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千年巫女の代理人  作者: 夕暮パセリ
第二十一章 極北紀行
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極北水道3  潮流の中の島へ 三 -ヘダの浜-

 メキトキと弟のオルクテは船がケミカ川河口の水域から離れる前にもう一度中世リファニアのささやかな延縄を流して一ピス(約30センチ)ほどのスズキをもう一尾釣り上げた。


 メキトキはジャギール・ユウジに「これは今日の夜に塩焼きにしておきますので、貴方がカントシャク島で食べればいい」と言った。


「ケミカ川河口域を完全に通り過ぎると、少し揺れが大きくなってきます。昼食はどうしますか。何も食べていないと余計に苦しいかもしれません」


 メキトキは船酔いで苦しむかもしれないということを婉曲に言った。


「食べます」


 少女が大きな声で言った。


 メキトキは「そうですか。私達も交替で食べます」と言いながら用意してきた昼食を船底の荷物置き場から取り出す作業を始めた。


 少女は自分の荷の中から、切り分けたライ麦パンを取りだした。昨日の打ち合わせで、ジャギール・ユウジが自分達の今日の昼食をエォルンの旅籠に頼んで用意することになっていた。


「久しぶりに船で食事をしますね」


 少女は布を船板に敷いてその上に樹皮紙に包まれた、燻製肉や茹でたジャガイモ、チーズ、そして切り分けたライ麦パンを並べながら言う。


「前にも船で食事をしたことがあるんですか」


 メキトキが訊く。


「はい、去年の春に王都から王立水軍の船でマルトニア(現バフィン島)まで往復しました。海兵まで含めると百人以上が乗っている大きな船です」


「そういえばヘロタイニア人の海賊が”西の海”に侵入したとか」


 メキトキが思い出したように言った。


「その船が海賊を成敗したんです。ユウジ様も活躍しました」


 少女が誇らしそうに言った。


「お話を聞かせてもらっていいですか」


 メキトキの頼みで昼食を挟んでジャギール・ユウジは半刻(一時間)ほどもヘロタイニア人海賊とイルマ峠城塞での”弓手のダッサレー”との一騎討ちの話をしてくれた。


 メキトキは話を聞いているうちにジャギール・ユウジという男は話を大きくしたりすることがなく、「だと思います」「だったかもしれません」というような表現をしてあやふやな所を隠すことはない事に気が付いた。


 そして名の知られるような武芸者という者は本来は謙虚な人物なのだろうと思った。


「あのー」


 ジャギール・ユウジの話が終わると、少女が気まずそうな声を出した。


「どうしました」


 ジャギール・ユウジがメキトキに近づくと、耳元で「おしっこ」と囁いた。


「男は船縁からしますが、しゃがんで船縁にいると万が一のことがあります。ですからここの中に。出たら海に捨てて下さい」 

  

メキトキは船底から水をかい出すための木桶を取り出してくると少女の前に置いた。中世段階の漁船には専用のトイレなどない。


 そしてさらにメルキトは体を覆うための毛布を少女に渡した。


 メルキト達が明後日の方向を見ている内に少女は素早く事をすませた。そして毛布と空になった木桶をメキトキに返しながら恥ずかしそうに下を向いて「ありがとうございます。桶は何度も洗いました」と言った。


 メキトキは「お気になさらずに」と言おうかと思ったが、それを飲み込んで「はい」とだけ口にした。

 そしてメキトキはあれだけ飲み食いすれば出す方もしたくなるだろと思って心ならずも口元が緩んだ。


 そして見た目は愛らしいくとも本当にまだまだ少女はションベン臭い小娘なのだと思おうとした。


「そろそろ潮の色合いが変わってきました」 


 メキトキは左舷すなわち西の方を指差して言った。


「南から流れてくる”海の川”はこの辺りから岸にどんどん近づいて来ます。”海の川”は少し色合いが違いますがわかりますか」


 メキトキが少女に話しかけると少女は被っていた麦藁帽子を右手で押さえながらメキトキの示す方向を見た。


「本当ですね。マルトニアに行った時も見ました。たしか周りの海と比べると白っぽかったと思いますが、少し色合いがぼやけているようにも感じます」

(第十一章 冬神スカジナの黄昏 春の女神セルピナ4 マルトニアへの航海 四 -海の川- 参照)


「北の方へ流れてきて流石に水温が下がっているのだろうな。ただ水温が下がった分だけリファニアを温めてきたということだ」


 ジャギール・ユウジがしたり顔で少女に説明した。


「神学校の地理のガイドネ・クリスハルト師範も同じようなことを仰っていました。リファニアの人にリファニアに恵みを与えてくれる”海の川”のことがもっと知られてもいいと思います」


