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投資小説集 ~ ゆっくりと、そして突然に

去る者は日々に宇土市

作者: jh



一週間前、ウェザーニュースもヤフー天気予報も今頃の熊本の降水確率を0パーセントと表示した。天草の下島の西側の海岸線は、日本の西の果ての一部、夕陽100選のスポットもある。どんな絶景が待っているかとわくわくしていたら、直前に天気予報が変わった。

三日前、瀬戸内海の地形は空の上から地図のようにはっきりと見えた。しまなみ海道が目に入る頃には、天気予報が外れるかもしれないと、期待せずにはいられなかった。気象予報士さんの失敗を願っているのかな、そう思ったら期待を口にするのが憚られた。外れるのが天気予報ではなく、私の期待の方なら、相当罰当たりな気分になるだろう。瀬戸内海が終わる辺りから雲の端が現われた。心の中で、あれ、あれ、と叫んでいるうちに、ただ一面真っ白な雲が九州を塗りつぶしてしていた。現実が戻った。熊本空港に向かって高度が下がり始めると、ボーイング747の窓には水滴がぶつかり、水の跡がすうっと流れ、油膜に覆われたように窓一面が濡れた。

就職して初めてのまとまった休暇。飛行機に乗るだけで浮かれていたはずなのに、晴れた土地から雨の降る土地へ着いた時から、私の気持ちは下がっていた。なぜ今日を選んでしまったのだろう。

変わった予報は恨めしいほど正確だった。2泊3日の旅行の間、夕日どころか太陽さえほとんど拝むことがなかった。車のワイパーが動いていないだけでもよかった、と今は思うべきなのかな。旅を満喫していたら、この時間は安全運転で空港にたどり着くことだけを願っていたかもしれない。そうなっていたら、もっと運転に集中できたかもしれない。ハンドルを握る私は明らかに気が散っている。助手席の竹村裕也に言葉をかける気にもならない。

私はまだ今回の旅の目的が果たせていない。

休暇の初日に一日で読破した、女探偵が登場するミステリーの一節が頭に浮かぶ。


…人の惨めさは、運の悪さで決まる…


 信号待ちでミラーを見上げた。後続の車はいない。視線をさらに上げると自分の顔が映る。私は地味な顔立ちで、不細工ではないと思うが美人なんて言われることはこの先もない。目の前の青い標識によれば、ここは国道57号線。助手席側のドアミラーを確認する。数時間後に返却するホンダ・フィットの青い車体の一部と道路が映っていた。裕也の横顔を覗く。顔のパーツの一つ一つには突出したところはなく、それがうまい具合にバランスを保っている。不細工には見えないが、イケメンと言われることもないだろう。私も裕也も外見で目立つところはないから、実はスパイや探偵に向いているかもしれない。

 小説の女探偵のことをまた考えている。

普段読むことのないミステリーに手を伸ばしたのは、女探偵の冬春夏子が私が通った都内の中高一貫校から慶應に進んだという設定だったから。大学を卒業後いくつかの職業を転々としたのち、彼女は探偵社で調査員として働いている。

「季節や天気に恵まれないのは運の悪い証拠」という言葉が溜息のように執拗に漏れる、冬春夏子は運が悪い。行く先々で突然の雨に降られ、旅に出れば台風や大雪で搭乗予定の飛行機は欠航し、梅雨のさなかにやっと一日休みが取れて、丸一日ベッドで横たわって過ごそうと決めた日に限って、雲一つない季節外れの晴天が広がる。それでも彼女は落ち込まない。


…世の中はどうせ等しく分布していない。私のような運が悪い人間が存在するから、常に天気に恵まれて、自分が晴れ男だ、晴れ女だと信じられる幸せな人間も存在できる…


「免許取る気ないの?」私は裕也に訊いた。朝方パラついていた雨は止んだけど、空を覆う灰色の雲に切れ目は見えない。

「美波は僕に運転してほしい?」

「それは反則だって言ったじゃない?」

「何が?」

「だから…、質問に対して質問で返すのはおかしいでしょう?、わたしはイエスかノーかの簡単な二択を提示してる、どちらかの答えを期待してるの、質問に対して質問で返すのは…」

「駆け引きだって言うことでしょう?、美波はボクとは駆け引きをしたくないんだった、悪かったよ」

「謝らなくていいから答えを教えて」

「取る気がないわけじゃないけど今は時間が惜しい、美波が運転してくれるから困らないし」

「運転できると楽しいのに」

「助手席も楽しいよ」

この人はそうやって自分の世界を狭くする。助手席は楽しいけど、運転席はもっと楽しい、そんな想像をしない。私は私でそれを口にしない。つまらない不満をためこむという世の中で一番くだらないことを繰り返す。裕也と付き合っている動機は楽しいから、というわけではなさそうだ。


…行動や言葉の意味を理解したければ動機を考えろ。投資の神様ウォーレン・バフェットの右腕のチャーリー・マンガーもそう言っている。どんな動機でその人がそれを言ったのか、それをしたのか、動機がわかれば判断を誤ることはない…


 竹村裕也が薄衣美波とつきあっている動機は何か? そして私が竹村裕也とつきあっている動機は何か? 

 二人のどちらにも動機がなかったら、これを愛と呼ぶのか?

