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霜夜の記憶

 私の覚えている限りの一番古い記憶は、目の前に錆びれた鉄格子があった記憶だ。

 とても大きい檻の中、冷たくて、怖くて、暗くて、泣いていた。

 隣の檻から巨大な生き物の観察するような赤い瞳が恐ろしかった。

 時々どこからか大きな音がする。地の底を這って響いているかのような重低音もあれば高い音もあった。そこで何が起こっているのか分からなくて、私は音が聞こえるたびに肩を揺らして震えたのだ。




 その次は隣の檻の住人が巨大な兎だと分かった時の記憶だ。

 ふわふわしていそうな真っ白い毛並み、ぴんと立った長い耳がこの無骨で若干血なまぐさい檻の中で可愛らしく感じられた。そんな私よりも大きな身体の兎が何体も同じ檻に押し込められていたのだ。


「兎さん……?」


 私がそう呟くと、


「ヴ、ザギ………ザン……?」


 と、兎はぎこちなくオウム返しをした。

 ただのオウム返しでも私の言葉が誰かに通じたのが嬉しくて、しきりに私はその兎に話しかけた。そうして一方的に話しかけるうちに、兎は言葉を覚えていった。相変わらず拙い発音だが兎たちと私は会話をすることができるようになった。

 それから兎は割とおとなしいことが分かった。私が勝手に背中を触っても怒らなかったのだ。兎はやっぱりふわふわだった。




 何日経ったかは分からない。自然光は入らない造りだったから。

 コツコツと人が歩いて来て私の檻の前で止まった。いつものように給餌に来たのだろうと思った。給餌の人は嫌いだ。同じ人なのに全然話を聞いてくれないから。今や兎の方が表情豊かでお喋りだ。

 でもあの日は違った。


 その人は檻の鍵を解くと、ずかずかと檻の中へ入ってきた。そしてぼうっとその様子を見ていた私の腕を取って強引に檻の外へ連れ出した。

 突然のことでバランスを崩して転んだ私を全く気に掛ける様子もなく、そのまま引きずるように檻を超え廊下を進む。


 私は初めて檻の外を見た。連れ込まれた部屋には身体を拘束するためのベッドと物々しい器具が鎮座していた。鉄の冷たい床には掃除してもぬぐい切れない血痕が染みついている。

 部屋で待機していた数人の男たちに腕を掴まれれば、私は暴れて逃げることもできなくて、あっさりと拘束具に固定された。その内の一人が鉈のようなものとハンマーを持って近づく。男は鉈を私の頭にかざしハンマーを振り下ろした。



 その後に覚えているのはまた檻の中の記憶だ。あれから何をされたのかは分からない。変わったことと言えば隣の兎が減って、私の頭に重くてふわふわする細長い何かが付いたことくらいだ。

 それともう一つ、私は訓練とテストをすることになった。喋らないあの人が私にいきなり話しかけてきたのは心臓が止まるほど驚いた。

 でも少しうれしかった。人との話は雑談ではなかったけど、話すのは楽しかったから。それもきっとあの手術のおかげだと思うと、あの時に感じた恐怖もどうでもいいと思えた。

 まずテストから始まった。そのテストの内容は小さな音を聞き取るというものだった。しかしやればやるほど周囲の大人たちが失望しているのが分かる。私はあの手術で小さな音を聞き取ることが得意になった訳ではなかった。

 それから訓練が始まった。音を聞き取る訓練はもちろん、身体を動かすこともやった。だが結果が良くなかったのだろう、いつの日からか訓練もテストもぱったり行われなくなった。私の話し相手はまた兎だけになった。



 それからはずっと変わりない日々を過ごしていた。それが変わったのはある寒い日だった。人が一人来て、兎たちの檻の前で立ち止まった。小さく軽い金属がぶつかり合う、鍵特有の音が聞こえて、ガチャリと鍵を開けた音が聞こえた。