「ガイドネ・クリスハルト師範か。あの人は地理学で名を残す程の人かもしれないな」


 メキトキが言い出したことで、ジャギール・ユウジと少女が会話を始めた。


「そうですね。わたしもこの船ではムリリトの南ぐらいまでしか行ったことはありませんが、南に行くほど周囲との色合いの差が大きなことは感じていました」


 メキトキは自分の領分である海のことで、自分を置いて勝手に話を盛り上げられるのがなんとなくシャクに触って、話が”海の川”から外れつつあるのに無理に割り込んだ。


「そうなんですか。矢張り海のことは海の民に聞けですね」


 少女に海の民などと言われて、メルキトは少し嬉しかった。



挿絵(By みてみん)




「一刻もしないうちに”ヘダの浜”につきます。今日は快走できる良い風です」


 メキトキは右手に見える陸地の地形から現在地を判断した。


 リファニアの漁師は原則的に沿岸漁業を行うので居住地付近の沿岸の地形を熟知しており、常時自分の位置を確認しながら航行している。


「本当ですね。船が白波を分けるように進んでいます。どれくらいの速さですか」


 少女が船首の方へ少し歩んでいって訊いた。


「今は軽く六ノット(約11キロ)は出てます」


 メキトキは何気ないような口調で言った。


 しかしメキトキは自分の船が比較的快速なのが自慢である。一般に中世レベルの帆船は安定性を確保するために横幅があるので速くても五ノットほどで余程の順風に恵まれても十ノットが精々である。


「速歩の馬車並みですね」


 少女は感心したように言う。


現代日本人の感覚からすれば時速10キロ程度の乗り物となるといかにも鈍足と感じてしまう。

 しかし馬車で時速十キロというのは馬の疲労を考えると、持続的に出せる最大限度の速度である。


 一日がかりなどという馬車での移動となると、時速五六キロ程度に抑えないと馬を損ねてしまう。


「でも海はいいことと悪いことを半分ずつ与えます。こんな良い風が吹いた後は必ず荒れるんです」


 メキトキは帆の様子を確認しながら言った。


「明日は大丈夫ですか」


「明日まででしょう。明日は少しばかり明るくなったらすぐにカントシャク島を目指します。今日は早寝でお願いします」


 少女の質問にメキトキは明日の後半からは天候が荒れるかもしれないと思いながら答えた。


「風と天気がいいならここままカントシャク島に向かえばどうでしょう」


「確かに今は白夜の季節です。行こうと思えば行けます。ずっとではありませんがわたしは”変風術”を使ってそれなりに疲れました。そして弟のオルクテもずっと操船して疲れてきています。 


 カントシャク島付近は潮流が複雑で慎重な操船が必要です。体を一旦休めて万全の体調でカントシャク島に近づきたい」


 少女の提案にメキトキは諭す様に言う。


 メキトキとしてはジャギール・ユウジから望外の大枚を貰ったので慎重に行動して万が一のことは排除したかった。

 安全にジャギール・ユウジと少女をカントシャク島に届けた後に、天候が剣呑になれば近くの本土の岸に船を乗り上げさせて天候が回復するまでじっと待つつもりだった。


「申し訳ありません。わたしは身勝手です」


 少女が泣きそうな声を出したので、メルキトは狼狽えてしまっった。


 下を向いてしまった少女をジャギール・ユウジは船首へ少女を連れて行って小声で「パーヴォット、あんまり思い詰めるな。そうでした。すみませんでいいんじゃないか」と言っていた。


 ジャギール・ユウジはメキトキに聞こえないように言ったつもりだろうが、狭い船のことであるので風に乗って声が聞こえてきた。



「タタルク岬が間近になりました。タタルク岬から北は潮流が激しく変化して、”キクレックの瀬”の入り口になります。

 ただ潮目が無数にできるので漁場としてはいい海域ですが余程天候の条件がよくないと漁師は入ろうとはしません。タタルク岬のすぐ南が”ヘダの浜”です」


 すっかりしょげてしまいめっきり口数の少なくなった少女にメキトキが声をかけた。


 メキトキは普通のお嬢さんならションベンをするところの間近にいられたら過度に恥かしがったり落ち込むだろうが、少女はメキトキに心ない言葉を発したと思って落ち込んでいるのだ思うと、少女が得難い優しい心の持ち主ではないかと思えていた。


