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千年巫女の代理人  作者: 夕暮パセリ
第二十一章 極北紀行
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大神官タブリタの系譜3  エリーアス司祭

「あらためてお聞きしますが貴方があの大神官タブリタですか」


 祐司はいよいよ核心の質問をした。


「わたしは歴史上の偉業を成した大神官タブリタではありません。大神官タブリタはわたしは父の盟友です。歴史上の大神官タブリタとわたしは別人です」


 大神官タブリタは祐司がまったく予想していなかったことを口にした。


「ひょっとして大神官タブリタも別の地球から来たのですか。あなたではない方の大神官タブリタです」


「違います。大神官タブリタは生粋のリファニア人です。大神官タブリタは歴史で伝わっているように七十三歳で亡くなっています。


 異世界からリファニアに来たのはわたしの父です。わたしの父はエリーアス・デューリングといいバイエルンの生まれですが祖父はザクセン人でした。1635年の世界から来ました。

*話末注あり


 父は自分が生まれた地球では名を残しませんでした。もちろん歴史に名を残すような仕事もしていません。

 リファニアでも名で少しばかり名を残して、歴史をかえるほどの仕事を成し遂げました。


 父のリファニアでの最初の名はゼンド・カガザレスです」


 大神官タブリタはまったく知らない名と、リファニア人なら誰でも知っている名を出してきた。


「ゼンド・カガザレス!あのゼンド・カガザレス神官長ですか」


 ゼンド・ガガザレス神官長はタブリタが後に”宗教組織”の大改革に乗り出した時に、一貫してタブリタを支持してまた幾多の策を授けたとされる聖職者である。


 

 大神官タブリタは今から四百年から三百五十年ほど前の時代に活動したリファニアの宗教史では最も重要な人物である。


 タブリタはクバレルド州の郷士であるデザズ・アルデルテの長子らしい。


 大神官タブリタは現在でのフルネームをヘファ・タブリタ・ハル・アルデルテ・マシャルトレドラ・ディ・クバレルドというので、デザズ・アルデルテが父親とされるが、当時は父親名を正式にフルネームに入れるのは王都のあるホルメニアを中心とした慣行であった。


 リファニアの多くの地域では、「卑称+ファーストネーム+家名+出身地」の形も容認されていた。

 そして儀式などで名を呼ぶときの堅い表現として「卑称+ファーストネーム+父親のファーストネーム」が使用されていた。


 その為に父親名がフルネームに入っていないのは不思議ではない。


 旦那神殿に残された信者証明の写しからすると出生時から十三歳までのタブリタのフルネームはヘファ・タブリタ・マシャルトレドラ・ディ・クバレルドである。


 しかし二人の弟は生まれた時から父親名がフルネームに入っており不自然である。


 タブリタは十歳の時に家を出されてクバレルド州第一の名刹ホルットラス神殿にあずけられ学問を授けられていた。


 タブリタは神童と言ってよいような子供で、タブリタの才能に惚れ込んで現在ではあり得ない十三歳で聖職者に任じたのはホルットラス神殿の神官長ゼンド・ガガザレスである。


 これは名誉なことであり、またタブリタの正式名に父親名がないのは弟たちとの関係上不都合で何かしらを勘ぐられないために父親名をフルネームに入れることを父親が容認したようだ。


 このような不自然なフルネームの変遷があったのかは諸説ある。

(第九章 ミウス神に抱かれし王都タチ 北風と灰色雲44 十二所参り 三十八 大神官タブリタ 参照)


 一番有力で宗教組織も暗に推奨しているのは下記の説である。


 タブリタは郷士アルデルタの子であるが届けられた母親が異なる。実の母親は当時アルデルタの家で働いていた下女のベマセアネである。

 アルデルタは体面上正式な子として認めたかったが、奥方がそれを許さなかったというものである。


 この傍証として大神官タブリタが後年クバレルド州のベマセアネという六十二歳の女性の死去にさいして地元の神官に葬儀を依頼してかなりの金品を送った記録がある。


 ”宗教組織”がこの説を推奨しているのは大神官タブリタの母親が名も無き庶民であった方が布教の観点からは都合がいいからである。


 ただタブリタがリファニア東岸の大神殿であるチャヤヌー神殿のゼンド・ガガザレス神官長の一貫した指示と教えがなければ改革半ばに終わった一介の聖職者となった可能性は高い。

