遭遇
一刻も早く田舎行きの馬車を捕まえなければならなかったが、シノンに御者の知り合いなどいる訳が無い。早朝の乗り合い馬車を待ち、都で一夜を明かすというのも危険過ぎる。
悩んだ挙句、シノンは酒場に向かうことにした。
そう、シノンはこの少しずつ自分の死が迫る環境に疲れ果てていた。だからもう酒を飲んで全てを忘れてしまおうという算段である。と、いう訳では無い。
シノンは御者たちの溜まり場など知らない。現在馬を走らせて往来している者たちは恐らく御者なのだろうが、仕事が終わっていないのに乗せてくれる訳が無い。そこで仕事終わりの男たちが集まる酒場だ。片端から声をかければ1人ぐらいは仕事終わりの御者がいるはずだ。飲酒運転など本当は御遠慮頂きたいが贅沢は言ってられない。
「と思ったんだけど…道を間違えたかしらね」
たどり着いた場所は明かりも少なく、人通りも疎らだった。酒場などある雰囲気ではない。
こんな事なら横着しないで、まず案内人を探せば良かった。取り敢えず元の大通りまで戻ろう。
通った道を戻ろうと踵を返した途端、シノンは左足首を掴まれて強い力で引っ張られた。
「きゃあっ!何っ!離して!」
シノンはバランスを崩して転んだ。そんなシノンを長く伸びた黒い煙のような腕が、更に人気の無く暗い道にひきづりこんだ。引きづられた先では男が1人、シノンの胴を両手で掴み、前髪の隙間から狂気的な目で凝視した。
男は、まるで路上で生活している様な、すっかり薄汚れ、糸は解れて、もはや原型を留めていないボロ布を身にまとっていた。アイスグリーンの巻き髪は前髪が長く、目を覆い隠す程だった。顔は整っているようだったが、満ち満ちた狂気が台無しにしていた。
彼の息は荒く、口許は涎が垂れているのだ。おまけに男の背から黒い腕が伸びているので、男がシノンを引きづりこんだ張本人だということは明らかだ。
男は顔を近づけてくる。
「嫌っ、お願いだから来ないで…」
全力で引き剥がそうしても男は変わらずに迫ってきた。
何で私を連れ込んだのかは全く分からないけど…
見知らぬ男に腰を強く掴まれて、シノンはもう精神の限界を迎えつつあった。
「離せっつってんだろうが!この変態!!」
シノンは思い切り男を叩いた。物音一つ無い閑静な路地にパシンと乾いた音が響いた。だがそんな事をしても拘束が緩むことは無く。こうなっては仕方ない、と今日の授業中に考案した必殺技を使うべく、両手を男へ向けた。
「君、大丈夫かい?」
突然、第三者の声がした。首だけで振り返ると、痩身の男がシノンを助けようと近寄っていた。髪は黒の短髪。身なりは、平民よりも貴族のような、見るからに仕立ての良さそうな服装をしていた。
黒髪はシノンを抱き上げる様な形で持ち上げて、男の腹を踏んで地面に押し付けながら引き剥がそうとする。強い力で腰を引っ張る男と更に強い力で引き上げる黒髪。2つの強い力で細いシノンの身体は千切れそうだった。
「痛い!痛い!痛い!離して!」
「ごめんねー?でもこっちも力を抜いたら助けられないから。もう少し頑張ってね。じゃないと、君、食べられちゃうよ?」
場面に似合わず綺麗な困り顔を見せる黒髪。
人が緊急事態なんだ、もう少し緊張感のある喋り方をしてほしい。
「…食べられるって……何?…どういうこと?……え、性的な意味で?」
シノンは痛みで息も絶え絶えだ。そんな中、頭上でプッ、と吹き出したような音が聞こえた。
「あのさぁ、俺はともかく、君にとっては生死が掛かった、結構重要な場面だと思うんだけど。もう少し緊張感をもったことを話してほしいなあ」
「……………………」
もうこの男については、何も言うまいとシノンは決意した。