 それを確かめることがこの旅の目的。

 冬春夏子の影響で、私は今回の旅行に目的というものを追加した。動機を確認することは私の好奇心を満たす以外の役には立たず、確認できなくてもがっかりしない、そのつもりだった。でも、どうやら違うみたい。探偵という職業から好奇心を取ったら何も残らないらしいが、私は探偵ではない。IT企業に今年就職した新入社員でウェブサイトを制作している。あまり他人に興味がある方ではないが、好奇心とは外に向かうものだろう。自分と彼との関係に好奇心を持ったのは、私の心が離れようとしている兆しなのかもしれない。

 私はまた裕也の横顔に目をやり。もう一度バックミラーをのぞき込んで自分の顔を見た。


…自分の容姿については美人ではないが、ブスでもない、そう思っている。こんな言葉は好きではないがこの範疇に当てはまる言葉を他に知らない、だから仕方なく使う、…人並み。それを裏付ける根拠もある。

中高の同級生に間島ノリコというのがいた。ある時期フェイスブックの同窓生のページが連日男と映った彼女の投稿で溢れかえった。それも豪華なレストランでの食事、リゾートで乾杯する二人、プレゼントされたブランドのバッグ、靴、時計、ジュエリー、とにかくここは1か月に一度誰かの投稿があればいいくらいのやる気のないページだったのだが、尋常ではない質と量が連日アップされていた。確かにいい男だと思った。でも、羨ましいと思う気持ちはまったく湧いてこない。最初は斜に構えた自分の感受性を疑ったが、いつも甘いだけの安酒を飲んだような後味だけが残った。

案の定、投稿はある日を境にばったり途絶え、ノリコは音信不通になった。

そんな日々があったことさえ忘れたころに、同級生の一人が私の勤務先に突然現れ、応接室の壁に掲げてあった東京都公安委員会の名前の入った「探偵業届出許可証」を指さして大笑いしたそのそばから、「間島ノリコの付き合っていた男は振り込み詐欺グループの一員で逮捕されたらしい」という噂を確かめてほしいと申し出た。「ついでに、ノリコの話を聞いてあげてよ」

噂は真実だった。私はノリコに会いに行った。彼女も警察で取り調べを受けたが、共犯者どころか、彼が犯罪者であることを疑ったことさえなかった。彼女を責めるつもりもなければ、慰めるつもりもなかったが、好奇心は隠せなかった。

「なぜ、彼はあなたにそこまでしたの?」

「自分は勉強ができなかったから勉強ができる女に憧れていた、そう言ったわ、私じゃなくてもよかったのよ」

「あれだけのお金を持っていること、不審に思わなかった?」

「勉強ができなかったから、一生懸命プログラミングの知識を身に着けて起業したと言って、その言葉を信じたのよ」

「そういうこと…」

「一つ聞かせて、私の投稿見てどう思ってた?」

「いやあ、すごいなあ、と思ってたわ」と可愛いことを言えないことが私の欠点だ。話を引き出すためには、人を気持ちよくさせる方法と、人の感情を逆撫でする方法があるが、前者ですむなら前者を使うべきだったと何度反省したことか。私は正直にこう言ってしまった。

「歪んだ自信、という言葉がぴったりだと思ったわ」

その瞬間歪んだのは彼女だ。今にも叫び声を上げそうに口を広げ両目を見開いた。私は身構えた。でも何も起こらなかった。彼女は自分でスイッチを切ったかのようにうつむいてボソッと言った。「あなたみたいな美人にはわからないわよ」

この時生まれて初めて美人だと言われ、一瞬力が抜けた、いくら同級生のためのタダ働きだからと言って褒められるのが報酬だなんてまるで子供の使いだ。

「私程度での容姿でわかってあげられないというなら、あなたの話を分かってあげられる人は世の中に何人いるのよ?」私は言った。

ノリコはゆっくりと顔を上げ、私の目を見て言った。「私、どうかしてたかな?」

私はうなずくのを保留したが、ノリコはふふふ、と笑い出した。

そう、私を美人を言ったのはどうかして証拠だ。

もうひとつある。

自慢するつもりかと誤解してほしくはないが。依頼人に言い寄られたことはそれなりにある。客観的に見れば、結婚適齢期の女が不安定な職業に就いている、いわゆる、隙だらけというやつ。それもあって、愛想なんてない方がよけいなことに巻き込まれなくてすむからと愛想笑いは極力しないよう気をつけている。でもその時に限って、依頼人の紹介者から「オレの顔を立ててくれ」などと言われ、一度くらい仕方がないかと隙を作ってしまった。

食事が終わり店を出たところで、「タクシーが来るところまで少し歩きましょう」と言われ、私は黙ってついていった。

「冬春さんは美人だってよく言われるでしょう?」

「いえ、言われたことないですし、そうも思いません」

「男がそう言わないのは、あなたみたいに素敵な人を満足させる自信がないからです、ボクならきっと満足させられる」そう言って依頼人はいきなり唇を重ねてきた。

私はヒールで依頼人の靴を踏みつけ、頬を張った。

「痛え!」依頼人は人通りも憚らず大声を上げた。その次に出てきた言葉はまるで小学生だ。「調子に乗るなよ、このブス!」

「あんただって結局ブスしか口説けないじゃない!」このセリフはちょっと小学生っぽくはなかったが、そのせいか依頼人が大人に戻った。

「あんだと、後悔するぞ、いいか、一つ教えてやる、女って言うのはな、若いうちは権力のある男と結婚はできなくてもセックスはできる、でもなあ年を取れば結婚もセックスもできなくなる、今をどう生きるかよく考えろよ」

「はい、さよなら」

 ある時は美人、次の瞬間にはブスと呼ばれるのは、しょせん人並みなのだと納得した…



 いつからこんな気持ちになったのかな。人並みの恋をしているつもりだったのに。

旅の計画は楽しかった。名目は「夏季休暇」だけど二人とも真夏の太陽が苦手で、10月の半ばまで楽しみを伸ばした。

「美波、車運転してくれるよね?」

「もちろんよ、ドライブが楽しいところがいいなあ」

「どういう場所なら楽しい?、運転しないから感覚がわからない」

「助手席に座って楽しい場所なら、運転も楽しいよ」

「たとえば?」

「…海岸沿いとか?」

「ああ、いいね、じゃあ海岸攻めようか?」

「PCで地図見ない?」

「いや、ちょっと待ってて、いいものがある」私の提案を裕也は勝ち誇ったように否定して、ソファから立ち上がり本棚に向かった。取り出したのは挟んであった日本地図。床の上に広げると一畳くらいの大きさがある。

