボウラ 三 -四つの木箱 下-

「続いて三番目の木箱を見て貰います」


 ゼンド・ガガザレスは二番の木箱を一番目の木箱の上に置いて三番目の木箱の中身をエリーアスに見せた。


 三番目の木箱にも剣が入っていた。


 その剣は今まで見た剣の中では最も鋭利な感じをエリーアスは受けた。ただその剣は小振りで刃渡りは一シュー半(約45センチ)ほどしかなった。

 そしてエリーアスが見慣れた剣とは異なり曲湾刀だった。エリ-アスが知っている剣ではトルコ人が使うシミターに似た剣である。


 しかし束や鍔の拵えなどは今までに見たことのない形状だった。


 そして木箱には剣の他に馬の姿を描いた五角形の板が入っていた。馬の絵の上には先程の貨幣にあった文字と雰囲気が似た文字らしきモノがあった。



挿絵(By みてみん)




 エリーアスが馬の絵が描いている板を見ていると見取ったゼンド・ガガザレスが「その板の裏側も見てください」と言った。


 エリーアスが裏面を見ると文字らしきモノが並んで描かれていた。


「文字らしいですが、上下左右もわかりません。そしてどんな筆記具を使って書かれているのかも。このような書き跡になる筆記具となると絵具筆のようなものでしょうか」


 今度の品物は祐司には或る意味一番身近なモノであった。


 剣は室町時代の脇差しで、馬が描かれた板とは絵馬のことで裏には平仮名で怪我の治癒が叶った事への礼が記されていた。

*話末注あり


「先程の貨幣の文字とは全く異なった文字だということはわかりますか?」


 ヘファ・タブリタ神官が訊いた。


 平仮名は漢字を元にしてつくられたが、漢字と平仮名を見たことのない人間であれば、完全に異なった二種類の文字に見えた。


「ええ」


 そう言いながらエリーアスはアラビア文字の変形書体ではないかとも思った。それは剣が曲湾刀であったことから想像したことでもあった。


「では、最後の木箱を見て貰います」


 ゼンド・ガガザレスは三番目になっていた木箱を取り除くと、四番目の木箱の中にあった用途が不明な木製の道具がエリーアスの目に入ってきた。


 道具は二種類あって一つはちょうなのような形であるが、全体が木製であるので釿のような働きは出来ない。

 もう一つは確かに人間の手で作られたことはわかるが、ギリシャ文字のΛ(ラムダ)の角度を極浅くしたような形で両端はやや細くなっていた。



挿絵(By みてみん)



挿絵(By みてみん)




 これは祐司が見るとオーストラリアの先住民アボリジニが作製したブーメランであるとすぐに認識しただろう。

 ただエリーアスとリファニア人にとっては、同種の道具がユーラシアに存在しないので、ブーメランという飛び道具があると想像するのは難しい。


「かなり素朴な造りのモノですね」


 エリーアスは用途不明の木製の品を見ながら言った。


「この種のモノが一番多く出現しています。ここには持って来ませんでしたが石にまことに素朴な絵を描いたモノもあります」


 ジャブロ・バジャルの説明にゼンド・ガガザレスがさらに説明を続けた。


「異界のある場所と尖塔山の頂上直下の地下空間は通じている。出現する品の文化の違いや技術の違いから、おわかりかと思いますが異界の複数の場所で通路は繋がっていると思えます。


