黒い嵐7 モンデラーネ公の幕舎
モンデラーネ公は、リヴォン・ノセ州の領主達に指示を与えると、自分の幕舎に戻っていった。
護衛の兵士が幕を開けて中にモンデラーネ公を入れる。幕舎の中には、十代前半の小姓が二人、寝ずの番のために待っていた。
「しばらく、幕舎の外で待っていろ」
小姓達はあわてて幕舎の外へ出ていった。
モンデラーネ公は数え年で四十歳になったばかりである。短く刈り込んだ髪と短く生やした顎髭が引き締まった顔に神経質な感じを与えていた。
モンデラーネ公は、黒髪、黒目で、リファニアでは”鋳造したばかりの銅貨の色”と形容される、ごく薄い褐色系の肌という典型的なイス人の要素を持っていた。
ただ、顔の造作は少し落ちくぼんだ眼窩と、細いが高く突き出た鼻梁、細面の顔立ちであり、ヘロタイニア(ヨーロッパ)人の血も大いに引いていることを表していた。
モンデラーネ公はリファニアの男性から言えば、背は並みより少し高い。現代日本の基準では、中背で少しやせ気味のな筋肉質な、おじさんという感じだった。
まだ、モンデラーネ公が周囲の動向に気を遣う必要があった二十前半に、娶った妃は同い年で三人の娘がいた。ただ、この数年は妃とも同衾することはなく数人の愛妾を囲っていた。
モンデラーネ公は、世継ぎに関しては関心が薄く、家臣たちの最大の心配事であった。リファニアの貴族階級では嫡子による相続が第一義である。これは、男女を問わないので、モンデラーネ公の娘が後継ぎと言うことになる。
モンデラーネ公は、自分の娘と弟の息子との婚姻を考えていた。ただ、モンデラーネ公の弟は二人おり、その息子は五人、モンデラーネ公の娘は三人である。
その組み合わせ如何では、大きく権力構造が変わってくるため家臣の関心も高く、利害関係のある者達はことあるごとに、自分の陣営の勢力拡大を画策していた。
「お休みしなくて、よろしいのでございますか」
薄い紗幕で四方を覆われたモンデラーネ公のベッドの中から女の声がした。
モンデラーネ公は、紗幕の中に入り込んでから女に答えた。
「宵のうちに寝たからな。それより、今日を逃せば、またお前を抱くのは暫く先になりそうだ」
「今度の戦も、わたくしは殿の護衛でございましょうか」
女は、そう言いながら、黒髪に近い濃い茶色の髪を少し整えた。その髪はリファニアの比較的裕福な女性がするように髪の毛は頭の後ろで束ねていた。
女の顔立ちは目鼻立ちがはっきりして整ってはいるが、美人という印象よりも意志の強さが見て取れた。
リファニアでは巫術師という切り札があるため、劣勢になった側が巫術師の総力をあげた援護を決死の味方に与えて敵将を取りにくることがある。
実際に、そのような無謀な作戦により、土壇場で逆転したという戦いもある。そのため、幾ら優勢な側でも、いや、優勢な側こそ、多少の攻撃力の減退を忍んでも最も優秀な巫術師は総大将の護衛に当てるのは常套手段である。
「いや、よからぬ噂や妬みをする者もおるという。今回は巫術師の護衛役で出てもらうかもしれぬ。
お前の得意の術で最後の突進路をつくってもらうことも考えておる。ただ、その前に戦車隊が決着をつけておろうがな」
モンデラーネ公は珍しく人目を憚るようなことを言った。モンデラーネ公は自分の欲望のままに女性を同衾させる男である。ただ、一度でも抱いた女性には情が移り、男性の家臣からすれば同じモンデラーネ公かと思えるほど、女性に気遣いを見せることがあった。
「よからぬ噂がたっても、妬まれてもマリッサは平気でございます」
モンデラーネ公は上半身裸になって、ベットに横たわったマリッサと名乗る女に覆い被さった。ひとしきり、モンデラーネ公はマリッサの唇と口内を舌で堪能した。
モンデラーネ公は突然マリッサを突き放して言った。
「乾地術の練習をしておれ」
モンデラーネ公は行為の前に、実務的なことを必ず一つ言う。その理由は聞く必要などない。モンデラーネ公軍の強さの一つに情報が漏れないことがある。
作戦は全てモンデラーネ公の頭の中だけにあるからだ。そのことを知っているマリッサは甘えた声で別のことを言った。
「殿様、わたくしは、ちょっと太ったようでございます。そのような身体でもよろしゅうございますか」
「しばらく、お前を抱いていないから、お前が太っておったか、痩せておったかも忘れた」