「すごい、こんなの持ってたの?」

「持ってるだけ、何年も広げたことないよ」

「でもすぐに出てきたじゃない?」

「本棚はいつも整理してあるから」

「ねえ、どこ行こうか?、どこ行きたい?、こうやって地図広げると、地形っておもしろいね」

「うん、そうだね、…10月半ばだったら北はもう寒いかな?、北よりは南がいい、美波と南に行こう」

「小学生以来よ、そのダジャレ聞くの」

「恥ずかしいこと言った?」

「許してあげる、でも沖縄って感じでもないよね、私たち?」

「そうだね」裕也が地図の上に身を乗り出した。「…へえ、長崎の西側の海岸はものすごいね、フラクタル感が半端ないよ、解像度上げて行ったら海岸線の長さは何倍にもなりそうだ」

「うわ、ほんと、でも長崎県そのものがすごい形をしてる、対馬も五島列島も大きいのね、島じゃない部分とまったく一体感がないわ」

「この大村湾の西側のこの地名、何て読むんだろう…」裕也がすぐにスマホで調べる。「にしそのぎ、へえ、この西彼杵半島が巨大な頭、長崎半島が前足、島原半島が後ろ足で四本足の動物に見えるよ。この動物のピースをはめる位置を間違えたおかげで、大村湾がぽっかり空いちゃったみたいだ。本当は大村湾の位置に西彼杵半島がハマるんじゃない?」

「裕也、すごい、よく気が付いたわ」

「美波もそう思う?」

「うん、長崎の地形は全然オーガナイズされてないね、…私も何か見つけたいな」

「負けず嫌いだね、美波は」

「ちょっと待って、向き変えていい?」

「どうぞ」

「きっとこれで…、」私は地図を反時計回りに90度動かした。「ほら、見て、東を上にすると今度は島原半島が頭蓋骨の形に見える、長崎半島か前足で、平戸が後ろ足」

「おお!、こっちの方が大きくて迫力がある、…負けかな」

「やったあ!」

「じゃあ、もう九州にしようか?」

「いいの、決めちゃって?」

「いいんじゃない?、早い、もう決まった!、…九州は修学旅行以来だなあ」

「へえ、いいなあ、私九州は行ったことないよ」

「ええ?、修学旅行どこ行ったの?、海外?」

「ううん、中学は京都、高校は東北」

「ええ、地味!、東京の高校ってそんな地味なところに行くの?」

「うちの学校が変わってるのよ」

「東北のどこ?、仙台とか?」

「ううん、八幡平とか十和田湖とか中尊寺とか、なかなか行く機会がないからそれもいいでしょうって、それが学校側の常套句よ、確かに奥入瀬渓流は綺麗だったなあ、正直修学旅行なんてあまり楽しみにしてなかったけど、あの景色見たらちょっと感動しちゃった、あの日は天気もすごくよくて…」

「晴れ女がいたのかな?、もしかして美波?」

「私じゃないわ、そんなに運がいい方じゃないから」

「そっか、オレもそうなんだ」裕也は呟いたとき、私はまた地図を見ていた。

「ああ、知らなかった…」

「何が?」

「島原の乱を率いたのは天草四郎」

「そうだね」

「でも見て、島原半島は長崎県、天草は熊本県」

「本当だ、しかもつながってないね」

「うん、ちょっと待って、また調べちゃおう、世界遺産に登録されたのは…、ああ、これ、長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産は2018年7月に世界文化遺産に登録されました、だって」

「まだ一年かあ…、もう少し前のような記憶があったけど」

「ということは、島原と天草はこんなに近いのに車では行き来できないんだ」

「不便だね」

「ああ、今思い出した」

「何を?」

「天草四郎に興味を持ったことがあるの、高校の頃かな?」

「十代で死んだ悲劇のヒーローだから?」

「違うの、そんなのじゃなくて、あり得ないと思ったのよ」

「何が?」

「だって、十代の男の子に大の大人たちがついていく?、それも儲け話じゃないのよ、生きるか死ぬかの闘い、おかしいと思わない?、だから、天草四郎なんて人物は捏造じゃないかと思ったの、じゃあ誰が捏造する?、歴史は勝者の側からしか書かれないから、捏造するとしたら幕府軍、じゃあその動機は何?、天草四郎というキリスト教信者の悪魔を仕立て上げて、悪魔に魅入られた人々を皆殺しにした、とか」

「残酷な高校生だったね?」

「そうなるよね」

「儲け話だったら納得したわけ?」

「そうかもね…、もう少しロマンチックなことも考えたつもりだったけど、心中ならありかなあ、とか…、現生になんの希望もないとところに天草四郎というイケメンが現れて、来世で一緒になろう、なんて言われたらコロっといってしまうかなあ、…そっちの方が高校生らしいよね」

「まあ、いいよ、美波と南に行けるなら」

「またそれ?」



…同意した母親も母親だと思うが、この冬春夏子という冗談みたいな名前の名付け親である父親はたいそうなろくでなしだった。私は夏に生まれ、飽きが来ないようにと、四季の中で唯一秋の入らないこの名前になったらしい。飽きがこないという名前に込められた願いの通り、執念深いと言われることが年に数度ある。職業柄褒め言葉と受け取ることにしている。父親はギャンブルにはまり職を転々とし、酔っ払って一晩過ごすつもりでサウナに入り、誰もいない水風呂で溺れ死ぬという惨めな最期を遂げた。私はこのまま貧乏な母子家庭で一生を終えるものと思っていた夢も希望もない小学生だった。父が死んでから二年もしないうちに、母の弟、つまり私の叔父が創業者の一人として名を連ねた会社が上場し、お金持ちになったその独身の叔父が援助をしてくれたおかげで、ろくでなしだった父親と縁が切れただけではなく、突然経済的に恵まれてしまった。その結果。貧乏に対する耐性がすでに体にしみつき、子供らしいのびのびしたところはみじんもないくせに、悩みも何一つもない、いや、人生は悩む価値さえもないと納得している、可愛げのない人間の素地が出来上がってしまった。

 父親は自殺したのかもしれないと疑ったことがある。自殺という範疇にはあてはまらなかったとしても、酔っ払って水風呂に入ったらそのまま死ねるのではないか?、と想像くらいはしたのではないか。事故死だろうと自殺だろうと私の父親に対する気持ちが変わるわけではない。ただの好奇心だ。

