タマと潜入猫
タマは、春子の家で暮らしている猫だった。
タマは毎日、春子のそばで暮らしている。
そして、この家には、タマの寝床がある。
タマの皿がある。
タマの水がある。
タマの宝物置き場もある。
つまり、この家はタマの家である。
春子も住んでいるが、それはまあ、餌を用意する係として必要だから認めている。
ある日の昼下がり。
春子は出かける準備をしていた。
「タマちゃん、お留守番お願いね」
「にゃ」
タマは返事をした。
留守番。
それは重要な仕事である。
家を守る。
寝床を守る。
皿を守る。
ソファの下にある宝物も守る。
タマは窓際に座り、春子が玄関から出ていくのを見送った。
「行ってきます」
扉が閉まる。
家の中が静かになった。
タマはゆっくり立ち上がった。
さあ、仕事の時間である。
まず、台所を見る。
異常なし。
皿を見る。
餌はない。
これは異常だが、春子が帰ってくれば解決するので、今は見なかったことにする。
次に居間を見る。
クッションはいつもの場所。
リモコンもテーブルの上。
昨日、ソファの下に隠したはずの靴下は、春子に見つかって洗濯かごへ移動されていた。
これは大きな損失だった。
だが、タマは冷静だった。
宝物はまた集めればいい。
タマは窓辺へ移動し、外を見た。
庭の草が揺れている。
鳥が一羽、塀に止まっている。
異常なし。
そう思った、その時だった。
がさ。
裏口のほうから、小さな音がした。
タマの耳が、ぴんと立った。
何かいる。
タマは身を低くして、廊下へ向かった。
がさ。
また音がした。
台所の勝手口のあたりである。
春子は出かける時、そこを少しだけ開けたままにしていたらしい。
風を通すためだろう。
人間は時々、そういう危ないことをする。
タマがそっと近づくと、隙間から黒っぽい足が見えた。
猫の足だった。
次の瞬間、知らない猫がするりと家の中へ入ってきた。
灰色の毛。
片耳が少し欠けている。
しっぽは長く、目つきは妙に落ち着いている。
その猫は、タマを見るなり、まったく驚かずに言った。
「お邪魔します」
タマは固まった。
お邪魔します。
そう言えば入っていいと思っているのか。
知らない猫は、台所を見回した。
「ふむ。なかなかいい家だな」
「待て」
タマは低い声で言った。
「ここはおれの家だ」
「知っている」
「知っているのに入ってきたのか」
「だから、お邪魔しますと言った」
なんて堂々とした侵入者だろう。
タマは少し混乱した。
普通、侵入者というものは、もっとこそこそするものではないのか。
この猫は、まるで親戚のような顔をしている。
「おまえ、何者だ」
「名はギンジ」
灰色の猫は、すました顔で言った。
「近所を調べている」
「調べている?」
「そうだ。潜入捜査だ」
タマのひげが動いた。
潜入捜査。
何やら格好いい言葉だった。
だが、よく考えると怪しい。
「何を捜査している」
「この家に、うまいものがあるかどうか」
「それは捜査ではない。つまみ食いだ」
「言い方の問題だ」
ギンジは悪びれなかった。
そして、そのまま台所の床を歩き始めた。
タマは慌てて前に出た。
「勝手に歩くな」
「歩かなければ捜査できない」
「だから捜査ではない」
ギンジは棚の下をのぞき込んだ。
「ふむ。落ちているものは少ないな。ここの人間は掃除が行き届いている」
「春子はきれい好きだからな」
「良いことだ。だが、猫としては少し物足りない」
「何を期待していた?」
「魚のかけらとか」
「ない」
「鶏肉の切れ端とか」
「ない」
「せめて、こぼれたかつお節」
「ない」
ギンジは残念そうにため息をついた。
「厳しい家だ」
「いい家だ」
タマはきっぱり言った。
するとギンジは、ふいにタマの皿を見た。
「これは?」
「おれの皿だ」
「なるほど」
ギンジが近づこうとした瞬間、タマは前に立ちはだかった。
「それ以上近づくな」
「空だぞ」
「空でもおれの皿だ」
「見事な縄張り意識だ」
「当たり前だ」
ギンジは少し感心したようにうなずいた。
しかし、すぐに居間のほうへ歩いていった。
タマはその後を追う。
居間に入ったギンジは、ソファを見つけた。
ふかふかのソファ。
春子がよく座る場所。
そして、タマも時々寝る場所。
ギンジは迷いなく飛び乗った。
「こら」
「よい座り心地だ」
「降りろ」
「なぜだ」
「そこはおれの場所だ」
「広いではないか」
「広いとか狭いとかではない。おれの場所だ」
ギンジは丸くなった。
そして、あろうことか、くつろぎ始めた。
タマは信じられなかった。
知らない猫が。
勝手に家へ入り。
勝手に台所を調べ。
勝手にソファでくつろいでいる。
これは大事件である。
タマはソファの前に座り、じっとギンジを見た。