モンデラーネ公の言葉にマリッサは少し安堵した。実はマリッサはモンデラーネ公の子を宿していた。まだ腹の膨らみは目立たないが、モンデラーネ公が幕舎にマリッサを呼んだ時には妊娠が露見するのではと恐れていたのだ。
マリッサ、”カタビ風のマリッサ”で知られる彼女は中央盆地では、一般人にまで名の知られた女性巫術師である。また、巫術師の間では、近年のリファニアで、五本の指に入る有数の巫術師として知られていた。
マリッサは十三の年に巫術の才能があるということで、親に売られるも同然に、当時、若い巫術師を集めていたモンデラーネ公のもとに送られた。
モンデラーネ公の巫術士達により、金で買われたり掠われるようにして集められた子供の中から死者まででるような鍛錬と修行が行われた。
そして、生き延びたマリッサは、人並み外れた突風とそれに伴う雪を舞わすことから、リファニアの地方風にちなんでカタビ風のマリッサと呼ばれるようになった。
現在、マリッサは二十代の後半であるが、数度の実戦経験があり武功も上げている。待遇は百人長格である。給与も、小振りながら屋敷を借りて、使用人を数名雇うことのできるほどに得ている。
マリッサは従軍に際しても、個人で誂えた御者付きの馬車に乗り、三人の従者を引き連れていた。兵士の苦しい行軍ではなく初夏の物見遊山のような旅である。
マリッサは、その生い立ちから素朴な信仰心を持っており、行軍に神殿詣でを欠かさず行っていた。
その姿は、巫術師とはいえ、モンデラーネ公軍では一介の平民の娘が働き如何で優遇されるという象徴だった。
モンデラーネ公軍は、軍規・教練が厳しいことで有名である。勇敢であっても任務を達成できなければ処罰を受けることもある。逃亡はもちろん、戦場での緩慢な動きだけで、死罪になることもある。
そのようなモンデラーネ公軍であるが、平民の志願兵には事欠かない。
激しい訓練と、数度の戦いで有能であると認められれば、郷士格を与えられ、一家を構えるほどの給与が出る。他の領主軍では、平民兵が郷士格になるのは、敵将を討ち取ったような場合だけである。
モンデラーネ公軍では、いわゆる「兵農分離」が進んでいた。
一般的な領主軍は、少数の領主直轄軍と、地主である郷士とその郎党で構成される。郷士は、元来、フルタイムの軍人であるが、小規模な土地しか所有していない郷士は半農半兵状態である。
その郎党の実態は、地主のである郷士の直轄地で耕作する農民と同様の家臣か、年貢の一部として従軍する小作人である。
このため、農繁期の動員は難しい。
「兵農分離」が行われているモンデラーネ公のシスネロス遠征軍は、四月に動員がかかり首邑カルヤニーネに集まって短期間の演習の後に五月には遠征に旅立った。帰還予定は八月上旬とされていた。四月は種まき、八月といえば収穫のための農繁期である。
普通の領主軍で構成された軍隊なら、五月後半から六月一杯、または、九月以降しか動員できない。九月以降は急速に天候が悪化するために、そうそう遠方へは遠征できない。
周辺地域へ積極的に打って出るモンデラーネ公軍は、この軍の体質を改善したのだ。そのために、郷士階級は指揮官役のみを期待して、平民を兵士として生活していける常備兵とする軍隊になった。
モンデラーネ公軍は、平民にとっては自ら志願して上を夢見ることのできる軍隊だった。
平民身分では望み得る最高の階級に近い百人隊長格を与えたマリッサをモンデラーネ公が戦陣の幕舎に呼ぶようになってから二年ばかりになる。
一度、戦陣にまみえればモンデラーネ公と言えども愛妾を帯同するわけにはいかない。リファニア貴族の習いである。
そこで、モンデラーネ公が目をつけたのがマリッサだった。
実は巫術師の半分は女性である。戦いに赴く女性巫術師は男性よりも少ないながら巫術師ということ、そして最も優秀な巫術師の護衛であるということにすればモンデラーネ公が帯同しても言い訳はたつ。
まあ、周囲には周知の事実であるが、風習に反することに関してはおおっぴらなことを避けたがるのがモンデラーネ公なのである。
マリッサはモンデラーネ公に買われた身であり、最初はそういうものだというあきらめがあった。また性には寛容なリファニア世界であるからマリッサも何人かの男を知っていた。
モンデラーネ公の伽を命じられたマリッサは史実の女性よりは悲壮感は少なかった。
そして驚いたのがモンデラーネ公の優しさだった。射貫くような目で命令を下す姿ではなく、マリッサのような賤しい身分の女に対しても敬意を払ってくれることだった。
