第四十二話
それはさておき、八八艦隊の夢が潰えた海軍は巡洋艦等の補助艦艇に力を入れていた。特に『知床』型給油艦については史実では同型艦が7隻であり前回は12隻に増えていた。これは亡き加藤友三郎による将和らへの遺産だった。そもそも計画当時では海軍が保有する給油艦は大小合わせて四隻である。
だが、今回は更に6隻増やして18隻の建造を行わせていたのである。
無論、加藤は18隻を保有させて初期の外国からの重油輸送を大量にさせようとしていた。特に北樺太のオハ油田を保有していた事も今回の大量建造に踏み切る要因の一つであった。
後に『知床』型は1930年代にボイラーと主機関の改装も施すが性能等は史実通りであり18隻となったので更に6隻分の艦名が増えていた。
同型艦 1 『野登呂』(後に水上機母艦へ) 2 『知床』 3 『襟裳』 4 『佐多』 5 『鶴見』 6 『尻矢』 7 『石廊』 8 『積丹』 9 『竜飛』 10 『珠洲』 11 『茅柴』 12 『白神』13 『波戸』14 『残波』15 『剣崎』16 『野間』17 『大瀬』18 『高崎』
また、野登呂型給油艦として予算が成立したが給糧艦へと変更された給糧艦『間宮』も建造されていた。
この加藤のおかげで日本は後の戦争の時に重油輸送は幾分か楽になるのである。また、海軍工廠や陸軍の兵器工廠、三菱等に雇われたドイツ人技術者が大量にいた。
ルール占領等によりドイツはマルクの価値が一兆分の一にまで暴落しハイパーインフレーションに陥ったのだ。飛行機や艦艇建造に携わっていた工員達は嘗て日本の大使館等が日本で指導する技術者が欲しい事を思いだし、遥か極東の地であるがカネ、食べ物を求めて日本へ渡航したのである。渡航した人数は400人程度ではあったが日本の技術力向上に一役買っているのは間違いない。渡航した技術者の中には日本に永住する者も現れてドイツ文化を日本に広める一因にもなっていた。
そして1924年8月8日、この日将和は空母『鳳翔』ら第一航空戦隊と共に沖縄近海で乙巡『五十鈴』艦長として艦隊演習に参加していたが気象予報官から気になる報告があった。
「何? 台風が接近していると?」
「はい、台湾からの気象台からの報告では……」
「規模は?」
「中心気圧850mb(当時の単位。今のhpaと同等)で最大風速も30m/sとの事です」
「うーん……念のため退避をするよう具申してみるか」
将和は意見具申として演習艦隊司令官松村菊勇少将に報告した。
「ふむ……」
「如何なされますか?」
松村は旗艦『古鷹』の艦橋で髭を撫でながら思案する。
「……航空機だけは退避しておこうか。那覇の飛行場に受け入れ態勢を要請。艦隊はそのまま暴風雨の中でも航行を可能とするための訓練として経路このままとする」
「分かりました」
結果として松村の判断は間違っていた。航空機を退避させた演習艦隊はそのまま演習を続行した。しかし、航空機を退避させた夜半、艦隊は激しい強風に遭遇するのである。
「こ、こいつは……」
今にも沈没するかのようにバウンドしながら海面に一瞬だけ潜り込んで直ぐに艦首が海面から顔を出すといった航行をする『五十鈴』である。他艦もそのような状況であり艦隊は混乱していた。
「乗員は外に出るな!! 出たら波に拐われて死ぬぞ!!」
「し、衝突音!?」
付近でガリガリと衝突する音が聞こえる。『五十鈴』ではなく他艦が衝突したのだろう。
「クソッタレ……」
将和は大波に耐えるしかなかった。被害が明らかとなったのは台風が通過した翌日だった。
「艦長!? 『鳳翔』の飛行甲板が……」
「……波でやられたか……」
『鳳翔』は大波をモロに飛行甲板に食らい飛行甲板は大破していた。それでも航行出来ていたのは乗員達の奮闘だろう。
他にも『古鷹』『加古』が損傷、駆逐艦3隻が大破するのである。更に台風観測では970mb、最大風速50mを記録しており史実の洞爺丸台風並に勢力が変わっていた。しかもこの台風、沖縄に上陸したと思ったら今度は中国大陸の沿岸部を荒らして漸く温帯低気圧に変わって一連の出来事ーー『沖縄台風』ーーは終息したのである。
日本ーー特に海軍は気象予報を重視するようになり後の第四艦隊事件にも大きく影響するのである。なお、『鳳翔』は内地帰還後に修理及び改装を行い、日式横索式制動装置が取り付けられるのである。
1924年11月、大陸の満州にて張作霖は奉直戦争に勝利して中華民国の政権は張作霖の手中に落ちる事になる。なお、この時の10月に北京政変が発生し愛新覚羅溥儀とその側近らを紫禁城から強制的に退去させられたが芹沢公使らの働きで日本公使館にて庇護を受けるが後に旅順へ移っている。
直隷派は日本公使館に溥儀の引き渡しを命じたが日本は回答として「震災時に義捐金を送ってくれた者を引き渡す事は出来ない」と拒否したのであった。だがこれが後に支那事変を引き起こす要因になるとはこの時は日本は元よりアメリカやイギリスも思ってもいなかったのである。