 

 リファニアには”王妃カリニカなしにスバックハウ王なし。神官長ゼンド・ガガザレスなくして大神官タブリタなし”という慣用句があり、使用する時は、三番目に「(持ち上げたい人物の名)なくして(自分の名)」というフレーズを加える。



「聞きたいことが山ほどあります」


 祐司の問いかけに大神官タブリタは真摯な口調になって言った。


「何でもと言いたいですが、言えないことも多少はあります。また時間も限られるのでよく考えて聞いて下さい」


「大神官タブリタ、貴方のお父さんは存命ですか」


「いいえ。二百年ほど前に亡くなりました。父のいた世界とリファニアで生きた時代を合わせて三百二十七年の生涯でした。父はリファニアに来た時はすでに四十七才でした」


「お父さんは元の世界で何をしていた人ですか」


「カトリックの聖職者です。エルツ山地の中にあるフィクテヴバッハ(FiktivBach)(架空)男爵家のお抱えの聖職者です。

 三十歳になるまで何の疑問もなく流されるように世を送って生きていたと父は言っていました」


「そうですか」


 この後、祐司がワウナキト神殿に滞在している間に聞いたことは以下のような話である。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 リファニアで大神官タブリカの師範として有名な神官長ゼンド・ガガザレスと名乗った人物の本名はエリーアス・デューリングである。

 実家は現在のバイエルン州にある都市アウクスブルク(Augsburg)の裕福な公証人の次男で1584年の生まれである。

*話末注あり


 1600年にバイエルン州にあるインゴルシュタット大学に入学して法学を学んだ。これは父親の跡を継ぐためであった。

*話末注あり


 しかしエリーアスは若い頃から敬神の念が強くカトリックの聖職者を目指して1608に二十四歳で修道院に入った。

 父親がこれを許したのは先にライプチヒ大学で学んでいた兄が公証人の資格を得たからである。



挿絵(By みてみん)




エリーアスは二十六才で司祭に叙階された。これは修道院に入った時期からすると早い叙階であるが、父親が地域でそれなりの有力者であったことと無関係ではないことをエリーアスはわかっていた。


 エリーアスの父親は現世での安泰を兄に託し、死後の安泰をエリーアスに託したのである。


 また当時のアウグスブルクはカトリック系とプロテスタント系が共存するような都市であったので、兄にはプロテスタント系のライプツィヒ大学、弟のエリーアスにはカトリック系のインゴルシュタット大学へ進ませるという狡猾さを父親は持っていた。


 エリーアスは故郷のアウグスブルクの教会で数年聖職者として奉職した後、学んだ修道院の修道院院長に乞われて、同じバイエルン州だがスイス国境にほど近いフィクテヴバッハ男爵家領リーレブルク(Leereburg)に赴任することになった。

 これは教会組織の中枢から遠ざかるので聖職者として出世する道から外れることになるが、エリーアスの目的は出世することではなかったので特に不満はなかった。


 リーレブルクの教会で司祭として奉職して十年ほどはエリーアスは表面上は大過なく過ごしていた。


 しかしエリーアスの内面には大きな変化があった。


 リーレブルクの街の近くに山に”リーレブルクの隠者”と呼ばれる七十歳を超えたような老人が住んでいた。

 老人はディルク・シュタイベルトという名で二十年近く前に金を出して地主から得た小さな小屋に住み、僅かばかりの畑を耕して暮らしていた。


 ディルク・シュタイベルトは元はルター派の牧師であったという噂があった。


 そしてシュタイベルトは確かに自分はルター派であったことはあるが思うところがあり、カトリックに復帰したのだと語っていた。

 それを証明するようにシュタイベルトは週に一度はエリーアスが奉職するリーレブルクの教会に姿を見せて祈りを捧げていた。


 シュタイベルトは周囲からは余所者の変人扱いであったが、害をなすようなことはないので特に排除される存在でもなかった。


 ある日、エリーアスが説教の後で自室に戻ったところ、聖書を教会に置き忘れたことに気が付いて教会に戻ると信者が全て帰った教会の中でシュタイベルトが祭壇の前で跪いて祈っているのを見た。