 でも母親には訊けなかった。何年かずっとためておいたが、叔父に打ち明けてしまった。

「姉さんには訊いてないんだ。それはそうだよな。夏子はよく我慢したよ。でも、姉さんは大丈夫なんだよ、そういうの」

どうやら母や叔父の周りには自殺した人間が何人かいたようだが、母はそこに運命とか前世の報いとか、そんなことを少しも思わなかったらしい。ただの偶然が重なっただけ、そうとしか理解しなかった。度を外れた偶然は誰かの身に降りかかるもので、それがたまたま自分の身に降りかかっただけ、そこには何の因果関係も存在しないのだと。

なるほど、日本では年間に自殺者が三万人以上いるらしいが、その分布はきっと歪んでいる。未来は等しく分布しないらしいが、それは現在が等しく分布しないからだろう。


私にはこの稼業が性に合っていると思う理由が二つある。一つ目。「この仕事から好奇心を除いたら何も残らない」というのは、レイモンド・チャンドラーの『さらば愛しき女よ』に出てくる有名なセリフだが、本来他人が何をしようが何を考えていようがあまり関心がない性分もかかわらず、報酬が絡むと俄然好奇心が湧いてくる。ただし、英語には「Curiosity killed the cat」という諺がある。好奇心が猫を殺した。好奇心も度を越えたらろくなことにはならない。どうでもいいところで好奇心が増殖し、よけいなことに首を突っ込んだせいで、何度か怖い思いをした。おかげで経験値だけは上がり、その結果怖いものがなくなるどころか逆にどんどん増える。経験が浅いうちは、怖い思いというのがどういうものか想像できないおかげで怖いものがなかった。今では頭の中で思いつく限りの怖いことを想像してから行動するようにしている。それでも私の想像力は浅はかだったという悔悟は周期的に訪れる。そして二つ目。ろくでもない人間ばかり惹きつける人間のことを英語で「bum magnet」と呼ぶが、きっと私はそれに該当するのだろう。私の周りには誰かを殺したい人間や自分を殺したい人間が次から次へと現れる。たいていの場合殺したいと思うだけで実際に殺したりはしない。何か別のことで自分の気を済ませて帳尻を合わせる。自分の気を済ませるために何かをするという思考回路は私にはないが、こういう人たちがいるおかげで私は食べていける…



 二日前、旅行初日の夜、私は裕也に仕事の話をしたくなった。

「お疲れ様です、竹村さん」

「美波、何の冗談?」

「セックスした後に言う言葉じゃなかった、ごめん」

「気持ちよくなかった?」

「そんなことない、ごめん、気を悪くした?」

「いや、いいよ、…それより、どうしたの?」

「話、続けてもいい?」

「どうぞ」

「うん、…会社って言うのはお疲れ様です、ってあいさつをするところなの、疲れてもいないのに」

「それ前も聞いたよ、違和感には慣れたって言わなかった?」

「うん、慣れた、ただの言葉だから。こんにちは、と言われて、こんにちはどうしたの?、いいお天気?、などと続きを期待する人はいないよね?」

「そうだね」

「でもね、裕也、私の違和感の正体はそこじゃなかったの、会社にはたくさんの人がいて、年齢も違う、バックグラウンドも違う、雇用形態も違う、うちみたいなIT企業はものすごく人が入れ替わる、いつの間にか人が増えて知らないうちに人がいなくなり、お疲れ様です、という言葉とともに、いつからいていつまでいるのかわからない人を相手に笑顔を浮かべて会話やミーティングが始まる、とても穏やかに…、この穏やかさ不安の正体なのよ、ネットの世界でよく言われるのは、規制すれば規制するほど地下に潜ってたちが悪くなる、人間ってみんな違うから、合わないのがデフォルトだと思う、表面的には穏やかに過ごしていても、少しずつ、ほんの些細な不満がゆっくりと溜まってくる、その人の仕事のやり方を見てなんでそんなやり方してるの?、まだ終わってなかったの?、そこではっとして我に返る、小さいなあ、もっと心を広く持とう、と自分に言い聞かせて、その時はそれで収まるのだけど、またしばらくすると似たようなことを思う、私がそう感じていることをたぶん周りの人も私に対して感じている」

「そうかな?」

「そうよ、…なんでもいいのよ、何かしらかが気に食わなくなる、私の顔とか、喋りかたとか、そういうのもある。この前は、薄衣さんは私と違って優秀だからって言われた、あれも嫌な言葉、悪意がなければ私と違ってなんて言葉は使わない」

「嫉妬だと思うけどなあ」

「私より優秀な人いくらでもいるのよ、嫉妬する価値なんて私にはないよ」

「敵わない相手に嫉妬なんかしない、美波のことをなめてるね、女子の新入社員の中で美波が一番優秀だってわかってないよ」

「女子は少ないから…」

「それ、ロジックが破綻してるよ。会社って…嫌な場所だね、美波のような冷静な人間がゆっくりと無駄に感情を揺さぶられる、そしてある日突然、ブチ切れるんじゃないかと想像する、就職なんてするもんじゃない」

「裕也は今でも就職しなくてよかったと思ってる?」

「もちろんだよ、そもそも経済合理性がない」

「本当にそう思う?」

「だってそうでしょう?、まずあの就活が面倒くさすぎ、企業のこと調べて採用担当者が喜ぶような自己アピール書いて、いやその前に自己アピールするために何かを経験しなければいけない、それも社会性が高いやつ。就職のために一年ボランティアするような思考回路の人間と同じテーブルで評価されるんだよ、おかしいでしょう?」

「でも一回きりのことだよ、転職はもっと楽みたいだけど、就職しないと転職もできないわ」「ものには限度がある、だから自分の周りには就職しない人間が三割もいるんだよ。一つの専攻に限った話と言え東大生の三割が就職しないってことをもう少し真剣に考えてもらいたいよ。面倒なことクリアをして就職しても満員電車で通勤して、日本の企業なんて無駄な会議だらけで拘束時間が長くて、給料は安い。終身雇用制なんてもはや存在不能だよ。これから30年後に存続している会社が何割あると思う?、就職するよりもっとたくさんお金を稼ぐ方法はあるし、自分のスキルアップのために時間を有効に使いたいよ、美波はそうは思わない?」

