幻のフェニキア人 ― 歴史探訪①
紀元前1500年頃、フェニキア人はエジプトやバビロニアなどの古代国家の狭間にあたる地域(現在のレバノン辺り)に居住していたことから、次第に周りの影響を受けて文明化した。しかし、それ以前の史料というものがない。彼らは商業圏を広げ、紀元前3世紀から紀元前2世紀になるとカルタゴを中心に西地中海まで勢力圏を伸ばして行ったが、ローマ帝国との3次にわたるポエニ戦争でローマ軍によって完璧に打ち破られた。この時からフェニキア人の名前は歴史から消え去り、ローマ人が表舞台に登場して、勝者、つまり、ローマ人が歴史を塗り替える。従って、どこまで史実なのかは後世の判断に委ねるしかない。
作家の有吉佐和子(1931年-1984年)は「フェニキア人は紅海、アラビア海からインド洋沿岸部を航海して日本列島にやってきた。」と大胆な説を述べている。確かに、当時のフェニキア人の造船技術は突出しており、15世紀後半からの大航海時代よりも前に彼らによって喜望峰などが発見されるに至っている。
又、最近のDNA解析の技術により、フェニキア人のY染色体DNAハプログループはE1b1b1a3、一般のユダヤ人はJ2aが多いがフェニキア人との交配でE系統も多いということが分かっている。日本にはJ系統もE系統も見当たらないが、日本に多いⅮ系統(縄文人)はE系統と同系で、分派してDとEに分かれた。日本人とチベット人に多いY染色体D系統は出アフリカ間もない時期のDNAがそのままチベットと日本に移動して来ていると分かるのだが、他のDNAからの変化を受けていない希少な例だ。D系統は日本、チベット、中東にしか存在しない。日本人のDは、中東から来たかも知れないが、フェニキア人はE系なので、有吉佐和子の言うようにフェニキア人が日本に来ていたとしても、日本人とは交わっていないということになる。それも不思議なことだ。
尚、フェニキア文字は東地中海地域でフェニキア人が創案し使用した文字で22個の子音文字からなり、今日世界各地で用いられている各種アルファベット文字体系の母体をなしている。最古期のフェニキア文字は太古カナーン文字ともよばれ、その創案は紀元前17世紀ころにさかのぼると推定される。
フェニキア人と言うとカルタゴの将軍、ハンニバルを思い出される方も多いであろう(殺人鬼のハンニバルではない)。彼は第2回ポエニ戦争(紀元前218~紀元前201年)で、三十数頭の戦象を含むカルタゴの大軍を率いてアルプスを越えてイタリア半島に侵入し各地でローマ軍を破った。彼は天才軍略家として知られるようになり、泣く子も黙る勇将として当時のローマ人に恐れられた。今でもローマ人は子供が悪いことをすると「ハンニバルが来てあなたを連れて行ってしまうよ」と叱ることがあるそうだ。
余談だが、カール大帝とナポレオン・ボナパルトもアルプス越えをしている。標高2473mの峠を越える際の荒馬に跨ったナポレオンの肖像画(ダヴィド作)は有名だが、実を言うと彼が乗ったのはラバだった。
ともかく、史料が殆どなく詳しいことが分からないため、「幻のフェニキア人」と呼ばれる所以である。
北アフリカ、チュニジアの首都チュニス近郊 ー カルタゴの遺跡