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淵底 下

 沈み続ける身体を水に委ねて、リベスは目を開ける。かなりの距離を沈んだと思ったが底はまだまだのようだ。怪物の姿も見えない。


 シノンはどうしているだろうか。

 怪物を無事に水底に沈めることができて安心しているだろうか。歓んでいるだろうか。

 そうだったらいい。人に憎まれ続ける人生の果てに、誰かが今まで僕が生きていてくれてよかったと思ってくれるなら。


 人間の空想の1つに、天国というものがあるらしい。人は死ぬと、生前の働きによって地獄と天国に行き先が分かれるらしい。そして善行を積んだ者だけが行ける天国というものは、その名の通りなんだかとても幸せになれる場所らしいのだ。


 遠のく水面が美しい。星々の光は死にゆく自身を祝福しているようだった。

 この淵底に至ればきっと天国にたどり着くのだと、そう確信させてくれる。


 不意に、穏やかな水面に石を投げ込んだような波紋が生まれる。


 石か…?


 それにしては大きすぎる。

 湖の中に入ってきた異物は真っ直ぐリベスへ落ちてくる。否、向かってきた、と言った方が正しい。その異物は人型だったのだから。


 その人間はリベスに覆いかぶさるように近づくと、腕を掴んだ。柔らかな光に包まれた彼女は、黄金の糸のような髪と意志の強そうなアメジストの瞳が天女のような幻想的な美しさを纏っていた。

 リベスを掴んだ彼女の細く長いしなやかな脚は水を蹴る。呆気に取られて動けないリベスの腕を引いて、彼女はみるみる水面に近づく。


 あっという間だった。


 彼女は水面から顔を出し呼吸を整える。それから抵抗しないリベスはすぐに岸に引き摺り上げられて水を吐いた。


 助かった。助けられた。僕はまた死ねなかった。


 ふつふつと湧き上がるのは生きている喜びなどではなく怒りだった。


「どうして!どうして僕を助けた!?」


 息を整えることも忘れて感情のままにシノンを怒鳴った。

 熱っぽい重体をおして冷水に飛び込み、自分を助けてくれたことにきっとリベスは感謝すべきなのだろう。頭ではそう理解していても、到底行動に移すことはできなかった。


 やっと死ねると思ったのに。


 当たり前の話だがシノンはリベスが死にたがっていたことなど知らないのだ。そのため助けたのにその助けた本人に詰られるという奇妙な体験をしているシノンは困惑気味だ。


「貴方を助けたのは、簡単に助けられそうだったからからだけど」


 こともなげに、シノンは濡れて重くなったスカートの裾を絞りながら答えた。

 実際シノンにとっては大したこともないことだったのだ。なかなか戻ってこないのを心配して湖を覗き込んだらリベスが沈んでいるのが見えた。だから潜って助けた。それだけだ。


「…それだけか?」


「ええ」


「そんな理由で僕は助けられたのか」


 リベスの声には明らかな落胆が含まれていた。


「迷惑だったかしら」


「ああ迷惑だ、あんたの深く考えもしない薄っぺらい正義感のせいで僕はまた生き延びる羽目になった。僕ら人工生物は生きているだけでどうしようもなく疎まれて死んで初めて喜ばれるものなんだ。人間のあんたには分からないだろうが」


「つまりお前の下らない善意は僕にとっても、世界中の人間にとっても誰にも喜ばれない最悪の行為だったんだ!」


 叱責を黙って聞いていたシノンは静かにリベスに問いかけた。


「貴方は誰にも生きていることを望まれなくて、死を望まれているから死にたいの?」


「そうだ。生まれた理由はとうになく、それで死ねと望まれているのなら、僕は死ぬために生まれたようなものだろう」


「死ぬために生まれたのなら、そうしてやるべきだ。僕も、あんたも、誰しも」


「腹が立つ考え方ね。望まれた様に生きて死ななければならないなんて」


 私は、そんなの絶対に嫌。


 突然投げつけられた強い言葉と自身を睨みつける強い瞳に思わずたじろいだ。その視線の先にはリベスよりももっと大きなもの――例えば運命なんていうものを睨んでいるように見えて。


「悪役令嬢として生まれたから死ななきゃいけないだとか、私は絶対に認めない!世界中の人に追い回されたって死んでやるもんですか。例えどれだけ嫌われていようと、例えどれだけ私が死ぬことで救われる命があろうと、私は生き延びてやる」


「どうして――」


 2度目の疑問は遥かにか細い声になってシノンに問いかけられた。その深いアメジストの瞳から目が離せない。その瞳にはどこか、リベスを惹きつけてやまないものがあった。

 悪役令嬢なんて言葉は分からない。だが彼女の静かな怒りは間違いなくリベスと同じ周囲から疎まれた経験を持つためだということは分かった。


「だって生きていたいから。このゲームの作者に死ぬことを運命づけられていて、その最期を盛り上げるために私は存在したのかもしれない。でも思い通りになんてなってやらないの。私の人生も、私が生まれた理由も全部私が決める」


 貴方はどうするの。このまま生まれた理由も誰かに教えてもらうの?

 そう問われて、言葉を返せなかった。そんなことは考えたことがなかったからだ。


「僕は……」


 そう言いかけて口ごもる。

 僕はどうすればいいんだろうか。分からない。

 結局何も言えないままのリベスにシノンが背を向ける。


「自殺を止めてしまってごめんなさい。死にたいのならまた飛び込めばいいわ。今度は止めないから」


 シノンは静かに歩き去っていく。図書館に戻るのだろう。


 雨雲はとっくに流れて、満天の星々がシノンを照らしていた。

 ほの暗い明かりに照らされて輝くシノンは――僕が今までに見たことがないほど、美しい人だった。


 シノンが立ち去った水辺で1人考える。


 ずっと、誰かに望まれた様に生きるべきだと思っていた。

 でも、そうじゃなかったとしたら。物事の淵底はそんなところになかったとしたら。

 ――僕の人生も、僕が生まれた理由も、全部自分自身で決めていいのなら。


「死にたく、ない…」


 僕はあんたを生まれた理由にしたいよ。



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