「会社にいればいやでもいろいろな人と接するから刺激はあるよ、自分だけでは気づかないことをインプットしてもらえて興味の幅も広がる、次から次へと新しい技術や情報に触れて新たな仕事が生まれる、止まらずに動き続ける、大切なのはお金だけじゃないと思うよ」

「そうやって歯車になっていくんだ?」

(歯車にならないと居場所がなくなっちゃう気がする…)そう言いかけて口を閉じた。裕也の自尊心を傷つけることは言わない方がいい。

「そうだ、昼間買ったアイス食べようよ」私は話題を変えた。

「取ってこようか?」

「いいの、私が行くから待ってて」私は裸のまま冷蔵庫に向かった。扉を開けるとプリンも入っていた。

「プリンも一緒に食べようよ。絶対美味しいわよ。特に九州のプリンは、卵が全然違うはず。夕飯に出てきた卵、感動しなかった?」

「そうだっけ…」

裕也は食べることが好きだと言うわりに、食べているときに幸せそうな顔をしない。ただ黙々と食べている。美味しい?、と訊くと思い出したように、美味しい、と答える。私は裕也以外の人とは付き合ったことがない。男というのはこういうものだと結論付けるにはサンプルが少なすぎる。でも、ひとつだけわかった。女友達と食事をして美味しいものを口に入れた時、お互いに料理から顔を上げて顔を見合わせて目を丸くして、次の習慣に顔を綻ばせてまったく同じタイミングで至福の表情に移行する、あの瞬間が裕也との二人の時には存在しない。ああ、他には何もいらないという瞬間。あれは、女同士だからできるのだろうか。「この人と一緒にいるだけで幸せ」という男の人には一生巡り合えないということか。あるいは女の人を好きになった方がいいのだろうか。

 裕也はいつものように淡々とプリンとアイスを食べた。私は美味しい?、と訊くこともなかった。

裕也がシャワーを浴びている間に冬春夏子の本を手に取った。


…体と心を許した男は何人かいた。でも、その男に会っているとき、あるいは会えないとき、胸から言葉がこぼれるような思いはしたことがない。私は胸にも欠落がある。

自分に余裕がある時に、相手が惨めなら優しく近づいていく。惨なはずの相手が自分よりも眩しく見えたら離れていく。女友達とはそういうものだ。恋人もいなくて、仕事があまりないから貧乏だけどヒマだけはある、そのくらいに思われているくらいが私にはもっとも都合がいい。私もいたって普通の人間だ。一人でいるのは好きだが、誰にもかまってもらえないのはひどく寂しい。

そしてお相伴に預かれるのはヒマ人の特権だ。予定なんてないにこしたことはない。



 普段の裕也に予定はあるのかしら。たぶん私と裕也では、時間の感覚も違うのだろう。

昨日の夜は裕也が自分の話をした。

「最近あまり調子よくなんだよ、ビットコインのボット」

「そうなの?」

「うん、前みたいにパフォーマンスが上がらない、業者間の価格差が小さくなってアービトラージの収益が落ちちゃってる、ツイッターでも同じこと言ってるヤツ見つけたけど」

「運用会社のお友達は何か言ってた?」

「あいつは株の担当だから、ビットコインのことは知らないんだよ」

「そのボット、改良できないの?」

「開発者に言えばすぐに直してくれそうなものだけど、連絡がとれないんだ、他人が書いたコードに手を入れるのは大変でしょう?」

「そうだね」

「ネットっていうのはすごい場所だよ、あんなに儲かるモノをタダでくれる人間がいる、どういう神経だか知らないけど…、最初は怪しいと思ったよ、でも動かしたら簡単に儲かる、性善説は正しいのかなあ?、あの程度の技術はお金に換える価値もない、と思っているのかもしれない。とりあえずプラスは出ているからそのまま細々と回している。手を入れられるとしてもFXのアルゴリズムが完成してからかな?」

「そっちはどんな感じ?」

「試したいことばかりで、完成までどのくらい時間がかかるか想像もつかないよ。人を雇ってコード書いてもらうことも考えてるけど、自分のアイデアを晒すことになる。雇った人間が信用できるかわからない、アイデアを盗まれて終わるかもしれない、悩ましい」

「性善説は通用しないってこと?」

「そうなるかあ、…あとは綿貫の手法がまだわからない、マネしてやろうと思ってあらゆるインディケーターのパラメータを思いつく限り変えて検証してるんだけど、どれも引っかからない、ディープラーニングさせるにもサンプルが少なすぎて…」

「相当稼いだんでしょう、綿貫さん?」

「実家にフェラーリで帰ったらしい」

「結局連絡は取れないまま?」

「もうその気もないよ、ボクには会いたくないんだろう、あいつも岐阜を出た人間だから。知ってた?、岐阜出身者って一番県外に出ないらしいよ、岐阜で一生を終える」

「そんなデータあるの?」

「らしいよ、ボクも地元の友人とはほとんど連絡なんか取らないから、…ああ、でもたまに読んでいたブログを書いてたのが高校で一緒だった綿貫だと知った時は驚いたよ、あいつのことなんて夢にも思わなかったからタイトル見ても全然ピンとこなかった。あいつさあ、ガキの頃から、『わ、たぬき』って呼ばれたのが嫌だったみたいで、自分は『エイプリル・フール』だって言ってたんだ…、『四月一日』って書いて『わたぬき』って読む苗字があるらしいよ、あいつは普通の綿貫だけどね。『41GMのFXトレード』、41は4月1日、GMはgood manで良男、綿貫良男が41GM」

「おもしろいね?」

「ダサいよ。…まあ、ブログとか嘘つきだらけなんだ、例えば口座二つ持って、反対側の口座では逆のトレードして勝っている方だけアップする、とかね…」

「へえ?」

「あのブログにもトレード収益が毎日アップされて、気が付いたら1年で億超えました、ってね、いかにもインチキだよ。でも高校卒業後ほぼ消息不明だった綿貫がどうやらFXで何億も稼いだって噂が流れて、そこでつながった。たぬきでエイプリル・フールだからインチキの方が似合いそうなのに本物だった。あいつができたことがボクにできないはずはない」