いつしか、マリッサはモンデラーネ公に対して愛しく思う感情が芽生えていた。できれば、モンデラーネ公の子種をという淡い望みをいだきだした。
子が出来れば母親が賤しい身といえども子は、それなりに遇してくれるはずであった。それもリファニア貴族の習いである。
また、モンデラーネ公の子の母になれば、モンデラーネ公が、たびたび戯れ言のように言っている、良い婿を世話してやろうという、その婿の相場も上がろうという打算もマリッサにはあった。
自分を納得させてモンデラーネ公の子を自分の子として育てれば、それなりの見返りが期待出来ると考える男は多いからである。
この辺りは、現代日本の感覚とは、相容れない。リファニアはあくまでもキリスト教的な価値観のない中世世界なのである。
ただ、リファニアには巫術による堕胎がある。堕胎ができなくなるまでマリッサは何としてでも妊娠を悟られなくなかったため、思わず太ったと言ったのだ。
明日以降はマリッサは軍務に専念することになる。勝利のあかつきには、シスネロスがモンデラーネ公のご機嫌取りにとびっきりの美女達を差し出して来るはずである。女性にはいささか欲のあるモンデラーネ公は捨て置く筈はなかった。
少なくとも今までの敗者はそうだったし、モンデラーネ公も据え膳は食べた。マリッサは今日をしのげは、数週間はお呼びがないだろうと確信していた。
「さあ、こちらへこい。存分に可愛がってやりたいが、お前も、ワシも明日は忙しくなるだろ。悪いが、時間はかけてやれぬぞ」
モンデラーネ公はそう言うと手でマリッサを招き寄せた。
幕舎の前で居眠りをしていた年かさの方の小姓の頭をモンデラーネ公が軽く叩いた。
「出発だ。合図を出せ」
小姓はあわてて駆け出した。
モンデラーネ公の指示通り幕舎の撤収と行軍準備を知らせる軍鼓が響き渡った。それからさらに一刻後にモンデラーネ公軍はシスネロスへ向かう行軍を開始した。
その日の昼前にモンデラーネ公軍はドノバ州へ二リーグの位置に達する。
そこで、リヴォン・ノセ州の領主に用意させた兵糧などを輜重隊に積み込み、丸一日かけて、モンデラーネ公軍は全軍をリヴォン川の東岸に渡河させた。
モンデラーネ公軍は、まる一日かかった渡河の安全を期するために、渡河地点の下流に、リヴォン川の両岸を結んで、三本のロープを張った。ロープは途中で数隻の筏により沈んでしまわないように支えられていた。
まともな、水軍がないモンデラーネ公軍にとっては、唯一、シスネロス側の、軍船が突破してこないようするための処置である。
ロープはリヴォン・ノセ州領主領から調達され船で運ばれてきた。
リヴォン川に面した領主領では、春の農繁期と重なる中で、兵士も動員しながら、住民によって割り当てられたロープの製造が行われた。
シスネロス側による渡河を阻止するような行動はなかった。
もともと、シスネロス側ではドノバ州の外にまで、進出する意図はなかった。また、いくら、水軍が存在すると言っても、専門の軍船は、ドノバ州の領主が所有する軍船を動員しても、十隻ばかりであり虎の子の戦力であった。後は、二十隻ほどの川船を臨時の軍船に転用したもので戦闘能力は低かった。
水軍を管轄するダネル市参事は、シスネロスに水軍が存在するということが、モンデラーネ公軍の行動を制限してることを理解しており、出先の指揮官に対して、味方の損害が予想されるような無理な攻撃を厳禁していた。
モンデラーネ公軍が川にロープを支えるために設置した筏には、巫術師が配置されていた。さらに、リヴォン・ノセ州の領主軍が多数の小舟を用意しており、ロープで行動を阻止したシスネロスの軍船に、損害を無視してでも小舟が雲霞のごとく取り付く用意をしていた。
このため、シスネロス水軍が突破を図れば、かなりの損害がでる恐れがあったから、この判断は妥当なものだっただろう。
ただ、モンデラーネ公軍が設置した、軍船阻止用のロープは本来の素材である麻は、ごく一部でしか使用されておらず、大半は麦わらを使用した物だった。
早い話が、荒縄である。モンデラーネ公軍の工兵隊長も、精々、軍船を阻止するほどの強度を保てるのは、一ヶ月だろうと判断していた。
モンデラーネ公にとって、一ヶ月は十分な時間だった。
モンデラーネ公は気が付いていなかったが、シスネロス水軍を指揮するダネル市参事は、渡河を監視すること以外に、何もしていなかったわけではない。
