春風 下
「私は……私はシノンの逃亡を手伝いたい」
その言葉はシノンの全く予想していないものだった。
唖然としているシノンを置いて、アウラは話し続ける。
「逃げるなら、人目につかない道がいいだろ?それなら1つだけ心当たりがある」
「さぁ、こっちだ!」
真夜中、4人は新雪を踏んで森を駆ける。街灯のない暗い道を、アウラの持つ小さな明かりだけが心許なく照らしていた。
「信用してよかったの?」
洗濯されていない血みどろのローブを抱えたアスターがシノンの横に並んだ。
彼は見慣れない黒の軍服のようなものをローブの内側に着込んでいたようだった。1枚脱いでも暖かそうだ。
「ええ、だって本当に目立たない抜け道があるなら、そっちの方がいいでしょ?」
「騙されているかもしれないよ?」
「贅沢に選べるほど、私には選択肢がないだけよ。学園を出たときからね」
使えるものは、使わなければ。そうでなくては生き残れない。
「へぇ」
アスターは興味を失った様で、相槌を1つ打つだけだった。
それから少し進んだところにアウラの目的地はあった。
「あれは…廃坑?」
針葉樹の緑と、雪の白の2色の風景の中に、ポッカリと真っ黒い横穴が見えた。その周りには無造作に大小の石が無数に立てられている。その全てがまん丸く雪の帽子を被っているようで、シノンは可愛らしく思えた。
穴に近づいて見ると、それが大分年季の入ったものだと分かる。あちこちがサビていて、それがいつ壊れてもおかしくないという雰囲気を漂わせている。
「この道を進むと、いろいろな出口に続いてるんだ。しかも、この道は最近使われてない。ばったり誰かに会うこともないだろう」
それをを知っているということは、アウラはここに通いつめていることになる。
でも、どうして。
「アウラ、これは一体何なの?」
シノンの質問にアウラは言葉を選んでいるようだった。
「………………私の、あの家に行く前に、居た場所」
「あんた、やっぱり兎だったのか。勘違いしていてすまない」
野生に住んでいたという意味に受け取り、謝罪するリベスにアウラが慌てて止める。
「そういう意味で言ったんじゃない!」
「昔、この地下にある施設に閉じ込められてたんだ。それで、時々辛くなると1人で戻ってた。皆と一緒に眠れたらどんなに良いだろうって…」
アウラはチラリと石たちを見た。
「でも!ここにはもう来ないよ」
過去を思い出すのは今日でお終いにしよう。
私はもう、未来だけを見て生きていけるから。
「シノン!」
「どうしたの?」
「…………またいつでもイズール村においでよ!」
アウラは言いたかった言葉を飲み込んだ。
「勿論!いつかまた」
シノンが笑顔で答える。2人は手を振って別れた。
3人が暗闇に消えたあたりでアウラはそっと手を下ろした。
そして今度は口元に当てる。
「私も皆のこと家族だって思ってるから!」
静かな森にアウラの叫び声が響く。
「だから!だから、いつでも帰ってきて!!」
いつまでも、待ってる。
決して本人に伝えることはできるはずがない。例えシノン自身が許してくれようと、私が1度シノンを殺そうとしたことは事実なのだから。
1度殺されかけた相手に何の物怖じもしないのが異常だ。普通は少なからず警戒するだろう。
まるで恐怖という感情が抜け落ちているようなシノンは不気味で、少なくともアウラにはそれが望ましい状況であるとは思えなかった。
だから、私と関係を深めることはしてはいけない。本来は距離を置くべき人物なのだから。
シノンを殺そうとした私ができることはここで願うことだけ。
シノンが、シノンを傷つけない誰かに囲まれて、どこかで幸せに生きられるますように。
東の空が白み出す。もうそろそろ夜明けだ。これは家に帰ったらまた怒られそうだ。
でも、それでももう1つだけ。
アウラは石のオブジェに向き直る。
「私はずっとこの耳が嫌いだった。なかったら誰にも迷惑を掛けてなかったし、辛いことを思い出させてくるから。こんなこと言ったら怒る?でもね、アスターに耳を取ればいいって言われて思い出したの。この耳は私の宝物だったってこと!勿論、今だってちゃんと付いてるよ?だから最後に言わせて」
「お父さんもお母さんも兎さんも、私、皆が大好き!…大切な宝物をくれて、どうもありがとう」
暖かい、強い風が吹いた。春風だ。春がすぐそこまで迫っていた。
木々は激しく揺れて雪を落とした。家路につくアウラは、石の上に積もった雪が静かにゆっくりと溶けだしていたことに気づきはしなかった。
放棄された通路を、アスター、シノン、リベスの3人は黙々と進んでいる。不意に、アスターだけが入り口を振り返った。
「何かあった?」
心配気なシノンにアスターは首を振る。
「いいや、ちょっと空耳」