 エリーアスが「一度、話をしたいと思っておりました」と声を掛けると、シュタイベルトは「貴方の説教は今までの司祭と違うと思っており私も話をしたかったです。近くに来ることがありましたらわたしの小屋を訪ねて下さい」と言って去って行った。


 それから半月ほどしてエリーアスはシュタイベルトの小屋を訪ねた。


 ディルク・シュタイベルトは驚くほどの博学であり、またローマ、サンティアゴ・デ・コンポステーラをはじめヨーロッパ各地の巡礼だけでなくイェルサレム巡礼まで行ったことを話してくれた。

*話末注あり


 こうしてエリーアスとシュタイベルトとの交流は数年に及んだ。


 そのシュタイベルトとの交流の中でエリーアスはシュタイベルトが教会に来て祈りを捧げてはいるが、カトリックの立場からすると異端もしくはキリスト教徒でもない異教徒ではないかという根拠が示しがたい疑念が生まれていた。


 ある時シュタイベルトが「エリーアス司祭は聖書を信じていますか。そして聖書が信仰の導きだと思いますか」と思わぬ事を訊いてきた。

エリーアスは「もちろんです」と即座に返事をした。そしてエリーアスはシュタイベルトが元はプロテスタンとだっという噂を思い出した。


 カトリックの聖職者でありながら、エリーアスは内心ではプロテスタントの主張する信仰は聖書のみによるという主張に共感していた。


 ただ聖書の解釈は恣意的になる部分もあるので、教会が一般信者にはその解釈を伝えるべきだとも思っており、聖書の解釈によって幾つもの集団になっているプロテスタントは信仰の混乱と見ていた。


 シュタイベルトは「では何故聖書に従わない生き方を許すのですか」とさらに思わぬことを訊いてきた。


 今度はエリーアスは困惑気味に「聖書に従った生き方をしているつもりです」と返した。


 シュタイベルトは「神が命じられたことをしなさい。神が命じられたのは十の戒めです」といううと続けて「わたしのほかに神があってはならない。あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主の日を心にとどめ、これを聖としなさい。あなたの父母を敬いなさい。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない。隣人の妻を欲してはならない。隣人の財産を欲してはならない」とモーゼが伝えた十戒を立て続けに口にした。




注:ザクセンとバイエルン

 16世紀のドイツは現在のドイツというくくりの国家は存在していませんでした。ドイツ語を話す人々が住む地域がドイツという地名という感覚です。


 そしてこのドイツに加えて現在のチェコ、ポーランド西部、オーストリア、スイス、北イタリア、フランス南東部を含んだ地域が神聖ローマ帝国の領域で、この地域は数百の領邦に分かれており近代的な国家とはいえない中世の鵺的な国家です。


 ドイツ語も大まかには北部の低地ドイツ語と南部の高地ドイツ語に分かれており、日本語の方言よりずっと差の大きな隔たりがありました。


 ドイツ全土で共通の言語としてドイツ語が通用するようになったのは低地ドイツ語を標準語として学校で教え始めたドイツ帝国成立以降になります。


 その為に「わたしはドイツ人です」という表現ではなく「祖父はザクセン人でした」などと表現されました。



挿絵(By みてみん)


 


注:1584年

大神官タブリタの父親が生まれた1584年は日本では小牧長久手の戦いが行われ、世界史ではロシアのイヴァン雷帝治世下で後のロシアによるシベリア領有に繋がるシビルハン国征服が佳境になりつつありました。

