第4話:すんなり謝れる関係
扉が閉まり、部屋の中はシンと静まる。
バクバクと跳ねる心音が、耳元で響いていた。
──静寂がうるさい。
なぜか静けさに嗤われている気がして、居た堪れなくなった。
とくん──
(はっ! 『とくん』な訳ないじゃん!)
心愛は鼻で笑いながら、正気か、と胸に手を当てる。
「こ、これは……男の人に触られて、怖かっただけだし」
誰かに言い聞かせる訳でもなく、ぐだぐだと嘆いているだけ。
自分は一人でなにをやってんだと、我に返るまで、あまり時間がかからなかった。
けれど、去った波がまた押し寄せてくるのと同じで、和人との出来事がフラッシュバックする。
それと同時に、脳裏にどす黒い記憶が混ざり込む。
逃げ出したかったあの場所、あの男の笑い声──。
思わず嫌だ。と頭を振る。
『おやすみ』
部屋を去る前に言われた、甘く優しい声が耳から離れずにいた。
しかし、幸せな気持ちとは裏腹に──
『話しかけないで』
学校で言ってしまったことの後悔が、今となって蘇る。
家では話せるのに、学校に行くと他人ってのが少し癪で、つい態度に出てしまったのだ。
暗い部屋──目を瞑っても、一向に睡魔がやってこない。
むしろ完全に目が冴えてしまって、眠れる気がしなかった。
「こんなことになるなら、勉強なんてせずに寝ていればよかったな……」
次の試験までまだ一ヶ月もある。
別に、今頑張る必要はない。
それなのにどうしても和人に迷惑をかけたくない一心で、シャーペンを握っていた。
『ごめん。俺のノリに合わせてくれたんだよな』
和人の困ったような笑みが、今となって心愛の心を重くしていた。
住ませてもらってる立場なのに、家主の重荷になるなんて情けない。
(もし、本当に迷惑だと思われていたら──?)
胸の奥がぎゅっと縮む。
体は暖かいのに、手の震えが止まらない。
気づけば、枕が湿っていた。
これには心愛自身ですら呆れ果てて、物も言えない。
この調子だと一睡もできない気がした。
だから、必死に違うことを考えてみる。
(……私と同じ柔軟剤を使ってるのに、ちょっとだけ違う匂いがしたな)
結局、考えることは同じだった。和人のことばかりだ。
自然とあの優しさを求めていた。
「椎原くん……」
心愛はダメだと心では理解しつつも、和人の部屋に入り込んでいた。
人の気配がないのは、お風呂に行ってしまったからだ。
まるで凍える震えを止める術を知らない赤子のように、和人の布団に顔を埋める。
(なにこれ。すっごく落ち着く)
それが依存だと気づき、すぐに離れようとした。だが──
「えへへ……」
今はこれがないと眠れない気がした。
飛び込んでみたら抜け出せない──まるで、底なし沼のようだ。
鼻腔をくすぐる和人の匂いに、張り詰めていた心の糸がぷつりと切れた。
(もう一度くらい甘えたって……嫌われないよね?)
