淵底 中
一番古い記憶は、爆発を浴びた記憶だ。周りにもたくさんの僕と同じ種族の仲間たちがいて、皆蜘蛛の子を散らすように逃げたのだ。そして僕も右も左も分からない頭で、とにかく走った。できるだけ遠くの場所にたどり着けるように。
しばらくして、僕は自分がおよそ人とは隔絶した化け物であることを知った。
それからは苦しみの連続だった。
人を食べたくも傷つけたくもないが、食べなければ生きていけない。そんな生物だった。僕は人間ではなかった。
…こんなにそっくりな見た目をしているのに。
すっかりボロボロになった布で身体を包んで道の端にしゃがみ込む。隣家からは陽気な人の歌が聞こえた。このように凝った装飾で大きい建物は教会と言うらしい。
その建物の隣の薄暗い裏路地で、教師の声を聴きながら僕はそれなりの時を過ごした。
その人が言うには、人は誰しも生まれた理由があるらしい。
その人が言うには、人は誰しも幸福になれるらしい。
そしてその人が言うには、人は誰しも生きる権利があるらしい。
その人が言うには、人は誰しも――
じわり、じわりと頭が空腹感に襲われる。
次第にそのことしか考えられなくなって、気が付いたら人を襲っている。それで散々食い散らかされた後の血だまりの上で我に返る。これが大体いつもの流れだった。
でも何だか今回は違うような、変わってくれるような気がしたから。空腹に完全に意識を支配される前に、僕は立ち上がって歩き出した。
そして隣の家の扉をノックもせずに押し開く。
中には背が高く線が細い男と、中肉中背の女がいた。彼らは僕の突然の来訪に面食らった顔をしていたが、それでも精一杯もてなそうとしてくれた。
「おお兄弟よ!そのようなみすぼらしい恰好では外は冷えただろう、さぁ入って暖炉に当たるといい」
歓迎の意を示すかのように男が両腕を広げた。男の腕は服越しでも細く、贅肉がついていないのが分かる。
そして僕はそれに答えるように――
男の腕を噛み千切った。
鮮血が飛び散り、女は甲高い悲鳴を上げる。男はもはや虫の息だ。やや空腹が治まった頭で男を見る。初老と言うべき年齢の男は、はっきりと刻まれたほうれい線がなんとも優し気な人だった。
だがそんな人の瞳は僕を酷く怯えた目で見ていた。
教会の外には悲鳴を聞きつけてぞろぞろと野次馬が集まって来ていた。
「人食いだ!人工生物が出たぞ!!」
「誰か衛兵を呼べー!」
やがて僕を鎧をまとい、剣を身に着けた男たちが囲んだ。
男が噛みつかれてから教会の隅で固まって動かない女を見やる。恐怖と憎しみを宿した目だ。彼女は震えた声で、だがはっきりと、
「化け物」
と、僕を言った。
そこで僕はようやく思い出した。
僕は化け物だったということを。
一体いつから僕は自分を人間などと思っていたんだろう。
人は誰しも生まれた理由があって、幸福になれて、生きる権利を持っている?
確かにそうなのかもしれない。
でも僕は人じゃなかった。残念ながら人じゃない僕にはこの魅力的な理論は適用されない。
振りかざされる剣を避け、囲う男どもを蹴り飛ばしながら教会を脱出する。ざわめく野次馬の間を通り抜ける。
薄明るい路地を疾走した。僕に追いつける人間など1人もいなかった。
僕にも生まれた理由なんてものがあれば良かった。
僕も最後には救われて、幸せになってみたかった。
こんな僕でも誰かに生きていいと、許可を与えてほしかった。
都市を出ても衝動のままに走り続ける。
何時間も走った後、人の気配すらない雑木林の中で僕はようやく立ち止まった。
頬を伝い落ちる涙がどれだけ拭っても治まらなくて、すすり泣きはやがて慟哭になった。
どうして僕は生まれたんだ!誰が!何のために!それもこんなに人とそっくりな姿に!!
どうせなら醜い怪物にでもしてくれればよかった、そうであったら人間だと思いこんで絶望することもなかったのに!!
どうして飢餓が治まると理性が戻るのか、ずっと何も考えずに狂い続けることができたなら苦しむことなどなかったのに!!
どうして!!
どうして!!
どうして……。
あの男の声が頭の奥で繰り返し、繰り返し頭の中で聞こえる。
人は誰しも生まれた理由があると。
人は誰しも幸福になれると。
人は誰しも生きる権利があると。
――人じゃない僕は、生まれた理由なんてものはないらしい。
――人じゃない僕は、人ならば誰しも得られる幸福を得られる日は来ないらしい。
――――そして人じゃない僕が、生きていることは許されないらしい。
悲しかった。ただただ悲しかった。
ああ、でも、そうか。そうだったのか。深い納得と共に、ストンと胸に落ちた言葉がある。
僕は生れた時から今に至るまで誰にも生を望まれていない化け物だ。
初めから気づいてはいた。認めたくはなかっただけで。そしてこの最低な生活を終わらせる方法も僕は初めから知っていた。
簡単なことだ。僕が命を絶ってしまえばいい。
僕が滅んでほしいと願う人はいても、生きていてほしいと望む人は誰もいない。僕が死んで起こる不都合など、何1つないのだ。
疎まれるばかりの僕でも、自殺という行いで最期に人々を喜ばせることができるならそれは悪くない死に方と言えるのではないか。
僕は死ぬべきだ。死んだ方が良い。生きていることは許されないから。
僕はどうにかして自分を殺すことにした。
でもそれはどうやらなかなか難しいようで、魔法で自分を傷つけても致命傷には至らず、食を絶っても気づけば人を食らっていた。
それでもどうにかして成し遂げなければ。自決の決意を固めてから幾星霜、僕は深い山中にいた。食を断つことで人を襲ってしまうのなら人が絶対に訪れないような秘境で過ごせば良かったのだ。
僕は適当な木に身体を預けて眠る。地面に散っている落ち葉が柔らかい。日に日に涼しくなっていく気温と比例するように、僕の体力も衰えていった。僕の死期が着実に近づいているのが分かる。酷い空腹なのに人を襲おうと意識を飛ばすことはなかった。
ここで死ぬのだと僕は確信を持っていた。
だがそうはならなかった。そのとき血の通った人間の匂いが、僕の鼻を突いたのだ。保たれていた理性はあっという間に消え失せて、一体どこにそんな気力があったのかと僕自身が驚くほどに僕は素早く立ち上がり、匂いに向かって歩き出していた。
気が付けばまた血塗れで、僕はまた何十回目の失望を味わった。




