極北水道4 潮流の中の島へ 四 -潮流を越えて-
メキトキはジャギール・ユウジと連れの少女に四半刻(三十分)ほどかかる食事の用意が出来るまで散歩がてら船の様子を見ていて欲しいと頼んだ。
少女が「離れた高台からでもいいでしょうか」と訊いたのでメキトキは「それで結構です」と返事をした。
「あの二人は嬉しそうに出て行ったね。さっきちらっと外に出て行くときに見えたんだけど手をつないでいた。
どんな関係なのかな。見ているとジャギール・ユウジが女を子供相手にしているみたいに見えたけど」
自分が今日釣り上げたスズキを捌きながらオルクテが言った。
「前にも言ったが娘さんは両親がいないのでジャギール・ユウジが保護人なんだ。昔、恩義があった師匠の娘さんらしい。あんまり詮索するな。十分な手当を貰ったんだから誠実に言われた仕事をすればいい」
メキトキは竈の火を熾しながら返した。
「でもなかなかの美人だし。気になるよ」
オルクテは未練がましく言った。
「なんか気が引かれるのはわかるが、郷士の娘さんだ。身分違いもいいところの上に、あの娘になんかあればジャギール・ユウジが黙ってはいない。
お前にはまだ感じられないかもしれないが、好き合った夫婦以上の繋がりを感じる。そんな仲に余計な事は言わないことだ」
メキトキは火吹き棒を吹きながら途切れ途切れに言った。
中世世界リファニアは身分者会なので、身分が異なれば対等の付き合いという関係は成立しない。
そのことは生まれた時から自前の事として学習し続けるので、気になる異性を見かけても身分が異なるとわかると恋愛感情が芽生えることはない。
さらに貴族、郷士、平民といった大まかな身分の中でも格式があるので一層窮屈である。
ただしそれぞれの身分の上部と下部は財産権勢などを背景に婚姻関係を持つこともあるので多少は流動性も保持されるが、現代日本人の感覚では理解しがたいことである。
その為にメキトキはオルクテに”身分違い”ということをあらためて言い足したのだ。
「兄貴はいつまでもオレをガキ扱いする」
オルクテは仏頂面をした。
「しないよ。親父もそろそろ無理が出来ない年だ。これからはお前と稼がなくてはならない。
借金がなくなったし、そろそろお前も相手を見つけていいんだぞ。なんなら網元に頼んでやろうか」
メキトキのこの言葉は自営漁師ならではの言葉である。
自営農民は原則として長子相続で耕作地を受け継いでいく。次男以下はその地に留まりたければ小作農の枠に潜り込むしかない。
これは生産量が耕作面積と或る程度比例する為で、一人で耕作出来る土地に二人を投入しても生産量は二倍にはならない。
ところが自営漁民の漁獲量は労働投入量に依存する割合が大きくなる。
一人で漁に出るところを二人で出れば漁法や狙う魚種によって差が大きいが効率が上がって二倍以上の漁獲が期待出来る。
また人数が多ければ船を大きくすることができてより効率的、なにより安全性を高めて漁獲出来る。
この為に漁村では次男以下も家に留まって協力体制で漁業することが多い。
メキトキの家ではいざという時の蓄えと今までは借金返済に充当する金を除いてオルクテも含めて、まだ両親の庇護下にある妹のペリキンを除いて男女関係なく成人に等分に利益を配分していたがこれは一般的な方法である。
「いいよ。どこぞの行き遅れや、子持ちを押しつけられるだけだ」
オルクテが不満げに言った。
リファニアの漁村には農村と比べると経済的なこと背景に自由な空気が漂っているが、海難事故により死亡者も出る。
その為にどの漁村でも寡婦が一定数いる。海難事故で夫を失った寡婦は、こうした時に備えて村全体で行う頼母子からそう大きな金額ではないが弔慰金が出るので当面の生活には困らない。
メキトキの家では十一年前に祖父と父親が海難事故にあって祖父が死亡した。
船が暗礁に乗り上げた時に思わぬ大波を受けて船体がバラバラになり、ようよう父親は暗礁から近くの波が洗う岩礁に辿りついて陸地に戻ったが、祖父は水死体で発見された。
メキトキの家ではそれまでの蓄えと網元からの借金、そして弔慰金で現在メキトキが使用している漁船を新造できたので、自営漁民に留まることが出来た。
さて寡婦は弔慰金を使い果たしても網元の下で種々の作業を請け負うことで生活は出来た。
ただリファニアの漁村の自由な雰囲気と、リファニア特有の性におおらかな風潮は時に寡婦を中心にしたいざこざが起こるので、地域の指導者を兼ねる網元は寡婦を再婚させたがる。
これがオルクテの言った「子持ちを押しつけられるだけだ」という言葉の背景である。
「女をそんな風にしか見られないんじゃお前もまだ子供だな」
「兄貴の嫁さんはリュエットじゃないか。村で射止めたいって男は何人もいた。そんな女を嫁さんにした兄貴に言われたくない」