「あそこがヘダの浜です」


 メキトキは少女が目がいいということで自分では視認出来ていなかったが、”ヘダの浜”と思える方向を指差して言った。


「入り江ですよ」


 少女はキョトンとしたような声で言った。


「この辺りの海岸を見て下さい。断崖絶壁とまではいかないが岩場ばかりだ。でもあの入り江の奥は砂浜があって船を泊めておけます」


 メキトキは最初からネタばらしをした。


「それからこの方向にカントシャク島があります。見えますか」


 メキトキは北西の方向を指差して言った。


「海の上に霞がかかっているというか、濛気もうきがあるというかぼやけてますけど確かに島影があります」


「ここからカントシャク島までは二十リーグ(約36キロ)です。何と言うこともない距離だが、お嬢さんが濛気があると言ったように島の周辺は視界が悪いんです。だからこちらからも見えにくい。


 特にこの季節はよく霧で島が覆われるんです。ただ午後よりも午前中は霧が出ても薄いようです」

*話末注あり


「それで接近には慎重になられているのですね」


 少女はようやく戻った笑顔で言った。


「はい、ご理解いただきありがとうございます」


メキトキも笑顔で返した。



挿絵(By みてみん)




 メキトキと弟のオルクテは帆を畳み、風を受ける角度をかけまた舵を操って十ペス(約180メート)ほどある入り江の入り口に入った。

 四半リーグ(約450メートル)ほど奥がメルキトのいうように小さいながらも砂浜になっている。


 メキトキは相応の速度でまっすぐ船を砂浜に突っ込ませた。船は前の四分の一ほどが砂浜に乗り上げた。

 オルクテがすぐに船首から飛び降りて舫い綱を波打ち際から一ペスほどの位置にある杭に巻き付けた。杭は数本ありオルクテはさらに舫い綱とは別のロープをこれも別の杭に巻き付けた。



挿絵(By みてみん)




「今は引き潮になっている最中です。明日は満ち潮に転じた時に出発します。さあ下船してください」


 メキトキは先に降りて少女が下船する手助けをしようとしたが、少女は先に飛び降りた。


「あ、荷物を忘れました」


 浜に立った少女はバツが悪そうに言った。


 メキトキとジャギール・ユウジは自分達のリュックサックと頭陀袋を浜にいる少女に手渡すと下船した。


「こちらです」


 メキトキが先頭になって波打ち際から二ペス(約36メートル)ばかり離れた場所にある岩壁の方に向かう。岩壁の間には人が通れるような空隙があり、次第に岩壁を登って行く。


 そして岩壁の頂点からやや降った場所に納屋のような建物があった。


「ここは少し高くなっているのと、前にある岩が波風がここまで届くのを防いでくれます」


 そう言いながらメキトキは小屋の引き戸を開けた。


「旅籠とはいきませんが、寝床は十人分ほどもあります。お好きな場所で休んでいて下さい。その間にわたしらで夕食を用意します」

 

「ここはどういった場所ですか」


 少女の問にメルトキは中の様子に変わったことがないかを点検しながら答えた。


「近在の漁村が協力して造った避難小屋です。村に帰れそうもない悪天候時はここでやり過ごすんです」


 

 

注:北方海域の霧

 日本の都市で霧の名所といえば北海道の釧路です。釧路の霧は夏に発生します。2014年から2023年の十年で六月から八月までの間の霧日数平均47.3日です。実に一日おきに霧が発生するほどの頻度です。


 ちなみに同期間の東京の霧日数平均0.2日に過ぎません。


 この霧は釧路では肌にねばりつくような海霧なので「じり」と呼ばれています。この「じり」は太平洋高気圧の暖かく湿った南風が北海道南方を南下する寒流の千島海流で冷やされることで発生します。


 さらに北方のアリューシャン列島に至るまでこの海霧は発生しますが、アリューシャン列島付近になると、夏季でも南からの風が吹き込む期間が短いので、海霧の発生は六月下旬から七月上旬が中心になります。


 ただし海と大気のより温度差が大きくなるので霧はより濃くなります。


 この濃霧を利用して太平洋戦争中の1943年7月29日に日本海軍はアリューシャン列島キスカ島からアメリカ合衆国海軍の包囲網をかいくぐって、守備隊約5000人を撤収させています。


 また日本軍が撤収したことを知らないアメリカ軍は8月15日キスカ島に上陸しますが、八月としては珍しくキスカ島は霧に覆われており各所で同士討ちが発生して死者約100名を出しています。


同じような気象条件は北アメリカ大陸北東部で見られます。沿岸を南下する寒流のラプラドル海流上を南からの暖かい風が吹き込むことで霧が発生します。


 リファニアでは陸に至るほどの海霧が発生するのはリファニア東岸地域です。ただ南からの暖気の流れ込みが少ないのでそう度々発生するワケではありません。


 そしてもう一箇頻所頻繁に海霧が見られるのはリファニア北東部北部の”キクレックの瀬”です。



挿絵(By みてみん)

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