淵底 上
「はぁ……はぁ……」
荒い息遣いのリベスの眼下には広大な湖が広がっていた。鬱蒼と茂った森の中に突如として現れた巨大な湖だ。遂にリベスは目的地にたどり着いていたのだ。それも図書館からあの巨体を引きずり続けて。
怪物の輸送は困難を極めた。それは単純な重さだけの話ではない。怪物の青く透明な身体が、巻き付けられた鞭から逃れようと水若しくはスライムのように染み出すのだ。
そこに関節なんてものは関係ない。図書館から遠ざかるまいと草木を手当り次第に身体に絡ませリベスを妨害する。
…だがそんな悪あがきもここまでだ。湖に投げ込んでしまえば、もうこの怪物は2度と陸に上がれはしない。そのはずだ。
最後のひと踏ん張りとばかりにリベスは力を振り絞って怪物を投げた。ブチブチと背が低い草が引きちぎれ、青の巨人は空を飛ぶ。その身体を縛っていた太く頑丈な縄は、役割を十分に果たして霧散した。
絶妙なコントロールで湖の中央に飛んでいった首なしの怪物は、後は落ちるだけだ。
表情は分からないが、必死に変幻自在な身体を動かしている様を見るに、きっと焦った顔をしていることは想像に難くない。
そのリベスの慢心が怪物の最期の悪あがきを完遂させた。怪物から長く長く腕が伸びて、小枝のように細く、脆い指がリベスの胸ぐらを掴んだ。いや、引っ掛けたと言った方が正しい。そして怪物は腕を伸縮させリベスを湖に引きずり込んだ。
巻き添えだ。この巨人にものを語る口があれば、きっとそう言っているだろう。表情は分からないが間抜けなリベスを嘲笑っている、そんな気がした。
巨体が水面に叩きつけられて、大きな飛沫が上がる。そしてリベスも怪物に続いて蒼い水に呑まれていった。
――深く、深く、沈む。
下を見れば青の巨人が必死に藻掻いていた。だが脳のないその怪物はそのせいで自らの沈む速度を速めていることに気づかない。じきに純黒の闇のような淵底にたどり着くだろう。上を向けば、満天の星空がこの大きな水面を僅かに照らしていた。
……そこの怪物とは違って、僕は泳いで岸に上がることができる。
水を搔くために持ち上げた腕をまた元に戻した。
そんなにこの生にしがみついて一体何になるんだか。
その後のことを何も考えずに自分の生存だけを選び取ろうとするこの身体は本当に嫌になる。
でも、ようやく僕は死を選べる。
この500年の最悪な人生もここで終わる。
死に際とは思えない程穏やかで、美しい光を目に焼き付けて目を閉じよう。この凍てつく水すら心地良い。そして静かに、緩やかに沈んで、ここで1人朽ちていく。
そして僕は永く永く見開いてきた瞳を閉じた。
――僕の生まれた理由は、生きる理由は、一体何だったんだろうな。
まぁ、そんなことももう、どうだっていい。