メキトキの言葉にオルクテは拗ねたような口調で返した。
「無駄口はこれくらいにして料理に専念しよう。漁師料理が美味いってことを見せるんだ」
メキトキは村から持って来たハマグリのような貝を、避難小屋に備えてある鍋に入れてスープを作りながら言った。
「料理だっていっても、スズキの塩焼きじゃないか。食べるだろうが美味いとはいわないだろう」
オルクテはまだ不満そうであったが二人の調理は手際がよく、ジャギール・ユウジと少女が戻って来た時にはほぼ出来上がっていた。
料理はバターで風味をつけたスズキの塩焼き、貝のスープ、ザワークラウト、ライ麦パンである。
オルクテはスズキの塩焼きだと自嘲気味に言っていたが、ジャギール・ユウジと少女は美味いといってすぐに平らげてしまった。
ジャギール・ユウジが火酒を持ち込んでいたので、メキトキとオルクテはご相伴して、この日はお開きという形になった。
翌日はメキトキらは十二刻半(午前三時)という時間に起きだして、ライ麦パンと焼いた干し魚、チーズという簡単な朝食を済ませると、いよいよカントシャク島に向かって船に乗り込んだ。
メキトキが昨日言ったように丁度満潮時になっており、船は舫い綱で留めていなければ海に漂っていきそうな程に海水に浮かんでいた。
舫い綱を解いたオルクテが船を押すとすぐに船は沖に進んでいく。オルクテは船に飛び乗った。
そして入り江から出るためにメキトキとオルクテが櫂走を始めると。ジャギール・ユウジが「私達も手伝います」と言って、メキトキの許しを得ると櫂を漕ぎ出した。
このおかげで船は数分で入り江を出た。
「午前中にカントシャク島に着きます。ただ風が細かく変化しだしたのでいよいよ荒れ出す前触れです。昨日より揺れるかもしれません。
まず最初に沖の”海の川”を目指します。逆風なので進みがまどこっしく思われるかも知れませんが、一旦、北に流れる”海の川”に乗ればすぐにカントシャク島に到着します。
言い足すと”海の川”に乗ればより安全にカントシャク島に近づけます。タタルク岬から北では”海の川”以外の場所では南に降る潮流があってなかなかカントシャク島の方へ進めないことがあるのです」
メキトキは大まかな算段をジャギール・ユウジと少女に説明した。
船はメキトキの言うように、西風を受けながらも之の字を描くように東方向になる沖合に進んで行く。
一刻(二時間)ほどもすると目の前に明らかに白っぽい海水面が見えて来た。ただ薄い霧が周囲を覆いだした。
メキトキは白っぽい海水面に入ると、いよいよ舵をカントシャク島の方向へ切った。
「十リーグ(約18キロ)程です」
メキトキが船首方向に霧であっても確かに見える黒い島影を指差した。
そして船はみるみるうちに速度を上げた。その為か船はピッチング(前後の揺れ)が激しくなった。
「どの位の速度が出てますか」
少女は被っている麦藁帽子の頸紐を締め直しながらメキトキに訊いた。
「十ノット(約十八キロ)ほどです。半刻(一時間)でカントシャク島付近に着きます。四刻(午前十時)には島の浜を歩けますよ」
「えっ?まだ三刻(午前八時)位ですよね。半刻で到着するのでは?」
少女が訊いた。
「島に接近するのと上陸地点まで安全に行くのは同じくらい時間がかかります」
そう言った後でメキトキは「小旗を揚げろ」と言う。舵を固定したオルクテが細長い三角形の小さな旗を帆柱の最上部に掲げた。
メキトキは旗の動きを見ながら、細かく”変風術”で風向を調整した。
「帆を半分にするぞ。舵を面舵気味にして徐々に島の東に回り込め。島に近づきすぎると危険だ」
カントシャク島が一リーグ程に近づいてくると、メキトキはオルクテに大声をかけるとすぐに半帆の状態にした。
「島の西は”海の川”が流れていてこのまま難しいことをしなくとも島に接近できますが、上陸できる場所がありません。
島の東に回り込みます。避難所も島の南端にありますが東側からでないと上陸できません。ただ島の東は潮流の変化が大きくて注意が必要です」
メキトキは手短に状況をジャギール・ユウジと少女に説明すると、”変風術”に集中して、時々オルクテに「やや取り舵」とか「面舵一杯」などと指示した。
「あそこに白旗があるでしょう」
舵を操作しながらオルクテは島の南端を指差した。
「見えます」
ジャギール・ユウジが返事をした。
「あそこが避難所がある場所です。上陸したらあの旗の方向へ進んで下さい。所々に暗礁があるのが見えますか」
舵を操っていたオルクテが、”変風術”に集中しているメキトキに代わるようにジャギール・ユウジと少女に声を掛けた。
