第3話:怒ってる? いえ、甘えています
玄関の前で、和人は一度だけ深呼吸をした。
『話しかけないで』
学校でのあの一言が頭から離れない。
軽蔑するような視線、拒絶するみたいな声。
(……絶対怒ってる、よな)
考えないようにしても、答えは一つしか出てこない。
それでも、帰らないわけにはいかない。
意を決して鍵を回す。
「ただいま……」
返事はない──そう思った瞬間。
「おかえりー!」
弾むような声が、リビングから飛んできた。
「……え?」
思わず間の抜けた声が出る。
予想していた空気と、あまりにも違いすぎた。
心愛はキッチンから顔を出し、いつも通り、いや──いつもより少しだけ明るい笑顔を向けてくる。
「今日、遅かったね。ご飯もうすぐできるよ」
怒っている様子はどこにもない。
むしろ、何事もなかったかのようだ。
(……なに、この感じ)
拍子抜けと同時に、別の違和感が胸に広がる。
安心⋯⋯ではない。
油断すると、何か地雷を踏んでしまいそうな感覚。
「あ、ああ……」
靴を脱ぎながら、和人は視線を逸らした。
心愛はそんなこと気にも留めず、鼻歌混じりにフライパンを振っている。
怒っていないのならそれでいい。
それなのに──
(なんで、こんなに落ち着かないんだよ)
ソファでスマホをいじるフリをして、和人はずっと心愛の様子を伺っていた。
学校でも基本笑顔だが、家でもずっと続けて疲れないのだろうか。
──いや、そんなことを考えている時点で、もうおかしい。
和人は胸の奥に引っかかりを感じる。根深く、一筋縄では払えない気がした。
今すぐに答えを出せる気がしなかった。
その引っかかりは、しばらく消えそうにない。
◇
夜ご飯を食べ終えると、心愛はリビングの机で課題に取り掛かる。
──と言っても、学校から出されたものは少ない。自主学習が主だ。
ノートと教科書を広げ、約三十分。集中力は完全に切れてしまっていた。
「あー疲れた! ちょっと休憩!」
ぐてーんと、後ろのソファにもたれかかる。
いつもは下ろしてる金髪の髪が乱れた。
学校ではすぐに直しているのに、ここでは全く気にしていなかった。
「そうやって怠けていると、また借金が増えるぞ」
「そうだけど⋯⋯だからってやる気がでるわけじゃないじゃん」
「星川が退学になると、俺に借金が移るんだけど⋯⋯」
「大丈夫だって。椎原くん頭いいじゃん!」
少しも大丈夫じゃない状況に、和人はため息を漏らしそうだった。
「てか……一問も合ってないじゃん」
「うそ」
計算の途中式すら合っていない。
惜しいどころか、的外れだった。
「俺が嘘ついても、なにもメリットがないだろ」
「んー」
こめかみに人差し指を当て、心愛は深く考える。
数秒間黙り込んだ後、「そうだ!」と声を弾ませた。
ずっと忘れていたものを思い出した時のような、スッキリとした顔だ。
「椎原くんは人を困らせて快楽を得る、特殊性癖があるとか?」
「星川は俺を犯罪者にでもしたいのかよ」
「まあ、そういう椎原くんでも……私が我慢すれば、ね」
「⋯⋯⋯⋯は?」
少しだけ喧嘩腰のようにも聞こえるが、こうでもしないと和人は理性を保つことができなかった。
頬を赤い。そのせいで、余計な想像が頭をよぎる。
「軽い冗談……だよな?」
「ちがっ──」
心愛は何かを言いかけて、やめた。
目を逸らされて、和人はハッとする。
「ごめん。俺のノリに合わせてくれたんだよな」
半ば義務のように言って、和人は自室に逃げ込んだ。
バクバクと、心臓がうるさいくらいに跳ねる。
ベッドにダイブして布団を頭から被る。
そのせいか、顔が焼けるように熱くて嫌気が刺した。
◇
重い瞼をこじ開ける。
部屋の電気が眩しくて、思わず目を細めた。
スマホで時計を確認する。
『11:49』
その時初めて自分が寝落ちしたことに気がついた。
(なにしてんだよ、俺)
お仕置のつもりで頬をつねった。
少しヒリヒリしたが、眠気を覚ますにはちょうどよかった。
最近は色々ありすぎて疲れていたのかもしれない。
さっさとお風呂に入って、眠ることにした。
「星川もかよ……」
リビングは明るいままだった。
心愛も和人と同じように、寝落ちしていたのだ。
正反対の性格をした二人だったが、意外と似ているところもあるのかもしれない。
「おい、起きろよ」
肩を揺らしても、全く起きる気配がない。
可愛らしい寝息を立てて、それに合わせて背中が大きくなっては、小さくなる。
制服だった心愛は、和人が寝ている間にパジャマになっていた。
薄い一枚のシャツからは、いかにも部屋着といった感じがして、少しだけドギマギした。
ショートパンツから伸びた足は驚くほどに白かった。
「風邪ひくぞー」
もう一度声をかけるが、起きる気配はない。
窓の外、走り梅雨がしとどに降る雨音が聞こえた。
夏を目前にしているが、まだ冷える。
こんな所で寝ていたら、本気で風邪を引いてしまうかもしれない。
「起きろって」
また肩を揺らす。
ようやく、今回は反応があった。
「抱っこ……」
肩に触れていた腕はガッシリと掴まれ、心愛は穏やかな表情のまま頬擦りをしている。
例えるならコアラのようだ。
眠っているところも含めて、本当にそっくりだった。
なんてことを考えていたら、クスッと、笑みを溢す。
(⋯⋯あいつに似てるな)
頭の中では、中学校卒業以来会ってない妹が大きく手を振っている。
ふと机に広げられたノートに視線を落とす。
さっき見た時から結構進んでいた。
ノートの表紙には『次の試験では借金を作らない!』と大きく書かれていた。
そしてページの端には、小さく『迷惑かけない』とも書き足されている。
ただのクラスメイトでは、一生知ることがなかった努力。
こんなのを見たら、尚更風邪をひいてほしくなくなる。
「……お疲れ様」
寝息が、一瞬だけ乱れた──気がした。
心愛が頑張っていた間、自分は寝落ちしていたなんてと、少しだけ後ろめたくなる。
「起こしても起きない方が悪いんだからな」
保険をかけるように、言い訳を口ずさむ。
後でセクハラや痴漢と言われてしまったら、なんとも言い返せないからな。
起こさないように腕を引き抜くと、心愛の腰と太ももの裏に回す。
「んんっ……」
今目を覚ましてしまったらと、考えるだけで手汗をかきそうだった。
その形がいわゆるお姫様抱っこだということを、和人はあとから理解した。
(女の子ってこんなにも軽くて、柔らかいんだ。
もし俺がフィクションの主人公だったら、星川は──いや、やめだ)
考える前に馬鹿らしくなってやめた。
ただ部屋に帰すだけだ。他意はないと──そう言い聞かせながら歩き出す。
けれど、ベッドに下ろす直前、ほんの一瞬だけ──
(……手を離すのが、惜しい)
自分でも意味がわからず、和人は眉をひそめた。
心愛を彼女の部屋に帰してからも、鼻の奥には甘ったるいシャンプーの香りが残っていた。
「おやすみ」
和人は部屋の扉を締めながら、吐息に混ぜるように呟いた。
次話、明日の20時更新です!




