大神官タブリタの系譜14 異界の部屋 中 付録:バルト海沿岸とタタール人
エリーアスのいる部屋には世話をしてくれるペルゼブ・ヤロミルという中年女性以外に一日に一度は最初の日に見たゼンド・カガザレスと名乗った男と、三十代半ばほどの聖職者ではないかと思える男が姿を見せた。
その聖職者と思える男は「ヘファ・タブリタ」と名乗っていた。
エリーアスがタブリタと名乗った男が、聖職者ではないかと思ったのはカトリックの修道士のような姿をしていたことと部屋を出て行く時にエリーアスに向かってカトリックの聖職者が詠唱を唱えるような仕草をしてエリーアスに何事かを言葉を投げかけていたからだ。
勿論、聖職者と思える男はカトリックの聖職者でないことは明白であったので、エリーアスは異教徒に何やら呪縛の言葉を投げかけている可能性も考えた。
しかし聖職者と思える男の詠唱のような言葉は常に穏やかな感じであり、真心が籠もっているようにもエリーアスは感じていた。
最初の日だけに来たゼンド・カガザレスと聖職者と思えるヘファ・タブリタの名もエリーアスには謎だった。
ゼンドは簡単な語であるがエリーアスには皆目理解出来なかった。そしてカガザレスという名はラテン系という感じを受けたが聞き覚えはなかた。
ヘファ・タブリタの名でヘファ(Hefa)はドイツ語で屑のことである。タブリタという名は聞き覚えがないがカガザレスと同じくラテン風という感じをエリーアスは受けていた。
そして十日ほど経ってエリーアスはベッドから離れて中年女性ペルゼブ・ヤロミラの肩を借りてではあるが、歩けるようになった。
外界から閉ざされた部屋でエリーアスが十日目とわかったのは、「ダー、ダッタ」と言いながらペルゼブ・ヤロミラが最初の日から一日ほど経ったと思える時に、人差し指と中指を延ばして「ダー、ダッタ。ダー、ダッタ」と言ったことだった。
そして次にまた一日ほど経って来た時は三本の指を立てて「トチ、トチッダ。トチ、トチッダ」と言った。
そして四本の親指を除く四指を立てた時は「セアト、セアトッダ。セアト、セアトッダ」と言った。
この辺りでエリーアスは二(zwei、ツヴァイ)がダー、二番目(zweite ツヴァイト)はダッタ、三(drei、ドライ)がトチ、三番目(dritt、ドリッテ)がトチッダ、四(vier、フィア)、四番目(viert、フィアット)がセアトッダであることを理解した。
ちなみに五(fünf、フュンフ)はチュイ、六(sechs、ゼクス)はシル 七(sieben、ズィーベン)はセチャ、八(acht、アハトゥ)はオク、九(neun、ノイン)はノイ、そして十(zehn、ツェーン)はダッチェだった。そして後で知った一(eins、アインス)はナンだった。
十日目に初めて部屋を出たエリーアスは部屋の外は長い廊下になっており、出て右にある厠へ案内された。
エリーアスが監禁されている部屋は漆喰で壁と天井が漆喰で床は板張りであったが、廊下は岩をくり抜いたような感じで洞窟といってもいい雰囲気だった。
廊下には二十代の屈強な感じがする男が椅子に座っていた。男は一エル(中世ドイツでは約40センチ)弱ほどの擂り粉木棒のようなモノを腰に吊っていた。
男はエリーアスが逃げ出さないようする為の見張りで、棒はいざという時にエリーアスを制圧する武器だとエリーアスは思った。
廊下に出ると男も肩をエリーアスに貸してくれてペルゼブ・ヤロミラという中年女性とともに厠まで連れて行ってくれた。
厠も廊下と同じで岩をくり抜いたような感じであるが、床は板が張ってあった。また明かり取りにかなり上部に一フース四方(約30センチ)ほどの穴があった。
それでも暗いので便所の天井付近には部屋の天井付近にある光る何物かが漂っていた。
若い男は厠の扉を開けると、中にある水の入った壺とその横の木箱の中に入れてある紙を示して何かを言った。
恐らくペルゼブ・ヤロミラは男にエリーアスには言っていることが通じていないというようなことを言うと、何かを書き付けてある使い古した紙を一枚取り上げて、壺の水につける仕草をしてからその紙で尻を拭く仕草をした。
どうも排便後の尻の始末を説明してくれているのだと理解したエリーアスは「ヤー、ヤー」と返事をして厠に入った。
エリーアスは自分を捕えているのはバルト海東岸辺りの東欧の人間か、タタール人かそれに近い種類の人間ではないかと考えていた。
*話末注あり
エリーアスが生きた十七世紀前半にはヨーロッパのほとんどの地域はキリスト教世界になってはいたが、キリスト教化を推し進めたドイツ騎士団の活躍にもかかわらずバルト海沿岸にはまだ少数の太古からの異教の神々を奉じる人々がいると思われていたからだ。
またエリーアスがタタール人ではと疑ったのは、ペルゼブ・ヤロミラらの容姿による。
