【オオカミ②(Wolf)】
メモには、こう書かれてあった。
“無人政府は、一つではない。たとえ人だと思っていても気を許すな! 今すぐ人間エリアから逃げ出せ!”と。
メモの端にはオラール・ムサラドと名前が書かれてあった。
「どういう事!? 無人政府は一つでしょ?」
イリアが言った通り、幾つものスーパーコンピューターがあるものの、無人政府は一つのシステムとして動いているのだからスパコンが幾つ存在しようとも、現実的には一つと考えられる。
今までは、そうだったし、それこそが無人政府がもたらす平和と安全、それに信頼だと思っていた。
「この、たとえ人だと思っていても気を許すなって、どういうことかしら? 人型のロボットは確かに居るけれど、見た目も質感もどう間違っても本物の人間だと思えるレベルではないわよ」
「確かにイリアの言う通り……だけど故意にそう思わせているとしたら?」
「まさか!? そんなこと……」
しかしラルフの言うことも一理ある。
例えば病院で施される治療は格段に進化し、酷い火傷を負った場合に使われる人工皮膚は本物の皮膚と全く見た目も触感も見分けがつかないし、その張り付けられた本物の皮膚との境界線さえ分からない。
骨だって、そう。
酷い骨折をした場合、昔は金属製のプレートやボルトを使って骨が早く付くように固定していたが、今では骨そのものになる瞬間接着剤やパテによる手術が当たり前。
そもそも以前人気があったロボット五輪に出場する選手は、街で見かけるような“如何にもロボットらしい動き”ではなく非常に人間に近い動作で競技を行っていた。
小さな子供の時に親に連れられて観に行ったロボットMLBでもソレは同じで、子供心にコノ観客席や学校にさえももしかしたらロボットが紛れ込んでいるのではないかと思ったほど。
靴底に鉄を着けて、いつも廊下をカチャカチャと音を立てているケラーなんか、どう見ても怪しい。
ロボットの動力はモーター等だから、ひょっとしたら体内で発生した静電気を外に逃がすために靴底に鉄板が必要なのかも。
ただ、そのことはラルフには言わなかった。
ラルフは根も葉もない噂話は嫌いだから。
オオカミのレオンは、何故か初対面なのにイリアに懐いていた。
と言うより、イリアの事が気に入ったらしく、しきりにイリアにチョッカイを出そうとする。
さすがに動物好きのイリアでも、初対面で自分よりも大きなタイリクオオカミにジャレられるのは抵抗があるみたいで、レオンが迫るたびに押し退けようとするが力の差は如何ともしがたく僕が手助けしてレオンを引き離した。
「あれっ!?」
「どうしたの?」
僕はレオンの首輪の後ろ側に巻き付けられていた布切れに気がついて、ソレを剥がした。
巻き付けられていたのは、可愛い模様の着いたハンカチ。
どう見てもムサラドの趣味ではない。
いったい誰が、このハンカチをレオンの首に巻き付けたのだろう。
「これが、どうして……?」
不審に思ってハンカチを見ていると、隣でイリアが言った。
「知っているの? このハンカチの持ち主の事」
イリアはコクリと頷き、知っているも何も、このハンカチはムサラドがデモに参加しに行く前に自分が貸したものだと言った。
「イリアが?」
「うん。 出発する直前に彼がハンカチを忘れたと言うものだから」
「それで貸したの?」
「一度使ったものだから部屋まで新しいものを取りに帰るって言ったんだけど、急いでいるからと言われて」
たしかにイリアが新しいハンカチを取りに帰る時間があれば、ムサラドも自分の部屋に取りに帰ることが出来る……だけどバスやタクシーを使わない今の時代に、その程度の時間差を気にする事なんて有るのか?
そう今の時代は、携帯に行先を打ち込むだけで、その経路を通るか時間的に余裕のあるものや、取り急ぎなにも要のない無人カーたちが乗せて行ってくれる。
贅沢を言わなければ、普通車タイプだけでなく、トラックや特殊作業車なども対応してくれる。
だから急いでいると言う理由は、少し腑に落ちない気がした。
ともあれ、このハンカチがあったからこそオオカミは僕たちの前に現れた事は間違いないし、それはムサラドが仕組んだ事も。
ムサラドは何故このような事をしたのか?
ひょっとしたら、自身の死を予感していたのかも知れないと僕は思った。