第6話:シェフ、変貌したり
痛いところをつかれたと、思った。
『星川。……今日、安田と一緒に帰ってたよな』
そう言う和人の目からは、心配しているのがひしひしと伝わってきた。
せっかく止まった涙は、目から溢れ出そうになる。
逃げるように自室に飛び込んで、そのまま枕に顔を埋めた。
咄嗟についた嘘は簡単にバレるようなもので、それなら黙り込んだ方がマシだった。
──わざわざ心を痛めずに済んだはずだ。
「好きな曲、好きな曲っと……」
わざとらしく声に出しながら、最近のマイブームであるKーPOPを再生した。
正直な話、韓国語は『アンニョンハセヨ』くらいしかわからない。その、歌詞を理解できない点に心が惹かれた。
言葉の壁なんて優に越えて、世界中の人をパフォーマンスで魅了している。
その勝手な解釈が、自分の悩みは小さいものだと、気づかせてくれるのだ。
「……ふんふーん」
涙や鼻水のせいで、鼻歌はこもった音色だった。
音程とかはどうだっていい。
ただ、無音だったらひたすらに苦しい気持ちになる。それだけは避けたかったのだ。
作戦は成功だった。
放課後は歩き回ったこともあってか、沼のように深い眠りにつくまで、それほど時間はかからなかった。
◇
試験の結果が発表される前の日の放課後、心愛は屋上で待ちぼうけをしていた。
親友に人伝で呼ばれたので、仕方なく出向いた。
「今日は早く帰りたかったのに⋯⋯」
愚痴のように、小さく声を漏らす。
今回の試験は絶望的に自信がない。
なので、人生を終わらせないための、ある計画の実行に向けて、荷造りをしたかったのだ。
その時、屋上と階段を繋ぐ扉が勢いよく開かれる。
心愛は、初めて自分を呼び出した人が誰かを知った。
「ごめんねー。呼び出しといて遅れたよー」
謝っているとは思えない態度に、心愛の目蓋はぴくりと震えた。
(こんなことなら来なければよかった)
胸の中でため息を吐く。
失礼なので外には出さないが、時間が経つにつれて、その後悔は苛立ちに変わってきていた。
「どうして私を呼び出したの──安田くん」
安田の悪童っぷりは、心愛も引くほどだった。
安田優向は、授業中などお構いなしに卑猥なことを口に出すし、脅しや暴力は日常茶飯事。
この学園という囲いがなければ、このヤンキーはとっくに警察のお世話になっていてもおかしくないはずだ。
だが、今は少しだけ穏やかな気がした。
いつも通りの優向に戻さないためにも、心愛は細心の注意をはらう。
「なんでだろうね? 愛の告白かな」
「ふざけないで。用事がないなら、私は帰るよ」
「ちょ……ちょっと待ってくれよ」
教室では見たことのない塩対応に、優向は若干怯んだように見える。
しかし、それはつかの間。自分が何をするためにわざわざ心愛を呼び出したのかを、ようやく思い出したようだ。
「なに? 離してよ」
腕を握ってきた優向を、心愛は鋭く睨みつけ、分厚い手を引き剥がす。
最初はただ、反射的に出たものだったが、途中からは牽制するためだ。
心の底から気持ち悪いと、言わんばかりの表情に、優向の中の何かが揺れた。
人に害をなす──そんな魔物が取り憑いたかのように、気色の悪さが毎秒更新されていく。
吊り上がった口の端、瞬きの速度。
優向の動き全てが、ただならぬ何かを帯びている。
舐め回すような視線に、心愛は半歩引いた。
「おや、星川さん。その怒りの色……少し火を通しすぎたかな? 次はもう少し弱火で、じっくりとボクにその目を向けてほしい。そしてボクを認めてくれ」
「…………え?」
最初は聞き間違いだと、脳が勝手に判断していた。
すぐにそれは夢の中の話ではないのだと気づき、腑抜けた声が零れ落ちる。
心愛が知っているヤンキーでも、さっきまでの彼でもない。
ただ、どの『安田優向』よりも危ない存在だと言うことがわかった。
足の震えが止まらなくなる。
その様子を見て、優向は腹の底からの笑い声を上げた。
「……ははっ! 素晴らしい! まるで『星川心愛』という名の魚を、まな板の上で捌いているような気分だ!」
恐れのせいで死んだ目、冷えた肌。
どれも、優向を満足させるための料理でしかなかった。
「や、やめて! 近づかないで!」
心愛は拒んだ。優向は足を止めない。
二人の間にあった距離が、一歩、また一歩と縮まりつつある。
「ちゃんと知ってるよ。君の大事な秘密を……そして、退学から救う唯一の方法を──ボクはしっかりと払うことができる」
「嫌……やめて…………いやああああぁぁぁぁぁぁぁッ──」
優しく包み込むように、心愛の手は優向に握られる。
刺された女の断末魔のような声が、放課後の屋上に響く。
吹奏楽部や、ピアノ部。加えて運動部の掛け声に、簡単にかき消された。
優向は一瞬だけ息を乱すが、すぐに整えた。目は蘭々と輝いている。
そして耳元で囁いた。
「君は、──だったのだろう?」
生ぬるい吐息が耳をかすめる。
ビクッと、心愛の肩が揺れた。
息を吹きかけられたからか。それとも──
(──みんなに晒される)
「星川さん。君は賢い子だ。ボクの言いなりになればいい。そして安泰を望むことだな。たまには……残飯くらいくれてやる」
去り際、真っ黒な光のない眼で愛でながら呟かれる。
(ああ、私ってば、これからあの人にいいように使われるんだ……)
5分にも満たない出来事だった。
たったそれだけなのに、遅れて疲れが押し寄せてくる。
腰が抜けて、その場で尻もちをついた。
視界に映る自分の足は、未だに震えている。
「やっと変われたと、思っていたのに……」
ボロボロと、大粒の雫がスカートに染み込む。
憐れなしゃくり泣く声が聞こえた。
すぐに、私のだ。と気づく。
止めようとしても止まらない。なんなら、悪化するばかりだった。
「…………帰ろう」
数分後、虚ろな目で立ち上がる。
パンッ──
両頬を叩き、心を入れ替える。
心愛には傷心している時間もない。
いつも通りのスマイルを貼り付け、辛いことから目を背ける。
これが──星川心愛の戦い方だった。
◇
目覚ましよりも早く起きて、和人は家を出た。
──心愛はまだ眠っている。
彼女には申し訳ないが、部屋の扉に耳を当てたら、微かに寝息が聞こえた。
その事実に、胸に張り付いていたものが和らいだ気がする。
心愛が壊れるまでのタイムリミットは、もう短い──否、もう過ぎているかもしれない。
学校までの道を走り抜ける。
中等部の頃は陸上部のキャプテン兼エースだったこともあり、息を乱さずに走れている。
(頼む、星川──もう少しだけ耐えてくれ)
『星川。……今日、安田と一緒に帰ってたよな』
昨夜、何の考えもなしに聞いたことが頭に浮かんだ。
あの言葉がなければ、心愛が更に苦しむことはなかった。
逆に、あの言葉があったからこそ、心愛の苦しみが目に見えてわかった気がした。
「クソッ──」
和人にできることは、優向を更生させる。ただそれだけだった。
──いや、更生という甘い言葉では、到底足りない。
「俺の同居人を苦しめたんだ。歯ぁ食いしばって待ってろ──安田」
優向の手を先読みし、防ぐ。たったそれだけ。
朝霧に包まれた校舎を見据え、和人は冷徹な計算を開始した。
次話、明日の20時頃更新です!