「ダムの建設か……」
将和は朝刊の一面に載せられた文字を見ながらそう呟いた。原内閣は将来の電力確保としてのダム建設を決定した。前回は13ヵ所だったが今回は技術力等も向上しており更に12ヵ所も増やされて計25ヵ所のダム建設が始まるのである。
ダムは将和の案も取りつつ今回も戦後に建設されたダムばかりであった。
ただ、何ヵ所かは岩石や土砂を積み上げて建設するロックフィル形式であった。そのためロックフィル形式に詳しい外国人土木技術者を雇用している。
本来としては黒部ダムの建設案も浮上していたが黒部ダムは戦前の建設では難しいと判断され黒部ダムは1945年以降とされ黒部川のダム建設は仙人谷ダムまでとされた。
資金や住民の移転の問題もあったが累計約160万キロワット近くの確保には政府も積極的だった。これらのダムは開戦前までには竣工して日本の生産に大いに役立つ事になるのはまだ先の話であった。
そして1925年2月、屋敷のとある一室の前にて将和はウロウロと歩き回っていた。
「落ち着きなさいよ貴方」
「し、しかしな夕夏……」
「貴方は三人も子を産ませているんだから少し落ち着きというものを持ちなさい」
「ア,ハイ」
将和は夕夏が入れたお茶を飲む。
「ま、気長に待ちなさいな」
「……そうだな」
その時、部屋から赤子の泣き声が聞こえてきた。
「……夕夏!?」
「……生まれたわね」
そこへ医師達が出てくる。
「おめでとうございます。お二人とも元気な女の子ですよ」
「あ、ありがとうございます。あの面会はいけますか?」
「五分程度なら大丈夫です」
そして将和と夕夏が部屋に入るとベッドに横たわるタチアナとアナスタシア、そして生まれたばかりの二人の赤子がいた。
「あ、貴方」
「貴方様……」
「お疲れ様ターニャ、ナーシャ」
「見る?」
「うん。あぁ、二人はそのままで大丈夫」
起き上がろうとした二人にそう言って将和は赤子を抱く。
「女の子か。良い名前を考えないとな」
「期待しているわ貴方」
「お願いします」
「やっぱり赤子は良いわねぇ。貴方、また頑張りましょうか」
「えっ? まだ頑張るの?」
「あら、悪いかしら?」
将和の言葉に笑顔で答える夕夏であった。そして1925年3月、生まれてくる者もあれば去る者もいた。
「爺さん……」
「ホホホ、流石に此処までのようじゃな……」
東京近郊にある和盛の屋敷にて将和は病床の和盛と会っていた。
「十分……十分生きたのぅ……まぁ一番面白いと思うたのは将和……そなたかもな」
「だろうな……」
ニヤリと笑う和盛に将和は苦笑する。
「龍馬もつい先日……逝ってしもうた……そろそろじゃろうな……」
「と思わせ振りはやめぇい。それで去年踏ん張ったら孕ませたんだろって」
前年には屋敷で働く女中に手を出して子を生ませてしまう和盛である。
「それで知子は……」
「母さんは俺ん家の近所にいてもらう。ほんとは一緒に住みたいけど前回の襲われた例もあるからな……」
母知子は産んだ女中らと共に将和の近くに居を構える予定である。
「なら良い……それと爵位の件じゃが……」
「幕府が交代した時に返上してなかったけ?」
幕府が交代した時、和盛は明治政権に不満を持つ者らに担がれないよう公爵の爵位は大政奉還と同時に返上していたので将和が男爵の爵位を持つ時も一悶着があったがその時は陛下からの「問題無し」との言葉で沈静化はしていた。
「民に無益な殺生や苦労させずに幕府を終わらせたのはワシの判断じゃ。それは間違ってはおらん。じゃがそれに恩義がませて裏から三好家を操ろうとする輩もおるじゃろう」
「……気になるけど、聞いていい?」
「ほれ、自称明治政権の功労者と言う岩倉や三条らの……」
「分かった、把握した」
史実では本当の功労者だった二家だったが和盛が早期に大政奉還した事、またその後の三好家処置問題で色々とやらかした事で子爵、侯爵のままである。
「もしかしたらで警戒はしておけ。どのような手でしてくるかは皆目検討もつかんがの……」
「分かった」
「さて……そろそろ寝るとするかの……」
和盛はそのままイビキをかいて寝てしまい将和も(まだ当分死なねぇな)と思っていた。
しかし翌朝、将和が再度会いに行けばそのままの状態で和盛は逝去していたのである。
「……彼処で見栄をはるなよ爺ちゃん……」
冷たくなった和盛を前に将和はそう呟くのである。そして同じ頃、東郷の元に和盛からの手紙が届いていた。
「……そいでごわすか……」
手紙を読んだ東郷は一筋の涙を流した。
「和盛どん、お疲れさんどした。後は例の事も含めておいが死ぬまで将和どんを見守るじゃどん……」
東郷はそう呟くのであった。
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