「あ、それでねー、食べられるっていうのは──」
「その前に私を何とかしてくれませんかね!?」
さっきからずっとシノンの身体は男と黒髪の間を行ったり来たりしているのだ。状況説明の前に現状をどうにかしてほしい、シノンの切実な叫びだった。
「あ、ごめん。それじゃあ本気で引っ張るから、千切れないようにね…!」
途端、今迄とは比較にならない力で引き上げられる。
「ゔぅ…あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ」
大分、令嬢に有るまじき叫び声を上げてしまったが、絡みついていた男を剥がすことに成功した。
黒髪は抱き上げていたシノンを、地面に優しく降ろした。
「あ、ありがとうございます」
「どういたしまして、ってどうしてそんな距離とんの?」
黒髪が言いたいのは敬語による親密さの距離感ではない。シノンは降ろしてもらって直ぐに黒髪から距離を取ったのだ。
「知らない男に襲われて怖かったのは分かるけど、俺はそんな事しないよ?そうだ!さっき途中になっちゃった「食う」っていうのはね、文字通りに君は、すっかりアイツに食事として食べられちゃうってこと。要するに、人工生物 なんだよ、コイツ。聞いたことあるでしょ?」
人工生物 ──そう聞いてまた社会の授業を思い出した。人工生物 の中でも力の強いもの、弱いものがいる。約3万に及ぶ人工生物 の内の100体、彼らは人工生物 の中でも飛び抜けた力を持ち、人型をしているという。たった1人の人間に造られたことから、その人間の名をとって彼らはこう呼ばれる──
「カノン・レスター・シリーズ…」
「へぇー、シリーズ名まで知ってるとはねぇ」
シノンの口をついて出た言葉に黒髪は感心したように頷いた。
「カ、エ……セ」
弱々しい声が地面に伸びた男から発せられた。
「うわっ喋った!!」
「そりゃこんなに人間とそっくりなんだ、喋りもするよ」
たとえカノン・レスター・シリーズが人型であっても、他の29900体の人工生物 は化け物の形をしているのだ。シノンの印象ではとても人語を話せるとは思えなかった。それ故、シノンは人工生物 と言われた男が、話すことが出来るということに酷く驚いたのだ。しかし黒髪は、そんなシノンの態度に冷ややかな目を向けていた。
「カエ…セ」
もう一度男がそう呻いた時、また男の背から黒い煙が噴出し、幾つもの人の手の形をとってシノンに伸びた。
「ほら、危ないよ!」
黒髪は男を蹴り飛ばした。男は真っ直ぐ飛んで、路地の壁に激突した。
「ヴ、グッ……ア゛ア゛ァ」
だが男は苦しそうな声を漏らしながら、よろよろと立ち上がり、再び黒い手をシノンに向けた。
「早く俺の傍に!離れられたんじゃ、助けられるものも助けられない!」
黒髪が焦った口調でシノンに手を伸ばした。シノンを見つめるルビーの瞳の、その周りは真っ黒く染まっている。
シノンが黒髪の傍に行くことを渋る理由がそこにあった。シノンは前世で、漫画やライトノベルなどを嗜んでいたが、その中に出てくる白目の部分が黒いキャラクターは、だいたい悪役の場合が多いのだ。そうでないにしても、食人鬼であったり、良いイメージが全く無い。
異世界で創作のイメージを持ち出すべきではかもしれないが、ここはゲームの世界、そういう事が往々にしてあるのではないだろうか。…でも、口調は少しムカつくが、私を助けようとしてくれるし、黒髪の人が悪い人だとも思えない。それに私は悪役令嬢だ。彼が本当に悪役なら、敵の敵は味方というし、これから協力していく事も出来るかもしれない。