「綿貫さんって天才じゃないの?」

「あいつが?、まさか、たいして頭がよくないから受験ぜんぶ失敗したのに?」

「そうじゃなくて、たとえば投資の天才というか眼鼻が利く人、そういう人っているでしょう?、勉強のできるできないは関係ないのよ。会社にだっているわよ、プログラミングでなんでも作れちゃう人、軽い気持ちでこういうことできないってお願いすると簡単にパパパって作れちゃうの。どうやって勉強したのですか?、って訊いても、勝手に覚えたって、きっと嘘じゃないのよ」

「生まれながらのプログラムの天才かあ…」

「そうじゃなくて…、好奇心じゃないかな?、…想像だけど、綿貫さんってFXに対する好奇心がすごかったんじゃないの?、消息不明だった間、ひたすら研究していたかもしれない、誰にも会わずに部屋にこもって」

「ボクだってずっと部屋にこもってプログラムの勉強をしてコードを書いてるよ」

「裕也はビットコインもやってるし、時々プログラミングの仕事も請け負ってるでしょう?、一日中FXに夢中になってるわけじゃない、違う?」

「夢中かあ、それはないな、ボクはFXやビットコインにものすごく興味があるわけじゃないかもね、頭を使えばお金が稼げることがわかっている、だからやってる、それだけかな…」

「そんなにお金が稼ぎたいの?」

「稼ぎたいよ、美波はそうでもないでしょう?、ボクは稼ぎたいよ、岐阜の田舎の出身で家も貧乏だったからお金は欲しいよ。美波のように東京育ちで何不自由なく育った人とは違う」

「うちは庶民だよ、…ねえ、大金を稼いだらそのお金は何に遣うの?」

「そんなのまだわからないよ、お金持ちになれば見える世界がきっとある、その時に答えが見つかるよ」

「なれると思う?」

「なれるよ、綿貫ができたんだから」

(裕也、いつまで綿貫さんを下に見ているの?、もっと嫉妬したらどう?、そうすれば何かがわかるよ、日々生活をしていれば感情を揺さぶられることもあるんだよ、嫉妬は現実を歪めて見ることかもしれないけど、あなたは現実から見たくないだけじゃないの?)

また言えなかった。私は裕也を怖いと思ったことはない。暴力を振るう人ではないから。私が怖れているのは彼のプライドだ。就職する前は、裕也の自尊心が立派だと思っていた。私はあんなふうに自分に自信が持てない。就職して半年ちょっとの間に、能力の高い人を実際に何人も見た、とても敵わないと落ち込むことも何度かあった。それでも、自分が成長していることだけはわかる。手ごたえがある。その確かな手ごたえのせいで、裕也のプライドが、空っぽで中が透けて見える薄いガラス玉のように見えてしまう。力を入れたら壊れてしまう。壊れる時には私も傷つく。私が間違っていればいいな、と思う。でも口に出せない、言えないから変形する。ゆっくりと。

「美波は自分の作っているサイトに書かれていること全部わかってるの?」裕也は少し攻撃的な口調で質問をした。

「え?」

「あれはなかなかの情報量でしょう?、株とかFXとかやってる個人投資家のほとんどがアクセスしてるサイトだよ、美波はそれを作っている。見てる側は全部はわかってない、わかる必要もない。ただ自分の知りたい情報をサイトで拾ってるだけ。必要なのはちょっとしたパーツだけ。ではそのパーツを並べる側の美波たちは、そのパーツ一つ一つにどんな意味があり、どうやって作られて、どうやって使われるのか、全部把握してるの?、前から聞いてみたいと思ってた」

「今、正直ちょっとドキッとした、…そうなの、ウェブサイト制作といっても私はパーツを並べているだけ。一つ一つのコンテンツが何を意味してるのか、疑問に思うことはあっても勉強しようと思ったことはないよ。勉強しても追いつかない、と思ってるのかもしれない」「なるほど」

「PVとかUUとか定量的なデータには興味があっても、それを見た人が何をするのか、ただ見てるだけなのか、何かに利用しているのか、あまり考えたこともなかった。そう、たぶん私は自分が作っているサイトに表示されるテキストの意味をわかっていない。金融のサイトを作りながら金融の知識がない。自分が理解できないものを作ってる。そうね、裕也のおかげで腑に落ちたかも。きっと私だけじゃないのよ、時々サイト内の、…そうね、例えば、相場の概況のような記事を読んでいると、日本語として意味が通じないと思うこともある、この記事を書いている人も、わからないことを書いているんじゃないかって思うことがある」

「だろうね。マーケットのコメントを書く人は物書きではあっても投資家ではないから、投資家の心理なんてわかるはずもない。毎日決まった時間に決まった文字数のテキストを並べるだけ。大きな事件が起きても起きなくてもやることは一緒。内容ではなく、書くという行為に意味がある。だから読む価値なんてない。FXのブログ書いてるヤツなんてほとんどが自分でも意味の分からない言葉を並べてるだけ。でも、恐ろしいことに意外と影響力があったりする。そいつらの言う通りに売ったり買ったりして、儲かった損したと騒いでるやつがいる。それが巡り巡ってまたマーケットが動く。世の中って意外と何もわからない人間が作っていたりするんじゃないの?」

「そうなのかな、最初にインターンで今の会社に行ったときの印象は強烈だった。オフィスにデスクがダーっと並んでいて、机の上には大きなモニターがあって、そこでみんなが見ているのはコードだったの。ウェブサイトとかエクセルとかほとんど見てない。ウェブサイト広げている人も隣でソースコードを見ている。情報の工場に足を踏み込んだと思ったわ。でも、それもいつの間にかすっかり慣れてしまう。コードを見ているのが当たり前だと思うようなる。もちろんみんなコードのことはすごくよく知っている。こんな機能を追加するにはどういうコードを書けばよいか、そんな話をしているのはすごくおもしろい。でも、漠然と思っていた。どんなコードでこのウェブサイトが作られているかは理解しているけど、このウェブサイトに表示されているコンテンツを理解しなくてもこの仕事はできるのだって」