 今見ていただいた品はそれぞれ異なった巫術師を中心に術をかけている時に出現しました。


 品物の種類から見てその場所は四箇所と思われます。エリ-アスさん、貴方のいた所から来た品はどれだと思いますか」

*話末注あり


突然問われたエリーアスは「それです」と言いながら一番目の木箱に入った青銅製の剣と斧を指さした。


「この場所からは一回しか異界のモノは来ませんでした。比較的通路は通じますが通路が通じても空振りばかりです。

 そしてやって来た異界のモノも、来た時から見てのように朽ち果てたような状態でした。


 おそらく最後の祭祀を行ってから何百年も見捨てられているような場所ではないかと私は考えています」


 ジャブロ・バジャルが青銅の剣と斧が入った木箱を指差して言う。そして次にブーメランの入った木箱を指差した。


「一番多いのはこの木箱の類で五回です。通じにくい場所ですが通じれば空振りはほぼナシです」


 ここまであまり口を開かなかったヘファ・タブリタ神官が口を開いた。


「異界の品物があった場所は、異界の祭礼の場ではないかとわたしは考えています。時に肉片や素焼きの皿に入った酒と思えるモノが一緒に来るからです。

 素朴な文化の人々は余計な知恵に惑わされません。神威を感じた場所を大切にして神々に自分が生かされている感謝の品を供えます。


 ですが先程、祭祀が行われなくなったと言ったのは余計な神々との間を遠ざける知恵がついたからではないでしょうか。

 そうなればそのような場所はないがしろにされます。それは我々にとっては異界の品物が届かなくなるということです。


 貴方が見知っている指摘した剣と斧は、リファニアに現れた時にはすでに青く錆び付いて相応な年月を経たモノであろうと思えました。


 もし神々に捧げたモノであれば、鋳造したばかりのように光り輝くモノであった筈です。

 そのことから貴方が見知った品が来た場所はすでに神々に対する素朴な儀式が行われなくなっていると言ったのです」


 ヘファ・タブリタ神官の説明に、エリーアスは納得することがあった。  


新たな地へのキリスト教の布教は、その土地の神との対決という側面がある。一神教であるキリスト教は信者となればその他の神を崇めることは許されない。


 キリスト教普及以前のヨーロッパには土地の神々への信仰があり、その聖地や祭礼の場があった。

 エリーアスの時代の少し前まで異教の神々を崇拝するバルト海沿岸の住民に、北方十字軍として武力を背景にしたキリスト教の布教が行われていた。


 そして一旦キリスト教が根付けば、太古からの神々は否定されて、その聖地や祭祀の場は顧みられなくなる。


 青銅の剣と斧はキリスト教の布教以前に信仰されていた神々へ捧げられた品物であろうとエリーアスは思った。

 太古の神々を信仰していた人々は森の民であり、平和であるが単調で素朴な生活を送りながら神々へ感謝を怠らなかっただろう。


 しかしエリーアスの時代にキリスト教は分裂して、ドイツ全土が塗炭の苦しみに追い込まれる大戦争をしている。


 そう考えるとエリーアスは太古の神々を悪神と決めつけることに躊躇いが生じてきていた。

 

 キリスト教の聖職者からすればそれは正しい神の教えを蒙昧な人々に教えて、死後に天国に行けるようにする為の善意の行為である。

 そして一時、エリーアスのカトリックの聖職者としてリファニアに神の教えを広めることが使命ではないかという想いがあった。


 しかし時々リーレブルクの隠者シュタイベルトがエリーアスに言った「信仰に関する覚悟があるか」という問いかけが頭に浮かんだ。


 それは自分の信仰が本当に神への信仰で正しいモノかという問いかけになった。


 17世紀のカトリックの聖職者としてはエリーアスの想いはかなり異端であろうが、エリーアスは敬神の念があって聖書者の道へ進んだが、元来は時に批判的な思考を巡らせる知識人である。


 そしてリーレブルクの隠者シュタイベルトとの会話以外にも、布教という行為は絶対的な善なのかという思いをもたらした書物があった。

 それはドミニコ会に属するカトリックの司祭バルトロメ・デ・ラス・カサスによる”インディアスの破壊についての簡潔な報告”である。

*話末注あり


 ラス・カサスはスペイン人の新大陸の住民インディオに対する残虐な行為を非難した。


 ”インディアスの破壊についての簡潔な報告”は後にスペインでは禁書となるがヨーロッパ各国で翻訳され出版された。

 それはヨーロッパ諸国によるスペイン批判の道具として利用され、スペインのインディアスにおけるインディオへの残虐行為からスペイン全体の非人間性を攻撃していた。


 エリーアスは大学生の時にラテン語版を読んだことがあった。


 ただカトリックの聖職者になってからは神聖ローマ帝国皇帝とは親族筋であるスペインのハプスブルク家が禁書にしている書籍なので触れるのが多少憚られる為に手元にはなかったが、リーレブルクの隠者シュタイベルトがドイツ語版を持っており借りて読んでことがあった。