日本史と世界史にまたがる出来事では天正少年遣欧使節がポルトガルに到着しています。



注:公証人

 12 世紀頃からの高度経済成長と、モノ・金・人の動きの活発化と連動して、広域的な権力が再度集権的な力を強めていきまう。

 そして旧来の慣習法に加えて、文字テクストと論理を法理とするローマ法と教会法が整備されていきます。


 是を背景に当局から公証業務の認可を受けた民間業者である公証人が活躍します。第公証人文書と呼ばれるものには、実際には二種類あります。

 一つは、法廷において効力を持つ公証原本であり、公証人の自筆署名が文書に効力を与え、クライアントに手渡されるものです。

 いま一つは法行為がなされた段階で、公証人が私的にその主要な事項を、手元に保管する冊子に書き留めるメモです。


 公証人には幅の広い知識と技能が要求されるので、例外も多く存在しますがその対価も当然高額で名のある公証人は富裕層でした。



注:中世の大学

 ヨーロッパ中世の大学は現在の大学とは少々異なった存在です。大学は男性の為の機関で女性は排除されていました。


 また中世ヨーロッパの大学であるユニベルシタス(ユニバーシティの語源)は、教師と学生によって構成されたギルドであり教師と学生が大学の自治の担い手でした。

 そして現在では単科大学という意味になっているカレッジ(College) は本来は慈善的に設けられた貧窮学生のための学寮の意味でした。


 そしてヨーロッパ中世の大学には入学試験はありません。


 極端に言えば男性であれば誰でも入学登録が出来ました。そこには身分は関係ありませんでした。

 学生は学寮で暮らすので一週間の生活費が徴収されますが、その額は学生の支払い能力に応じて決められていました。


 貧困者には生活費徴収が免除されており、その割合は学生の一割から多い場合は四人に一人ほどでした。


 中世においては貴族が大学に通うことはありませんでした。貴族の職分は「戦う」こととされており、代わりに聖職者、後に大学教育を受けた者が行政に必要な文書作成にあたりました。


 ヨーロッパ中世で大学をめざしたのは市民や農民です。


 ただ大学に学生として登録する関門はラテン語の能力でした。


 これは講義がラテン語で行われるだけでなく生活のすべての局面においてラテン語を話すことが求められたからです。


 ヨーロッパ各地に十歳くらいから学べる修道院や大学附属の文法学校あるいは都市・ギルドが作った文法学校がありましたが、或る程度文化水準が高い地域に住んでいることが必要でした。


 裕福な者は家庭教師について学びましたが経済的な余裕がないものは学校で学びました。

 ただし十代前半から半ばにかけて学業に専念出来る位は余裕がありまた保護者の理解が必要でした。


 登録年齢の早い大学では13から14歳、遅く大学では15から17歳です。


 登録すると教養科目(自由学芸7科)を学んでこれを履修すると専門学部への登録をします。

 一般に専門学科への登録は18から25歳という年齢になり、法学部で法学博士をとるには5~7年、神学部では学位取得まで8年以上を要しました。


 中世ヨーロッパは身分制社会ですが学位だけは身分を超えることが出来ました。特に奨学金制度が手厚い神学部はエリートコースで優秀な学生が集まっていました


 また法学博士号を取得すれば一代限りの下級貴族になれました。


 ただ中世末の学位取得者は登録者のわずか数%ほどでかなり難関でしたが、途中退学者は現在の学士のような扱いで専門的な職業に就ける道がありました。


16世紀以降に各国で中央集権化が進み政治に関与するには貴族でも専門知識や資格が必要になり、貴族が大学に通うようになると学位売買が横行するようになって大学は堕落していきます。



注:ヨーロッパ中世の巡礼

 ヨーロッパ中世の人々は聖地巡礼ということで、時にとんでもなく遠方まで旅をしました。この辺りの事情は現在のリファニアと同様です。


 この巡礼は余程の覚悟がなければ成し遂げられませんでした。基本は徒歩で行く手に宿泊施設が必ずあるワケでもありません。

 また故郷から数十キロも離れると次第に言語が異なってきて、コミュニケーションも困難になってきます。


 金があっても現在のようにヨーロッパ共通のユーロがあるワケではありませんから、小売りで何かを得る為にはこまめに両替する必要もありました。

 そして広範囲の地域を統括する治安機関もありませんので、犯罪行為には自分で立ち向かうしかありません。


 どうも巡礼は罪をこの世で購う煉獄という意味合いもあったようです。


 カトリック教徒の三大聖地はローマ、イェルサレム、サンティアゴ・デ・コンポステーラの三箇所です。


 ローマはローマ教皇の本拠地サンピエトロ大聖堂、イェルサレムはイエスの墓所とされる聖墳墓教会の他に聖母マリア墳墓教会などのイエスに縁のある人々にゆかりの聖地が蝟集しています。