暗礁は極浅ければ波が白く立つので、存在が明らかであり、水面からやや深い場所にあれば喫水の浅い漁船は影響を受けないがわざわざそれを確かめるように暗礁の上を通過する必要もない。
「わかります。黒っぽいのでわかります」
「太陽がある程度の高さに上がらないと暗礁が見にくいんです。だから太陽の低くなる時間を”ヘダの浜”でやり過ごしたんです」
少女の返事にオルクテが説明をした。少女は「そうだったんですね」と心底感心した顔をした。
「見えて来ました。あの入り江です。カントシャク島には入り江は幾つかありますが目印の旗が見えますか」
しばらく慎重に操船していたメキトキは島の東に完全に回り込むと岸の方を指を差しながら言った。
「はい。高い棒の上に赤っぽい旗が見えます」
強い横風が吹いてきたのでそれに負けないように少女が大きな声を出した。
「冬の間に吹き飛ばされることもありますが残っていてよかった。万が一の船が迷わなくてすみます。
入り江は幾つかあります。わたしらは旗がなくとも間違えませんが、赤い旗が避難所に一番近い入り江の目印です」
メキトキは安心したかの様に言った。そしてすぐにオルクテに指示を出した。
「帆を畳むぞ。櫂走で入り江に入る。舵で船を入り江に向けてくれ」
オルクテが船を入り江の方向へ向けると、メキトキとオルクテは櫂を漕ぎ出した。そして”ヘダの浜”から出た時と同じようにジャギール・ユウジと少女も櫂を漕ぐのを手伝った。
「島が近いと風が無茶苦茶な方向から吹きます。本当はいい漁場なんですが腕がないとここでは漁は出来ません。
わたしは自信があるんですが、時々海難事故が起こったので村では近づいてはいけないという決まりになっています。
ただ貴方方を島に上陸させたということで、試しに漁が出来ないか網元に相談するつもりです」
メキトキはジャギール・ユウジと少女に半ばぼやくように言った。
カントシャク島の入り江は、入り口が半リーグ(約0.9キロ)ほどもある大きなもので奥に行くにしたがって狭まる構造になっている。
入り江に入ると外海ではやや大きくうねっていた海面はしだいに穏やかなになっていった。
入り江の奥までは四分の三リーグ(約1.4キロ)ほどで、入り江の奥から吹き下ろしてくるような風があるので船は歩くよりかなり遅い速度しか出なかったが四半刻もしないうちに砂浜になっている入り江の奥に接近した。
「漕ぐのを止めて」
浜まで一ピス半ほどになるとメキトキが声をかけた。
船はゆっくり速度を落として波打ち際で止まった。
「到着です。私達は浜に降りることは出来ませんので申し訳ありませんが、浜に降りて荷を受け取って下さい」
メキトキがそう言うとジャギール・ユウジが先に飛び降りて、少女の手を持って浜に降ろした。
「まだ天気は数刻は持ちますが雨風になると思います。取りあえず避難小屋に落ち着いて下さい」
メキトキは二人の荷を手渡しながら言った。
「メキトキさん達はどうするんですか」
少女が訊いた。
「取りあえずまっすぐ本土に向かいます。西風をまともに受けますから少々潮流が不安定でも大丈夫です。多分一刻(二時間)もかからないで本土の目の前に行けます。
天候次第ですが沿岸沿いに村に帰ります。荒れてくれば”ヘダの浜”でやり過ごします。
思ったより早く荒れてきてもタタルク岬の北にも砂浜はありますから、そこに船を乗り上げさせて逃げ込みます」
メキトキはそう説明すると、ジャギール・ユウジが手をメキトキに伸ばしてきた。
「何ですか」
キョトンとしたメキトキにジャギール・ユウジは「酒手です。弟さんと分けて下さい」と言って銀貨二枚をメキトキの手に握らせた。
「あ、ありがとうございます」
メキトキは予期してなかった酒手に驚きながら礼を言った。
メキトキは急いで酒手を懐に押し込むと「酒手を貰った後で申し訳ありませんが船を押して貰えますか」とジャギール・ユウジと少女に頼んだ。
二人がすこしばかり船の船首を押しと船はすぐに離岸した。
「では、お気をつけて」
櫂で船首を入り江の出口に向けたメキトキは浜に立っているジャギール・ユウジと少女に声をかけた。
「サヨナラ」
ジャギール・ユウジと少女が声を揃えた。
「何ですか?」
メキトキが訊く。
「別れの言葉です。サヨナラ」
少女が大声で答えた。
メキトキとオルクテは二人で顔を見合わせてから一緒に「サヨナラ」とジャギール・ユウジと少女に声をかけた。
そしてメキトキは帆を張った。船は入り江の入り口目指して吹く西風に乗って勢いよく走り出した。
メキトキとオルクテが乗った船が入り江を陰を回り花が見えなくなるまで、ジャギール・ユウジと少女が浜で見送っているのが見えた。
”潮流の中の島へ 一~四”はリファニアの一般人から祐司とパーヴォットがどのように見えているかを記述した話になっています。