ダネル市参事は、モンデラーネ公軍の渡河点警護に油断が出た場合には渡河を行う小舟や筏の襲撃するための機会を狙っていた。
そのための、下準備としてモンデラーネ公軍の渡河点より、かなり上流に数名の泳ぎに長じた者を潜入させていた。
この季節のリヴォン川は雪解け水で水量が多くなっている。そして、時々、リヴォン川を岸辺に生えたアシなどが束になって流されてくる。
シスネロス側の潜入者は、そのアシの束に身を隠して流れに逆らわずに、モンデラーネ公軍の設置したロープにたどり着いては、ナイフでそのロープの表面には、できるだけ小さな痕跡しか残さないようにして中の方を大きく傷つけていた。
表面上は、ロープは十分な強度があるように見えても、その寿命ははるかに短くなっていた。
リファニアでの攻城戦は、史実の古代や中世の戦いより難度の高い戦いである。巫術師の存在により、激成術で城壁が強化されているいる上に、防衛側の巫術師は”屋根”をかけることなく防御施設内から、攻撃用の巫術のみを繰り出せるからである。
また、モンデラーネ公は当初から、経済的な理由で大型の攻城兵器を用意していなかった。
モンデラーネ公は、元々、シスネロスを兵糧攻めにならざる得ない包囲攻撃する意図がなかった。
シスネロス軍が出てくれば、これを撃破して勝利を宣言する。後は、講和で戦いの費用と、その戦果を賠償金という形でシスネロスに強要するつもりだった。
そして、シスネロス軍が出てこなければ、可能な限りドノバ州から、物資を略奪して、少なくとも赤字にならないようにする意図だった。モンデラーネ公自身は、戦争状態になった以上は、この可能性が一番高いと判断していた。
農民軍の抵抗を考えれば、あまり、うま味のない結果になるため、シスネロス軍が出撃するという情報に、モンデラーネ公は驚くとともに、嬉しさを覚えていた。
シスネロス軍が野戦を行う方針を変更しないように、戦場の選定もシスネロス軍の意図通りに乗ってやろうと考えていた。
「シスネロスの連中は、その政治体制から領域全てを守らねばならん。敵軍は野戦で迎え撃つ選択肢しかない。気の毒だが、全てを守ろうとする者は、何も守れんことを学習してもらおう」
渡河が順調に進む様子をみて、モンデラーネ公は、傍らのドラヴィ近侍長に、上機嫌で言った。
州境間近で渡河したモンデラーネ公軍は、軍勢を整えるとドノバ州目指して南下を開始した。
リヴォン川に沿ってドノバ州とリヴォン・ノセ州の境は位置するドノバ州側はアンクーン男爵という小領主の封土である。耕地は、早生の豆やライ麦はすでに刈り尽くされており、村落にも誰もいなかった。
モンデラーネ公に対する徹底抗戦の宣言である。
モンデラーネ公は越境の直前に「手出し無用」という一文を書いた書状をアンクーン男爵に送りつけてきた。
そのような脅かしがなくともアンクーン男爵は根こそぎ、家臣、近在の男手を動員しても数百という兵力しかないために、シスネロス市に、モンデラーネ公軍の越境を告げる一報を送ったあとは小高い丘に築かれた城塞でその軍勢を見送るしかなかった。
「悔しいな」
城から半リーグも離れていない街道を、城などないように行軍しているモンデラーネ公軍を見て、まだ二十代前半のアンクーン男爵は、傍らの家老に言った。
「ドノバ候は、戦いが終わるまで、敵勢の一部なりとも引きつけて、城を保持すれば戦功第一と仰っております。くれぐれも、短気はお控えください」
家老は、アンクーン男爵の言葉にあわてて答えた。
「わかっておる。しかしドノバ候には感謝してもしきれんな。ランブルとかいうどこの馬の骨ともしれぬ男に率いられたシスネロスの為ではなく、ドノバ州とドノバ候の為なら何でも耐える」
アンクーン男爵は、城壁を激成術で補強している巫術師を城の最上部である塔の上から見て言った。
ドノバ候は自分の権限で五人しか巫術師がいないアンクーン男爵のもとに、ドノバ州防衛の為に、尽くして欲しいと言う書状とともに四人の巫術師と半月分の兵糧を送ってきていた。
モンデラーネ公は渡河点の守備のために、すでに二千のリヴォン・ノセ州の領主軍を残していた上に、補給路を確保するためにアンクーン男爵の居城を緩く包囲する千近い兵力を残置していた。
モンデラーネ公軍は進撃するばするほど、兵力がやせ細っていった。守るべきものが、あるのはシスネロス市ほどではないが、モンデラーネ公も同様だった。