 現代でも多数の巡礼を集めるスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラは9世紀にイエスの使徒の一人である聖ヤコブの墓が発見されたとされる聖地です。 


 何処が出発地かで難度が変わりますが、路銀は十分で15世紀頃のドイツ中央部から出発したとして難度は低い方からローマ、イェルサレム、サンティアゴ・デ・コンポステーラになるでしょう。


 ローマへは現在のスイスを通過してアルプスを越えてイタリアに向かいます。アルプスにはローマ時代から使用されたプチ・サン・ベルナール峠や中世の主要道となったサン・ゴッタルド峠など通行可能な峠が幾つかあります。


またハンニバルがアルプスを越えたとされるグラン・サン・ベルナール峠にはサンベルナール修道院があり旅行者を援助してくれるので中世でも年間二万人もが通過しました。


 アルプスを西に迂回して南仏を通過する方法もありますが、当時は人口希薄な地域で治安が悪く賢明なルートではありませんでした。


 アルプスを越えてイタリアへ入れば道沿いに都市や村落が続くのでローマまで比較的楽に辿り着けます。


 一見難しそうなイェルサレムですが条件付きで容易になります。


 それは海路を利用することです。出来れば案内人もつければ万全です。ドイツから矢張りアルプスを通過してイタリアのヴェネチアに行きます。

 11世紀の十字軍以降は船でイェルサレムに行くことが主力になっていますので、ヴェネチア船で比較的穏やかな地中海を航海して十数日ほどでイェルサレムに辿り着けます。


 怖いのは北アフリカを根城にしたイスラム教徒であるババリア海賊です。ババリア海賊は9世紀頃から登場して最盛期は17世紀で終息したのは19世紀末です。


 ただヴェネチアからイェルサレムのあるパレスチナに海路で行くまでの半分はヴェネチアの支配海域であるアドリア海で、残りは12世紀まではビザンチン(東ローマ)帝国、以降はイスラム諸王朝の管制下にある海域です。


 さて港湾都市アッコン辺りから内陸のイェルサレムまでは数日、8世紀以降はほぼイスラム勢力圏にあるイェルサレムですが実はキリスト教徒の巡礼はほとんどの時代で原則として容認されていました。


 これはキリスト教徒の巡礼者目当ての各種商売が一つのイェルサレムを支える産業でもあったからです。


 異教徒からぼってやろうという輩が待ち構える場所ですが、金さえあればイェルサレム巡礼はそう苦難の道行きではありませんでした。

 また完全な異境の地でありながら、各宗派のキリスト教教会があり巡礼者の世話をしてくれました。


 ヨーロッパにありながらサンティアゴ・デ・コンポステーラが最も難度が高いとしてのは途中の道中が過酷だからです。


 ドイツからはまずフランスを縦断して、ピレネー山脈に越えて現在のスペインに入ります。


 スペインに入ると800キロを海岸沿いにひたすら西に向かいます。サンティアゴ・デ・コンポステーラはイェルサレムのように船で行くわけにはいきません。


 苦難の巡礼路を歩くことにこそ価値があったからです。


 現代こそ人気の巡礼路で快適な宿舎や飲食店が街道沿いにありますが、中世は人口が希薄な地域であるので自分でかなりの食糧や飲料水を持参する必要があり野宿も覚悟しなければなりませんでした。 


とは言っても最盛期の12世紀には、巡礼者数は年間50万人を数えたという人気の巡礼先でした。



挿絵(By みてみん)



挿絵(By みてみん)

 本文でエリーアスが赴任したフィクテヴバッハ(fiktivBach)男爵家領ですが、fiktivとは(架空)という意味です。

 またフィクテヴバッハ男爵家領の主邑リーレブルク(Leereburg)とはLeere(空虚)なburg(都市)という意味になります。

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