 ラス・カサスは平和的な布教を説いていたが、エリ-アスにはキリスト教の布教を理由に人を殺すことが正当化されているように感じられた。


 その事を最近思い出していたエリーアスは、リファニアで布教するという想いよりも自分はリファニアでもキリスト教者として生きていくが教えを強要することはしないという決心をするようになっていた。



注:絵馬の裏に書いてあった文言


挿絵(By みてみん)



(原文)

いくさにてておいになれどおかげにてちゆいたしそうろう 山木兵ゑ大介

きょうろく四ねん三つき


(漢字混じり)

戦にて手負いになれど御蔭で治癒いたし候 山木兵衛大介 享禄四年三月


(現代訳)

 合戦で負傷いたしましたが、(この磐座に宿った貴方の)御蔭で無事に完治しました。

山木兵衛大介 享禄四年(1531年)三月


(解説)

 ほぼ全文が平仮名で一字一字が独立した行書体に近い書体で書かれています。おそらく仮名と少しばかりの漢字が書ける足軽の組頭程度の武士が書いたと思われます。


 兵衛は兵衛府の兵士のことで宮門の守備や行幸の供奉(ぐぶ)を仕事にしていました。平安時代までは官名を自称することはありませんでしたが、時代が降ると勝手に武士が官名を名乗って日本に何十人も”長門の守”や”伊豆の守”がいることになります。


 ただ身分相応というものがありますので、高い官名は地位のある者が名乗り、そうでない者は低い地位の官名を使用します。


 原文では”山”、”木”、”兵”、”大”、”介”が漢字ですが、画数が少ないので仮名とは異なる種類の文字であるとエリーアスとリファニア人は想像出来ませんでした。

 元来一つの文章の中に二種類以上の文字を使用することは珍しいことで、リファニア世界ではそのように記す言語は知られていません。


 絵馬の裏の文章は戦で負傷した武士が居住地近くの霊験があるとされる磐座に怪我の治癒を願ったところ願いが聞き届けられたので、お礼に脇差しを奉納し、絵馬にその感謝の気持ちを書いたようです。



注:四箇所

 リファニア世界と現世世界を繋げる通路は、今の所ではリファニア世界でのゲートは尖塔山山頂部だけしか確認できていません。


 現世世界の四箇所は次の四箇所と推測出来ます。


一、ドイツ、バイエルン州南部。森の中にある半ば埋もれたケルト人以前にヨーロッパに住んだ人間が造ったドルメン。ゲルマン人の時代に祭祀場として利用されたと思われます。

二、中国南部の何処か。道教かその地だけで崇敬される神の祭祀場。

三、日本の本州中央部太平洋岸。祐司の住む地域にある山中の磐座

四、オーストラリア。ブーメランの形状から察しておそらくグレートディバイジング山脈の西麓にある精霊を祭ったアボリジニの祭祀場。



注:ラス・カサス

 日本で知られる16世紀に存命していたスペイン人、及びスペインに関連した人物で最も名を知られるのはクリストバール・コロン(クリストファー・コロンブス)でしょう。


 その次は神聖ローマ帝国皇帝でもあったハプスブルク家のカルロス1世(神聖ローマ帝国皇帝としてはカール5世)、スペインの黄金時代を出現し、イングランド女王エリザベス1世に対してイングランドに無敵艦隊を送ったフェリペ2世となります。


 そしてその次は国王フェリペ3世や幾多の大貴族、宰相をさしおいて一介の聖職者ともいうべきラス・カサスになります。


 歴史に名を残し、エリーアス司祭に多大の影響を与えたラス・カサスの業績を以下に記述します。



挿絵(By みてみん)




バルトロメ・デ・ラス・カサス(1484~1566年)はスペインのセビリアで生まれました。

 父親のペロドは商人でクリストバール・コロン(クリストファー・コロンブス)の二度目の新大陸への航海に同行しています。こうした縁で1502年にラス・カサスは父親とイスパニョーラ島へ移住しました。


 当時のイスパニョーラ島はコロンの率いるスペイン軍がアラワク族やタイノ族と激しい戦いをしており、ラス・カサスもインディオの叛乱鎮圧に参加しています。



挿絵(By みてみん)




