プロローグ
ローヴァンベルデの谷間の奥深く、ちょうど山脈と山脈が交差して袋小路となっている地でその儀式は始まろうとしていた。
いつもなら、人の姿が目に入ることなど決してありえないこの場所だったが、今日は山裾を駆け上がった中腹に位置する神殿の周りにこれでもかというくらいの天幕が立ち並び、厳しい行軍の疲れを癒そうと、数百の鎧甲をぬいだ兵士たちが昼食をとり始めていた。
そもそもこの谷は人が文字を書き、記録を残し始めた遥か昔の時代から、その姿を変えずに今に至る世界でも有数の大自然である。
大陸を二つに裂くようにして流れる大ローベ川を首都ベレンティアから馬で半月ほど北に登ったところでこの谷は始まっている。
川の両側の土地がにわかに高くなるとともに川はその幅を急速に狭めそれに比例するように、両岸には大樹が立ち並びはじめる。
そこから一日も歩みをすすめるとその先は、もう地元の狩人ですら踏み込まない太古の原生林へとなりかわり、大陸では最早絶滅したと信じられているような幻のけものばかりが跋扈する異世界のような光景が視界の全てを覆うようになった。
このあたりから気温も急に下がり始め、太陽が沈む頃にはあたり一面に霜が降り、明け方には、吐く息も凍るような極寒の世界へとなり果てる。
人の歩く道どころか空間すらない山の斜面をさけ、コウドン川と分枝した小ローベ川沿いの巨石の間を亀のような速度で10日ほどいくと、やっと苔むしたこの神殿にたどり着けるのである。
遥か上空から頭上を覆う木々が突如として消え、山裾に張り付くようにして立つ苔むした建物が目に入ったとき、足場の悪い曲がりくねった沢を10日間、ほとんど寝ずに歩き、のべつ幕なしで襲いかかってくる魔獣のような生き物を必死の思いで退治しながら進んできた兵たちが、軍規を忘れて歓声を上げたのを咎めようとするものは誰もなかった。
外周を即席の木柵で囲った陣は神殿の階段を中心として谷川へとやや広い扇形を成し、その周辺部では一兵卒が暖をとるとともに腹ごしらえをするために起こした焚き火の煙がそこかしこで立ち上っていたが、陣の中央を貫き神殿へと至る臨時の大通りの突き当たりの天幕では、苦労して歩き詰めた兵に変わって、輿に乗って楽をしてきた者たちが着いた早々会議を始めていた。
「ではかねてからの予定通り、召喚の儀式を執り行いたいと思う。異議のあるものはこれが最後の機会であるが、これにあるか」
そう言って、まだ20にもならない幼い女王は天幕のうちにずらりとならんだ重臣たちを見回したが、誰も異を唱えようとするものはいなかった。
それもそのはずで、この召喚は国の首都にある王宮でもう三月も前から毎日のように議論されようやく決まったことであり、今更中止を言い立てるような空気の読めない馬鹿者はそもそもこの顔ぶれから消されてしまっていたのである。
ただ、渋面をつくってため息を付く素振りを見せるものも少数ではあるがいた。
誰も発言しないのを見届けると、女王は一呼吸おいて、たからかに宣言した。
「それでは、今宵、月が崇山ギガイアスの頂きにかかる時、勇者召喚の儀式を執り行う!」
宣言の後、拍手が起こり、女王の傍付きが退室を告げると、部屋にい並ぶ家臣たちは一礼の後、各々の天幕へと引き上げていった。
その中のひとり、主の天幕のすぐ横に己の寝場所を頂いたのっぽで髭面のいかにも神経質そうな男は、自分の天幕にたどり着くまでため息をこらえることができずにいた。
この男はこんな顔で国の内政の一端、刑吏を束ねる高級武官であり、先ほどの会議で渋面をつくっていた数すくないものの一人であった。
「師よ。この国はもうダメかもしれません」
彼は、この勇者召喚に真っ向から対立し、一月前に忽然と姿を消してしまった自らの養い親である左将軍を思ってつぶやくと侍従が広げた入口をくぐり、暗い天幕の内側へと消えていった。