「美波には悪いけどそういうのイヤなんだ、自分でわかっていることだけをやりたい、だから個人投資家なんだよ」

「動機はお金じゃなかったの?」

「何度か話した通り、ボクはもともと貧しい家庭で育ったから、お金は稼ぎたいよ、…だって人生の最初の十数年間を貧乏で過ごして、そのあとストレスをためながら人並みの収入を得たところで割りが合わないでしょう?、そんなのイヤなんだ、今は頭さえあればいくらでもお金を稼ぐ方法はあるんだよ、やりたくないことはやらなくてもいいんだ」

「そんなにお金が稼ぎたいの?」

「美波、さっきも同じ質問したね、もちろん、稼ぎたいよ、ボクがお金持ちになれば美波だって贅沢して遊んで暮らせるよ」

「贅沢して遊んで暮らしたいからお金持ちになりたいの?」

「それは目的ではなく結果だよ」

「遊んで暮らせるって言われても、私きっと毎日ゲームしてるだけだよ」

「旅行して、美味しいもの食べればいいよ」

「ねえ、裕也のトレーディングのアルゴリズムというのは完成してないんでしょう?」

「まだだけど、できるよ」

「じゃあ、完成したら、そのアルゴリズムがお金を稼いでくれるから、あとはもう毎日遊んで暮らせるの?」

「そういうわけにはいかないよ、チューニングしないとパフォーマンスが維持できない。レバレッジかけられる法人名義で複数口座作ってまわしても限界があるよ、それに一つのアルゴだけじゃなく、いくつか考えて同時に動かせばリスク分散にもなるしね」

「だったら稼いでも遊んで暮らせないじゃない?、やることあるじゃない?」私は少しだけ安心した。

「何で嬉しそうな顔するかなあ?、だったら住む場所にお金をかければいいよ」

「それで裕也が一生懸命コードを書いて、私は一生懸命ゲームして遊んでいればいいの?」

「お金があればなんでもできるってことだよ、こんな夢みたいな話ばかりしていてもね」

「じゃあ話替えようか、裕也は確かに頭のいい人だよ、東大に行ったのも当然だと思う、それに物事をやり遂げる力もある、でも…、いつまでも頭がいいままでいられると思う?」

「え…、これからボクがバカになるかもしれないって心配してくれるの?」

「そうじゃない、そうじゃないのよ、違うのよ」

「じゃあ、なに?」

「私は東大には行けなかったけど…」

「行かなかったんでしょう?、受けてないんだから?」

「そんなことはいいのよ、私は、一応修士まで取って今流行りの自然言語処理なんて勉強してきたから、それなりに仕事をやっていける気が今はしてる。でもね、私の周りにはすごい人がたくさんいて、それぞれの専門分野があって、私の知らないことをたくさん知っていて、そのおかげで私も知識をどんどんアップデートすることができるし、刺激ももらえるし、自分ひとりだったら絶対に浮かばないようなアイデアが浮かぶこともある。だから今の環境にいられてよかったと思う、…たぶん、世の中の先端の部分はすごい勢いで変わって行って、学界でも一年前の流行が時代遅れになり、一年前は使う人の少なかった言葉がバズワードになったりする、裕也が優秀なことを私は疑ってないけど、一人でトレードのアルゴリズムを考えているのは心配な気がするの…」

「世の中が取り残されていくことが?」

「そういうことなのかな…」私は言葉を濁した。

「ありがとう、美波の心配はもっともだね、でもそこは自分で決断したことだから。難しい選択なんだよ。確かにそのリスクはあるけど、じゃあもしボクが普通に就職してしまったら、アルゴを開発する時間が取れない。そうなると永遠に大金を稼げない。それはそれで本末転倒。まあ、ボクにとっての一番の失敗は、プログラミングもお金儲けの方法も大学に入るまで勉強しなかったことだよ、絶対的な時間が足りないんだ、東大から起業した知り合いはみんな小学生か遅くても中学からプログラミング始めてたのに、ボクは受験勉強を一生懸命やってしまった、時間の使い方を間違えたかもね」

「そうは思わないけど、…でも、そういうことだって、周りにいろいろな人がいればキャッチアップできるよ」

「そうだ、美波には言ってなかったね、少し前にエージェントを通してFX業者のシステム開発を業務委託でやらないかって話があった。システムのことがわかれば、今まで気づかなかった収益機会を発見できそうな気もしたし、少しだけ前向きに考えた。でも決まらなかった。面接までもいかずに、結局エクスパティーズが合わなってことでね。ただ、後から聞いたけどFX業者で働いている間は取引してはいけないみたいだから、それを聞いてよかったと思ったよ、決まらなくて」

「そうだったの?、…何で話してくれなかったの?」

「何でって、…もともと途中経過を言うのは好きじゃない、決まったら話すつもりだったけど、結局決まらなかった、そもそもが大した話じゃないんだよ、勉強になるならと思っただけ、雇われても大したお金にはならない」

(そう、もしかしたら、もう手遅れだったのかも…)そう言いかけて言葉を飲んだ。やはり言えない、

 私は裕也がトイレに立った隙に、冬春夏子の本を取り出した。


…世の中のお金持ちや社会的に地位のある人間の中には慶應出身者が非常に多く、しかも同じ慶應出身というただそれだけの理由で仲間意識を感じてくれるので、結果的には慶應を卒業したおかげで今の仕事で生活が成り立っていると言えるだろう。だいたい探偵などという職業は金はあるが暇がないか、金も暇もあるが友達がいないか、そういう種類のクライアントが存在することで初めて成立する職業だ。

お金というのは、ない人にとっては大問題だが、体の丈夫さとは違って、突然誰かががくれることもある。お金が何かを買うために必要なのだとしたら、その「何か」はそれだけのお金を払わなくても手に入れる方法が他にあることも多い。一物一価ではないのだ。

貧乏というのはお金を持っていないというだけの話で、お金を出せば手に入るものがお金がなければ手に入らない、というわけでは必ずしもない。お金を出せば手に入れられるものは、お金を出さなくても手に入れる方法があったりもする。