 ラス・カサスはエンコミエンダ制による農園を所有するとともに奴隷所有者となります。

 エンコミエンダ制とは新大陸におけるスペイン人征服者に非キリスト教徒であるインディオの労働を報酬として与えるという制度です。

 建前はスペイン人はインディオがカトリックとスペイン語の教育を与えて敵対する部族や海賊から彼らを守る代償に、インディオに金属や農産物を納めるといものでしたが実態は奴隷制でした。


 1506年に一旦スペインに戻ったラス・カサスは下級棲息者として叙階されます。そしてクリストバール・コロンの息子ディエゴ・コロンが新大陸における特権回復をするためにローマに赴くとそれに同行して司祭に叙階されます。


 1511年にイスパニョーラ島に来たドミニコ会のモンテシスーノ修道士は先住民に対する不正行為を目の当たりにして愕然として、それを非難する激しい説教を行います。


 ラス・カサスを含むエンコミエンダ制の農場主達はこれに反発しました。


 1513年にラス・カサスは従軍聖職者としてキューバ征服に参加します。そこでラス・カサスはスペイン人によるが先住民への多くの残虐行為を目撃します。


 ラス・カサスは後に「私はここで、生き物が見たこともない、あるいは見ることを期待もしない規模の残虐行為を見た」と記述しています。



挿絵(By みてみん)




 1514年にラス・カサスは新世界でのスペイン人の行為はすべて違法であり、大きな不正行為を構成していたと確信します。

 そしてラス・カサスは奴隷を解き放ちエンコミエンダを放棄すると、他の入植者にもそうすべきだと説き始めました


 ラス・カサスは新大陸の状況を改善するために1515年にスペインへ向かいます。


 ラス・カサスはセビリア大司教ディエゴ・デ・デサから当時のスペイン王フェルナンド国王への紹介状を手に入れることができ、国王と面会して新大陸の状況を報告することが出来ました。


ラス・カサスはインディアス保護官という正式な称号を与えられて島のすべてのエンコミエンダが原住民の労働力の使用を削減しようとしなしたが、いかなる試みにも激しく反対されたため、ラス・カサスが思ったような改善は出来ませんでした。


 スペインに戻ったラス・カサスは、新国王カルロス1世と会って、過酷な扱いによるインディオの著しい人口減少を訴えて永続的に利益があがる方策を訴えることにします。


ラス・カサスの計画はインディオの労働力に依存しない種類の植民地化で、エンコミエンダ制を廃止してインディオを自治区に集めて国王に直接貢物を納める家臣にする計画でした。


 さらに小規模な農耕地にスペイン本国から植民者として農民を送り込もうとえました。

 また宗教政策ではインディオに福音を説き、彼らを平等に扱うこととして、キリスト教への改宗は自発的で信仰の知識と理解に基づくものでなければならないとしました。


 ラス・カサスの計画は宰相ジャン・ド・ラ・ソヴァージュの支持を得ますが、ソヴァージュ首相が突然死去したため、宮廷の力関係が変化します。

 その為に当初計画されていたよりもはるかに少ない数の農民しか新大陸に送られず、また十分な食料も供給されることもなかった上に到着時には現地の支援もありませんでした。


 こうして農民の移民計画は頓挫して、ラス・カサスは1522年にサントドミンゴにあるドミニコ会の修道院に入り修道士となります。

 そこでラス・カサスは神学の勉強を続けます。そしてイスパニョーラ島北岸のプエルトプラタの修道院建設を監督し、後にその修道院長となります。


 1536年、ラス・カサスはメキシコのオアハカに行き、ドミニコ会とフランシスコ会の司教たちの間で行われた一連の議論や討論に参加しました


 この二つ修道会は、インディオの改宗に対して異なるアプローチをとっていました。フランシスコ会は集団改宗の方法を採用し、一日に何千人ものインディオに洗礼を施していました。


 これに対してラス・カサスをはじめとしたドミニコ会の関係者は十分な理解なしに行われた改宗は無効であると主張します。


 この為にラス・カサスはフランシスコ会という新たな敵をつくることになります。


ドミニコ会とフランシスコ会の間の論争はラス・カサスの論文に刺激された教皇パウロ3世により、インディオは理性的な存在であり、そのような信仰に平和的に導かれるべきであると述べた勅書を公布したことで決着します。 