 兎も連れていかれるんだろうか。そしてその後テストやら訓練をするんだろうか。そうだったとしてもまた全部終わった後で兎さんとお話ができたらいいな。

 ずっとこのままで良かった。

 期待に応えられなかった私はこれで良かった。

 私が望んでいたのはそれだけだったのに……。



 兎たちは檻に入ってきた人に一斉に襲い掛かった。なぜそんなことをしたのかは分からなかった。兎たちにはこの生活は嫌だったのかもしれない。

 兎は倒れた人から檻の鍵を奪い取って私の檻に投げ入れた。


「ニゲロ」


 と兎は言った。

 私は投げ入れられた鍵を使って檻から飛び出した。裸足で駆ける私の後を兎たちが続いた。私たちの脱走に施設の人たちはすぐに気づいて、武器を取って向かってくる。

 間違いなく、捕まったら殺される。


 私は必死に走った。


 背後から轟音が鳴り響き、眩い閃光が瞬いた。まるで横向きの雷だ。きっと誰かの魔法だろう。あれに当たったらひとたまりもない。並走していた兎たちが振り返り立ち向かった。

 だが武装した彼らの前には無力だった。兎たちはまるで重さのない紙屑の様に無造作に吹き飛ばされて動かなくなる。


 また轟音が鳴り響き、眩い閃光が瞬く。今度は私目掛けて。死を覚悟した瞬間、大きな影が目も眩みそうな閃光と私との間に割って入った。攻撃を直撃した兎は何度も大きく弾んだ。力なく寝そべった黒焦げの兎は、かすれた声で告げた。


「ニ…ゲロ」


 もう私に続いてこの施設を脱出しようという兎は見当たらなくなった。

 みんな動かない。死んじゃったんだ。


「一匹たりとも逃がすな!」


「殺せ!!」


 恐ろしい男たちの怒号が迫っている。

 私はそれに急いで逃げるでもなく、ぺたんと膝をついてしまった。


「…………ごめん、無理だよ。もう涙で、前も見えないんだ」


 嗚咽ながらにそう言うと、兎は見て分かるほどに震えながら起き上がった。


「ソレデモ…」


 兎は緩慢な動きで私の後ろに立ち塞がる。


「ハシレ!」


「う、うわあぁぁぁああ!!」


 私は乱雑に涙を振り払って走った。

 とても大きい檻の中、冷たくて、怖くて、暗くて、それでも寂しくはないこの場所で永遠に皆とお喋りできればよかった。外に出れたらと考えたことがない訳じゃない。でももう2度とみんなに会えないくらいなら、ずっとあのままで良かったんだ。


 それでも必死に足を動かす。一歩進むたびに足が凍てついたとしても。たとえこの道が出口への道でなかったとしても。


 走れ…!


 走れ!!


 そのとき、私は風よりも早く走った。初めて魔法が使えるようになったのだ。







ある施設の機密書類より抜粋


『被験体5番の実験内容が決まりましたことを報告いたします。この実験では、人工生物(ディミズ)と人間を合成することによって、人間に人工生物(ディミズ)の優れた能力を移植することを目標とします。使用する人工生物(ディミズ)はウサギ型。耳を剥ぎ取り人間に移植し、ウサギ型人工生物(ディミズ)由来の優れた聴力の如何を調査します。』


『テストの結果、実験は失敗しましたことを報告いたします。今後は定期的に被験体5番のトレーニングを行い、聴力、またはその他の能力の開花を促します。』


『全5回のトレーニングが終了しましたが、被験体5番の能力開花は見られなかったことを報告いたします。』


『全10回のトレーニングが終了しましたが、被験体5番の能力開花は見られなかったことを報告いたします。』


『全20回のトレーニングが終了しましたが、被験体5番の能力開花は見られなかったことを報告いたします。』


『本日、第2会議室で行われた会議にて、決定しましたことを報告いたします。

 第一に、被験体5番を殺処分とすること。

 第二に、次回の実験のため、ウサギ型人工生物(ディミズ)を3体解体し、前足を保存すること。』





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