モヤがかかるように、視界が霞む。
ここが自室じゃないことなんて忘れて、心愛は深い眠りについた。
◇
つい長風呂をしてしまった。
距離感がおかしい同居人について、水面に映る自分と考えていたが、答えが一向に出ない。
考えるだけ無駄なことがわかった。
(明日も早いんだ。もう寝よう)
ドライヤーで髪を乾かし、歯磨きも済ませた。
時計は午前1時を示している。
あまり健康的とは言えない時間に、罪悪感はなかった。
それは、別の事態が重なったからだ。
「…………なんで?」
部屋に入るまではいい。問題はそれから。
どうしてかわからないが、心愛が和人のベッドの上で眠っていた。
微かに寝息が聞こえる。
(……もしかして、帰す場所を間違えたか)
必死に思い出す。
考えるたび、自分がやらかしたのではと、不安になってきた。
「説明は必要──だよな。⋯⋯朝だな」
散々悩んだ末に、ようやくたどり着いた答えだった。
(きっと勉強で疲れているに違いない。だから──仕方なく、だ)
胸の奥で言い訳をして、和人は自室をあとにする。
リビングのソファは、一人暮らし用とは思えないくらいに広々としている。
生憎にも掛け布団は心愛に使われているが、一夜を越すには十分すぎるくらいだった。
部屋の電気を消す。
その途端眠気がどっと押し寄せてくる。
今はただ、大事にならないことを願うばかりだった。
◇
食欲を唆る香ばしい肉の香りと、パチパチと弾ける油の音で、和人は目を覚ました。
キッチンでは、ブレザーの上からエプロンを着た心愛が朝食を作っている。
そんな姿をぼんやりと眺めていると、ようやく昨夜の過ちを思い出した。
ふと顔色を伺う。見たところ、怒ってるような雰囲気はない。
しかし、ほんのりと頬が火照っている気がした。
「おはよう。なにか手伝うことはあるか?」
『私にご奉仕させて下さい!』という提案を呑んだが、見ているだけの時間を過ごす気にはなれなかった。
(少しでも好印象を──)
なんてことを考えている時点で、全く好印象を持てないが、目障りな置物になるよりかはマシだろう。
「わっ! ──おはよう」
心愛は驚いた様子で、持っていた皿を落としそうになる。
「大丈夫か?」
「う、うん! 椎原くんは座って待っててー」
「でも……」
「いいの。もうできるから!」
そこまで言うと、心愛は料理を机に運んでいく。
「俺も」と味噌汁の入ったお椀を持つが、運ぶ前に心愛に取られてしまう。
(⋯⋯怒ってるよな、これ)
ニッコリと微笑まれるが、和人には怒りを堪えているようにしか見えなかった。
焼きたての食パンとソーセージ、あとは焼鮭と味噌汁。
仮に和人が本気を出したとしても、せいぜい二つが限界だ。
なので、朝からコース料理を食べているような幸福感を得た。
(なんて安い幸福感なのだろう……)
夜遅くまで勉強して、朝早くから二人分の朝食の用意。
元からそんな約束だったはずなのに、とてつもなく申し訳ない気持ちになる。
──心愛一人に押し付けるのはよくない、と。
「ごちそうさまでした」
一言も話さないまま、心愛は食事を終えた。
この機を逃したら、今後絶対に後悔する。
和人は頭の中で何度も言う練習をした言葉を、ようやく発した。
「星川。話がある」
食器を運ぼうとする手を止めて、心愛は少しだけ顔を引き攣らせた。
思い出したくないくらい、キレているのだろう。
軽く息を整える。そして──
「悪気はなかったんだ。申し訳ない!」
「悪気はなかったの。ごめん!」
その声はハモるように重なった。
お互いにどうして謝られているのかが、わかっていない。
ただ、想像の斜め上の言葉が飛んできて、混乱することしかできなかった。
「ははっ」
「ふふっ」
肩を揺らして笑い合う。
心愛が心底面白そうに笑っているところを見て、和人の中にあった不安は即座に消えた。
(ただの思い違いだったのか)
何について謝られているのかは、敢えて聞かないことにした。
その後、なぜか料理の美味さが何倍にも増した気がする。
それほど自分は単純だったんだと、その時和人は初めて知った。
「今日友達の家に行くから、帰り遅くなるし」
和人が朝食を食べ終えるのと同じタイミングで、心愛は玄関に向かう。
その背中は、覚悟を決めたような雰囲気を帯びている──気がした。
「夕食は冷蔵庫の中にあるから、温めて食べておいて」
「わかった」
「大丈夫だと思うけれど……電子レンジ、使えるよね……?」
「舐めすぎだ! それくらい使える」
「そ、そうだよね!」
きっと、駄目人間としか思われていないに違いない。
揶揄われて、頬がカァーっと熱くなる。
その様子を見て、心愛は楽しそうに腹を抱えていた。
和人はこの他愛のない時間が、いつまでも続けばと願った。
しかし、皮肉にも心愛の笑顔をしばらく見ることはなくなった。
次話、明日の20時更新です!