エンコミエンダ制は実際には1522年に法的に廃止されていましたが、1526年に復活し、1530年には奴隷制を禁じる一般法令が国王によって撤回されるなど紆余曲折していました。


 そこでラス・カサスは国王カール5世に、もう一度先住民のために嘆願することが必要だと感じていました。


 1542年に公聴会が始まると、ラス・カサスはインディアス原住民に対する残虐行為の物語を提出しました。


 これが本文でも出てきた”インディアスの破壊の簡潔な記録( Brevísima relación de la destrucción de las Indias)”です。



挿絵(By みてみん)




 インディアス評議会の数名からなる評議会の前で、ラス・カサスは問題の唯一の解決策は、エンコミエンダ制を廃止し、代わりに彼らを王室に貢物を納める臣民として国王の直接の管理下に置くことによって、すべてのインディアス原住民を世俗のスペイン人の保護から外すことであると主張しました。


 1542年11月、皇帝はエンコミエンダ制を廃止してインディアス評議会から特定の役人を排除する新法に署名します。

また新法はインディオを奴隷として捕らえることを一切禁じ、エンコミエンダ制を段階的に廃止してエンコミエンダ制は保持者の死後王室に返還されることとしました。


 この改革は新世界では非常に不評で暴動が起こり、ラス・カサスの命が脅かされるような状況でした


新世界に戻るとラス・カサスは1545年に新設の教区であるメキシコのチアパスの司教にも任命されます。


司教としてラス・カサスは、自分の教区のエンコメンデロスや世俗信徒と頻繁に衝突しました。

 ラス・カサスは、奴隷所有者とエンコメンデロが死の床にあっても、奴隷全員が解放され、その財産が返還されない限り赦免を拒否しました。


しかし現地のスペイン人に不評であった新法は1545年10月に廃止されます。


1547年にラス・カサスは多くの紛争と未解決の問題を残したままスペインに戻ります。

 ラス・カサスは反対者からラス・カサスがスペインの植民地支配の正当性を否定するものであると非難しました。


 ただラス・カサスの思想は国王フェリペ2世の決定や歴史、人権意識に永続的な影響を与えます

 ラス・カサスのエンコミエンダ制批判は、エンコミエンダ制がレドゥッチオーネ制に置き換えられるきっかけとなりました。


レドゥッチオーネ制とは福音伝道と同化の目的で先住民を集団で特定の集落に移住させるという方策です。

 インディオは奴隷からは解放されますが、住民に対する市民的および宗教的統制を容易にすることを目的としていました。インディオを町に集中させることで、彼らの労働の組織化と搾取が容易になった面があります。


レドゥッチオーネ制はローマカトリック教会(特にイエズス会)の修道会によって確立および管理される宗教的なものか、スペインまたはポルトガルの政府当局の管理下にある世俗的なものの二種類がありました。


 チアパス司教職を辞任したラス・カサスは、残りの人生をインド諸島に関する問題で宮廷と密接に関わることに費やしました。


 ラス・カサスは西インド諸島原住民のための一種の検察官として働き続けて、彼らに代わって皇帝に請願書を提出したり、時にはインディオが彼に事件を持ちかけることもありました。


1552年、ラス・カサスは”インディアスの破壊の簡潔な記録”を出版しました。


 この本はすぐにヨーロッパ各国で翻訳されて広まっていきますが、平和的な布教の必要性、征服戦争への批判、先住民への理解などというラス・カサスの意図ではなく反スペインの根拠として利用されていきます。


1561年に体力の衰えを感じたラス・カサスはマドリードのアトチャ修道院に移り、自らの著作をまとめ始めます。

 そして1566年6月にラス・カサスはラス・カサスはアトーチャ修道院で波乱に満ちた生涯を92歳で終えます。


 教皇ピウス5世が従来スペインのインディアス支配の根拠とされていた教皇アレクサンデル6世(在位1492~1503年)の”贈与大勅書”がインディアス征服を正当化するものでないというローマ教皇庁の正式見解を示したのはラス・カサス死後の1586年でした。



挿絵(By みてみん)

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