「おまえ、図々しいな」
「よく言われる」
「直す気は?」
「ない」
ギンジは目を細めた。
「外で生きるには、少し図々しいくらいがちょうどいい」
タマは黙った。
外の猫。
ギンジは、外で暮らしている猫らしい。
だからこんなにも堂々としているのかもしれない。
いや、だからといって許されるわけではない。
その時、ギンジがソファの下を見た。
「ん?」
タマの背中の毛が、少し逆立った。
そこはまずい。
ソファの下には、タマの宝物置き場がある。
春子に見つかってかなり減ったが、まだ残っているものがある。
ペットボトルのふた。
葉っぱ。
洗濯ばさみ。
それから、春子の片方だけの靴下。
ギンジは前足を伸ばし、ペットボトルのふたを引っぱり出した。
「これはいいな」
「触るな」
「転がるぞ」
「知っている。だから宝物なんだ」
タマは慌ててふたを取り返した。
しかし、ギンジはもう一つ、葉っぱを引っぱり出した。
「これは?」
「宝物だ」
「葉っぱだぞ」
「ただの葉っぱではない。かさかさ鳴る」
ギンジは葉っぱを前足でつついた。
かさ。
タマは胸を張った。
「ほらな」
「たしかに鳴るな」
ギンジは少し真面目な顔になった。
「おまえ、なかなか見る目がある」
「当然だ」
「だが、隠し場所が甘い」
「何?」
「ソファの下は人間に見つかりやすい。もっと奥だ。もっと暗くて、手が届きにくい場所にするべきだ」
タマは少し悔しかった。
だが、たしかに春子には何度も見つかっている。
ギンジの言うことには、一理あるかもしれない。
「どこがいい?」
「冷蔵庫の横の隙間」
「なるほど」
「ただし、出せなくなることもある」
「だめじゃないか」
「宝物とは、そういうものだ」
妙に深いことを言う猫だった。
タマは少しだけ、ギンジを見直しかけた。
その時だった。
玄関のほうから音がした。
がちゃ。
春子が帰ってきたのだ。
「ただいま、タマちゃん」
タマは固まった。
ギンジも固まった。
春子が居間に入ってくる。
そして、ソファの上にいる灰色の猫を見た。
「……あら?」
春子は目をぱちぱちさせた。
ギンジはすぐに姿勢を正した。
そして、まるで最初からそこにいた猫のように、ゆっくりと鳴いた。
「にゃあ」
タマは驚いた。
なんという落ち着き。
完全に、よその家の猫の態度ではない。
春子は困ったように笑った。
「あらあら。どこの子かしら」
「にゃ」
ギンジはまた鳴いた。
春子はギンジを見て、それからタマを見た。
「タマちゃん、お友だち?」
タマはすぐに鳴いた。
「違う」
「にゃっ」
だが、春子にはもちろん通じない。
「そう。お友だちが遊びに来たのね」
「違う!」
タマは強く鳴いた。
ギンジは横で、涼しい顔をしている。
春子は勝手口のほうを見て、少しだけ開いていたことに気づいた。
「ああ、ここから入っちゃったのね」
春子はギンジに近づいた。
「ごめんね。でも、おうちの人が心配してるかもしれないから、出ようね」
ギンジは少し考えたように春子を見た。
それから、ゆっくりソファを降りた。
そして勝手口へ向かう途中、タマの前で立ち止まった。
「なかなか悪くない家だった」
「二度と勝手に入るな」
「また捜査に来る」
「来るな」
「宝物の隠し場所、考えておけ」
ギンジはそう言って、するりと外へ出ていった。
春子は勝手口を閉めた。
「びっくりしたねえ、タマちゃん」
タマはむすっとした顔で座っていた。
びっくりしたどころではない。
侵入者である。
潜入捜査である。
ソファを占領され、宝物まで見られた。
大事件だった。
春子はタマの頭を撫でた。
「ちゃんとお留守番してくれてありがとうね」
タマは目を細めた。
それはまあ、当然である。
この家を守れるのは、自分だけなのだから。
その夜。
タマはソファの下の宝物を確認した。
ペットボトルのふた。
葉っぱ。
洗濯ばさみ。
靴下。
全部ある。
けれど、タマは少し考えた。
ソファの下は、見つかりやすい。
ギンジの言葉が頭に残っていた。
タマは靴下をくわえ、冷蔵庫の横の隙間へ運ぼうとした。
しかし、途中で春子に見つかった。
「タマちゃん、それ私の靴下!」
タマは走った。
春子も追いかけた。
靴下は揺れ、タマは廊下を走り、春子は笑いながら困った声を出した。
家の中は、また少し騒がしくなった。
タマは思った。
今日は侵入者を追い出し、宝物の管理方法も見直した。
とても働いた。
やはり、この家には自分が必要だ。
その頃、窓の外では、灰色の猫ギンジが塀の上から家を見ていた。
「次は、台所の棚の上を調べるか」
ギンジは小さく鳴いて、夜の道へ消えていった。
タマの家の平和は、どうやらまだ油断できない。