結局シノンは黒髪の手を取った。直後、強く手を引かれたシノンは、すんでのところで黒い手を避けた。シノンを自分の方へと引き寄せた黒髪は、そのままシノンを抱き上げてしまった。先程もシノンは黒髪に抱き上げられていたが、先程とは全然違う。まるであの男と同様に、シノンを逃がさないように掴んでいるように見えた。
「君の髪、すごく綺麗だね」
黒髪の細長い指が、短くなったシノンの髪を撫でた。いつの間にか帽子もトランクもどこかに行ってしまっていた。
は…?と、声にならないような呟きが、シノンの口から漏れた。シノンには、何故このタイミングで、口説き文句のようなものを囁かれなくてはならないのか、全くわけが分からなかった。
「路地で君が襲われているのを見て、一目惚れしたんだ。君は食べちゃいたいくらい可愛いね。まぁこれから本当に食べちゃうんだけどさ」
最後に、性的な意味じゃないよー、と続けた黒髪はシノンをからかっているようだった。
「食べるってまさか…人工生物 …?」
「そうそう、俺もアイツと同じカノン・レスター・シリーズの1つ。薄々気づいてたんでしょ?さっきも俺のこと警戒してたし」
全部、白目が黒いキャラのイメージ通りじゃない!あの時さっさと逃げてしまえば良かった。恐らくそれが、この人工生物 共から逃れられる1番のチャンスだったのだ。
シノンは猛烈に数分前の自分を殴ってやりたくなった。
黒髪は話している間にも、次々と襲い来る手を避け続けていた。シノンも黒髪から離れようと暴れているのに全く疲労の気配も見えない。
「ねぇ、もう2人とも諦めない?俺に勝てるわけないのに、ずっと捕まえようとしてる兄弟も結構不毛だけどさ、俺が人工生物 だと分かってから、離せって暴れだした君は1番不毛だよ。だってもし本当に俺が手を離したらどうするの?俺の兄弟に食われるだけだよ?それとも…君、変態に食われたいとかそういう性癖でも持ってるの?」
「持ってるわけないじゃない!」
引き気味に尋ねられた質問に、シノンは食い気味で答えた。
「じゃあ暴れる必要ないじゃん。どうせ食われるなら、あんな薄汚い奴より、かっこいい俺の方が良いでしょ?ほら、よく見て。顔は100点だよ?」
黒髪はシノンへ微笑んでみる。確かに黒髪はシノンの通う、国中から貴族の子供たちを集めている学園でもそう見ることのない程の美形であり、先程の自信過剰ともとれる言葉も否定することは難しいだろう。
しかしシノンは自分でかっこいいとか、100点とか言うんだ…、と、絶体絶命の状況であれ、若干引いたのが実情である。
「性格は0点だけどね!!」
「アイツは両方20点もいってないと思うよ!」
いけない、こんな下らない話をしている場合じゃない。
シノンは今度こそ必殺技を黒髪に放つべく、両手を黒髪の胸に向けタイミングを待った。黒髪は相変わらず縦横無尽に曲がり、捕らえようとする手を避け続けている。その一瞬、黒髪がシノンを抱えながら飛び上がり、そして地面に着地する瞬間。その間だけは黒髪の拘束が緩くなるのだ。
それに賭けるしかない!
シノンはじっと身を固くしてその時を待った。
「この子も納得してくれたみたいだし、そろそろお暇させてもらうよ」
暴れなくなったシノンを、黒髪はそう解釈したようだった。そして前方からやって来た2本の手を左右に身を捩って躱し、後ろの1本を飛び上がって回避した。
その上昇が下降に転じる瞬間、今だ!と、シノンは黒髪に向けていた掌から高圧の水を噴射した。黒髪の身体に傷を負わせる事は出来なかったが、高圧の水を噴射し続けるシノンは、拘束するに足りなかった腕から飛び出した。そして手頃な曲がり角に飛び込むと、すぐに両手から「シノン」を作り出した。
「二手に別れて逃げましょう!」
「ええ!」
2人のシノンは次の分かれ道を左右に別れて逃げた。