ペルゼブ・ヤロミラは茶色の髪と虹彩で一見ザクセンで暮らしていても違和感がない容姿であるが、顔の輪郭にどことなく違和感があった。
それは具体的な表現が難しいが、三四日毎に様子を見に来るヘファ・タブリタの顔を見ているとタタール人の容姿を記載した文献のことを思い出した。
ヘファ・タブリタは黒髪、黒目でペルゼブ・ヤロミラよりさらに頭の中で思い描くタタールという感じが強かった。
ヘファ・タブリタがバイエルンにいれば異邦人と思われただろう。
廊下の男達はドイツ人と見紛う姿の男から、きっと生粋のタタール人はこのような容姿だろうと思えるほど個人で差があった。
ただ彼等がバルト海沿岸の住人、あるいはタタール人だとしてもバルト海沿岸かタタール人の住む東方の地とは限らない。
人間は移動できるのであるから彼等がそれこそリーレブルクにほど近いバイエルンの山奥にエリーアスを連れ込んだのかもしれないからだ。
バルト海沿岸の住民やタタール人といった集団は未開の輩という意識がエリーアスにはあったたが、目の前の厠とその使用方については随分と文化的だと思った。
エリーアスは厠の扉を閉めようとしたが、若い男が右手で扉を押さえて逃亡防止のためらしく半開きに留めた。
「逃げません」
エリーアスはそう言って厠の中を見回した。
便器はエリーアスの見知っている壁に設えた腰掛け式のものだった。清掃が行き届いており、時に呼ばれた先の家で遭遇する排便の気力が萎えてしまう便器とは違った。
注:バルト海沿岸の住民
中世ヨーロッパでバルト海沿岸に住んでいたのは、インド・ヨーロッパ語族バルト・スラヴ語派の一派であるバルト語派言語を使用する人々です。
このバルト語派はさらに西バルト群と東バルト群に分かれます。ただ西バルト群のプロシア語、ナドルヴィア語、ガリンディア語、スカロヴィア語、スドヴィア語といった言語はすべて現在では死語となっています。
一番遅くまで話者がいたのはプロシア語で18世紀まで命脈を保っていました。
この西バルト群の言語はヨーロッパ地域で使用されていた言語でありながら情報の乏しい言語です。
ローマの政治家タキトゥスが1世紀にゲルマニア地方の風土、住民の慣習・性質・社会制度・伝承などについて記述した「ゲルマニア」の中に出てくるアエスティ族は古プロシア語を話す人々と推測されるほど長らく西バルト語群の言語を使用する人々はバルト海沿岸に居住していました。
西バルト語派の言語情報不足はヨーロッパ地域で最もキリスト教を拒んでいた集団であったからです。
中世において種々の記録を残したのは教会とその周辺の人々です。ある言語集団がキリスト教化すれば、その言語による説教書などが書かれますのでまとまった言語情報が残ります。
そうした教会関係の情報の少ない東バルト語群の中でプロシア語だけが比較的情報が豊富です。
これは13世紀にドイツ騎士団が中心に行った異教徒の住むバルト海沿岸地域への北方十字軍の結果、武威によるとはいえプロシア人のキリスト教化が進みドイツ騎士団もプロシア語の情報を残したからです。
全ての言語が死語となり民族集団も消滅した西バルト語群と比べ、東バルト語群は現在まで命脈を保っています。
まずラトビア語を話すラトビア人は12世紀末から13世紀にかけて後にドイツ騎士団に吸収されるドイツ人主体のリヴォニア帯剣騎士団とデーン人により征服されてキリスト教化されます。
ラトビア人は騎士団と移住してきた後バルト・ドイツ人と呼ばれるドイツ人に支配されました。
さらに16世紀にはプロテスタントのルター派が広まりますが、ドイツ人支配は続き18世紀にはロシアの支配に入ります。
ラトビアが国家として独立したのは1919年です。ただ1940年に再びソ連軍の侵攻で国家を失い、ソ連の政治的崩壊に乗じて1990年にソ連から独立して現在に至ります。
もう一つの東バルト語群の大きな集団はリトアニア語を使用するリトアニア人です。
リトアニア人はドイツ騎士団との抗争によって民族がまとまり、13世紀中頃にミンダウガスのもとでリトアニア大公国を成立させます。
この国家は精強で現在のベラルーシやウクライナ西部まで勢力圏を拡大します。
そして1386年にリトアニア大公ヨガイラは、ポーランド王国の女王ヤドヴィガと結婚してカトリックに改宗するとポーランド王として即位します。
リトアニア大公国はポーランドと連合して仇敵ドイツ騎士団を退けてポーランド・リトアニア連合は東欧の大国となります。
17世紀前半がその最盛期で版図は100万平方キロに及び、現在のポーランド東部、バルト三国の大部分、ベラルーシ、ウクライナ西部を支配します。
支配人口は1200万で当時のドイツ地域に匹敵します。
