逃亡開始
どうすれば、一体どうすれば…。そんなうわ言を呟いて、シノンは今日何度目かのため息をついた。自慢の見事なプラチナブロンドの長髪は、今朝念入りに解かれたというのに、持ち主が頭を抑えて唸るもので昼頃にはすっかりヨレヨレになってしまった。
昨日まで唯我独尊を地で貫いてきた令嬢、シノンは何故今になって何に頭を悩ませているかというと、何と彼女は今朝になって前世を思い出したからである。しかも、前世の知識から言うと、ここは乙女ゲームの世界、シノンは悪役令嬢なのである。そしてシノンには時間が無かった。朧げな記憶によると、確か今夜には最後の断罪イベントとして、シノンは処刑されるはずなのだから。
勿論、前世の記憶が蘇ったシノンは直ぐにここから逃げ出そうとした。しかし、シノンは学校に通わなくてはいけなかった。この乙女ゲーム、『聖女と6人の貴族』は学校恋愛ものなのだ。基本的に全員が使用人付きの豪勢な寮で生活し、滅多なことでは実家に帰ることが出来ない。その為シノンは放課後に何とかこの寮を脱出しようと決意していた。しかし今日の歴史の授業のことである。シノンは逃亡で頭が一杯だった。だがその逃亡計画に、冷や水を浴びせる様な授業だった。
「皆様は既にご存知かと思いますが、第13次世界大戦の負の遺産、今日は人工生物について説明しようと思います」
授業の内容を纏めると、人工生物とは、500年前に勃発した第13次世界大戦の為に生み出された生物兵器だ。使用方法は簡単、敵国に送り込むだけ。後は人工生物が勝手に主食として人に喰い、どんどん繁殖する。そして貴重な労働力を失い続ける敵国は衰退していく、というおぞましい兵器だ。
だが実際に使われることは無かったのだ。当時の敵国が輸送前に本土を襲って、結局人工生物はそのどさくさに紛れて人工生物を作り上げた国に定着してしまったのだ。
ただの笑い話だ。生命を冒涜した兵器を作り上げた国家の自業自得。
…ここがその人工生物を作り、未だに蝕まれ続けている悪名高きアルシネゴ王国で無ければの話だが。
「しかしこの学園は大切な皆様の命を守る為、王国の最新技術を駆使しておりますので、学園内で皆様はこれまで通り、人工生物に襲われる心配は一切ございません!これからも安心してお過ごし下さい。」
そう社会教諭がドヤ顔で締めくくって、授業は終わった。
だからシノンは今尚何処にもいけず、ベッドにうつ伏せているのだ。
「いつの間に乙女ゲームにスプラッタ設定が加わってたのよ。「既にご存知」って初めて聞いたっての」
あのハゲェ…と、シノンは社会教諭の毛根に理不尽な怒りを込めて叩いた。か弱い令嬢の拳など一昔前のお嬢様像にある様なスプリングには到底敵うはずも無かったが。
「…どうせなら低反発にしなさいよ。ってそんな場合じゃない!」
マットレスに完全敗北を喫したシノンは暫く倒れ込んでいたが、やがてはっと起き上がった。西の空が赤く染まり初めていた。本当にもう時間が無かった。
まるでこの世界が私に逃げるなと言っているみたい。明らかにタイミングが良すぎる。
…もしかしたら嘘かもしれない。だって私は人工生物なんて生まれてこの方見たことない。そうだ、絶滅しているに決まってる!私はこの世界に屈してやるものか!絶対に生き延びてやる!
決意を新たにしたシノンの行動は早かった。まずシノンは自分の腰ほどは優にある髪を一掴みにし、ナイフで一思いに切り落とした。シノンには舞い落ちる髪が金糸のように美しく思えた。
「さよなら、私の令嬢生活」
シノンは次に服を着替え出す。落ちた髪束を二度と視界に入れることは無かった。
服はなるべく地味で動きやすいのが良い。クローゼットを開けると…そっと閉じた。
「そうだろうと思ったけど…」
全く地味な服がない!しかしシノンは薄々分かっていた事である。地味な服など着ていた記憶など無いからだ。
シノンは右手を突き出した。すると右手の先から黒い布が伸びて、あっという間に黒く地味なワンピースが出来上がった。
余談だが、乙女ゲーム『聖女と6人の貴族』には魔法が存在する。この世界の住人たちは、必ず一人一人が何かしら特別な力を使えるのだ。シノンの場合は物質生成。両の手の平から何でも物を生成することが出来る。それも無機物、有機物、動物だって例外ではない。一見素晴らしい能力の様に見えるが、シノンにとってはそうでは無かった。
例えば処刑を阻止するべく、この能力で同級生たちに立ち向かったとしよう、まず間違いなく負けるのはシノンの方だ。学園で戦闘訓練を受けていない村人1人でも怪しい。というのは、例えこの能力で拳銃を作って発砲しても、相手は傷一つ付かないからだ。ほとんどの住人は1つの魔法と自分を護る球体の膜を張ることが出来る。それが出来ないたった2人の例外が、悪役令嬢シノンと主人公の聖女だった。
その上シノンの魔法は、作り出した物も時間が経てば直ぐに消えてしまう。
まあ人を苛めるのには便利な力だったのかもしれないわね。証拠も残らない訳だし。
シノンは最後に目深に帽子を被り、姿見を確認する。肩までに切りそろえられたプラチナブロンド、パニエの膨らみの無い質素なワンピース、シノンのアメジストの瞳を隠す黒い帽子。若干帽子が派手な気がするが…変装としては十分だろう。
そして今朝用意していた鞄を持てば準備完了だ。部屋のドアの取っ手を掴み、勢い良く開ける。
「さあ、行くわよシノン!」
「どこへ行かれるのですか?お嬢様」
「アメリア…」
廊下にはシノンの使用人、アメリアが立っていた。茶髪を後ろで一つに結び、使用人服をどんな時も着崩さずに着用している。凛とした表情も彼女の真面目さを窺わせた。
「はい、本日の外泊許可は頂いておりませんが」
「え、ええと…その、少し、出掛けようと思って。すぐ帰って来るわ」
いつもと違う服装はまだしも、出掛け程度で髪を切るだろうか。余りにも分かりやすい嘘だがアメリアは、そうですか、と道を退いた。
「…お気をつけて行ってらっしゃいませ」
通り抜けるシノンに辞儀をして見送った。
アメリアと別れたシノンは廊下、正門を誰にも気付かれずに通過し、街に降りることが出来た。
街はヨーロッパの都市をモデルにしているのか、石造りで、壁の色が珊瑚色に統一されていた。大通りにはもう日暮れだというのに人は止まず、馬車も忙しなく走り回っている。建物の壁に吊るされた街灯が昼間の太陽の様に眩しい。
さて、ここからが本番。馬車を捕まえて一刻も早く都を出なきゃ!田舎まで逃げれば流石に追い手は来ないはず。そうすれば私の悠々自適なスローライフが送れるはず!もう少しで手に入る理想の生活にシノンは浮き足立っていた。
その実際には地に付いているシノンの足を黒い痣が這い上がっていった。