閑話 長雨去って晴天
澄み切った青空に温かい風がそよいでいる。遂に長い冬が明けて春の始まりを感じさせる。今朝開いたばかりの瑞々しい小花は、リスラの頭上の細枝ごと、穏やかに風に揺られて揺れていた。
穏やかで素晴らしい朝に彼女は笑った。頭上の美しい小花に春の訪れを感じたから、というわけではない。そもそも盲目の彼女には何かを見て美しいと感じることはもうできないのだ。
では一体何に彼女は笑ったのか。そして今なお笑いを堪えているのか。
それはリスラよりも、その上の花よりももっと高く、上空から発せられる音にあった。リスラは幼少時に両目を失った。だが代わりに得たものもあったのだ。それが人よりも優れた聴力だ。五感のどれかを失うと、それを補おうとして他の感覚が発達することはどうやら事実だったらしい。
かつて私の心の支えになってくれていた人。…人ではないけれど。彼の軽快に風を切る音が小気味いい。そしてそこから発されている甲高い絶叫がなんとも愉快だった。
「いぃぃやぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
その声に人知れず頬が緩んだ。こんなに賑やかだったのはあの子がいた時以来じゃないだろうか。
「行ってらっしゃい」
願わくば楽しい旅路を。その姿は、望んでいた私たちの形そのものなのだから。こんな末路にはなってしまわないように、せめて親友を待ちながら祈り続けましょう。
――図書館上空。
「無理!もう無理!!降ろして!!!」
「シノン、暴れないでくれ。暴れたら余計危ないぞ」
現在シノンはリベスが魔法で生み出した縄で竜の背に縛り付けられていた。
「こんなに揺れるだなんて思ってなかったの!分かってたら絶対こんなこと頼まなかったのに!」
泣き言を言うシノンの下から豪快な笑い声が聞こえる。
「長らく飛んでいなかったからなぁ。飛び方をすっかり忘れてしまっていた」
「つ、墜落する……!」
「墜落しない!しても大丈夫だ、僕が助ける!」
一層暴れだすシノンにそれを止めるリベス。他人の背の上でもぞもぞと動く2人に、また竜が豪快に笑った。
「安心してくれ、やっと慣れてきたところだ。目的地はこの先の谷で間違いないのだな?」
「そうだよ。ねっ、シノン?」
シノンたちの先頭で堂々と竜の首に跨って座るアスターは、後ろのシノンを振り返った。リベスはともかく、アスターはこの空の旅を楽しんでいるように思えた。
「ええ……」
青い顔でシノンは頷く。
「それならばそれほど時間はかかるまいよ。…………お前たちは私が人工生物と知って怖くはなかったのか」
一時の逡巡を経て、おずおずと竜がそう聞いた。
自身が人工生物だと明かしたときリスラだけでなく、シノンたちとも決別してしまう恐れがあった。結局その心配はただの杞憂で終わったが、そうなれば逆になぜ人工生物と判明した後でも以前と同じ態度を貫けるのか。
「ああ、そんなこと」
だがアスターは何でもないようにあっけらかんと答えた。
「俺もリベスも人工生物だからね」
その事実に竜は驚愕した。人間だと疑わなかった相手がまさか自分と同族だったのだから。
「そうだったのか!いや全く気づかなかった。ということは完全に人型の人工生物、カノン・レスター・シリーズか。人工生物の最高傑作と謳われる者と話せる機会に恵まれるなんて、一人工生物として鼻が高いよ。長生きはしてみるものだなぁ」
「まぁそうでもあるかな」
「そんな大したものではないが」
興奮気味な竜に、最高傑作と言われてドヤ顔を返すアスターと照れて顔をそむけるリベス。
どうやら人工生物界ではアスターとリベスは憧れの的らしかった。シノンからすれば2人とも竜よりも残念な印象を抱いていたので、人工生物界とはよく分からない世界だ。
アスターが倫理的に終わっていることは周知の事実だが、リベスはまともだと思っていたのに。昨晩の出来事で彼もアスター相応に歪んでいることが発覚した。簡単に食事が得られるから私の逃亡に協力するという話だったのに、その本音が死にたいだったなんて。それだったら最初から1人で死んでいればいい。誰かが傍にいれば助けられる、そう分かったならこれからは離れればいい。それなのに何故今も尚私についてくるのか。
結局生まれた理由も、シナリオに決定づけられた運命も全部捨てた自分本位の私に、他人本位のリベスの考えなんてわかるはずがないのだ。そう結論付けて思考を放棄した。
「ということはそこのシノンという子も人工生物だったのか」
「シノンは人間だよ」
アスターのあっさりとした答えにまた竜は驚愕した。
「……それはその子の前で言っていいことだったのか?」
連れ立ちが人を喰らう人工生物であると知った上で彼女はこの2人と行動を共にしているというのか。人間も人工生物も揃ってあり得ないと一笑に付す光景がこの世にあるとしたなら……
「そうだよ」
――それは、なんとも……
「なんとも、嬉しいことだな」
このとき竜の胸に蘇ったのは何十年も昔に目に焼き付いた情景だ。光り輝く美しいプラチナブロンドの髪の女と黒髪の男。あの図書館で出会った彼らのことを。
人間の言葉を知って、『楽しい』が分かった。『愛情』が分かった。そして『人間』も、『人工生物』も。だから離れていくことを引き止めることを躊躇した。私は言葉を解すようになったにも関わらず、結局何もできなかったのだ。私があのとき何か言うことができたなら、きっとこんな日が訪れていたのだろうな。彼らと私が、人間と人工生物が共に空の旅をする日が――
その可能性を見られただけでも今は嬉しい。
「すごい、大勢のアルシネゴ軍が真下に…!」
シノンにつられて竜も眼下を見下ろしてみる。そこには白い軍服に身を包んだ兵が何千といた。それが谷を囲むように作られた防壁に、本国側からも谷側からも侵入者がいないかを厳重に監視しているのだ。だが監視は永遠に地面を見つめているだけ。一向に頭上を見上げないために、彼らの遥か頭上を悠々と通り過ぎる大きな侵入者に気づかない。
「とんでもない人数だな」
「これだけいれば一生食べ物に困らなそうだね」
「その視点やめて」
上からリベス、アスター、シノンの順である。
ラストスパートをかけるように翼を大きくはためかせて加速した。この短い空の旅はもうじき終わる。暖かい春の風に目を細める彼らに、言いたい言葉があった。雄大な山々の稜線も、遠くに見える照り返しが眩しい海も。外に出て遊ぶことが好きなあの子に見せてやりたいと思った。そう思った子に見せてやることは叶わなかったけれど。
言葉を重ねれば、目が見えなくなったあの子はこの景色の美しさを知ってはくれるのだろうか、と。
それを飲み込んで務めて何でもないように聞いてみる。
「綺麗だろう?」
「とても」
「――そうか。……ああ、そうだろう」