ただポーランドとの連合で貴族階級はポーランド語が母語になり、リトアニア自体は16世紀半ば以降はリトアニアはポーランドの州という扱いになります。
そして18世紀後半のロシア、プロイセン、オーストリーによる三度のポーランド分割の結果、リトアニアはロシア領になります。
そして第一次世界大戦の末期にかつての仇敵ドイツの支援を受けてリトアニアは独立します。
ラトビアと同様に1940年にソ連に武力併合されますが、矢張りリトアニアと同様にソ連の崩壊で1991年に再度独立します。
さて俗にバルト三国という言い方では北からエストニア、ラトビア、リトアニアの三国のことになります。
このうちラトビアとリトアニアは前述のように民族構成としてはバルト語派が主要になり、紀元前よりバルト海沿岸に居住していた人々の末裔です。
ただエストニアの主要民族であるエストニア人も紀元前からバルト海沿岸北部に居住していましたが言語系統はウラル語族フィン・ウゴル語派になります。
ウラル語系の言語はヨーロッパではエストニア語、フィンランド語(エストニア語に近い)、ハンガリー語があります。
ヨーロッパの主要言語グループであるインド・ヨーロッパ語族ではないウラル語族はヨーロッパではアジア系の言語と見なされます。
エストニア人も長らくキリスト教を受け入れないアニミズムをもとにした異教の民でしたが、リヴォニア帯剣騎士団による武力を背景した改宗で13世紀にはカトリックの地となります。
しかし改宗が進んだ地域ではドイツ人の入植が進み、ハンザ同盟都市レヴァル(タリン)は繁栄しますが、多くのエストニア人はドイツ人領主の支配下に入り苦しい生活を余儀なくされます。
そして17世紀にはスウェーデン、18世紀からはロシアの支配下になります。
エストニアも他のバルト諸国と同様に1918年にロシアから独立、1940年にソ連による武力併合、19990年に独立回復を果たします。
注;タタール人
タタール人、西ヨーロッパの諸言語ではタルタル人という語は時代や地域で異なった集団を示すます。
大まかには中国ではモンゴル人の一部である韃靼を指す言葉にあてられます。ロシアではモンゴル人一般を意味する時にタタールを使用する時とチュルク(トルコ)系民族を指す場合があります。
ロシアでは13世紀以降のモンゴル人支配を「タタールの軛」と言いますがこのタタール人はもちろんモンゴル人のことです。
ロシア(ルーシ)の人々はポロヴェツ人などの周辺のテュルク系遊牧民が東方のモンゴル系遊牧民たちをタタルと呼んでいたのにならって、モンゴル人をタタールと呼んだようです。
「タタールの軛」は16世紀まで続きますので、ロシア貴族を含む上層階級には支配者モンゴル人の血統が入って来ます。
また「タタールの軛」により西ヨーロッパからの隔絶されたロシアはルネサンスや宗教改革から影響を受けず、その後の西ヨーロッパで起こった大きな政治的・社会的・経済的な諸改革や科学の発展から取り残されたという意識が西ヨーロッパで生まれます。
それは「遅れた国ロシア」「後進国ロシア」という評価と、西ヨーロッパにある「ロシア人の皮をはぐと、タルタル人が出てくる」という俚諺にみられるロシアはアジアであり、我々とは異なるという差別感な意識となります。
現在一般的にタタール人とされるのはチュルク(トルコ)系民族で、特にシベリアから東ヨーロッパにかけて居住するテュルク系諸民族がタタールを自称しています。
元々タタールという言葉は6世紀に中国北部で強勢であったチュルク系民族突厥が、他のチュルク系民族をタタル(他の人々)と呼んでいました。
次第にそうした呼称をされる集団がタタールと自称するようになったようですので、現在の使い方は歴史的には間違っていない事になります。
現在タタール人を名乗る集団はロシア連邦内のヴォルガ川中流域に住むヴォルガ・タタール人(カザン・タタール人)、ヴォルガ川下流域に住むアストラハン・タタール人、シベリアに住むシベリア・タタール人、クリミア半島に住むクリミア・タタール人、ベラルーシ、リトアニアおよびポーランドに住むリプカ・タタール人などに分かれます。
チュルク系民族はヨーロッパから見ればアジアの民ですが、DNAでは東アジアの要素はほとんどなくヨーロッパ(コーカソイド)系です。
例えばロシア中世文学の金字塔「イーゴリ軍記」に出てくるチュルク系キプチャク人の一派であるポロヴェツ(クマン)人はチュルク語の淡い黄色を意味するクマンに由来しますが、これは彼等にヨーロッパ(コーカソイド)系に見られる金髪が多かったというのが有力な説です。
しかしチュルク系民族を引き連れてロシアに進出したモンゴル人は次第にチュルク系民族と混血してイスラム教を受け入れたのでタタール人の中にはモンゴロイド的な要素のある者もいます。