友人たちは私を貧乏だと知っているが、同情もしなければ憐れみもしない、もしあなたの好奇心が日々満たされているなら、同じように好奇心が満たされた毎日を送っている友人が貧乏なことは、同情する理由にも憐れむ理由にもならない、

もし貧乏な友人を見るのが嫌なら金を恵んでやればすむことで、恵んでやれるくらいの金もないのであれば、他人の貧乏をどうこう言っていられる立場ではいのだ…



国道57号線はずっと海岸沿いを走り、道路の左側は有明海。天気はこんなにも心を乱すものなのかな。晴れていれば私の気持ちもきっと晴れるのに、空はどんよりと曇ったまま。

 少し前に上天草市から宇城市という市に入り、今また別の市境を示す標識が目に入ってくる。

 宇土市。

 左側のガードレールは現れては切れ、また現れる。ガードレールと海の間の狭い土地に民家が並んでいる場所もある。砂浜の海岸線の先の海は相も変わらず殺風景のまま。崖のような低い山が続いた右側から線路が合流する。電車の姿は見えない。海と国道57号線と線路が三本並んで北東へ進む。ガードレールは堤防に替わる。途中から左へ別れる細い道が見えた。曲がらずに国道沿いをまっすぐ進めば道は山側に入る。左側は海の景色を遮るかのように民家が並ぶ。右側の線路との間隔が広がり途中を川が流れる。川はすぐに道路から外れ、また線路が国道の右側に戻り、自動車と鉄道の二本の道は並走したままもう一度海岸線を目指す。再び海が見える。目の前の海はもはやビーチと呼べるような砂浜の景色ではない。泥だ。泥の浜が遥かに広がっている。泥なんて殺風景の極みのはずなのに、見たこともない美しさに私は目を見張った。

「ちょっと車止めてみようか?」

住吉海岸公園という地名があり道路際のような駐車場に車を止めて外に出た。すぐそこの海へ向かって歩き出すと、潮の香りと泥の匂いが混じり合っている。少しずつ五感が活性化する気がした。最初は見た目ほど寒くはないと思ったが、皮膚まで敏感になったようで、空気の冷たさが伝わってきた。

私は二人分のフリースを取りに一度車に戻った。チョコレートも持ってきた。スマホを熱心に見つめていた裕也は私の気配に気づき、スマホの画面を私に差し出した。

「美波、すごいよ、これ」

スマホの画像には陰影の際立った波のような模様が映っている。いや、模様ではない、風景、これもまた見たこともない美しい景色。

「これなあに?」

「これは砂紋と呼ぶらしい、砂浜に波が作った模様だって。干潮の時に現れて、夕日に照らされるとこんなにはっきりした陰影が現れる」

「この辺りなの?」

「ちょっと過ぎちゃったみたいなんだ。途中海岸から外れたよね?、海岸線をひたすら走っていたらこの場所を通ったはずなんだけど。今の時間は干潮じゃないよ。調べたら今日の干潮はちょうど夕日と重なるね。」

「そう?、でも今日はこれから曇りでしょう」

「待っていたら晴れないかなあ?」

「飛行機の時間に間に合わなくなるわ」

「そっか、残念」

「行こうか?」

「もう少し見ていてもいい?、寒かったら車にいてもいいよ」

「うん」

「ああ、美波とこんな景色見ながら毎日暮らすのが夢だなあ」

「いいね、夢みたいなお話ね」

「うん、いいでしょう?」

裕也は私の顔を見ないで景色を見ながら喋り、私は裕也の横顔に相槌を打っていた。少し冷えてきた。私は車に戻り、運転席に座り、チョコレートを頬張った。

 こんなに遠くまで来て、こんなに素晴らしい景色がある場所のすぐ近くまで来たのに、結局何も見ることができなかった。

…人の惨めさは、運の悪さで決まる…

後部座席に乗せた裕也のリュックのハーネスの一部が運転席と助手席の間から覗いているのが見えた。私は裕也のリュックを掴み、ドアを開けて静かに外に置いた。そして運転席に座り、ドアを閉め、深呼吸をするとエンジンをかけて車を走らせた。

一緒にいて楽しい人だと思っていた、一緒にいてリラックスできる人だと思っていた、でも今は惨めだ、惨めな理由は裕也のせいではなく天気のせいだ、そう思えば思うほど、惨めさは募る。いつからおかしかったのだろう、どこからおかしかったのだろう、たぶんゆっくりと、そして突然に、恋人の間にはつきものの不満やすれ違いが顕在化した。

たぶん私の方にだけ、一方的に。私は誰ともうまくいかないのではないか。

私は理性を失っている、と思うが、そう思えることは理性を失っていないからではないか、とも考えてしまう。もう面倒くさい。後悔するとわかっていることをやってみたらどうなるか、きっとそれも好奇心だ。

車は国道57号線に戻る。前に車はいない。アクセルを思いきり踏んでみた。フィットの加速は知れている。この思いきり踏んでも盛り上がらない感じが、きっと今の私にぴったりだ。それでもスピードは上がる。窓の外の景色が次々と私に迫り、過ぎ去っていく。

裕也と付き合っている動機が見つからなければ、それこそが愛なのかと期待したがそうではなかった。動機は見つかり、私は裕也を愛しているのかどうかがわからなくなった。

私が裕也と付き合った動機は、私に欠けていた自尊心を持っていたから。でも、今は彼の自尊心が私の不安にさせる。

 もし高校の同級生の綿貫さんが天才なら、そんな近くに天才が二人もいるなんて確率的におかしいよ。

私は裕也のことが信じてあげられない、裕也のこれからのことを考えると不安になる、私の不安に気づかない裕也がよけ心配になり、それがまた私を不安にさせる。裕也の頭のロジックを私の頭の中に持ってくるとバグしかみつからない。私は頭の中は終わりのないデバッグを繰り返している。

 裕也、あなただって大人なのだから一人で帰れるでしょう?

 私も一人で帰るわ。

 あなたが私と付き合ってる動機なんてわからないよ。



 


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